さよならは笑顔で
「その激痛な、いま君は自分の魔力暴走を自分自身に向けてるんだよ。表面上の態度はアレでも君は超越者にしちゃ内省的すぎる。だから当然、こうやって自己嫌悪や自己批判の感情が爆発すれば自分自身にさえ矛先を向けられちまう。もっと頭のネジがぶっ飛んでたほうがまだ生きやすかったのに、根っこの部分が常識的で理性的で庶民的なんだ。……ハイラント殿下やイースレイは真逆だと思ってるだろうけどな」
ヘンリエッタは強いヤツだって言ったしな、とレオナルドが平然と呟く。眼前で苦しむヘンリエッタの姿がまるで見えていないような態度だが、そういうわけじゃない。
そもそもこうなるようにレオナルドが仕組んだんだ。
こんなに辛いことの連続なのにどうして今回魔力が暴走しないのかを不思議がってた時点で思考が何段階も遅れてた。体調不良という予兆はもう起きていた。魔力暴走の矛先が自分自身に向いていたんだから、具合が悪くなって当然だ。レオナルドの言う自己嫌悪も自己批判もめちゃくちゃ心当たりがある。
……そう。五年も怯えさせて服従させて嫌われて、憎まれるとこまで来たか。
指先まで痛みの根が張っている。
一番強烈に痛む胸だけが温感になり、他はぜんぶ一滴残らず血を抜かれたように冷たく感じる。
ぐわんぐわんと視界が揺れて呼吸もままならず、頭痛がどんどん酷くなっていく。
でもおかげで気持ちよく気絶もできないから、後は気力と根性に物を言わせるしかない。こんなところでリタイアなんかできない。
ヘンリエッタの異変に気づいた園内の人々が怪訝そうに立ち止まる。頼むから遠巻きにしててほしいね、お互いのために。
「……っいつ、から……」
「……家が決行を決めたのは、最近」
レオナルドは企みをうまく運んだ側とは思えない苦い顔をした。
「アルトベリ家は前々から大魔女の……こういう言い方は良くないと思うけど、生態について、俺がメインで情報収集を進めてた。前に話したよな? 魔王は実在したのかもって。アルトベリ家は一族に伝わる魔王の伝承と君の特質を照らし合わせた結果、間違いなく君が魔王の再来だと結論づけた。となると、『護国卿』アルトベリとしてこの国の平和のために魔王を討たなくちゃならないが……」
レオナルドは苦悩と困惑を整った童顔に浮かべる。
「実はさらに始末に悪い真実が分かってきた。ヘンリエッタには遠く及ばないにしても、人間にしちゃ破格の魔力を持つ女王陛下の正体さ。君の言葉を借りると、先代までの魔王が君の旧型品なら、女王陛下は模造品に当たるんだ。しかも君の言う通り、素の陛下は精神的にかなり不安定でなにをしでかすか分かんねぇ危うさがあるだろ? 大魔女だけじゃなく、女王までもが本来盤面にあっちゃならない駒だったとなると……さすがに一族の中でも意見が割れてな。それがアイオン誘拐を試みるまでうだうだしてた理由だ。なのに、ろくに君の手札を切らせられないまま威力偵察目的だって読まれたときは一族みんなゾッとしたよ。王都の警戒も強まるし、作戦を練り直さなきゃならなくなった」
その間も延々地獄の責め苦を味わってるこっちの気分も知らないで、よくもまぁ喋ってくれるもんだ。
アイオンを誘拐した黒幕も、それを布石にしてとんでもない悪事を働こうとしている黒幕も、ハイラントによる貴賤結婚禁止法案の取りまとめに協力したのもアルトベリ家だったらしい。考えてみれば自分で推理してた条件に当てはまる筆頭なのに、友達の実家だからって信じるべきじゃなかった。……いや、向こうからしたら最初から友達じゃなかったのかも。
するとレオナルドは苦しげに眼を眇め、ヘンリエッタの内心を読んだように言う。
