表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
54/75

追想:湖の村

 ぼんやりと意識が戻った瞬間、ヘンリエッタは慌てて身を起こした。


 ……どこだここ。


 どこかの無人の小屋の中、粗末な藁のベッドに寝ていたらしい。水辺が近いのか板材は湿気で少し痛んでいる。時刻は昼間のようだ。

 それらの情報が意識を失う直前の記憶とぜんぜん繋がらないので、視線を巡らせて周囲の様子を確かめていると、ぎぃっと音を立てて戸が開いた。

「!」

「あ、目が覚めた?」

 入ってきたのは桶を持った十三・四歳の知らない女の子だった。黒髪をポニーテールにし、活発そうな日焼けした顔に優しい笑みを浮かべている。彼女は反射的に警戒して縮こまったヘンリエッタを心配そうに見つめ、ゆっくりと近づいてきた。

「大丈夫、ここは安全だよ。私キャス・ブラウト。あなたは?」

「……」

 ヘンリエッタはベッドのかたわらに膝をついて話しかけてくるキャスという少女の頭からつま先までを不躾に観察した。強そうか、悪そうか、どっちかに当てはまるようなら無理を押してでも逃げ出すつもりだったが、キャスは弱っちそうで善良そうだった。

 そうと分かると冷たい態度を取ったのが申し訳なくなり、ヘンリエッタは目線を下げて膝を抱えた。

「……ヘンリエッタ」

「可愛い名前ね! 名字は?」

「ない」

 名前は記憶にある限り一番古い大人の知り合いがつけたものだけれど、その人とは家族でもなんでもなかったし最後は魔力暴走で吹っ飛ばしてのお別れになったので、名字はもらっていない。

「じゃヘンリエッタって呼ぶね! 私のこともキャスでいいから!」

 キャスは怯みもせず意外な押しの強さで言った。にこやかだが我が強いタイプらしい。

「お父さんが村の近くに倒れてるヘンリエッタを見つけてここへ運んだの。すごく具合が悪そうだけど、いったいなにがあったの?」

 ヘンリエッタは沈黙で返した。

 キャスは少し戸惑いを見せ、

「……言いたくない?」

「たくない」

 最低限の直球を投げたヘンリエッタにキャスは思わず笑う。

「……分かった、でも体調は良くなってないよね? お医者様を呼んであげたいけど……」

 キャスは言いよどみ、緑色の瞳を曇らせる。

「……うちの村ちょっと事情があって、それには時間がかかると思うの。だからここで休養しててもらってもいいかな?」

 ヘンリエッタは首を傾げた。寝床を提供してくれている側が申し訳なさそうにするなんて変なひとだ。

「……置いてくれるの?」

 頭の隅に懸念が浮かぶ。こういう手合いで裏がなかった例しがない。もしかしてキャスもヘンリエッタを利用しようとして近づいてきたんじゃないか。

 しかしキャスは笑顔でその勘ぐりを吹き飛ばした。

「もちろんよ!」

「負担にしかならないのに?」

「なにが負担? 子どもが要らない心配をするもんじゃありません!」

 キャスはまるで大人のような口を利いて脅すようにタオルを構える。

「じゃぁ身体拭こ……」

「自分でやるから気持ちだけもらう」


 キャスの村はウル湖という人工湖のほとりにあり、その造成に従事した労働者がそのまま移住して作ったいくつかの集落のうちのひとつらしかった。住民の多くが湖魚などの加工業を営んでいて、キャスの父親のダニエル・ブラウトも日中は漁や魚介の加工作業に出掛けていた。

 彼は大柄で日焼けしていて十歳にも満たないヘンリエッタには見上げるほど長身だった。

「助けていただきありがとうございました」とヘンリエッタが頭を下げると、ダニエルは無愛想に「子どもは大人に守られるもんだ。ゆっくり寝てなさい」とベッドへ押し戻してきた。不器用だが優しいひとだ。

 ブラウト家には母親がいないようで、家事はキャスが一手に引き受けている。断片的な情報から推測するに、母親はなにかの病気で亡くなったんだろう。闘病中に隔離されていたのがヘンリエッタのいる小屋だと思われた。

 一人娘のキャスの下にコールという男の子がいる。

 コールはヘンリエッタが意識を取り戻してから三日目の昼にキャスの後ろにくっついてきた。姉のことが大好きで姉を心配してついてきたものの素直に態度に出せないようだと一目見て分かった。ものすごく分かりやすい。

「父さんも姉貴もお人好し過ぎるんだ。早く治して出てけよなっ」

 ヘンリエッタが居座っているのが気に入らないコールは、キャスが水を汲みに行った隙によく釘を刺してくる。そのくせヘンリエッタが頷いて「分かってるよ」と言うと、思ったような答えが返ってこなかった様子で不機嫌になる。うまく相手をする余力も戻っていないヘンリエッタは、コールについては早々に雑な対応で乗り切ることに決めた。そう長い付き合いにもならないし良いだろう。


