諦めの悪い王子
夜、離宮から南部にとんぼ返りしたアイオンは、眠れないのでまた庭に出てベンチに座った。
この日は陽が沈んでからあれよあれよと冷え込んだので南部には珍しく雪が積もっている。庭の木々が雪帽子をかぶり、金属じみた鋭利な輝きを放つ三日月に雪の結晶がきらきら光っている。
しばらくはそんな景色を眺めていた。風がないので雪はふわふわ気ままに落ちてくる。息が白く浮かび上がってはじわりと闇に消え、まだ自分が生きているのが分かる。
今はもうそれに苛立つことはない。ただ静かで沁みてくるような生の実感と闘志がある。
厳重に封じていた、ヘンリエッタの最期の記憶を脳裏に投影する。
あのとき兄が、あのクソ野郎が意味不明なことを言い出さなけりゃ彼女はなにか別の手で状況を打開し、今も隣にいたかもしれないが、現実はそうはならなかった。
自分の魔力で自分を傷つけ、想像を絶する苦痛を味わっていた彼女は、ハイラントの到着に心からほっとした顔をした。自分が言いたいこと、いま必要なことはハイラントが代弁してくれるという掛け値無しの信頼を寄せていた。
その期待が裏切られた瞬間、持ち前の果断なたちが最悪の形で表出するのをアイオンは本能が発した警告によって知った。
ヘンリエッタを振り返り、彼女の顔が見捨てられた絶望から徐々に「しょうがないな」というような受容の笑みに変わっていくのを見たとき、全身が総毛立ってまずいと思った。あの場で彼女が自分を犠牲にしてでも女王を救う可能性に思い至っていたのは、アイオンひとりか、あるとしてもワイヤードくらいのものだっただろう。
彼女は自分を冷たいヤツだと思い込んでいたし、周りの目にもそう映るようにいつも言動をコントロールしていた。挑んでくる敵を減らすためだろう。アイオンと一緒に拉致されたときも、彼女は「人質作戦が効くような性格に見える?」などと敵に揺さぶりをかけていた。
あのとき、アイオンは手を伸ばして風のようにそこへ駆けつけ、どうにかヘンリエッタを止めようとしたのに。あいつはそれより早く行動に出た。
アイオンは今、明確にヘンリエッタを拒絶し、怒り、憎んでいる。いたって本気だし正気だ。正気だからこんなにあいつの落ち度をあげつらうことができている。
俺とは「ごめんね」と「ありがとう」で別れが片付くと思ってたのはお前だけだ。
そんなものは要らない。
ちゃんと利己的な思考も持ってはいるくせに、いつも結局は他人のことを考えて突っ走るところが許せない。
自分だけ生きてて損だなんて思わせられた相手を、怒ったり憎まないヤツがいるか?
人の人生も価値観もめちゃくちゃにぶっ壊しといてひとりで勝手に去って行った。
お前が優しい優しいって言うから優しくしてやったのにお前は受け取らなかった。
だったら兄貴はお前に優しかったのか?
絶対、絶対に、俺のほうがお前を大事にしてた。俺のほうがお前に造られてた。けどお前は俺が俺だから、兄貴が兄貴だからってだけで拒絶するか受け入れるかを決める。
俺がなにをしたってお前は懲りずに兄貴に寄っていき、酷い目に遭う。正直自業自得なんじゃないか? 少なくとも一回は泣かされたのに、最期にまだ兄貴が来たことに喜んで安心して、今度こそって期待してんのは学習しなさすぎるだろ。俺はちゃんと忠告した。お前が泣かされたのが許せなくて兄貴を叩きのめしたんだ。なのにお前は。
なんでだよ。なんでそうなるんだ。好きだからか?
