剣術大会
「てなわけでご報告、ダメでした~」
「「…………」」
翌朝、食堂にやって来るなりそう報告したヘンリエッタにイースレイとレオナルドはとっさにどうしたものか分からないと言うように揃って絶句した。お互い示し合わせて適切な態度を決める暇さえなかった。
「もうねぇ、こてんぱんに振られた! ウェディングドレスまで燃やされちゃったし、婚約破棄と同時に趣味のレース編みも卒業だね。また後で公式に発表されると思うけど今からもう気分最悪だよ! はぁ、別の幸せ探さないとな~」
ドレスのくだりを聞いたイースレイたちはえっとこぼれ落ちんばかりに目を見開いた。燃やされた? 燃やされたって言ったか今?
ヘンリエッタは泣き明かして赤くなった目もとを誤魔化そうともせず、ただ開き直ったようにへらへら笑いながら、
「さすがに今日は無理だったけど明日にはもう持ち越さないからさ、みんなも変に気遣わないで……ってあれ、アイちゃんは? まだ起きてきてないの?」
「ま、待て待て待て」
一回待て、とイースレイは慌ててヘンリエッタを片手で制した。
彼女が場の空気に配慮してわざとあけっぴろげな語り口を選んだことは明らかだ。なにかお愛想になりそうな言葉を探したが見つからず、しどろもどろで、
「あーその、婚約破棄……に、なったんだな? 昨夜王太子殿下と話し合ってそう決まったのか? 本決まりなのか?」
「うんそう、本決まり本決まり~」
あっはっはとヘンリエッタが乾いた笑い声を上げるが、イースレイはちっとも笑えなかった。
まずあの完全無欠の王太子殿下が激昂してウェディングドレスを目の前で燃やすなどあまりに信じがたいし、ヘンリエッタが今までの猪突猛進っぷりをすっかり引っ込めてこの結末を受け入れようとしていることにも凄まじい違和感がある。姿形だけ似せた人形が劇を演じているみたいだ。……そうだ、常のヘンリエッタならこういうとき……。
「……そうか。またなにか企んでるんだろう? 君のことだ、ここからまだひっくり返せる手が……」
「おいイースレイ」と横合いからレオナルドに短く注意され、イースレイは一拍遅れてはっと焦った。つい彼女の傷口に塩を塗るようなことを言ってしまった。
だがイースレイの懸念に反して、ヘンリエッタは相変わらず落ち着いた様子で魔力暴走の兆しすらない。肩の力が抜けたように苦笑をこぼし、
「なーんも考えてないよ。だってあの殿下がさぁ、私のこと怖いって言うんだもん」
「怖い!?」
ここに引っかかりを見せたのはレオナルドだ。
「殿下がそんなこと言ったのか?」
レオナルドはヘンリエッタとハイラントの共通の友人だから、両者の人となりをよく理解しているという自負があるだけに衝撃的だったんだろう。ウェディングドレスを燃やしたと聞いた段階ではまだヘンリエッタの気持ちに配慮していたが、もう動揺を隠せなくなってきたようだ。
「いやぁ驚くよね、ホントは怖かったのに五年も私のそばで我慢してたって言うんだから! どこで根性発揮してんだって話だよ。そんなこと告白されちゃったら粘る気も失せるっての」
「「……」」
いよいよかける言葉も見つからず、イースレイとレオナルドは石を呑んだように固まった。
結果としてはヘンリエッタが失恋する側になったが、それにしたってあれだけ思い入れを見せていたドレスを燃やされ、本当は最初から恐怖で従わされていただけだったと告白されるのはいくらなんでもハードすぎる。恋愛の機微に縁遠いイースレイでも分かる、とてもじゃないがヤケ酒一本ぽんと出して流せるレベルの話じゃなくなってしまった。
しかしハイラントはそんな手ひどい拒絶をしたらまたヘンリエッタの魔力暴走を食らうかもしれないと危惧しなかったんだろうか……いや。その恐怖もあったからこそ、長年の鬱憤がとうとう爆発したのかもしれない。
