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あれから

 あれから――――


 あれから、アイオンは眠れなくなった。

 時間の感覚もない。

 ものを食べるのも億劫で、胃の中も頭の中もからっぽにしておかないと自分が足元から重力に引かれるように崩壊してしまう気がする。


 ヘンリエッタが……ああしたおかげで上空の魔術は消滅し、女王は傷ひとつ負わずに済んだが、一族ぐるみで大魔女と女王の殺害を企図した罪でアルトベリ家の人間は例外なく処刑された。

 魔術に長けた名門・護国卿アルトベリを失うのは国家的な痛手だと主張する者もいたものの怒り狂った女王はいっさい耳を貸さず、彼らは処刑台に引き出されることすらないまま女王みずからの手で闇に葬られたようだ。アイオンもイースレイも、レオナルドとふたたび話す機会は得られなかった。


 ただイースレイは別としてもアイオンは、むしろ会えなくて良かったのかもしれない。レオナルドはきっと弁明も隠し立てもしないだろうし、そうなれば真実を明かされたアイオンが女王よりも先に手を下していたに違いない。


 ヘンリエッタは埋葬どころか葬儀すらされていない。

 理由のひとつは、彼女が自死したことだ。この国では自殺者を弔えない。かろうじてあの追慕の森でのみ故人を偲ぶことを許されているくらいで、自殺者の慰霊は原則タブーだ。それは王配だったアイオンの父親ですら例外じゃない。

 そしてふたつめは、彼女の身体が事切れると同時に消滅したこと。

 魔王だか魔女だか知らないが、規格外を売りにして世に憚っていた彼女はそんなところまでぶっ飛んでいた。血だまりに服と靴とペンダントだけを残して彼女はきれいさっぱり消えた。彼女が自分の首を切り裂くのに使ったナイフはなぜか見つからなかった。

 笑い話にもならない。面倒事のひとつも残していかないなんてあまりにも割り切りと思い切りの良さが徹底しているので、アイオンは謎の敗北感に打ちのめされながら潰しそうなほど強く遺品のペンダントを握りしめていた。鳥と花の意匠に赤いガラス玉。アイオンが気まぐれで買い与えたあの安いペンダントを、彼女は最後の最後まで身につけていたらしい。やっぱりアイツはバカだ。


 アイオンはあのバカに腹を立てるのによっぽど夢中になっていたようで、気づいたら南部に戻ってきていた。

 まともに会話も成り立たないアイオンに見切りをつけたのか、もろもろの手配はイースレイが無言のうちに全部やってくれた。あっちはあっちで相当なやられ具合だ。職場で、しかもコイツとコイツの組み合わせであり得ないと思っていたふたりの決戦が起きたんだから、思うところはありまくるだろう。

 だが、それでもまだイースレイはアイオンよりは断然マシな状態だ。彼は思うように出来なくても食事を摂ったり眠ろうとはしているし、仕事も最低限のことはどうにかこなしている。

 どんなに破滅的な出来事があろうと関係なく時間の流れは生きている人間を押し流す。

 イースレイは少なくともその流れに乗るか、呑まれるかはしていた。


 俺にはできない。



 夜、眠れないので庭に出てベンチに座った。

 息が白くなっている。外が寒いことと、自分が呼吸しているのはそれで分かったが、だからなんなんだと生産性のない情報にイラついた。その苛立ちもほんのそよ風のように消えて一秒後には無風に戻る。