……そうだろうな。
俺だって好きだからこうなってる。
「……」
雪は降り続いている。
とっくに枯れたと思っていた涙が知らぬ間に頬を伝っていたが、拭う必要はないだろう。
「……諦められねーよなぁ」
呟いた息も白く浮かんで溶ける。
誰かと死に別れた毎日がどれだけ苦痛でも、いつかは時間が癒やしてくれるという。あの穴蔵で味わった闇の味を今のアイオンが苦く思い出せるように、いつかはこの苦しみも過去になるとかなんとか。
ねーよ。とても想像できない。こんな苦痛が過去になる日は来ない。いま苦しんでいる自分が無限に連続していくだけだ。
ずっとこのまま、永遠に等しい数十年。埋まらない空白を抱え続けるなんて、無理だと思った。
耐えられない。
どうしても諦められない。生きている限り。
きっとヘンリエッタは憤るだろう。憎まれるかもしれないし、君は間違ってるときっぱり拒絶されるかもしれない。
それでも、アイオンはすでに結論を出していた。我を通すときに重要なのは即決と継続だって知っている。
◆
ヘンリエッタが死んだとき、イースレイは現場にいなかった。正体不明の大魔術が王宮の頭上に渦巻くなか文官のイースレイは避難誘導を担当していたので、考えていたことなんて「あの魔術はなんなんだ?」とか「ヘンリエッタとレオナルドはもう対処に向かっただろうか」とかその程度だ。でもまぁどうあれ王都は調練期間中で厳戒態勢、最後はヘンリエッタが出てきて片が付くだろうと高をくくっていたし、その後のことのほうを心配していたくらいだった。
剣術大会でアイオンがとうとうハイラントに食ってかかり、ヘンリエッタがハイラントを庇ったせいで話がさらにこじれてしまって、イースレイは傍観者なりに途方に暮れていたのだ。現実はヘンリエッタかアイオンのどちらかは失恋するだろうという想定の遙か斜め下をいった。これじゃふたりともが同時に失恋したようなものだ。
イースレイは今の職場環境をまぁまぁ気に入っていたから、あのややこしいふたりの仲立ちをせざるを得ない。レオナルドと早いところ作戦を練って対応しなければいけないと焦っていたところに、厄介事にたたみかけてこられて辟易していた。
だから――なんの心の準備もできてなかった。
あのヘンリエッタが手詰まりの状況に追い込まれたことも、黒幕がレオナルドを含むアルトベリ家だったことも完全に想定外だった。今でも信じられない。
しかもヘンリエッタは女王を守るために自死まで選んだ。
意味が分からない。
ヘンリエッタはとっくに宮廷魔術師の地位を追われ、女王に喧嘩を売った上にハイラントとの婚約もすでに破談になっていたんだから、彼女が自分を犠牲にしてでも女王を守るなんてほとんど誰も予想していなかったに違いない。
彼女は悪人ではないが博愛主義者でも献身的でもなく、自分の幸福を追求するのを躊躇わない。合理的に考えて彼女が女王を助けるメリットがない以上、他に手がないと気づいても普通は実際に行動に移したりしないだろう。
それでも、彼女はそうした。
彼女の頭の中は永久にイースレイの理解の範疇外だ。
レオナルドは一族もろとも捕縛され、イースレイたちとは面会も叶わないまま激昂した女王の手で処刑された。
イースレイは剣術大会後、謹慎中のヘンリエッタが連行されていくのを呆然と見送りながらレオナルドに「……なんだこの状況は?」と訊いた。レオナルドはあちゃーという顔で頬を掻き、「いやもーどうしようなぁ」と弱り切っていて特におかしな様子は見られなかったと思う。少し話してから、レオナルドが「とにかく訓練のキリがついたらヘンリエッタのとこ行ってみるわ。ガス抜きさせないとヤバイかもだろ?」と具体的な処方箋を出したので、イースレイはそうだなと安心して任せたのだ。
それがレオナルドとの最後の記憶になった。
いま考えてみても、ヘンリエッタとレオナルドにこんな結末を迎えさせないためにイースレイになにか出来たとは思えない。
すべてはイースレイの関与できないところで起きて終わってしまった。
……どうすればよかった?
