帰り道を阻まれて
翌日、アイオンはヘンリエッタと兄になにかあったとすぐ分かった。
まず早朝からヘンリエッタが一向に捕まらない。仮にもアイオン付きという肩書きになっているはずなのに、次から次へ仕事を吹っかけられて広い王宮を駆けずり回っているらしいのだ。これでは南部に帰るどころじゃない。
しかも彼女にそれらの仕事を持ち込んでいたのはハイラントだった。アイオンの襲撃を避けるためか執務室には留まらず、あっちの会議室こっちの訓練場と移動しまくっていて追いかけてもニアミスさせられてしまう。
昨日の今日ではみんなアイオンとヘンリエッタのことを遠巻きにして仕事なんか持ち込まないはずだから、さっさと南部へ帰れるだろうという目算は大きく外れてしまった。そうやって腫れ物扱いされているのは事実なだけに、ハイラントが自分の仕事にヘンリエッタを連れ回せてしまっている。もちろん電撃復帰したばかりのヘンリエッタは――元婚約者への未練などを差し引いても――アイオンたちの立場のためにもハイラントの要請を断れないはずだし、逃げ出してくるのは難しいだろう。
分からないのはやはりハイラントの狙いだ。ことヘンリエッタに対する行動の突飛さについてはアイオンの嫌な予感が的中した。
「…………」
有り余る体力に任せて走り続けていた足を止める。ダメだ、落ち着いて考えねぇと後手に回され続けちまう。
この際兄の思考はどうでもいい、重要なのはヘンリエッタが今このときも辛い思いをしているだろうことだ。
どうにかしてこの広大な王宮を逃げ回っている兄からヘンリエッタを取り返さなければ。
でも地道な聞き込みに終始したり自分の侍従に手伝ってもらってちゃとても追いつけない。昨日容赦なくボコしたせいで衛兵たちすらあまり協力的じゃないし。
それに兄も先手を打って要所で口止めをきかせている。
王太子の意向より第二王子の脅しに屈してくれる変人は滅多といない。
相手が王太子ってだけでこうも……、そうだ。
つまり王太子にさえ命令できる人物の助けがあればいい。単純なことじゃねぇか。
少し考えてから、アイオンは女王の執務室へ方向転換して駆け出した。
「ほう。それで私に泣きつきにきたのだな」
執務室にいた従者を全員下がらせ、女王はいきなり押しかけてきたアイオンを睥睨した。
アイオンは躊躇なく低頭して声を張る。
「昨日騒ぎを起こしたばかりで先触れもなしに訪問した上、こんな頼み事をする無礼をどうかお許しください。ですが彼女を元婚約者である王太子殿下に同行させるのは……」
「魔力暴走の危険があると言うのだろう? 悪くない方便だ」
今までの女王の態度からして突っぱねられるに決まっているし、その後どう食い下がるかが重要だと考えていたアイオンは、思いの外あっさりと高圧的な姿勢を崩されてえっと拍子抜けした。
……なんだ、突然。
「なにか不思議か?」
女王は冷たく整った顔に薄く微笑みすら浮かべている。
「昨日のことならもう気にせずともよい、責めを負うべきは私なのだ。ちょうど息抜きをしようと考えていたゆえそなたの訪問は別段迷惑でもないし、私はわずかな家族との時間を過ごすことにすら不自由するような地位にはおらぬ。なにも問題はないと思うが?」
「…………」
「……」
迷惑じゃない? 家族だから大丈夫?
唖然としているアイオンを見て女王もじわじわと気まずそうになっていき、最後には口をつぐんだ。その光景も信じられない。女王の皮を被ったマリオネットだと言われたほうがまだ信憑性がある。それか白昼夢か?