「……信じてもらえなくても仕方ねぇけど、ヘンリエッタのことを友達と思ってたのは本当だよ。俺から見ると君と俺はちょっと似てるところがあって、今までになく気が合ったんだ。……気持ちとしてはやりたくねーことでも、本当に必要なことならやれちまうとことか……ずっと一緒に仕事できたら良かった。ごめん、ヘンリエッタ。本当にごめん……」
ぜぇぜぇと喉が鳴る音が頭蓋骨の中で反響している。耳鳴りと合わさってものすごく耳障りだ。
痛みはより酷く広がるばかりで倒れないようにするのもやっとになってきた。これだけ長く魔力暴走が持続していること自体が、自分の心の中の成分をなにより克明に表している。見たくないこと、聞きたくないことばっかり。
「今なら大魔女にも魔術を掛けられる。――この国のために、俺たちと共犯になってくれ」
レオナルドがそう言った瞬間、彼の手元で光が炸裂した。
身体が操心術に似た魔術に絡め取られる。
「ぐ、ぅ……!!」
苦痛の天井がまだ上にあったなんて知りたくなかった。
来た道の向こうで夕焼けの赤と紫の境目から黒いなにかが這い出してきたと思うと、瞬く間に巨大な暗雲が王宮の真上にかたちを成していく。直感で分かった。……あれを作ってるのは私の魔力だ。私の魔力で編み上げた魔術で女王を殺す気なんだ。
私の魔力でなら、女王を殺せるから。
そうなったら、私はめでたくアルトベリ家と共謀して女王を弑逆した大罪人だ。
殿下を利用し、私に的確なショックを与えて自責思考による魔力暴走を起こさせ、魔術に対する抵抗力を一時的に失わせた上で無尽蔵の魔力リソースとして操る――確かにこれなら堅牢な王都の魔術防壁も障害にはならない。
焦って間違えちゃダメだ、ここでレオナルドをなんとかして殺したってアレは止まらない。ひとりが倒れたらストップするような簡単な仕掛けになってるはずがない。
たぶんアルトベリ家の全員がこの魔術の行使者だし、いちいち居所を探してる間に女王は死んでしまう。
殿下とアイちゃんのお母さんが、私の魔力で殺されてしまう。
「おとなしくしろっ!!」
するワケないでしょ。
ヘンリエッタは背後から伸びてきた腕をいなして抱え込み、相手の勢いを利用して投げ飛ばした。頭の中でヤバイところがぷつっと切れたような感覚がして、身体がバラバラになりそうな激痛が襲う。
アルトベリ家の魔術師のひとりが地面に転がったのを見てレオナルドが「た、体術からっきしってのもブラフかよ」と顎を落としている隙に、ヘンリエッタは痛みの余り手足がちぎれ飛ぶまぼろしを見ながら駆け出した。
体術の才能がなかったのは本当。不意打ちくらいでしか通らない一発限りの隠し球は今使い切った。レオナルドから得た情報の精査は後回しだ。当座の目的は、すぐそばの馬道を歩いているお上品なお馬さんだった。
◆
突然王宮の直上に現れた黒い魔力の渦に王都の人々は怯えきり、次々と外へ出てきては心配そうに空を見上げている。
剣術大会当日でお祭り気分だったとはいえ調練期間中だし、兵士や騎士たちが装備を調えて住民を誘導し始めるまであまり時間は掛からなかった。
訓練じゃなく本当の非常事態に直面し、現実逃避と恐怖が広まりつつある街をヘンリエッタはパクった馬に乗って駆け抜ける。
激痛でほとんど鞍にへばりつくようにしながら最短ルートで王宮へ。
当たり前ながら王宮はとっくに厳戒態勢に入っていて、ヘンリエッタが来たときには跳ね橋が上げられる直前だった。
「待ってっ!! 上げないで!!」
衛兵がぎょっとしてこっちを見た一瞬でどうにか橋を渡りきった。
興奮状態の馬は、うわっと驚いて飛び退った衛兵を蹴散らす勢いで通用門の前をぐるぐる回る。
侵入者を察知し、配備されていたマリオネットたちが一斉にこっちへ殺到しかけたが、衛兵が「あれあんた、ヘンリエッタ・ブラウトか?」と目を丸くするとぴたりと動きを止めた。
