離宮へ
イースレイはほとんど自分の現実逃避の手段として仕事に打ち込んでいる様子だったので、アイオンにはとやかく指図してくることもなかったのだが、あるとき「耳に入れたいことがある」と隈の浮いた顔で言ってきた。
やつれているのはお互い様だ。アイオンは書斎のカウチにだるい身体を預けきって、視線だけでイースレイに話の続きを促す。
「……女王陛下がオリバーの助命嘆願を聞き入れてくださったそうだ。オリバーは正式に大赦を受け、来週からは更生と自立のために仕事を始める予定だ」
「……へぇ」
良かったじゃねぇか、というところまでは億劫で声に出せなかった。
アイオンがオリバーに手を差し伸べたのは別に彼個人を憐れんだワケじゃなかった。ヘンリエッタがあんまり気に病んでいたから見るに見かねただけだ。彼女がもういないのにその後の動向を報告されても「良かったな」くらいしか返せない。
眠っていないのと食べていないので頻繁に目眩が襲う。また目の前がくらくらしてきたので、アイオンはテーブルに手をつきながらゆっくり立ち上がる。
「……他に報告がないなら部屋に戻る」
「待て。まだ続きがある」
「……?」
イースレイは珍しく少し言いづらそうに、
「オリバーの奉公先だが、離宮になりそうなんだ」
「……あ?」
回転の鈍くなった頭ではイースレイの言葉に含まれた衝撃を理解するまで数秒かかった。
「レディ・ゲートルードがいきさつを聞いてオリバーに興味を持ったらしい。働き口を探してるなら離宮で雇ってやると」
「……笑うところか? アレが慈善事業なんかするような女かよ」
ゲートルード・シャムエールは先王の愛妾にして離宮の女主人だ。文化・芸術の振興やら流行のファッションの牽引やらを一手に担っている才女だが、人格のほうは支配欲の権化でアイオンもずいぶんしてやられた。
「俺も同感だが本気で言ってるらしい。週明けにはオリバーの身柄は離宮に引き渡される」
「……」
「……このままにしていいと思うか? せめて職場環境を確かめるくらいは……」
「どうでもいいな」
どうなろうがもう俺には関係ない。低い声で切り捨てて書斎を出て行こうとしたとき、「だが、アイオン」と背にイースレイが疲れた声で呼びかける。
「……彼女なら、きっと放っておかないだろ」
「……」
舌打ちする元気があったらそうしてたところだ。心の準備もなしに他人にヘンリエッタの話題を振られることは、今のアイオンにとって曲がり角で突然殴りつけられるような衝撃と苦痛を伴うものだった。あの離宮に自分から出向くことで味わうものよりも遙かに堪える。
アイオンはうつむきながら「知るかよ」と口では投げやりに言い捨てたが、目的も方向性も失い惰性で息をしているだけの身体が、これっぽっちのことで否応なく動かされるのはうんざりするほど分かっていた。
◆
離宮は広大な花園を備えた箱形の館だ。四面それぞれ凝った装飾が施され、どの方角から見るかによってこの建物に抱く印象は大きく変わる。神殿のような荘厳さをテーマに造形された面もあれば、品の良い貴族の田舎屋敷を模したような面もあった。
ここに出入りすることができるのはゲートルード・シャムエールの招待を受けた人間と侍従だけで、門を通過するときに通行証を持っているか衛兵に確認される決まりだ。
イースレイの同行は予想通り許されなかったので、顔パスのアイオンひとりで行くことになった。
離宮にはゲートルードが舞踏室、音楽室、宴会室、衣装室、遊戯室といった娯楽用の部屋を揃えており、そのどれにも彼女自身が発注した薔薇の意匠入りの家具がしつらえられている。賓客が守るべき礼儀やドレスコードも王宮基準ではなく、ただゲートルードが好むか否かで決定される。要は、「私の城に迎え入れてもらいたいなら装いでも態度でも常に私の退屈を慰めるようになさい」ってことだ。だから離宮にいる客たちはみんな揃いも揃って滑稽なくらい奇抜なファッションだし、いつでも礼儀知らずで遊びに夢中だった。
午後のゲートルードは薔薇園と直接行き来できるサロンにいるのが常で、アイオンが訪問した日もゆったりと安楽椅子に腰掛けてなにかの楽譜をめくっていた。祖父の愛妾だったというには年齢はまだ三十半ばと若く、焦げ茶色の長い髪を結い上げ、緑色の瞳に合わせた鮮やかな緑のドレスを着ている。きつい香水の匂いが鼻をついた。
サロンにはゲートルードの支援を得ようと気鋭の画家や劇作家、音楽家などが伺候しているが、彼らはこのサロンでも自分の世界にのめり込んで創作活動にいそしむことが奨励されていた。彼らが周りが見えなくなるほど集中している様子や突然興奮して髪を掻きむしり、未完成の作品を破き始める様子をゲートルードが観察したがったからだ。そういうときの彼女はまるで虫を観察するような目つきをする。
アイオンが来たことに気づくと、彼女は覗き込んでいたある画家の絵から視線を上げ、「あらまぁ、アイオン殿下じゃありませんの」と別のテーブルセットに移動して席を勧めてきた。
「……と驚いたふりなどしてみましたけど、先触れはいただいていましたね」
ゲートルードは美しい微笑みに意地の悪さを滲ませ、アイオンの頭からつま先までを視線を上下させながら眺める。気分が悪い。