執務室に落ちた沈黙は、やがて女王のわざとらしい咳払いによって破られた。
「……今のは皮肉と取らないでもらえると助かる。どうもまだ塩梅が……。ともかく、ハイラントからヘンリエッタを引き離したいのだな?」
「……は、はい」
はっと我に返り、慌てて頷く。あの氷の女王が積極的に手助けしてくれるとは、やっぱり命の恩人であるヘンリエッタに格別の思い入れがあるのは確かなようだ。そうとなれば今は彼女を取り戻せるなら他のことはどうだっていい。
女王も女王でこの気詰まりな空気を誤魔化すようにいつになく粗雑な仕草で机の上の書類をざっと端へどかし、反故紙を一枚取って呪文を書き付けた。あんな気軽さだが、たぶんアイオンが二十年、三十年修行したとしても行使できないような高度な魔術なんだろう。
「しかしハイラントもなにを考えているのか……ヘンリエッタはアイオン付きにと私が命じたというのに。さぁこれでよい。少し離れておれ」
女王は紙をぱっと手放し、床に落ちるのに任せた。ひらひらと宙を舞うそれが絨毯に接地した瞬間、
「――ん?」
「戻ったか」
紙があった場所に突如ヘンリエッタが現れ、アイオンはぎょっと目を剥いた。思った通りの効果が出ただけだと平然としている女王は、きょとんとしているヘンリエッタの背を軽くこちらへ押しやりながら、
「王宮内から王宮内への移動ならば私の魔術で特定個人をこのように転移させられる。うむ、ひとまず魔力暴走の予兆などはないようだな」
「あっそういうこと……、アイちゃん!」
さすが理解の早いヘンリエッタは、おおよその状況を把握するなりぱっとアイオンのそばへ寄ってきた。
「いま陛下と話してたの?」
「……んなとこに引っかかってる場合か?」
やれるもんなら頬を少しばかり引っ張ってやりたいのを堪え、アイオンは安堵と苛立ちの入り交じった複雑な気分でぎりっと奥歯を噛んだ。真っ先にこっちの心配をするのも含めて一見平気そうにしているけれど、これは虚勢だ。なにもなかったわけはない。
暗に「言え」と促され、ヘンリエッタはちょっとたじろいで女王の目を気にするそぶりをした。まぁ、アイオンとしてもあまり長居したくない場所なのは事実だ。
「感謝します、陛下」
今までは一礼してそう捧げても切り捨てられるのが当たり前だった。ヘンリエッタに対する態度は三年前の一件を機に一変しても、アイオンには相変わらずの対応だろうと思っていたが、女王はここでもそんなルーティンを崩し、「構わぬ。またなにかあれば申せ」と穏やかに血迷ったことを返してきた。……本当に、さっきからいったいどういう風の吹き回しなんだ?
とはいえアイオンも、前ほどには女王の言動を気にしなくなった。
ヘンリエッタを連れて執務室を出るときにはもうアイオンの頭から女王のことは消え失せ、隣にいる浮かない顔のことだけに占められてしまっていた。
◆
居間に戻ったアイオンは侍従にヘンリエッタの捜索終了を伝え、もらいものの茶葉で紅茶を淹れた。
人払いをした居間にはアイオンとヘンリエッタのふたりきりだ。ソファセットで向かい合って座り、熱いお茶がぬるくなるまで重い沈黙を共有する。ハイラントから引き離すという最優先目的は達成したんだから、あとは彼女が話したくなったタイミングで話せば良い。
別にアイオンはいつまでだって待てたが、やがてヘンリエッタのほうが困り果てたように口火を切った。
「……昨夜部屋にハイラントが来てさ」
あのクソ野郎。「あぁ」と話の先を促すために相づちを打ちながら内心で吐き捨てる。「アイちゃんたちが疑われてると思ったからちょっと応対したんだけど、急に話が変な方向にいって……」
あんな別れ方をしておいてヘンリエッタが戻るなりぬけぬけと会いに行ったってだけでも腹が立つのに、さらなる爆弾発言がその後に続いた。
「……なんか、要は……王妃になってほしいってことらしくて。私に」
「……」
血の気が引いた。
取り落としてはいけないのでティーカップをソーサーに戻すと、ヘンリエッタが所在なさげな顔をした。口に出していいものか悪いものか迷った末に恐る恐るアイオンを見上げ、堰を切ったように言う。