 今まで恨まれてきたどこかしらの追っ手が村にたどり着くこともなく一週間が過ぎた。

 というか、追っ手どころかヘンリエッタの噂すらこの村には届いていないらしい。

 あがめられるか迫害されるかの別に関わらずあっちこっちでコミュニティを潰しては逃げ続けているヘンリエッタだが、この村ではただの虚弱なひとりの少女だった。

 そもそもこの村へ来ることになった原因だって、たちの悪いカルトにかつてなく追い詰められて初めて魔力暴走を連発し、未成熟な身体に過度の負荷がかかったせいだ。逃げ延びたはいいけれど限界を迎えて道ばたで倒れたときは本気でヤバイと思った。


 ヘンリエッタは一週間の療養で出歩けるところまで快復し、ようやく村の様子を見て回れるようになった。

「今日も散歩すんのかよ」

 ヘンリエッタが村を歩くときは、家事で手が離せないキャスに代わって監視役のようにコールがついて回った。

「付き合う俺が大変なんだけど」

「……この村ってなんか変」

 ヘンリエッタはコールの不平に構わず首をひねった。

 春の湖畔には色とりどりの花が咲き、鳥のさえずりも日に日に元気になっていくのに、なぜかそれに反して村内の空気はどこか沈んでいる。

 日中の村の広場では、親の仕事について行けない歳の子どもたちが遊び回っている。それは理に適っているけれど、働き盛りのひょうきんなおじさんがよく分からない芸を披露して子どもたちを率いていたり、わざわざ荷車に人を乗せて通りを行く村人の姿が散見されるのは不思議だ。

 ヘンリエッタの指摘にコールは目を吊り上げ、烈火のごとく怒りだす。

「助けられといてなんだよその言い草! 恩知らず! 失礼だろ!」

 そういうのは図星を突かれたときの怒り方だ。ヘンリエッタは動じることなく、

「そういえばキャスが『事情があってお医者さんが来ない』みたいなこと言ってた」

「は!?」

 コールはますますむきになり、

「来ないわけじゃねー! まだもうちょっと時間がかかるって言われてるだけだ!」

「てことは前々から村としてお医者さんを呼んでるけど、なにか理由があって来てくれないんだ?」

 簡単に誘導に乗って口を滑らせたコールは目を瞠って黙り込んでしまう。

 ヘンリエッタは今もまた通りを人を乗せた荷車が行くのを指さし、

「……あの人たち、脚が悪くなる病気? まだ働き盛りの人がほとんど広場から動かないで一日過ごしてるのも、もしかして本人は不本意だったりするの?」

「!!」

 コールは顔色を変えて口ごもった。その反応だけでも答えは明らかだったが、ヘンリエッタが重ねて問い詰めるより早く「だから要らないって言ってるだろうが!」とどこからか怒鳴り声が聞こえてきた。

 えっと驚いて振り返ると、戸の前に荷車が停まっている家の中から若者が追い出されてくるところだった。彼は弱り果てた様子で自分の背をぐいぐい押しているおばあさんをどうにか止めようとしながら、

「る、ルイばあさん話を聞いてくれよ! その脚で寝たきり座ったきりじゃますます……」

「だからって藁束みたいに荷車に乗れってのかい! 冗談じゃない、あたしは痩せても枯れても人間なんだよ! 出ておいき!」

 怒鳴った拍子に転げかけたルイという名のおばあさんを若者は支えようとしたが、彼女はそれも振り払ってばたん! と戸を閉ざしてしまった。

「……さ、さぁさぁみんな! 次は手品をしてあげよう! このカードをよぉく見るんだよ!」

 戸惑う子どもたちの注意を芸達者なおじさんが引いたおかげで、張り詰めた空気が少しずつ弛緩していく。



「あなたは天使なんですよ、この世に調和を齎すために生まれたのです!」


「くそッ……魔術師の肉を食えば魔術師になれるって、聞いたのに……」


「あなたは本当はとても良い子なのよ……私は分かっているからね……全部あなたに取り憑いている悪魔がいけないの」


「なにが気に入らない!? 教育を受けられて嬉しいですと言え!」


「化け物! あんたなんか人間じゃない!」


「……まだ助けてくれないんですか?」


「なんだよ、お前みたいなのでも泣くことがあんのか」


「君が言葉を覚える必要はない、私という代弁者がいるのだからな。いやむしろ覚えるべきじゃない。君はいつまでも無垢なままでいなくちゃいけないよ」


「ガキは騙しやすくていいね」


「見なさい、今日も世界には飢え死にしそうな人間が溢れかえっているんだぞ。お前はこの凄惨さを見てもまだ彼らを救ってやろうという気にならないのか? 心に欠陥があるんじゃないか?」


「あんな化け物、最初から友達でもなんでもねーよ」


「なんでこんな酷いことするの!? 人殺し! 呪ってやる!」


「最高だろ、お前と俺でこの国をぶっ壊すんだよ……!」


「家族? 誰と誰が?」


「……あんたまだ人並みに幸せになれると思ってんの?」


「恨みはないが死んでもらおう」


「さぁ今日からここがあなたの部屋、私があなたのママよ! ママの言うことは絶対、分かるわよね?」



 真夜中、悲鳴を上げて飛び起きた。息を整えてただの夢だと確認する。身体が本調子にはほど遠いせいでたまにこうやってうとうとしてしまう。

 睡眠の才能がないのかなんなのか、ヘンリエッタが夢を見るときは決まって過去の記憶を果てしなく羅列したような悪夢だ。うんざりと肩を落としていると、声を聞きつけたキャスが「どうしたのヘンリエッタ!?」と母屋から飛んできた。

