女王の訪問を邪魔しよう
うぅ、さすがに夜中の廊下は寒いな~。
手慰みにレースを編む手がかじかんでくる。
城の心臓部に当たる国王と王配の居室部分から、国の発展に従って増築された客室部分に渡るには大階段を降りてこの長い回廊を通過してくる必要がある。
そもそも王子様が王宮に来て客室を宛がわれるってこと自体おかしいんだけど、今ばっかりは良かったかもしれない。王子様の居室前で張り込んでたらさすがに衛兵にバレてつまみ出されてたところ、この廊下で待ち伏せてる分にはそんな羽目にはならないもの。
いまだに公式には職分ナシの身だっていうのに、今日も魔術師団の訓練に引っ張り出されて王宮に帰ってこられたのは夜八時前。
へろへろになってレオナルドと食堂で夕ご飯を食べていたらギャレイ宮廷伯が私を捜しに来て、「ハイラント殿下が明後日の夜なら面会に応じると仰せです」と報せに来てくれた。いやもう、最っっ高! これを待ってたのよ!
レオナルドがお祝いに自分の分のデザートをくれて、食堂の片隅でヘンリエッタは有頂天になった。こうなると急に明後日までの時間の流れが遅く感じるけど、殿下と会えるならそれくらいの我慢なんてことない。
男子三日会わざれば、ってアレが現実よくあることだってアイオンで分かったし、もしかして殿下も久しぶりに会ったらなんかすごく成長してたりするかも!
でもひとしきり大喜びしたあと、はっと気づいた。
いけないいけない、殿下と自分のことだけ考えちゃいられない。どうしても日中は離れることになっちゃうからアイオンの無事を確かめておかなくちゃ。
この間誘拐されたばかりで今もまだ狙われ続けているかもしれない彼の様子を訊いてみると、ギャレイははぐらかしたりせずにこう答えた。
「それでしたらご心配には及びません。アイオン殿下は今日もご無事ですよ。王宮は何事もなく平和そのものでした」
「王宮『は』?」
その助詞の使い方がふと引っかかり、重ねて訊くとギャレイがわずかに眉を寄せ、
「実は本日より調練終了まで、陛下が夕食はアイオン殿下と三人で取ると仰せでしてね。先ほど会食が終わりましたが、アイオン殿下は家族と食後の会話を楽しむことはお選びにならず、すぐ自室に戻られました」
「……」
ヘンリエッタは大きな灰色の目を細めた。即位記念日に女王と会ってきたときの、無感情を装いきれず暗く翳ったアイオンの目つきを思い出す。お選びにならなかった? 選べなかったの間違いよ。
「陛下がなにか言ったんですね?」
ギャレイは顎を引くようにして頷いた。
「殿下がどこまで真に受けたものか私には判じられませんが……陛下はアイオン殿下が訓練に消極的なことを指摘して、『呼ぶも呼ばぬもいるもいないも同じ』だと」
「……へぇ」
普通に聞けば「幻滅したのでもうこんな風にそばへ呼んだりしませんよ」という宣言に聞こえるその言葉を、ヘンリエッタはそう取らなかった。
いつだったか女王はずっと不安定だと言ったらレオナルドに慌てて止められたことがあったけど、正直今でもその見解は変わらない。バルコニーでの挨拶でアイオンのことを当てこすったことといい、この一連の言動が不安定じゃなくてなんなんだ?