ただ出世に都合がよかったからじゃなく、ちゃんと自分は彼らのことを気に入っていたんだなと、そんなことばかり思い知らされてもなにもかも手遅れだ。
当たり前だが、イースレイは親族以外で親しくなった相手に先立たれることに慣れていない。
自分の利口さではなくバカさ加減を思い知ったのはこれが初めてだ。言ってればよかったんだ。君たちを友人だと思っていると、素直に言えてれば。
だからあまり勝手なことをしてくれるな。そう釘を刺しておけば……いや、だとしても結末は変わらなかったか。救われるものがあるとすればイースレイの気分だけだろう。
伝えられずに終わることがひとつ解消されるだけで、きっとレオナルドは女王と魔女をこの世界から退場させるために動いたし、ヘンリエッタは女王を守った。
けれど手の届かないところで彼らを失ったイースレイはまだマシで、アイオンは誰よりひどい状態に陥っていた。
無理もない。彼は異変に気づいてハイラントとともに現場に駆けつけていたので、ヘンリエッタの最期を目の前で目撃し、遺言まで残されてしまったのだから。
彼は食べず、眠らず、いつもぼーっとして受け答えもはっきりしない。生きる気力を失っているように見える。放っておけばどうなるかは火を見るより明らかだ。
イースレイは結果的に、自分より致命的な痛手をこうむったアイオンの代わりに仕事に精を出すことで自分自身の均衡を保った。
彼の姿はただただ痛ましい。
誰かを失えば、その痛みも引かないうちに残された人間の苦しみも目にすることになる――常識だが、そんなことすらイースレイは本当の意味では理解していなかった。
……なんとか今の状況を脱却しなければいけない。
まずアイオンが、その次に俺が潰れてしまう。
でもどうすればいいのか分からない。この悲しみはまるで底なし沼のようで抜け出す術がない……。
◆
南部行政監督庁に初雪が降った日、イースレイは浅い眠りからのっそりと起き出して重い足取りで書斎に向かった。
今日もまた日付が一日進むだけで、死んだようなアイオンをどうしてやることも出来ず、イースレイもまた一層深く落ち込むんだろう。
「おう、起きてきたか」
そう考えていたから、飄然とした態度でアイオンに出迎えられたとき、イースレイは呼吸が止まりそうなほど驚いた。
……なんだ?
夢か?
目を擦り、扉を開けた姿勢のまま固まっていると、机に浅く腰掛けていたアイオンが少し痩せた首を傾ける。
「幽霊でも見たような顔してるぜ。大丈夫かよ」
混ぜっ返す彼の発声は明瞭で、信じがたいことに前向きですらある。
イースレイはすっかり展開に置いて行かれて軽くよろめいた。ただでさえやつれてるんだ、冗談じゃなく目眩がする。
「ど……、どういう気の変わりようだ? ついにおかしくなったか?」
このままじゃいけないと思ってはいたが、思い詰めるあまりサブの人格を作り出せとは一言も言っていない。
すわ二重人格者になったかと思われたアイオンは、イースレイの反応を予想していたようで小揺るぎもせず肩をすくめる。
「こんだけ世話かけたらそりゃそういうリアクションもされるわな。別にぶっ壊れたワケじゃねぇよ。やりたいことができたんで時間が惜しくなっただけだ」
「……やりたいこと?」
そう言われても、イースレイの中ではまだアイオンは惨憺たる状況で生きる気力を失ってしまった男なので、その状態でやりたいことといったらゲートルード辺りへの後ろ向きな復讐とかしか思い浮かばない。
イースレイが焚きつけたことだが、離宮へ赴いたアイオンがゲートルードに嫌がらせの限りを尽くされ――しかもヘンリエッタが生前に仕込んでおいたスパイに救われるというダメ押し付きで――オリバーの件こそ解決したものの、ボコボコに凹まされて帰ってきた矢先なんだから。
しかしアイオンはなにか吹っ切れたような口調で答える。
「いろいろ考えたが、やっぱ今さらあのバカなしで生きてけって言われても無理なんだよな」
「おい、まさか死……っ」
「ちげぇよ、誰が死ぬか。生きてなきゃアイツを蘇らせらんねーだろ」
「……はっ?」
アイオンは言う。
「チャリティーウィークの演劇でやったあの神話に、そういえば死者蘇生術の記述があったなと思い出してよ」
やっと彼のやりたいことの正体を理解したイースレイは口をぱくぱくさせ、