「はいこれ、ハーブティー。気分が落ち着くわよ」

 キャスが淹れてきてくれたよく分からないお茶は変な味がしたが、ヘンリエッタは美味しい振りをしながらちびちび飲んだ。彼女の優しさを大切にしたかったからだ。

 ヘンリエッタが昼間の出来事を話し、村の実情について訊ねると、キャスは哀しそうに話し始める。

「そのうちヘンリエッタにも話さなきゃと思ってはいたから……。この村でおかしな病気が流行ってるのは本当。脚が腫れてだんだん腐ってきて、最後には死んでしまうの。だけど、領主様が派遣してくれたお医者様に診てもらっても原因不明だって……性別や年齢に関わらず発病することと、たぶん単純な接触でうつる病気じゃないみたいってことくらいしか分かってないんだ」

 キャスはヘンリエッタに対して心苦しさを覚えているようだった。

「……こんな村早く出て行きたくなって当然よね。あなたも本当ならもっと安全な場所で療養するべきだって分かってたんだけど伝手もないし……ごめんなさい」

「どうして謝るの? すべての病気を根絶してる村なんてどこにもないんだし、むやみに怖がったりしない。大変なのに助けてくれてありがとう」

 ヘンリエッタがばっさり切るような口調で言うと、キャスは泣きそうになるのをこらえて笑顔をつくった。


 翌日、広場で遊んでいた子どものうちひとりが新たにその病気を発症した。まだ四つの無邪気な男の子だ。

 急遽開かれた会議でもう一度領主にこの窮状を訴えようと決議されたため、ダニエルを含む一団が領主館へ向けて出発していった。

 ダニエルがいなくなるとブラウト家は途端にがらんとして、キャスの元気が目に見えてなくなった。焦ったのはシスコンのコールで、うざったがっていたはずのヘンリエッタを呼び寄せてなるべく三人で行動するように心がけだした。

 三人は不安そうにしている村の子どもたちとたくさん遊んだ。彼らはヘンリエッタの知らない遊びをいくつも知っていて、なにを教えても感心するからと十人以上の話を同時に聞かされたりした。

 なんの変哲もない子どもとしてふざけ回るのは本当に楽しかった。脚の悪い村人たちを抱えて経済的にも精神的にも厳しいはずなのに、みんな優しくしてくれた。

 ここでは誰もヘンリエッタの正体を知らない。感情の高ぶりで魔力暴走を起こすなんて想像もしていない子どもたちは遠慮なしにからかってくるし、怒ったり泣いたりもする。それがまた嬉しかった。


 だけど、それは同時にヘンリエッタが魔力暴走を起こすほどに思い詰めていない証拠でもある。

 村の人たちが苦しんでいるのを知っても火花ひとつ発さない自分に何度目かの幻滅をした。みんなはこんなに優しいのに、私は冷たい。とっくに思い知ってたことだけど。


 ダニエルたちの留守中、森で遊んでいた三人がちょっと奥へ冒険に行ったときだ。

 人の話し声がする。怪しんだ三人がそっちへ向かうと、広場で子どもたちをあやしていた芸達者なひょうきんおじさんが知らない男となにか言い争っている。

 ヘンリエッタは覚えのある枯れ草のような匂いをかぎとって顔をしかめた。

「頼むよ! 前は同じ値段でもう少し買えたじゃないか!」

「はっ、だーめだよ。あんたの村へ商売しに来てやってるだけありがたく思え」

 男はこの近辺の村じゃなく、山のほうの村の人間らしかった。縋ろうとするおじさんの手をたたき落とし、

「こんな病人だらけの村と関わりたいヤツがどこにいる? 魚もなにも近頃は全然売れてないんだろ? よその村人との縁談も次々破談になってるってウチの村でも噂になってるぜ。俺に言わせりゃ、あんたらもうすでに働き手の不足や介護の大変さを嘆いてる場合じゃないぞ」

「っど、どういうことだよ!?」

 草陰に身を潜めて聞き耳を立てていた三人のうち、コールが真っ先にキレた。キャスが慌てて止めようとしたが手遅れだ。

「ウチの村がなんだって!? よそもんが難癖つけてんじゃねーよ!」

「お……お前らいつの間に……」

 コールはきゃんきゃん吼えかかるわ、おじさんはおろおろするわで商談どころじゃなくなった男は「うわめんどくせ」と吐き捨てて素早く撤収していく。あぁぁ、と情けない悲鳴をあげるおじさんの前に、ヘンリエッタは立ちはだかった。