――女王は絶対にまた自分からアイオンに関わろうとしてくる。
そう確信したヘンリエッタは、その晩さっそく自分の予想が現実になるか確かめることにした。
回廊の柱にもたれ、その陰に隠れるようにして耳を澄ましていると、案の定、やがて大理石の床を踏む硬い足音が遠くから近づいてきた。夕食の席で突き放しといて夜中には自分からお出ましとは、思ったより早いじゃない。
「……誰だ?」
ヘンリエッタの気配に気づいたメレアスタ女王が警戒しつつ立ち止まり、先手を打って誰何してきた。
レース編みの道具を仕舞い、もったいぶらずに柱の陰から出る。
「……ヘンリエッタ・ブラウト……」
「こんばんは陛下。お久しぶりですね!」
ヘンリエッタの姿を認めると女王は驚きに目を瞠ったが、すぐ常の冷徹さを取り戻した。澄まして立つその姿はこの冬の夜の三日月のように冴え冴えとしている。
「なぜそなたがこのような場所にいる?」
ヘンリエッタはにこやかに答える。
「もちろん、あなたを追い返すために寒い中待ってたんですよ」
「……なに?」
女王は明確に不快を示し、ヘンリエッタはそれを真っ向から受けて立った。回廊に冷気が漂い、外を吹いていた微風が息を呑むようにぴたりと止まる。
「今日から夕食の席にアイオンを呼ぶことにしたって小耳に挟んで、ならそれ以外にもあなたのほうから彼に接触を図るとしても不思議じゃないなって思ったんですよねー。こんなに早く心配が的中するとは思いませんでしたけど、やっぱ早めに動くに越したことないですね」
怯みもせずへらへらと話すヘンリエッタに、女王は苛立ちをあらわにする。
「よもや私に、息子をおとなうなら貴様に許可を取れとでも申すのか?」
「そんなことは言ってませんよ。せめて今日一日でこんなに畳みかけてこないでくれれば私だって過干渉かなーって考えましたし」
「貴様……何様のつもりだ?」
女王の金色の目が剣呑に光る。
「目こぼししてやっていれば……この国の王たる私に楯突くか、魔女よ。王冠の重さも知らぬ平民が大層な口を利く……」
どうしてお前がそんなことを言うんだ、と地団駄を踏む少女みたいに凄まれたところで折れたりなんかしてやらない。女王がご立腹だっていうならこっちだって怒ってる。そして怒りに任せて実際に事を構えるなら、相応の覚悟を決めて我を通すことに全てを賭けなくちゃいけないのだ。
「王の顔のまま息子に会いに来たんですかお母さん? ここであなたを阻むためなら、私はどっかの神話の旧型品みたいに魔王を名乗ったって構わない。王と話せるのは王だけだって言うならね」
女王はヘンリエッタの本気の屁理屈を冷笑ひとつで切って捨てた。
「一時のくだらん怒りで本願をも忘れ去る愚か者め。ハイラントのことはどうすると言うのだ?」
「肩書きが変わるくらいでなにも変わりませんよ、求め続けます。今夜あなたにこれ以上アイオンを傷つけさせないように動くことも、殿下を求めることも、私の幸せには必要なことですもの」
「戯れ言を……!」
相対した女王の細い身体から、国中に配備したマリオネットを常時稼働させられるほどの魔力が白く輝きながら噴き上がる。空気がぴしぴしとひび割れては震え警告を発してくるけれど、絶対に退かない。自分の身の安全にしろハイラントのことにしろ、途中で損得勘定を優先するような負け犬根性があったら初めから挑みかかったりしていない。
「ふざけてるのはそっちでしょ?」
ヘンリエッタは怒りの裏返しの笑みを浮かべたまま挑発的に言う。
「他の誰も言えないみたいだから言ってあげますよ! 陛下、あなたの態度はまともじゃない! 他にどんな素養が欠けていようが、力のある人が正気でいてくれるだけで周りはだいたい平和にやっていけるものよ。なのに一番身近な家族の心を十年以上もいたずらに踏み荒らしといて、女王陛下がどれほどのものだって言うんですか!!」
「…………っ! 貴様っ!!」
「やめろ!!」
もはや激突は避けられないだろうというとき、飛び込むようにヘンリエッタと女王の間に割って入ってきた影があった。