 もうすべてがどうでもよかった。


 どうでもいいという顔をしてアイオンが中を歩くので、庁舎も全く同じ反応を返してくる。なにごともなかったかのように庁舎内はアイオンたちが出発したときのままだ。

 なのに、あのカウチで勉強させられたなとかここで俺の帰りを待ってたなとか、どこもかしこも思い出がこびりついている。

 思い出はしょっちゅう蘇り、アイオンの中にさざ波を起こし、直後にはぴたりと凪いでしまう。

 しょせん脳みその内部で起こっているだけのその動きが、冗談みたいにアイオンを消耗させた。


 庁舎内はまるで時間が止まったみたいに変わらない。

 だから外に出さえしなければ、アイオンも時を止めたままでいられるはずだ。


 だが当然そんなのは妄想で、内でも外でも相変わらず時間は流れ、過ぎ去っている。

 イースレイは仕事をしているし、太陽も月も昇っては沈み、日付は変わり、季節は過ぎ、ヘンリエッタが死んだことがどんどん知れ渡り、葬儀も埋葬もされる気配がないことを人々に笑われ、ハイラントとの婚約が直前に破談になっていたことが報道され、誰も彼女が女王を守るために死を選んだという点には目もくれず、仇はすでに女王が殺した後で、別になんの役割も目的もないのに惰性で流されるままアイオンはまだ生きている。


 こんなにも世界はくだらないのに、どうしてこんなに苦しい。


 彼女のいない日々が最近続いていることに、どこかに出掛けているのと状況としては変わらないじゃないかと姑息なことを考える。それこそ一緒に仕事をする必要がなくなって離れ離れになり、でもまぁ改まって手紙を出す相手でもなし、連絡を取っていなくてもお互い元気にやっているのをぼんやり感じて安心していれば、そのうち自然と時間は過ぎていくものだろう。

 でも現実は違う。同じ時の流れの中で別の部屋にいて姿が見えないとかじゃなく、彼女は本当に、もうどこにもいなかった。自分を騙そうとあがいても仕方ない。本心ではアイオンはちっともどうでもいいなんて思っちゃいないんだから。

 なにもかもにわだかまりと怒りがある。なにもかもに拘っている。

 ヘンリエッタが報われていれば気は晴れたんだろうか?

 彼女の行いと本当の人となりが少しでも尊重されていたならマシだと思えたか?

 兄を許せるか?

 女王に腹は立たないか?

 レオナルドたちが過ちを認めるまで殴り続けてやりたくはないか?


「……………………」


 なにもしてやれなかったという後悔だけでも死にたい理由になる。その上にもまた理由が積み重なる。次々に。

 そして山積みになった自責の念を吹っ飛ばす激しい悲しみと寂しさの発作が来ると、胸からみぞおちにかけてがひび割れるように痛み、脂汗が浮かんで、震えだした両手をきつく握りあわせて額をつけるのがお決まりになった。

 ただもう一度会いたい。

 声が聞きたい。

 あんなの明らかに嵐のように出会って嵐のように過ぎていくタイプの人間だ。巻き込まれる側の凡人は彼女が笑って駆け抜けるほんの一瞬で人生数回分くらいめちゃくちゃにされる。

 でも、その嵐を必死こいて引き留めようとするバカが俺だ。


 今さら自分がなにをしたいのかもう分からなかった。

 彼女が死んだという状況に、きちんと実感が湧いているかどうかさえ断言できないくらいに。

 アイオンは間近で目撃したはずの彼女の死の瞬間の記憶も厳重に鍵を掛けて封じ込め、ギリギリのところで思考をコントロールして二度と引き出さないことにしていた。

 もしこの現実を本当に理解し直視してしまったら、端が見えないほど巨大な恐怖が猛スピードでアイオンに迫り、完全に轢きつぶしてしまうだろう。

 だから四六時中全神経を費やしてその恐怖から目をそらし、逃避と無感動を続けるしかない。とてもじゃないが生きていく意味や価値があるとは言えない余生だ。

 早いところ迎えに来てほしいが、そんな女じゃないことも分かっている。そもそもアイオンがそう望むこと自体に彼女は悲しむ。どこまでも腹の立つことに。


 極度にぐちゃぐちゃになった頭の中がまたすーっと凪いでいく。少し間を置けばまた無数の分裂思考に埋め尽くされるだろう。延々とこれを繰り返している。

 なにもかもに怒り拘りながら、なにもかもをどうでもいいと思う日々。

 いつ終わるか分からないまま終わりを待ち望む状態じゃ、期限付きの人生でも実質的には永遠だ。

 永遠の使い潰し方を分かってる人間なんかどこにもいないのに、俺が知るワケないだろう。


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