「おじさん、今の人からヤバイ薬草買ってるでしょう」

 おじさんとコールとキャスの目がこぼれ落ちそうに見開かれる。

「脳みそを麻痺させて洗脳したりするのに使う薬草だよ。匂いが染みつくほど使ったんだね」

 村で世話になっている身の子どもに指摘されて頭に血が上ったようで、逆ギレし始めた。

「ひ、必要なだけしか使ってないさ! ヤバイヤバイって言うがあんなもん酒や煙草と変わらない嗜好品だぞ、大人はちゃんとここまでなら薬って分かって使ってるんだ! お前らになにが分かる? 脚が痛むんだから仕方ないだろ!」

 三人はおじさんの豹変ぶりに愕然とし、コールもついに言葉を失った。

「みんなやってることなんだよ! 大丈夫なんだ、安全なんだよ! 痛み止めや鎮静剤に使える薬草だ! あの癇癪持ちのルイばあさんのとこにも持っていくってトムも……」

 勢いでおじさんがとんでもないことを暴露したので、三人は大急ぎで村へ取って返した。トムというのはルイばあさんを荷車に乗せようとして手痛い拒絶を食らっていたあの若者だ。ルイばあさんは息子に連れられてこの村へ移住してきたが先立たれ、家にひとりで暮らしているからトムを阻む者はいない。

 三人がルイばあさんの家に突入したとき、まさに彼女は箒でトムを威嚇しているところだった。

「間に合った! ばあちゃん、トムの持ってるその草ヤバイんだ!」

「そんなことだと思ったよ!」

 コールの告発にルイばあさんは大喝し、トムが思わずひっと腰を引かせる。

「麻薬なんかでこのあたしをおとなしくさせられると思ったかい! バカもんが!」


 トムの顔面に箒を投げつけて追い返したルイばあさんはますます村で腫れ物扱いされるようになった。悲しい話だが、ヘンリエッタの想像以上に大勢の村人が痛みに耐えかねて麻薬に頼っていたようで、大人同士の無言の連携がそこにはあった。

 実のところ、ヘンリエッタは彼らがそうするのも無理はないと思っていた。痛い痛いと病に苦しんでいるのは、おじさんもトムもルイばあさんも四つの男の子も同じだ。足元を見られ高値で売りつけられた麻薬を、人当たり最悪なルイばあさんに無償で分け与えようとしたトムの行動には善意しかない。みんな苦しんでいて、その中でも自分なりに誰かに優しくしようとしているのは確かだった。


 そこへようやく直訴へ向かったダニエルたちが帰ってきた。けれど残念ながら、収穫はなかったらしい。

「ラローシュの野郎め、何度も来られて迷惑してるって顔を隠しもしねぇ。『いい医者を手配してやるが、いい医者だけに順番待ちがつっかえてるから村で待ってろ』、毎回これだ。俺たちにこれ以上いつまで待てって言うんだ」

 そうこぼし、ダニエルはその晩珍しく深酒した。ラローシュの言葉はヘンリエッタには村人を村に押し込め、病気ごと訴えを黙殺しようとしているようにしか聞こえなかった。周辺の集落からもじわじわ縁を切られていっているし、生活基盤が脅かされる日も近い。

 大人たちが絶望を深めれば、子どもたちもそれを感じ取って精神的に不安定になる。

 春の盛りの村は薄暗い。


 ヘンリエッタがブラウト家に身を寄せて二週間目、キャスが熱を出して倒れた。

 コールはパニックを起こし、「熱のせいじゃなくて脚が痛いかもしれない」「なんだか腫れてきてる気がする」と幻覚なのか事実なのか分からない姉のうわごとを聞いて泣き出してしまった。

 ヘンリエッタはいまだに体調が戻っていなかったが、使わせてもらっていた小屋がキャスの寝床になったのをいいことに、つきっきりでキャスを看病した。気持ちが弱るのが一番よくないから、「脚が、脚が」と不安がるキャスに「腫れてないよ」「気のせいだよ、ただの風邪。あったかくしてればすぐに治るから」と逐一返事した。ヘンリエッタは眠らなくてもへっちゃらだから、夜通しでも返事をしていられた。小屋に出没するネズミが寝込んでいるキャスの指先をかじろうとしたときなどは箒を振り回して追い払った。

 ある夜、ダニエルが外の空気を吸いに行ったまま戻らないのでヘンリエッタが捜しに行った。

 彼は村はずれの墓地にある奥さんのお墓の前に佇んでいた。ヘンリエッタに気づくと日焼けした顔に不器用な笑顔を浮かべ、

「……すまんな。捜させちまったか」

「気にしないでください、それより早くキャスのところに行ってあげて。お父さんがそばにいるのが一番安心するみたいだし」

 キャスの高熱はなかなか下がらず、脚の具合を確かめようと少しでも触れると「腫れが悪化する」と嫌がり、無理に起き上がろうとするので触診もできなかった。彼女の体調不良の正体が風邪なのか奇病なのかはまだ不明なままだ。

 ダニエルにならって奥さんのお墓に視線を落とす。よく磨かれた墓石には彼が持ってきたらしき花が供えてあった。

「……すごく大事にしてますよね。奥さんのこと」

「まぁ……お互い想い合って結婚するってのは、そういうことだからな」

 ダニエルは奥さんのお墓に別れを告げると家に戻り、寝込んでいるキャスのかたわらに寄り添った。大きな手が頭を撫でると、いつもしっかり者の彼女が急に幼い顔になってしくしく泣き出したので、ヘンリエッタは戸口で目を丸くして固まった。