「……え、あ、アイちゃ……!?」
閉じこもっていた自室を出て血相を変えて躍り込んできたアイオンは、母親のほうへ近寄るかと思いきやヘンリエッタの肩を押し、自分の背に隠すようにして立った。
ヤバイこっちで片を付けるはずだったのに嫁姑(予定)マジバトル見られた!! と一拍遅れて悟り、決戦モードを萎れさせてわたわたするヘンリエッタを視線で振り返って「下がれ」と低く命じる。
「で、でも今ね、ちょっと大事なとこだから外してほし……」
「黙ってろ」
なにを言われても譲る気はないと言わんばかりの強い語気に、ヘンリエッタも怒りの出鼻をくじかれて困惑する。
アイオンは視線を前方に戻し、躊躇なく敵意を込めた目でぎりぎりと女王を睨み据えた。
とっくに自分を超えている息子の長身から睥睨された母親は、ここに来て初めて大きな動揺を見せた。ヘンリエッタが引き出したような苛立ちや怒りとは別種の、なにかしら自分に引け目があるときの頼りなさを伴う動揺だ。ヘンリエッタはその反応に驚いて二の句が継げなくなる。この人がこんな顔するなんて。
「……こいつはな、変わり者が過ぎて俺より俺のことで怒るんだ」
初めての反応を見せているのはアイオンも同じだった。狼かヒョウが怒りにたぎり唸り声を出すようにドスの利いた声で言う。
「だからなにが起こってこんな状況になってんのかくらい見りゃ分かんだよ。……手は出させねぇ。お望み通り、この場であんたに力を見せてやるよ」
「!? ちょっ……!」
「……、……」
アイオンが脅しでもなんでもなく真剣に攻撃の意志を表したことに、女王は虚を衝かれたように息を震わせた。
アイオンの手は青ざめて食ってかかろうとするヘンリエッタを押しとどめ、視線は女王に狙いを定めている。
数秒の膠着があったあと、なにを思ったか女王が不意に身を翻した。
固く唇を引き結び無言で回廊を引き返していく。
自分の危機でなくアイオンのとんでもない発言に震え上がっていたヘンリエッタは、その姿が見えなくなった瞬間に彼の胸元を両手で掴んだ。くっ、体幹すら全然揺さぶれない。
「な、に、やってんの!? いきなり出てきて!」
「どっちが。人間びっくり箱に言われたかねーよ」
まだ怒りを引きずったままアイオンは不機嫌に言い返す。
「怪我は?」
「この通りピンピンしてるよ、なんにも始まらないで終わったんだから!」
「居眠りしてたら廊下で言い争う声がしたもんで飛び起きたわ。お前あの状況からどう収拾付けるつもりだったんだ。なんなら今この瞬間も処刑予備軍だぞ」
「ちゃんと考えがあったの!」
「考えがあるヤツはやっと希望が見えてきた兄貴との関係が台無しになるの覚悟で女王に喧嘩売らねぇっつってんだよ、バカ。どうせギャレイ辺りから女王の言動を聞き出しでもしたんだろ」
「……そうだけどぉ!」
いきさつを完璧に推理されてヘンリエッタはムッとしたが、それもそこそこにしょんぼりと肩を落とし、
「ていうかそれより私は……アイちゃんが陛下に認められたと思ってはしゃいでたのが申し訳ないよ。君がずっと微妙なリアクションしてたのは気づいてたのに、ごめん」
「はぁ?」
アイオンが心外そうに頓狂な声を上げ、「なんでお前が謝る。ありゃ俺が隠してたんだよ」とつっけんどんに言う。これ以上この話題を引っ張らないよう牽制するような口調に、ヘンリエッタは仕方なくもごもごと反論を呑み込む。
「なぁもしかして、ギャレイに聞いた話だけでまた女王が俺に構おうとしてくると読めたのか?」
話題を変えがてらアイオンは怪訝そうに訊いてくる。
「女王がどんな思考からこういう行動に出てんのか、お前は分かってるってのか?」
ヘンリエッタは首を横に振り、
「残念ながら私も解読できてないよ。今回のはほとんど勘かな」
「勘がきっかけで女王対大魔女なんつー対戦カードが勃発したんじゃたまらねぇんだが。っとに行動力ぶっ壊れてんなお前」
アイオンは呆れた調子でありながら、なぜか痛みをこらえるように眉間に皺を寄せ、彼のほうがよほど途方に暮れている声音で言う。