ヘンリエッタは困り果てているふたりを見て困ったように微笑み、手をひらひらさせて軽い調子で言う。
「……ま、思えばさんざん周りをビビらせてきたツケが回ってきただけっていうかー? 実際私みんなが思うほどにはダメージ食らってないから安心してよ。魔力暴走起きてないでしょ?」
あっけらかんと、まるでこっちをフォローするかのような言い草にイースレイは純粋に戸惑った。なにを言ってるんだと眉間に皺を寄せ、
「? だから……? 暴走しなかったのは確かに偉いが……」
「褒めてほしがってるんじゃないってば!」
ヘンリエッタはイースレイのとんちんかんさにぷりぷり怒り、
「別に底の底までは悲しんでも落ち込んでもないって証拠だから! レオはともかくイースレイまで柄にもなく気なんか遣わないでよね! そっちのがよっぽど惨めな気分になるじゃん!」
「なんで俺に気遣われると惨めになるんだ」
反射的に食ってかかるとヘンリエッタは「なんでもなにもないけどぉ?」とぬけぬけと返してくる。
「おーおー喧嘩すんな喧嘩すんなー、そんな場合じゃねぇんだからー」
言い合いになりかけたふたりの間にレオナルドが割って入る。
「あのなヘンリエッタ、さっきから無理して茶化すなよ。目真っ赤になるまで泣いた翌日くらいおとなしく凹んでてもバチ当たらないぜ?」
「おとなしくしてるよ。もともと謹慎中だし、このあともこっそり部屋に戻るつもりだし」
「そういうことじゃなくてさぁ~……」
この期に及んで人を食ったような返しをするヘンリエッタにレオナルドがほとほと困り果てた様子で溜め息をついたとき、「あ! 見つけた、みなさん!」と太い声がかかった。
見ればドラクマンが息を乱してこっちにやってくるところだ。なんだろうこの急ぎよう、誰かに仕事上の連絡か?
「おはようございます支部長、どうかしました?」
謹慎中のところを抜け出してきているくせに悪びれもせずヘンリエッタが訊く。
ドラクマンは彼女がこの場にいることに対してか、持ち込んだなにかの報せに対してか分からない混乱を目に浮かべて言う。
「さ、先ほど確認したら、どうも剣術大会にアイオン殿下がエントリーなさってるみたいなんですが……」
「「「えっ?」」」
◆
アイオンが頑なに大会参加を拒否していたことを知っている三人は仰天して食堂を飛び出し、演武場へ全力疾走した。なんでこの三人で俺がちょっと遅れ気味なんだ、前から思っていたがこの魔女足だけは速いなとイースレイは内心不服に思ったが、目下の確認事項が別にある今口には出さない。
王宮に立ち入ることの出来る身分のご婦人から子どもまでもがこぞって詰めかけたせいで、演武場にはすでにずらりと人垣ができている。
大海原を泳ぐような苦労をしてどうにか前のほうへたどり着くと、三人は目を皿にして場内にアイオンの姿を捜した。
間もなくヘンリエッタが「いた! あそこ!」と声を上げた。彼女が指さす先を見れば、周囲に驚きと奇異の目で見られながらアイオンが参加者の一団の末尾に立っている。うつむき加減で自分の手首の動きを確かめている彼は他人の目などいっさい意識に入れていない様子で、イースレイたちが大声で呼んだとしても顔を上げさえしないと思われた。
「ほ、本当に出場するっぽいね……。急にどうしたのかな? やる気になってくれたのは良いことだけど、女王に楯突いた矢先に目立つことはしないと思ってたのに……」
いつもはアイオンが積極性を見せると我が事のように大喜びして褒めそやすヘンリエッタも今は不可解そうにしている。確かに、女王とヘンリエッタの仲裁に入って身を危うくしたばかりだってことを考慮に入れないような能天気な男ではないし。