 なんとなく自分で自分の頭を撫でてみる。

 ……? 別になんとも思わない。

 キャスが泣き疲れて眠るころ、ダニエルは立ち上がって深く息をつき、こっちへ近づいてきた。ヘンリエッタは訳もなく緊張する。

「……キャス、また脚のこと心配してましたか?」

「ワガママ言い過ぎてお前に嫌われたかもって不安になったらしい」

 ヘンリエッタはきょとんとダニエルを見上げた。

「ワガママですか? 言われたことないですけど」

 ダニエルは困ったように「そうか?」と首筋に手を当て、少し潜めた声で言う。

「……ヘンリエッタ。もし良かったらだが、俺たちとこの先も一緒に暮らさないか。家族として」

 一瞬なにを言われたのか分からず、ヘンリエッタは硬直した。

 すると早合点したダニエルが、

「いや、こ……こんなタイミングでするべき話じゃなかった、キャスが寝込んでるこの状況で病気が蔓延してる村に残れなんて、お前を便利に使おうとしてるみたいに聞こえただろ。キャスが治ったら改めて話をしよう。そのときに返事をくれ」

 大股で台所へ引っ込んでしまった彼に、ヘンリエッタは「は、はぁ」と曖昧な鳴き声を返した。このときそんなリアクションしかできなかったことを一生悔やみ続けるだろう。のちのちブラウト姓を名乗ることにしたきっかけの記憶は、温かくて苦い。


 翌日は一日中雨が降り続いた。

 この晩もヘンリエッタはキャスのそばについていたが、雨音に紛れて外から呻き声と荒い息づかいが聞こえてくることに気づいた。キャスのそばを離れようか離れまいかじっとしばらく考え込んで、キャスの寝息がようやく穏やかになったのを確認してから立ち上がった。

 合羽を借りて外に出る。

 小屋の前の小径、ぬかるんだ土がぐちゃぐちゃになっている。その複雑怪奇な跡は村のほうから森へ続いており、ヘンリエッタがキャスの容態を見守っている間に何者かがここを通っていったことが分かる。

 それを追跡した先で、ヘンリエッタは思いがけない光景に打ちのめされた。ルイばあさんが脚を引きずりながら低い木に縄を掛け、首を吊ろうとしていたのだ。

「ばあちゃん!?」

 ヘンリエッタは喉が裂けるかと思うほど叫んで枯れ木のような身体に掴みかかった。遅れて我に返ったルイばあさんは、老人とは思えない力の強さでもがく。

「やめっ、この、離しなっ!」

「離さない! バカ、なんでこんなこと……!」

 荷車での移動を拒否し、トムを箒で叩き出したルイばあさん。気難しいところはあるがプライドの高い人だと思っていたヘンリエッタは彼女の行動が理解できなかった。老人と子どもの取っ組み合いは泥沼になり、ルイばあさんがとうとうぐったりと脱力する頃にはお互い雨と泥でひどい有様になっていた。

「……あたしみたいな穀潰しの老いぼれを抱えてちゃ、村の滅びが早まっちまうじゃないか……。ただでさえここの連中は、自分だって苦しいのにあたしを放っておかないようなのばっかりなんだ。……あちこち転々として生き延びてきたが、本当に惨めだよ……死んだように静かなこの村なんか想像しただけでうんざりさ。あいつらは幸せになるべきなんだ……」

 一大決心をいきなり出てきたよそ者の子どもに台無しにされ、精も根も尽き果てた様子のルイばあさんは雨を受けるのも構わず天を仰いだ。

「まだ若くて優しい人たちと同じように、苦しみながら何十年もこの世でがんばった人の最期がこんなのでいいなんて思えない。みんな助かるべきだよ」

 そうだ、私なんかこの村のみんなに憧れている。無邪気な子どもたちが広場で将来の夢を話し合っているとき、自分は優しい人になりたいと自然に思う。

「……がきんちょが、知ったような口きくんじゃないよ……」

 ヘンリエッタの言葉にルイばあさんは最後に残っていた力もすっかり抜き、縄を取り落としてうなだれた。


 朝が来るやヘンリエッタはコールに手助けを頼みに行った。

「病気の原因を突き止めたいからコールに手伝ってほしいんだ」と言うと、予想通り彼は難色を示した。「なに言い出すんだよ。無理に決まってるだろ!」とお説教してくる彼にヘンリエッタは昨夜のルイばあさんとのことを打ち明けることにした。

 話を聞き終えたコールは絶句してから「あのルイばあさんが!? 嘘だ……」と呻き、しばらく思い悩んでいたが、不安げな目でヘンリエッタを見つめた。

「だからって子どもになにが出来るんだよ? 医者と村の大人が束になってかかってもワケ分かんなかった病気なんだぞ。これ以上俺らがみんなに迷惑かけちゃダメだろ」

 コールが危機のさなかにある村に貢献できていない自分を子どもなりに責めていることをこのとき初めて知った。気後れする彼の気持ちは分かるけどダニエルは仕事、キャスは体調不良だし、どうしてもコールの助けがほしい。