「……兄貴との婚約に影響が出たらまずいって普通は思いとどまるだろうが。お前が女王を素通ししようが俺がつまんねぇ気分になる回数が一回増えるだけのことで、ほぼ誤差みてぇなもんだろ。天秤が釣り合ってねぇ。こっちのことはほっといてルンルン気分でいりゃいいものを、なんでわざわざ火の粉をかぶりに来るかね」
ふん、そんなのハナから承知の上でやってるんだもん。正論ぶつけられても別に痛いところを突かれた気分にはならない。
「そんなみみっちい計算要らないわよ。普通どっちかしか取れないところをどっちも取るから私は大魔女なんだよ?」
えっへんと胸を張ると、アイオンはめんどくさそうにこっちを見て凝った肩を鳴らした。
「……そのお前だってさっきのは命がけも同然だったろ、自由自在に魔術が使えるわけでもねーんだからよ。それでよくみみっちい計算とか言えたもんだ」
アイオンが自室へ戻らずふらりと内庭へ出て行くので、ヘンリエッタもなんとなくその後についていく。
◆
客室前のこの内庭は王宮の中心部分のそれらに比べると小さく、毎朝管理人を兼ねている魔術師が温度を調節しているため、吹き抜けになっているにも関わらず温室のように暖かくて霜も下りない。一面に咲き乱れている薄水色の花は冬でも美しく健康だった。
「明後日兄貴に会えるんだってな」
「! うん!」
出し抜けに言われ、ヘンリエッタはぱっと顔を輝かせて大きく頷いた。そのこともう知ってたんだ。アイオンに自分の口からじゃじゃーん! 大発表! って出来なかったのはちょっと残念かも。
「殿下のほうから言って来たんだよ! なんだかんだ言ってプロポーズしかり仲直りしかり、やっぱ向こうから切り出してほしいのが乙女心なんだよねぇ」
「……婚約申し入れたのも兄貴からなんだったか」
「そうだよ! 陛下が勧めてたご令嬢だっていっぱいいただろうにね、よりによって私に結婚してって言ってきたの! だから陛下の横槍で決断を左右される人じゃないって思えるとこもあるのよね~」
言いながらだんだん照れてきたのを誤魔化すようにヘンリエッタはその場にしゃがみ、月光を浴びてぼんやり内側から光っているように見える花々に触れた。薄く繊細な花弁が揺れる。
「……殿下は頭良いけど頑固だからさ、浮気とかそもそも柄じゃないって分かってるし、ホントに気の迷いだったんだなって私も今は分かってるんだよ。正直あのときの魔力暴走は、自分じゃ制御できないとはいえやりすぎたなって後悔してるんだ」
まだ誰にも明かしたことのない本音を吐露するときは、さすがにちょっと声が小さくなった。
「でも殿下は水に流してくれるって言ってるし、私も明後日は素直に話してごめんなさいしなきゃね。まぁ浮気した相手と理由だけはどーしても引っかかるけど……、は~~楽しみだな~~!」
アイオンが隣で黙って聞いていてくれるせいでつい口がなめらかになっちゃった。弱気なところを見せてしまったことが恥ずかしくて声音を明るいものに切り替える。
組んだ両手を顎の下に置き、両膝を抱え込むようにしてえへへと笑ってみせると、黙ったまま庭を見るともなしに見ていたアイオンが一度口を開こうとして閉じ、結局静かな口ぶりで話し出す。
「……兄貴から家族の話は滅多に聞かなかったっつってたよな」
「ん? うん」
「父親の話は聞いたことあるか」
アルフレド王配殿下のことだろうか。シーウッドで話した通り、ヘンリエッタは王配殿下は事故で亡くなったということくらいしか知らなかった。実家のエクロス家が一夜で滅び犯人は未だ不明のままだとか、メレアスタ女王とは恋愛結婚だったとかいう情報は最近知ったし。
アイオンの意図を測りかねたまま首を横に振ると、彼はこう続けた。
「表向きは事故で亡くなったってことになってるが、実際は違う」
「……違う?」
「自殺だったんだよ」
ヘンリエッタは声をなくしてアイオンを見た。
「しかも家族四人でいたときにやらかした。意味不明だろ? 理由にアタリをつけられるとしたら女王だけだろうな」
「……じゃぁまさか、追慕の森にあった白い棺って……」