「なに言ってるんだ、あんなの与太話だぞ!」
「そうでもない。『魔王』だってヘンリエッタが生まれるまでは神話の存在だったんだろ。死者蘇生術だって本気で調べりゃいつかは必ず突き当たる」
「……」
「成功する確率がどうとかいう話はすんなよ、興味ねぇから。俺がやりてぇからやるだけのことだ」
あのとき頭に叩き込んだ台本はイースレイもまだ完璧に覚えている。あの神話の中で、イースレイが演じた神官は死者蘇生術に手を出し、忌み嫌われて他国へ追放されることになった。
あれを根拠に数えていいのなら、伝承の中に死者蘇生の手がかりが現存している可能性はゼロじゃない――んだろうか。
そのとき、脳裏にある記憶がよぎった。
――最後、平和になった世界でその力を恐れられて追放された神官な、一説ではエクロス姓なんじゃねーかって話らしいんだ。アルフレド王配殿下のご実家がその「エクロス」だって言い切れるわけじゃねーけど、巡り合わせって不思議だなーと思って。
確かレオナルドはそう言っていたはずだ。
当時は聞き流してしまったが、レオナルドはあの時点でヘンリエッタとメレアスタ女王という人間にはあるまじき異常な魔力量を誇るふたりを現実的な脅威とみなしていた。魔王の存在を信じていたなら、アルフレド王配殿下が死者蘇生術を編み出した神官・エクロスの血を引いている可能性も彼は承知していたのか。
王配殿下のご実家、エクロス一族が人間業とは思えないやり口で何者かに一夜にして滅ぼされたのはなぜか。
そこまでするほどの秘密がその血筋にあったからじゃないのか?
頭の中でいくつかの記憶と推測がバチバチと繋がり、火花をあげる。
だとすれば、アルフレド王配殿下の息子であるアイオンもエクロスの血筋だ。その彼が死者蘇生術を求めるとは、これは全くの偶然か? 巡り合わせという言葉を使ったのはレオナルドだが、この符合は運命かなにかの導きなんじゃないかと、一縷の望みはあるんじゃないかと柄にもない夢見がちな希望に縋りたくなる。
「……人倫にもとるが……」
イースレイは生唾を飲み込み、慎重に声を絞り出す。
「……言葉を選ばずに言えば、遺体が霧のように消え失せるような規格外の存在に、俺たちがそんな倫理を当てはめなければいけない義務は……厳密にはない、とは思う……」
「言葉選ばなさすぎじゃねぇか?」
「……彼女が人間離れしているおかげで倫理的な問題はクリア出来たとする。とはいえ、間違いなく彼女は怒るだろうな」
「好きにさせるさ。また会えるならそれでいい」
「……。そうか」
まるで遙かな旅から帰ってきたようにアイオンの表情はすっきりしていた。
抱えきれないほど膨れ上がった感情をストレートに口に出せるようになった彼のことが、少し羨ましい。
迷った末に結局イースレイはこれ以上義務的に反論することを諦めた。
「……そこまで言うなら仕方ないな。俺も手伝おう」
「マジか。いいのか?」
意外そうにされて、イースレイは失礼なと鼻を鳴らす。
「今はなにもしないでいると精神衛生上良くないからな。で、調べるとは言うが当てはあるのか?」
「まずは魔術に詳しいヤツに片っ端から当たってみるか」
なにがあっても揺らがない決心をもう固めているアイオンは、行き当たりばったりの将来設計を堂々と言う。
レオナルドは腕組みをして溜め息をつき、
「これはレオナルドの生前の言葉をふまえての推測だが、君は父方のエクロス家から例の神官の血を引いている可能性がある」
アイオンは新情報に目を見開いた。まったく、これだから事務官の補佐もなしに調べ物など無謀だと言うんだ。
「となると、父方のルーツを探りつつアルトベリ家の遺産……ワイヤード団長が精査しているはずだが、その中に死者蘇生術の情報がないか調べるのが効率的だろう」
アイオンは感心したようにうなずく。
「なるほどな。ならワイヤードとフェザーストーン公爵か」
「……? なぜそこで公爵が出てくるんだ?」
彼はエクロス家とは関わりなかったはずだが。
首をひねると、アイオンは頓着なく答える。その事実自体への拘りがなくなったわけではなく、いま彼にとって重要なことは他にあるからだろう。
「ヘンリエッタ以外には言ってなかったが、父の本当の死因は自殺なんだよ。だから遺品はシーウッドにあるはずだ」