「最初はなんでもいいから情報を集めて整理しよう。新しい発見があるかもしれないでしょ?」

「お前ってなんでそう行き当たりばったりなんだよ! 調べてもなにも分かんねーよ、鬱陶しがられて怒られるだけだって!」

「うまくいくかどうかなんて考えるだけ無駄だよ。本当にやりたいことならどうせいつかやるんだから。今すぐやるか後で結局取りかかって後悔するか、コールはどっちがいい?」

 半ば脅しつけるように迫ると、思考のキャパがオーバーフローしたコールは最後には了承してくれた。キャスの不調とルイばあさんの自決未遂という恐怖が彼に「なにか行動したほうが安心できるんじゃないか」という気を起こさせたようだった。


 ヘンリエッタとコールはまず村民の聞き取り調査から始め、具体的にどういう兆候があり、どういう症状がいつ頃出て進行していったのかを整理していった。

 村民にいい顔はされなかったが、先日キャスが倒れたのもあってヘンリエッタたちが行動を起こしたこと自体には共感を得られた。ルイばあさんが積極的に調査に協力してくれたのも大きかった。あの雨の夜、ヘンリエッタに家まで送り届けられたのを境に彼女は憑き物が落ちたように癇癪を引っ込め、優しさを素直に表に出すようになった。相変わらず口は悪かったけれど。


 キャスの熱がやっと下がったのもこの頃だった。

 さいわい彼女の脚は腫れておらず、痛みは熱のせい、熱は過労と心労が祟ってのものだったらしい。

「はぁ、気持ちからでも熱って出るんだね……ずっと看病してくれてありがとう。いっぱい迷惑かけてごめんね……」

 夜中にこっそりハーブティーを淹れてきたと思ったら、キャスはヘンリエッタにそう謝ってきた。ヘンリエッタは彼女と並んで小屋のベッドに腰掛けながら、意味が分からないという顔をした。

「ばあちゃんもキャスもコールもみんな同じこと言う。迷惑かけるのが申し訳ないってそればっかり。もう聞き飽きたよ」

 するとキャスはお姉ちゃんの顔で笑い、

「ヘンリエッタは優しいのに素直じゃないのよね」

 そんなことあるワケない。もしそうならヘンリエッタはとっくに魔力暴走を起こして村人全員すっかり健康体にしているはずだ。気まずくなってハーブティーに集中している振りをした。

「……でもそういう妹もカワイイかも!」

「っごほっ、ごほっ!」

 びっくりしてハーブティーが気管に入り、げほげほ咳き込むヘンリエッタの背をキャスは優しく撫でながら、「お父さんもコールも同じこと言うからね」と笑っていた。


 キャスが快復してからは彼女も調査に加わった。ヘンリエッタの体調は実のところまだ戻りきっていなかったが、外面を取り繕うことは充分できた。

 近隣の集落にまで足を伸ばし、調査を進めていくと、例の病気がすでに湖の周りに蔓延していることが判明した。現時点での深刻さにグラデーションがあるだけでこのままいけばどこも同じ末路を辿るだろう。

 来る日も来る日も村々や湖を行き来した。ランプの灯りで手元を照らしながら紙に集めた情報を書き付けていたヘンリエッタは、いつの間にかふっと意識を途切れさせていた。



 昔の夢を見た。

 どこだったかのなんちゃって神殿の最奥にヘンリエッタはいた。真っ白な装束を着せられて萎えた足首を鎖で重しに繋がれていた。

 毎夜教祖によってなるべく可哀想な信者がヘンリエッタの前に連れてこられた。彼らは自分たちの苦境を懸命にヘンリエッタに訴えては啜り泣いた。そこへ修行して魂を清めればその苦しみは必ず癒やされるであろうとかなんとか教祖が言い、喜捨と労働を求めるのだ。

 苦しみ、苦しみ、苦しみ抜いたところをヘンリエッタに見せれば、いつか感に堪えず魔力暴走を起こすだろう、という真意が彼らに伝わることはない。

 そのときのヘンリエッタはたぶん疲れ切っていて外界の情報を意識して頭に入れないようにしていた。喜怒哀楽をちゃんと感じるつもりさえないんだから、魔力暴走は起こらない。

 やがて教団内では不幸比べがエスカレートしていった。

 こんなにつらいんだから救って下さいと、みんな自ら進んで不幸な自分を見せようとする。

 お互いがコストを払って大いなる不幸の後に大いなる救いを得ようとして、親切心や連帯感からお互いを傷つけ合った。その傷を見せて「さぁこれでどうですか!?」みたいな期待に満ちた顔を向けてくるが、あいにくヘンリエッタはそんな光景を楽しむほど悪趣味じゃない。面白くもなんともない。