「イースレイはなにか聞いてるか?」
「いや、俺はなにも……」
レオナルドに訊かれ、イースレイは漠然とした不安を抱えながら首を横に振った。つまりアイオンは事前に誰にも相談したりせず、自分だけで出場を決めたということだ。基本ものぐさで家族関係には特に及び腰な彼が、なぜまたそんな真似をしたんだろう。
誰もアイオンの心変わりの理由を推理できないまま観客はその後もどんどん増え続け、やがて楽隊が演武場の中央に陣形を組んで開会の調べを奏でだした。
近衛兵が演武場の両翼から旗と槍を掲げながら美しい行進を見せ、穂先が陽光を受けてきらめく。
展望台の玉座から女王陛下が返礼を返せば兵士たちはますます意気を上げ、重そうな旗を寒風に波打たせた。
セレモニーが終わると、女王の隣に控えていたハイラントが熱烈な声援を受けながら演武場へ下りてきた。やはり出場するらしい。もしかしなくてもこのままいけばアイオンはハイラントと直截対決することになるだろう。
無駄に苛烈な振り方をしたハイラントも素直に諦めるヘンリエッタも兄と対決しようとするアイオンも、なぜかここに来てみんながみんな「らしくない」ことをし始めている……。
結論からいえば大会はハイラントとアイオンの独壇場となった。
観衆は期待を裏切らないハイラントの強さに湧き、予想外のアイオンの快進撃には地面に振動が伝わるほどどよめいた。
そもそもアイオンの容貌をろくに認知していなかった者は「えっあれがアイオン殿下!?」と目を丸くし、非才と侮っていた者は「あ、あれほどの腕だとは……」と舌を巻き、近頃の評判を多少聞いていた者は「確かに少し前から南部でのご活躍は噂になってたよな」と知ったような顔をした。近くで観戦していた、おそらく傭兵だろう集団だけが「やっぱ『本物』だったかァ王子様……」「今日はなんか気迫がちげぇぜ……」などと腕組みしながらしみじみしていたが、アレはいったいなんなんだ。
ちらと横目でヘンリエッタを見ると、いまいち事態をのみ込めない様子ではらはらと両手を胸の前で握り合わせている。
今は静かに見守っているが、アイオンの初戦でいきなり「がっ、がんばれアイちゃーん!」と大声を張ろうとするもんだから、イースレイが大慌てで止める羽目になった。「自分が謹慎中ってこと忘れたのか!?」と叱られて我に返った彼女は、そうだろうとは思っていたがおとなしく部屋に戻るという選択肢はとっくに頭から消え去っているようだ。
「…………なんか今日アイちゃん……容赦ない? よね?」
ふと、自分の目を一応疑ってみるような声音でヘンリエッタがイースレイとレオナルドを振り仰いだ。
「……そんな気もするな」
イースレイはレオナルドと顔を見合わせて呟く。
傭兵たちやヘンリエッタの言う通り、今日のアイオンの立ち回りはこれまでにないほど無駄がなく圧倒的だ。
女王と兄の目だけでなく、周囲や相手のメンツを気にする素振りもないし、面倒くさがりな性格から来る緩慢さ・手加減の類いが全くない。すべての対戦相手をほぼ初動でノックアウトして爆速で勝ち上がっていく姿は効率を極めているようにさえ見える。
それでも観衆は、
「まぁ、殿下には勝てんさ」
と当たり前のように言い合っている。こうして目を瞠る頑張りを見せても、すぐに現実を思い知らされる第二王子を心から憐れむように。
そうしてハイラントもアイオンも無敗のまま駆け抜け、ついに決勝の舞台には兄弟だけが残った。
その頃には、誰も予想していなかったこの決勝の対戦カードに群衆が奇妙に剣呑な空気を発しだしていた。
玉座からは相変わらず女王陛下の刺すような視線が降り、その機嫌をうかがうように誰からともなく息を殺していく。
「…………」