「な、なんで馬なんか乗ってんだ? ワイヤード宮廷魔術師団長があんたを捜してたぞ!」
「……団長、が……?」
ヘンリエッタはようやく落ち着いた馬からぐにゃりとずり落ちるように降り、そのまま膝を折りかけてから必死で立ち上がった。
改めて地面を踏みしめたとたん目の前が白むくらいの激痛がまた走ったが、たたらを踏んで声を絞り出す。
「……も、もう、陛下は、逃げた……!?」
「い、いやまだだ、あの空の魔術は成長を続ければ王都丸ごと吹き飛ばすような規模になるから、今ここで陛下と宮廷魔術師団が対処するって……術者も特定できてないから、それしか手がないって……」
王都丸ごとどころか国全土が焦土と化す瀬戸際だなんて真相は知らない衛兵は、脂汗をかきながら説明する。
それでも彼の表情にはどこか楽観的な色があるのは、女王陛下と大魔女が揃えばその辺の魔術師が編んだ攻撃魔術なんかどうにでもなるって安心感のせいだろう。
「……了解、通して。陛下のとこに、行く……」
「あ、ああ、でも……あんた具合が悪いみたいだが、その、王都は……大丈夫なんだよな?」
ふらふらしているヘンリエッタを見て一抹の不安を覚えたらしい衛兵が、イエスだけを求めて確認してくる。
ヘンリエッタは「もちろん」とかろうじて言ってふたたび走り出した。
女王と魔術師団は屋上庭園に集結していた。
近くなった空には王宮を覆い尽くしそうなサイズにまで育った暗雲が渦巻いていて、まるでそれが夕焼けを吸い取って夜を吐き出しているように見える。
女王たちは頭上の闇に今にも押しつぶされそうになりながら美しい庭のど真ん中に魔法陣を描き、すでにこのままじゃ負け戦だと悟って決死の顔つきでどう対処すれば助かるか議論しているみたいだ。
ヘンリエッタはもう息も絶え絶えで、声も出せない状態で重い足を引きずり、その輪へ近づいていこうとした。
多少距離があっても声が出せればすぐにでも情報を共有して、あの魔術は自分が相殺するから全員避難するように頼めるけれど、どうやっても今は無理だ。
一歩一歩、か細い声でも聞こえる距離まで歩いて行くしかない。
遠くからじりじりと歩み寄ってくるヘンリエッタに誰かひとりでも気づいてくれればいいのに、この緊迫した状況で作戦会議の真っただ中じゃそうもいかなかった。
莫大な魔力の暗雲が断続的に発する赤い雷光のほかには魔術師団が携えている松明だけが光源の庭は暗く、完全に感覚が麻痺した足では地面がちゃんとそこにあるのかも曖昧だ。馬に乗ったとき圧迫してしまった胸は痛いを通り越して燃えるように熱い。
意識がもうろうとする。頭の中にどうでもいい考えごとも増やしておかないと。もううんざり、いつまでこんな痛いの我慢しなきゃいけないの? さっさと解決して事情を説明してゆっくり休みたい、無職無報酬のあげくここまで痛い思いして謀反人扱いとかあり得ないでしょ……絶対回避してやる……絶対……。
永遠に縮まらないように感じるこの取るに足らない距離を、闇に紛れながら進んでいく。
……いや、こんな亀の歩みでゴールを目指すより、やっぱり声を出す努力を優先したほうが最短ルートかも。
とにかく全員ここから避難させて、私ひとりが残ればいいんだから。私ならこの場でもそれくらいの横車は押せるはずだ。
よし、と引きつった呼吸を繰り返す喉に手を当て、ちゃんとそこに喉があったことに驚いた。良かったまだついてる。血管がぴんと張ったロープに置き換わったみたいな感覚で、それが呼吸の振動を少しでも受けると痛みを訴えるからやってられないけど。
ちょっとだけ、声を出すために必要なぶんだけちょっと休憩。
足を止めて、痛みを噛み殺しながら浅く短い呼吸を少しずつ、慎重に、深く長くしていく。発声するにはまず肺に酸素が残ってなさ過ぎる。