 ある晩、幼い兄弟を連れた母親が連れられてきた。

 無感動なヘンリエッタを見て、母親は身の上話を始めた。出身地や生い立ちから始まり、いま一家が苦しめられている病の詳しい症状まで。

「夫は脚から腐って死にました。薬を買うお金もないので、私もこの子たちもきっと後を追うことになります……」

 彼女は自分と子どもの服の裾をたくしあげ、黒く腫れ上がった脚を見せて泣き出した。兄弟は母親の顔を戸惑いがちに見上げていたが緊張から泣くに泣けず、さまよわせた視線をヘンリエッタに落ち着けた。母親からヘンリエッタのことをなんて聞かされていたのか、なんでも叶えてくれる神様でも見るような目だった。


 ……ろくでもない記憶ほど消えてくれない。

 母親はどんなに訴えてもヘンリエッタがなにもしてくれないと悟ると、兄弟の顔を交互に見てひとしきりうんうん悩み、いきなり弟のほうをナイフで刺し殺そうとした。

「神様ーーーー!! ここまで不幸になってもまだ助けてくれないんですかぁーーーー!?」

 ナイフを振り回し狂乱する母親の絶叫が、しばらく耳にこびりついて離れなかったのを覚えている。

 神様になんかなりたくない。いい加減なにも感じない振りで自分を騙し続けるのも限界だった。目の前の出来事にいちいちマトモに同情し、悲しみ、怒るようにすれば魔力は沸き立ってくれる。それから間もなく、ヘンリエッタはその教団を魔力暴走で吹き飛ばした。



「……あれだ!!」

 意識を取り戻すなりヘンリエッタは立ち上がった。

 悪夢がヒントになるなんて人生万事塞翁が馬だ。

 あの母親が事細かに語って聞かせてきた病気の症状はこの村にはびこる奇病と完全に合致している。一家の出身地はラローシュ領を通過して隣国にまでまたがる川の下流の村だ。

 ヘンリエッタはメモを片手に改めて村人の家々を訪れ、ウル湖造成のいきさつと普段の生活について聞き込みして回ってひとつの結論を出した。


 つまり、奇病の原因は湖に生息している巻き貝とその中で増殖する微細な寄生虫だ。

 川の下流域を擁する他国では古くからある病が、ここに持ち込まれた結果未知の奇病のように見えていただけだ。寄生虫は水場での水泳や作業中に人間の身体に侵入するが、大前提として住処である巻き貝が充分な数繁殖していなくてはいけない。このウル湖の造成で流れの穏やかな水場が出来てしまい、本来下流域でしか繁殖できないはずの巻き貝がここでも増えてしまったのが発端だったわけだ。


 ヘンリエッタはダニエルに自分の考えを伝え、ダニエルが村の首脳陣にさらに伝えた。

「よその国では昔からある病だったのか……! 湖が出来たせいで寄生虫も移り住んできていたとは思いもよらなんだ。一考の価値はあるな」

 よそ者のヘンリエッタが言うことだけに思わぬ説得力が出て、村長は案外スムーズに納得してくれた。ダニエルは「よく思いついてくれた、ヘンリエッタ」と褒めて――ついでに大きな手で頭をぐりぐり撫でられた――くれたが、すぐ難しい顔になり、

「しかし……お手柄だが、領主が大事業で造った湖が原因となると……」

「いや今はとにかく領主館へ人を行かせよう。このことを報告すれば公費で他国から薬を取り寄せてくれる! みんな助かるぞ!」

「待て待て、周りの村にもこのことを伝えて湖に行かせないようにしないと! 彼らのぶんも薬が必要だ!」

 確かに行動するなら早いに越したことはない。そうだそうだという話になってこの日から村人は湖に近づくことを禁じられた。もちろん中には「湖に行くなって、どうやって食い扶持を稼げって言うんだ」と反発する声もあり、彼らの説得とほかの村への連絡にまずは人出を割かなくてはいけなくなった。

 そうなると自然、領主館へ直訴に行くのも村どうしで連携する必要が出てくる。

 各村での病人の人数と進行度合いを取りまとめ、各村長の連名で直訴状を書き、今までにない規模の連合部隊を組むには数日はかかる。


 ダニエルがその相談で忙しくしている間、三人の調査がひとまず実を結んだキャスとコールは上機嫌だった。「これから治療法を探さなくてももう薬があるなんてね! きっとみんな治るよね!」「つかなんなんだよあの藪医者ヤローは!」とおしゃべりしながらここ最近後回しにして溜めていた家事を一緒に片付けている。

 ヘンリエッタは家の裏手からちりとりを取ってこようとひとり外に出た。

 そのときだった。背後に気配を感じて息を呑んだ。

「やっと見つけたよ。村の人たちを巻き込みたくなかったら早く荷物をまとめてここを離れることだね」

 残忍な笑いを含んだ若い男の声は、そう言うや否や現れたとき同様にふっと消えた。


 どこの誰が雇った野良魔術師か知らないが、恨まれる心当たりはイヤというほどあった。

 追っ手に居所がバレた以上自分がなにをすべきかははっきりしていた。なのにヘンリエッタはなかなか踏ん切りを付けられず、迷ってしまった。荷造りといってもキャスにもらったお下がりの服や靴くらいしかないんだから風呂敷に包むだけですぐに済むのに、ダニエルたちに一言も告げられないままぐずぐずしていた。