「少し会わない間に大きくなられましたねぇ。よくよく学ばれてひとりでも色々なことが出来るようになられましたのね。特に剣術大会でのご活躍ぶりは、私も直に拝見していたんですよ。まさかあのハイラント殿下を下すなんて、子どもの成長の早さに置いて行かれたような心地がいたしました。ご兄弟とも、ちょっとおじいさまに似てきたかしら?」
ゲートルードはわざとらしく真剣な目でアイオンを見た。
「……これまでの殿下への仕打ち、今は本当に申し訳なく思っておりますわ。全ては私の未熟さが招いたこと。あの頃の私はツィドス様との間に子をなせなかったことが心残りで、孫に当たるあなたを預けられてもどう慈しんでいいものか分からず、憎むことを選んでしまった。これほどまでに才気に溢れたあなたの芽を摘んでいたのは私でした。ツィドス様の愛したこの国のためにならないことをしていると分かっていながら……後悔しています」
アイオンは無言のまま、平然とゲートルードを見返していた。
気分が悪いというのは実際の感覚の話で、ゲートルードの虫の良い懺悔になにか感じたわけじゃない。なにを言われようがどうでもよかった。ヘンリエッタがいなくなってから、凍てついたように快不快のセンサーが麻痺している。
幼くしてこの離宮へ突然押し込められたアイオンは、なにか奇抜なデザインセンスやユーモアセンスを持ってもいない、ゲートルードにとっては愛した祖父が別の女との間につくった娘の息子だ。
ここへ連れてこられた初日、よく分からない宴会でゲートルードに媚びを売ろうと芸を披露し、笑いものにされている大人たちを見た。
状況を理解できないガキでもただおぞましいということは分かる。彼らでは満足できないと言ってゲートルードはアイオンを全員の前に引き出し、にやにや笑っていた。「あなたはなにか出来ないの?」と。
ゲートルードの離宮では面白くない人間に価値などないが、アイオンの存在は彼女の笑いの種にはなった。
大人の真似をして芸をすれば「もう飽きたわよ」と笑われ、王宮で教わった礼儀作法の通りにすれば「ださい」と笑われ、絵を描いてみろ歌を歌ってみろと命じられては「才能ないわ」と笑われ、食事の仕方を「下品な食べ方」と笑われ、自分と同じように虐げられる役をやらされていた落ち目のデザイナーが可哀想で手を差し伸べればそれも「まぁご立派なこと」と笑われた。
幼いアイオンの一挙手一投足が酒の席での物真似のネタになっていた。
大人たちがひどく誇張した自分の真似を見せてくるたび、アイオンの中でなにかが削り取られていった。
最初はもっと読み書きできていたはずの文字もなぜかどんどん扱えなくなり、理解できないものに取り囲まれて無意味に生きていた。
物事をよく考えないでいることが一番の癒やしになった。なにも感じずなにも行動しないのが一番安全な選択になったからだ。
なにをしたって無駄に終わり、笑いものにされるだけなら、最初から挑戦しなければいい。
生きていくだけなら惰性で出来る。
そう思っていた。
自分だけ生きていることすら苦痛になる日が来るなんて想像もしないで。
そんなアイオンの態度をどう勘違いしたのか、ゲートルードは次にはっとうろたえた振りをして口元に手を当てる。
「いえ、いま私の話などされても困りますよね。……分かりますわ……」
彼女は痛ましそうな顔を向けてきた。
「大切な人を失う痛みはいくら時が経っても癒えないものです。ましてや殿下は自死というかたちで誰かを失うのはこれで二度目なのですから、やつれもしましょう……」
お辛いでしょうね、気持ちは分かりますわとゲートルードは悲しげに繰り返す。その厚顔さに真っ先に怒り出すおしゃべりな女がいないせいで、この上滑りした会話が劇的な変化に見舞われることはない。たとえばアイオンがこのまま被害者の立場に甘んじ沈黙を続けたところで、彼女を召喚できるわけでもないのだ。
気分が悪い。寝てないのと食べてないのと呼吸が浅いので、ずっと吐き気がしている。
「……その魔女が気に掛けてたのが、オリバーだ。だから俺の部下にする。あんたが食い下がるようなら俺の名前で相手をする用意もある。話はそれだけだ」
「まぁ、そうですか。分かりました」
アイオンの平板な声音に、ゲートルードは意外なほどあっさりうなずいた。やはり興味本位でちょっかいを出してみただけだったんだろう。最近アイオンが調子づいているようだと聞きかじって、支配者としては面白くなかったのだ。
「第二王子殿下の名においてそうされると決められたのなら仕方ありませんわ。今のあなたにはそんな風に我を通せる力が確かにおありです」
「……」
「それはそうと……」
ゲートルードは微笑み、一心不乱に筆を動かしていた画家の肩にそっと白い手を置いた。
「ヘンリエッタ嬢は本当に残念でしたわね。弔うことは出来なくても、アルトベリ一族の魔の手から女王陛下をお守りした功績は認められてしかるべきでしょう」
ゲートルードはアイオンに背を向けていたイーゼルを押しやって角度を変え、絵が見えるようにする。
そこに描かれていたのは、血だまりに伏せているヘンリエッタの姿だった。
「なのにご遺体もないなんて惨い末路じゃありませんか。私とあなたが主導してお別れ会を催してはどうかと思いまして、空の棺に入れる絵だけ先に描かせていましたの。なにか行事がないと残された側の気持ちの区切りもなかなかつかないものですよ。どうかあなたも前向きになられて――」




