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穴の底

 ……自分がどうなったのか分からない。

 直前の記憶が曖昧でろくに思い出せないのだ。

 気づいたら真っ暗な闇の中にいた。

 自分がうつ伏せに倒れていることは分かるから、少なくとも地面は平面らしい。でも起き上がる気になれない。

 沼の底に引き込まれるような重たい苦痛が全身にへばりついている。

 起きて歩き出したり目を開けたりすれば、見たくないものばかり目に入ってくるだろうからそのまま動かずにいた。


 この暗くて寒くて狭い空間には、アイオン以外にも複数の気配がある。

 それらはアイオンの周りで奇怪な笑い声を発し、輪になってこちらを見下ろしているようだ。

 似た状況には覚えがあった。ここはたぶん、離宮のカップケーキ穴だ。

 懲罰房代わりに使われる牢獄とさえ呼べない穴蔵。

 幼い頃、やってみせろと言われたことをひとつも出来ずに笑いものにされた後は罰としてここに押し込められた。

 穴蔵やその周辺にはいつも気持ちの悪い複数の影がいてアイオンを怯えさせたが、どうやらアイオンにだけ感知できているらしいとそのうち理解した。

 みんなが噂話でしか知らないそれらは、アイオンにとっては明確に害のある異常な存在だった。見えたり聞こえたりしてもなにも対処できないし逃げ場もないんだから、むしろ知覚できるぶん損だった。

 こんなところにいたくない。……という気持ちさえ沸き起こってこないのが自分でも不思議だ。

 なぜかは分からないが、ここよりずっと不快で恐ろしい現実があると無意識に確信している。

 そこに二度と行かずに済むように、このままここで倒れたまま朽ちていきたかった。

 終の棲家がこの穴蔵ってのも、まぁまぁ良い部類の最期なんだろう。実際いまは辛くも悲しくも寂しくもなく、胸には木枯らしが吹き抜けられそうなうつろがぽっかり空いているだけだ。

 周りの影がゆらゆら揺れながら笑っている。

 こちらに向けられる底知れない悪意に気づきはしたが、もしこいつらが目的も意味も失ったアイオンの身体を乗っ取ってなにかしでかすとしても、どうでもよかった。

 もう誰の帰りを待つこともなければ、自分の帰りを待っている人もいない。

 アイオンの希望や願いはもう絶対に叶わない。

 穴蔵の中よりも外のほうがよっぽど地獄なんだから、そこへ好き好んで舞い戻り苦労したいってんならどうぞ、好きにすればいい。

 

 もう疲れた。なにも考えたくない――――



「――んか、殿下! 殿下っ!! しっかりしてください、殿下っ!!」


「っ……!?」

 馴染みのない声でアイオンは目を覚ました。と同時に視界がぐわんと揺れ、とっさに手をつくと冷たく平らな地面があり、目の前はランタンの放つ暖色の灯りで照らされていた。

「……こ、こは……」

「離宮の『カップケーキ穴』です、殿下」

 ほっと胸をなで下ろし、穴蔵で倒れていたアイオンを揺さぶり続けていた人物が言う。目の焦点が合うまで激しい目眩と戦った末に、アイオンは彼女の予想外の正体を知って驚いた。

 マディ・ヘンダーソンだった。

 チーブル伯爵家の元メイドで、かつて命を救われたヘンリエッタに恩返しがしたいと訴えていたが受け入れられず、どこか働き口を見つけて出て行ったはずの彼女が、どうして離宮にいる?

 マディはアイオンの疑問に先回りして答える。

「ご無沙汰しております。殿下にはその節は大変お世話になりました。私が離宮におりますのは、ヘンリエッタ嬢が私をここへ潜り込ませたからです」


「……ヘンリエッタが?」

 他人の口から彼女の名前が出ると襲われる発作的な胸の痛みよりも、少しでも彼女の話を聞き出したい欲求のほうが勝った。マディは恩人を貶めたり嘲笑うようなことは言い出さないという安心感もある。

 マディはうなずき、

「ヘンリエッタ嬢はイースレイ様から離宮のことを聞いたそうで、恩返しを諦めそうにない私に『だったら離宮のメイドに転職して、いつか必要なときがきたらアイオンを助けてほしい』とおっしゃったんです。チーブル家の秘蔵のコレクションをレディ・ゲートルードがほしがることは目に見えていましたから、膨大な数のそれらを管理するメイドを一緒に送ればそのまま雇い入れるはずだと。その後はこの離宮で働きながら、殿下の身になにかあればいつでも動けるようにしていましたので、隙を見て助けに来ることができました。サロンで倒れられた殿下を、レディがここへ運び込ませたのです。ひどい嫌がらせです」

 マディは冷静な仕事人風の印象を覆すほどの興奮と義憤を覚えているようで、一息でそこまで言い切った。

 実際聞くまでもない話ではあった。

 そりゃそうだろう、確かにマディを動かすならヘンリエッタ以外にあり得ない。雑用がてらに押収したチーブル家のコレクションの処分を任されていたのも彼女だ。それをゲートルードにスパイごと売りつけようなんて思いつくのも彼女しかいない。

 表向きはこれでしつこいマディを遠ざけられるしマディも転職先が決まって一石三鳥だとか言って笑いながら、アイオンの知らないところで手を打っておいたんだろう。

 アイオンは奥歯を食いしばり、瞬間的に泣き出しそうになったが、

「…………」

 喉にせり上がった激情をぐっと堪えた後に湧いてきたのは凄まじい怒りだった。

 それまでとは違う理由で呼吸が浅く短くなり、吐き気が強まるが、自分の身体のコントロールはむしろ隅々まで行き渡り、意識が冴えて突然全身が生まれ変わったような感覚に陥る。

「……ふっ、く、くくく……はははははは……!」

 片手で顔を覆い、身体を折り曲げて腹の底から笑った。

 マディが「で、殿下?」と眼を白黒させて焦り出すが、構っちゃいられない。これが笑わずにいられるか。


 だってこんなの――こんなの無理だろ。完敗だ。死んだ後でもサプライズしてくるような女を忘れられるかよ。


 今まで蓋をして抑え込んでいたものを思い切り解放するつもりでアイオンは笑い続けた。この穴蔵に蠢く影たちさえ吹き飛ばす勢いで。

 分かってる。もう諦めて認めるべきなんだ。

 自覚しても辛いだけだって分かってたから逃げ続けてきた――あぁ、まったく無駄な努力だったな。

「殿下、目眩が収まったなら気づかれる前に離宮を出ましょう。馬車までお送りします」

 心配したマディが慌てて言い、ランタンを持って立ち上がる。アイオンはようよう笑いを収めると、一度深呼吸してから妙に落ち着いた気分で「ああ、世話かけたな」とぞっとするほどいつも通りの声を出せた。粉々に砕かれた瓦礫の下から、なにかの芽が顔を出している。


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