イースレイたちも、もう固唾を呑む以外にできることがなかった。
アイオンはいざ兄に剣の切っ先を向けられても特段動揺などはしていないように見えた。ふたりとも完璧に平静を保っている。イースレイにはもうとっくにどちらの内心も想像できる範囲にない。なんでこんなことになってるんだ、本当に意味が分からない。
無数の人々の呼吸が次第に合わさっていくように、時折ざわめきが伝わっては静まるのを数度繰り返した後、無言のまま対峙するハイラントとアイオンを前にして危うい均衡はピークに達した。
「――始め!!」
審判が手を振り下ろした瞬間、群衆の熱狂が破裂した。
轟音に等しい歓声が割れんばかりに地面を揺らし、いったい誰が誰の名を呼んで応援なりヤジなりを飛ばしているのかも聞き分けられない。
無数の人間の感情が前でも後ろでも横でも爆発し、一瞬自分の身体が浮いたか体重が消え失せたかという錯覚に陥る。
アイオンとハイラントは一合、二合、三合と打ち合い、その度に観衆が狂ったように湧いたが、互角の勝負に見えたのはそのわずかな時間だけだった。
あっという間だ。
アイオンは今まで兄に対して見せていた劣等感や遠慮が嘘のように、鋭い一太刀を剛力で振り抜いた。
観衆はこの一瞬ではなにが起こったのかも分からず、どっちつかずな大声を惰性で上げていた。
弾き飛ばされるのを通り越して砕け折れた剣が高く宙を舞い、ハイラントが腰を抜かして尻から転ぶ。白い服が土で汚れた。
「謝れよ」
アイオンは転倒した兄にさらに詰め寄って出し抜けにそう言った。
「あのバカになにしたか言ってみろクソ野郎。なあ? あの黒焦げの布はなんだ?」
ざわめきが消え失せた演武場にアイオンの地を這うような声が響く。
ここに来て、あぁコイツ最初からずっとキレてたのかとイースレイは他人事のように悟った。
アイオンの言う「あのバカ」に該当する人物なんかこの世にひとりきりしかいない。
彼は兄がヘンリエッタになにをしたのかすでに知っていた。勝利や栄誉のための挑戦ではなく、兄に直接問い詰めるためだけにこの舞台へ登ってきたのだ。
アイオンは怒気だけで人々を凍り付かせながら、呆然として答えないハイラントの胸ぐらを掴み上げた。
「謝れっつってんだよ!!!!」
「アイオン!!」
硬直している群衆のうち唯一動けたのはヘンリエッタだった。
矢のように飛び出して今にも拳を振るおうとしたアイオンの腕を「やめて!!」と懸命に引く。彼は彼女に対しても獰猛に唸り、
「すっこんでろ!!」
「どうしたの!? ここまですること……やめてよ、止まって!!」
普段怒鳴ることすらない男の剣幕に、ヘンリエッタは昨夜の涙の名残を残したままの顔を青ざめさせて無我夢中で叫んだ。
アイオンは彼女の顔を見て一瞬息を呑んだがまた声を荒げ、
「お前もなんでコイツを庇うんだ!!」
「……好きだからだよ!!!!」
そう叫んだ直後、自分で自分に驚いたようにヘンリエッタの表情が絶望に染まった。彼女の答えを聞いたほうのアイオンもそれは同じだった。
「…………い、いいんだよ……、私たちの、問題なんだから……」
謝られるようなことはされてない。
ヘンリエッタが震える声で言うと、ハイラントの胸ぐらを掴んでいたアイオンの手が緩んだ。
ずるりとハイラントの身体が落ちる。他の人々と同じく、彼は未だに唖然としていて思考がまとまらない様子だった。
見たことのない怒りに燃えていたアイオンの目から静かに力が消えていく。
がらんと足元に剣を放り出し、なにもかもに興味をなくしたように背を向ける。
「――勝手にしろ」
ヘンリエッタの手を振り払ったアイオンはそう吐き捨てて演武場を出て行った。その間、場にはしわぶきひとつ上がらない静けさが満ちていた。