少しずつ、少しずつ。
大丈夫、コツ掴めてきたし時間はかからない。
もうちょっと、と思ったときだった。
「母上!!!!」
絶叫だった。
ヘンリエッタが硬直すると同時に呼ばれた女王がはっとこっちを向いた。正確には、ヘンリエッタの背後にいる叫び声の主のほうを見た。
「離れてっ!! 逃げて下さい!!」
「……っ、」
誰の声かはヘンリエッタもすぐ分かった。
ハイラントだ。
女王を心配して駆けつけてきたんだろう。なんかいろいろ複雑な気もするけど、私が必死で言おうとしてたことを代わりに言ってくれるとはさすがだね。そうそう、なにもしなくていいからみんなに早く逃げてほしいんだよ。
自分が言うまでもなくなったことに心底ほっとして、ヘンリエッタは痛みを避けようとするぎこちない動きで背後を振り返った。
庭園の入り口には松明を持ったハイラントと、その少し後ろにアイオンがいた。ふたりとも息を切らしている。
ハイラントの顔色は紙のように真っ白で、矢でも射かけるようにぎりぎりとヘンリエッタを睨み付けている。――私を? え、なんで?
「分かっているでしょう、あの空の魔術を構成しているのはヘンリエッタの魔力です!!」
ハイラントはなりふり構わず烈火のように吼える。
「逃げて母上!!
「――――彼女は母上を殺そうとしてるんだ……っ!!」
絶壁に追い詰められた鹿のように震えながら金切り声を上げた兄を、アイオンが信じられないものを見る目で鋭く振り返った。
「……………………」
ヘンリエッタはもはや錯乱寸前のハイラントを黙って見返していた。
指先が考えるより先に反応してぴくりと動き、彼のほうへ伸びようとしたが、結局やめた。
腰の横にその手をだらりとぶら下げた、次の瞬間、なぜか手の中に硬質な感触と重みが生まれて驚く。
いつの間にか、持ち手が象牙で出来たペーパーナイフを握っている。
追慕の森で回収してからずっと魔力を鎮めるために持ち歩いていた、あの曰く付きのナイフだ。
そのことに思い至ると同時に頭上の暗雲がなにかの限界を超えたように輪郭を失った。ヘンリエッタから吸い上げられた膨大な魔力はもう雲や渦という形を保っていられず、液体がぶちまけられたように頭上に広がる夜空をもっとどす黒い闇に上書きしていく。
魔力の圧だけで宮廷魔術師たちが弱い者からばたばたと意識を失ってその場に倒れ、空間のあちこちで赤い火花がバチバチと鳴る。
――最短ルート…………最短ルートか。
一度だけ女王を見る。ハイラントの懸命な訴えを受けて大急ぎで動き出すでもなく、なぜか呆然とこっちを凝視している。
この国の女王。私の模造品? ……ハイラントの、アイオンのお母さん。
家族というアイオンが捨てようとした夢を、あの夜勝手に拾ったのは私だ。最低限女王は助けられなくちゃ大魔女の名折れよね。
だから死なせない。
私がこうすることはレオナルドでも予想できないはずだ。
視線を戻して、ハイラントじゃなくアイオンを見た。完全に冷静さを喪っているハイラントなんかより、冷静なまま必死に思考を巡らせてひとつの結論にたどり着こうとしている彼の顔を見ればびっくりするくらい自然に微笑むことが出来た。
アイオンは紫色の目を見開いて、なにかを察知したように慌てて口を開こうとしている。悪いけど声を聞くと気が変わっちゃいそうだから無視しよう。
「……ごめんねアイちゃん。私のために怒ってくれて、ありがとう」
さんざん準備した喉でそれだけ言い残して、そこに当てたナイフを思い切り横に引く。
ヘンリエッタ、とアイオンが弾かれたように呼ぶ声があっという間に遠のいて意識が途切れる。
暗転の瞬間、暗がりからこっちを哀しげに見つめているアイオンにそっくりな男――亡きアルフレド王配殿下の姿が、かすかに見えた気がした。