シャペロンにせっつかれて夜中の森にアイオンを捜しに行ったとき、彼はあの棺の前に立ち尽くして物思いしていたのを思い出す。
アイオンは頷き、
「さすがに察しがいいな。俺は小さかったから幸いワケが分からずにいられたし当時の記憶も薄らとしか残ってねぇが、分別のつく歳だった兄貴はモロに食らったらしいぜ。その後の兄貴は、あの一件でぶっ壊れちまった家族をなんとか元通りに繋ぎ直そうとしてたと思う。俺に届いた手紙の文面はよく覚えてるよ、『ぼくがかならずみんなをなかよしのかぞくにもどす』って書いてあった。……しばらくしたら手紙自体来なくなったけどよ」
「そんな……」
王配殿下の本当の死因は自殺……それも家族団らんの場で。
衝撃的すぎてかみ砕くのもやっとだが、ヘンリエッタは懸命に脳みそを回転させ続ける。
「このことはごく限られた人間しか知らねぇとびっきりの秘密だから、お前がまだ兄貴から聞かされてなかったとしても別に不思議じゃねぇ。むしろ結婚まで考えた相手にまだ打ち明けられずにいたなら、それこそいまだにこのことが兄貴の重荷になってる証拠に見える」
アイオンの新しい視点からの推測には一定の説得力がある。
ハイラントは小さい頃に父親の理由不明の自殺を目撃した上、女王のそばに置かれ続けたぶん彼女の悲しみも間近で見てきたはずだ。当初はアイオンの処遇にも反発し、バラバラになってしまった家族に幸せを取り戻させることを夢見てもいた。でも途中から手紙が途絶え、兄弟間の交流はほぼ絶えていたことからすると、その夢は破れてしまったのかもしれない。
その後出会ったヘンリエッタに婚約を申し込んでおきながら、明らかに意図して家族関係の情報を遠ざけたのは、辛い記憶や夢を叶えられない自分のふがいなさを意識したくなかったから、とか……?
それに女王のほうも。女王と王配殿下が王族には珍しい恋愛結婚だったという情報まで考慮すると、彼女の不安定な言動の端緒にも説明がつきそうに感じるけど……いや。にしたってやっぱりおかしいよ。
たとえば面影を感じるだけでも辛いから王配殿下そっくりのアイオンを遠ざけたとか、あり得そうだけどあそこまで冷遇するかな?
少なくともさっきの反応を見る限りでは女王はアイオンの拒絶に動揺してたし、愛情が皆無だとは思えないのよね。まぁどのみち出力の仕方がまともじゃないけど。
ていうかそもそも、王配殿下はどうして自殺なんかしたんだろう?
考え込むヘンリエッタの反応をうかがいながらアイオンが言う。
「……今まで考えてもこなかったが、もしかしたらそういう重荷とか王太子としての重責をひとりで抱えきれない日があの兄貴にもあったんじゃねぇの。だとすりゃ浮気っつっても魔が差しただけで本気じゃなかった、…………かもしれねぇし」
ヘンリエッタを励ますようでいて、どこか自分に言い聞かせているようでもあるアイオンの複雑な響きの声が月夜に落ちる。ヘンリエッタはせっかくならもう少し勇気づけてほしくなって唇を尖らせ、
「かもって、今ぐらい言い切ってくれてもいいじゃない」
「俺に言い切られたところでなんの保証にもなんねーだろ」
「アイちゃんのほうから一緒に考えてくれたくせにー」
まぁたそんな風に照れ隠しするんだ。くすくす笑うとアイオンはとぼけた感じで聞き流し、不意に風で飛ばされてきた白い花びらを空中で難なく掴んだ。その手のひらを開いて見つめながら、
「……ま、俺も兄貴と同じ夢を見たことがなかったわけじゃねぇが。叶わなくて良かったのかもな」
アイオンは手のひらに載せた花びらを逃がし、飄然と言った。彼の中ではその結論で満足いってしまったのか、「そろそろ戻るぞ」と庭を出て行く。
「…………」
ヘンリエッタはしゃがんだまま、地面に舞い落ちてしまった花びらを拾い上げて指先でつまむ。……夢は破れるものなのかもしれないけど、「残された家族が幸せであるように」なんてありふれた、ごくささやかなもののはずなのにな。殿下が諦め、アイオンが捨てたって、私は勝手に拾って持っている。あれもこれもそれも全部取ることこそ、魔女って役の醍醐味だもの。