 もしかしたらもうちょっとで魔力暴走を起こせるかもしれないし、とかなんとか自分に言い聞かせて決断を先延ばしにした。領主のご機嫌をうかがうまでもなくみんなを健康にできる人間がいるとしたらヘンリエッタだけだ。ここに居残るのは未練だけじゃなく、合理的な意味があるんだと思い込もうとした。

 にわかに希望を見出した村の雰囲気は、この先の生活にいくつもの心配事があるのほ分かっていてもなおずいぶん明るくなった。

 摘んできた春の花を抱えてはしゃぎ回る子どもたち、麻薬を捨てたおじさんとトム、穏やかになったルイばあさん。

「……病気のことが解決したら、そういう意味ではこの村ももっと暮らしやすくなると思うの」

 夕食のスープ作りを手伝っていたとき、ダニエルに聞きつけられないようキャスがささやきかけてきた。彼女はヘンリエッタが「家族にならないか」という誘いにまだ答えを返さずにいるのは村に蔓延する病気のせいだと考えているらしかった。

 そばをうろちょろしていたコールが姉の遠回しなセールスを見かねて「ビンボー待ったなしだけどな」と茶化し、叱られていた。


 星の綺麗な真夜中にヘンリエッタは荷物を抱えて小屋を出た。

 自分に言い訳を重ねてまで粘ったものの、魔力暴走は起こせずじまい。病気の原因の調査も終わったし、ただの子どもに出来ることはもうない。せめて自分の因縁に誰も巻き込まないよう、ひとりこの村を離れることくらいしか。

 誰にも気づかれていないことを確かめながら森に入り、しばらく進んだところで耐えきれず振り返った。

 ……帰りたい。あの家に。あの人たちのところに帰りたい。

 叶うならずっとあの村で、平凡な人間として暮らしていたかった。

 あたたかい人々に囲まれ、森で子どもたちと花を探し追いかけっこして、彼らのために出来ることをしながら生きていきたい。

 背中を撫でてくれたキャスの手の柔らかさや、髪がぐしゃぐしゃになる勢いで頭を撫でてくれたダニエルの手の分厚さと大きさへの恋しさで胸が詰まった。お金も地位も栄誉も崇拝者もヘンリエッタの人生には要らない。貧しくても彼らと一歩一歩進んで行けたらどんなにいいだろう。

 だけどそんな未来はどの選択の先にも繋がっていない。もしここに残ることが許されたとしても、いつか彼らもヘンリエッタの正体と危険性を知るときが来る。そうなったらもう誰も「家族になろう」なんて言ってはくれない。彼らの優しい言葉を、あたたかい思い出を、せめてものお土産にもぎとりたくて最後まで黙っていたんだから、騙していたのと同じだ。

 私じゃみんなの本当の家族にはどうやってもなれなかった。

 我慢しようとしたのに目尻に涙が浮かび、慌ててかぶりを振った。それでも結局涙は止まらなくて、次から次へぼろぼろとこぼれ落ちてくる。

 必死に前を向いて足を進めた。決断はもう下したんだから、二度とこの場所には戻れない。

 でもきっと、これで良かったんだろう。ここから先はまた戦いだ。あの魔術師を打ち倒して生き延びなくちゃならない。もう自分のことを考える時間なんだ。



 そうしてヘンリエッタが出て行った翌日、ウル湖周辺の村はあの魔術師の襲撃で壊滅した。

 家名をかけた湖という大事業が領内に病気を根付かせる原因になったことを恥としたラローシュ侯爵は、それを知る領民ごと証拠を隠滅しようとしたのだ。

 ヘンリエッタに恨みがあるように見せかけて村から遠ざけるのが魔術師の真の目的だった。魔女というイレギュラーがいなくなった村を蹂躙するのは赤子の手をひねるより簡単だっただろう。

「君はこの村を去ったときこいつらを失ったと思っただろうねぇ。けど本当の喪失ってのはこういうことなんだよ! こいつらのために最善の道を選び取った気でいたんじゃないのか? 別れの悲しみさえその誇らしさで抑え込んで。あはは、あはははは! サイッコーにお笑いじゃないか! これだから魔術師はやめられない! あとは魔女の首を先生に持って帰ってあげれば完璧だなぁ!」

 魔術師は異変に気づいて引き返してきたヘンリエッタの前にわざわざ姿を見せて勝ち誇った。

 村があった場所は燃えさかる瓦礫と血だまりと死体で埋め尽くされていたが、その中にキャスやコールやダニエルやルイばあさんが事切れて折り重なっているのは分かった。

 魔力暴走はヘンリエッタの視界が一瞬真っ白に飛んでいる間に起きて、終わった。

 荒れ狂った膨大な魔力の嵐の後には、激しく飛び散った血しぶきと千切れて見る影もなくなった魔術師の死体だけが残った。

 なにもかもが手遅れになってしまってから、ヘンリエッタは脳みそが焼き切れるような怒りと絶望の中でぼんやりと理解した。


 ――私は優しい人になんて一生なれない。甘い夢は、もうおしまいだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