「そんで今日は朝から一緒に仕事させられて、なんで魔女なんか連れてきてんだって周りがドン引きしてんのに話振られるから、仕方なく思いついたこと適当に言ってたんだけど、それにもそうだねそうだねってにこにこ頷いてんの。おかしいでしょ? 意味分かんないよね?」
「…………そうだな」
無理矢理出した声が喉元で引っかかる。
ヘンリエッタの部屋を訪れたと聞いた時点ではてっきりまた彼女を拒絶し面罵しに行ったのかと思ったが、これはさすがにアイオンにとっても予想外だった。
「お前はそう言われてなんて答えたんだ」
背中に嫌な汗が滲み、なによりもまずそこを確かめる自分の声がやけに遠く聞こえた。茫然自失する自分と、焦って詳しい事情を聞き出そうと躍起になる自分に思考が分裂している。
ヘンリエッタは不安げにかぶりを振る。
「もう寝るから冗談やめてって笑って追い返した。混乱してたし」
「イエスともノーとも言わなかったんだな」
「……だって私が王妃になるなんて不可能じゃない。貴賤結婚はもう法律で禁じられてるはず……」
「三年前に兄貴がアルトベリと組んで議会に提出しようとしたアレなら、俺が潰した。兄貴も別に食い下がらなかったしな。お前が王族と結婚すること自体は違法でもなんでもねぇよ」
「えっ……そ、そうなんだ」
アイオンがなにを見越してあの法案を潰したのか察しがついたんだろう。ヘンリエッタは両手を握り合わせ、懸命に情報を咀嚼しようとしている。
「えっと、でも私はそんなの知らなかったから。絶対実現できないことを嫌がらせでちらつかされたとしか思えなくて、朝イチで迎えに来られてもっと混乱したの。でもあっちはまるで当然みたいな顔で……私を振り回してボロを出させる計画かもって思ったんだけど、変なんだよ、昔ですら見たことない、あんな嬉しそうなウソのない笑顔……」
ヘンリエッタの言葉は彼女らしくなくまとまりを失っていて、そもそも他人に赤裸々な相談をした経験が乏しいらしいと分かる。そんな彼女に弱味を見せる相手として自分が選ばれたことを喜べばいいのか、あれだけお前が好きだと言ったのに兄とのことを相談されていることを悲しむべきなのか。
「……なんであんなこと言い出したんだと思う?」
アイオンが――あくまで上っ面だけだが――存外落ち着きを保って聞き役に回ったので、ヘンリエッタは顔色をうかがうようにそんなことまで訊いてきた。
自分の賽をアイオンに振らせるなんて普段の彼女なら絶対にやらない。
アイオンは焦りに呑まれないよう意識を集中しながら、無数に分岐する未来の中を二択にまで絞ろうとした。
兄貴の本心がどうあれ自分の利益のために彼女の希望を打ち砕くのは簡単だ。兄貴は今までお前に誠実だったか? アルトベリ家を失った今、やっぱり大魔女という存在が戦力的に必要だと見てつなぎ止めにかかってるだけだ。一方的に婚約破棄したかと思えば突然よりを戻そうとしてきたり、完全に都合のいい女扱いされてんのが分かんねぇのか。そう言い返せばいい。
けどコイツが心の奥底で望んでる答えはそうじゃない。
兄貴はお前のことが好きなんだよ。お前を失ってから気づいたんだろ。奇跡の再会に浮かれて不格好なプロポーズなんぞしちまったんだ――俺がそう太鼓判押してやれば、きっとコイツは喜ぶ。俺に気を遣ってあからさまには態度に出さないだろうが、俺には内心どう思ってるか手に取るように分かる。
なんでこんな重要な二択を俺に任せるんだ。頭の中がぐちゃぐちゃで様々な感情がないまぜになる。
今さら……どっちが正しいかでなんて決められるか。俺はお前をむざむざ兄貴に譲り渡すような真似は死んでもやらねぇぞ。
「……んなこと俺に訊くんじゃねぇよ。お前が決めることだろ」
「……、だよね……」
忖度することを拒絶したアイオンに、ヘンリエッタは申し訳なさそうに眉を下げた。つい甘えて酷なことをしてしまった自覚はあるんだろう。アイオンの手の中にあった賽は、あっという間に彼女に引き取られていく。
「……ごめん。南部に帰るの、ちょっと待ってもらってもいい? ハイラントがなにを考えてるのかだけ知りたいんだ」
結局、ヘンリエッタの出した答えはアイオンの期待を裏切るものだった。
アイオンは「そうかよ」と言ったきり口をつぐんだ。自分にも経験があるから理解できてしまう。ヘンリエッタがハイラントの心の内を知りたいと思うのは、まだ彼のことが好きだからだと。




