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女王の到着

 調練が後半に入ろうという日の朝、女王が王宮に戻ってきた。

 予定されていたすべての訓練がいったん中止され、臣下たちは王宮内を大急ぎで移動する。

 早朝におりていた霜を女官長が綺麗に拭き取ったのち、王宮二階の露台に女王みずからが姿を現した。

 広場に勢揃いして敬礼とともにそれを見上げる臣下たちに、女王は手を上げて応えた。寒風にあおられても重厚て緻密なつくりのマントは翻ることはない。気性を氷のようと評され、マリオネットという大発明で国の発展を促進した優れた王の威厳が、わずかに中だるみしてきていた調練の空気を引き締めた。

 それは一枚の絵画のように美しく完成された光景だった。あれが自分の母親だという事実をアイオンは一時完全に忘れていた。

「……あれっ? 殿下が出てこない……」

「殿下の王宮入りは夕食時になるってさ。なんかまだ議会のほうに仕事があるんだって」

「え~まだお預けかぁ……」

 見るからに緊張して半ば瞑想状態に入っているイースレイと比べれば元宮廷魔術師ふたりはこの空気に呑まれた様子もなく、肝の太いことに隣でこそこそ話をしている。

 ハイラントの到着はまだ少し先になるらしい。肩を落とすヘンリエッタのほうに視線を向けないようにしながら、アイオンは小さく息をついた。

 女王は定型句的な挨拶のあと、臣下を眺め下ろしてこう言った。

「これよりは私と王太子もそなたら勇士たちの健闘を確かめさせてもらう。みなすでに先の王子誘拐の件は聞き及んでいようが、次に我が国に危機が迫るとすれば狙いは王子ひとりなどでは済むまい。此度の調練は特に心せよ」

 女王の言葉を聞き流しながらぼうっと立っていたアイオンの周囲で、低く野卑な笑いが小波のように起こるが、今さら心は動かなかった。以前決めた通り聞く価値のない、どうでもいい声だ。それに、ここで笑う感性にちっとも共感できないってわけでもない。自分で息子を調練に呼んどいて、そいつを見下ろしながら公の場で流れるように腐してくる女王陛下なんかそりゃ笑いどころだろう。

「…………」

 ただヘンリエッタだけが唇を引き結び、うんざりと女王を睨み上げた。


 気もそぞろなまま太陽は暮れていき、王宮内は再びにわかに騒がしくなった。

 かと思うとあれだけいた人がさっといなくなったことで、王宮の通用門にハイラントが到着したのだと知れた。


 ――来たのか。


 さすがにもう暇つぶしになにかの訓練に飛び込む気にもなれず、人気の無い場所を点々として一日を過ごしたアイオンは諦めるようにそう思った。

 決定的なピリオドをもたらす足音が近づいてくるのを、そうと知っていても止められない。

 ヘンリエッタたちは今日の訓練からまだ戻っていないようだったが、アイオンは彼女たちを待たずに宛がわれている客室に引っ込んだ。

 夜になって間もなく部屋のドアがノックされ、アイオンはぼうっと座り込んでいたベッドから立ち上がって応じた。

「……フェザーストーン公爵? なんでこっちに?」

「お久しゅうございます、アイオン殿下」

 ぽっちゃり体型の温厚なフェザーストーン公爵はアイオンが灯りもつけずにいたことに気づくと先触れのない訪問を詫び、それから言いにくそうに、

「……差し出口かもしれないと思ったのですが、その……ご承知のことと思いますが、今日の晩餐の席にはアイオン殿下も同席される予定なんですよね?」

「は?」

 なんだそれ。

 寝耳に水のアイオンを見て公爵は難しい顔になり、

「……そ、そうですか、いえ、分かりました。お心当たりはないのですね。あぁもう、こんな心配が本当に的中するなんてメチャクチャだ」

「どういうことだ? いつの間にそんな話になってんだよ、女王は兄貴とふたりで夕食だろ? 俺はいつも通り別で……」

 ただ「ちゃんと第二王子も列席しているという絵づら」が必要な、一片の欠けも許されない式典を兼ねた晩餐会などの行事は別だが、離宮に追いやられて以来それ以外に家族団らんの食事の席に呼び立てられることなどなかった。それがなんで急に?

 冷や水を浴びせかけられたように新種の緊張に見舞われて混乱するアイオンに、公爵は噛んで含めるように言う。

「万が一を考えてお知らせしに来て良かった。間もなくここへ侍女が来て陛下と王太子殿下のもとへあなたをお連れしようとすると思います。でももしお望みなら、今すぐどこかへ隠れればバックレ……いえ失礼、やり過ごせます。むろん私は告げ口など致しませんし、適当に口裏を合わせることもしましょう。殿下、どうなさいます?」

 思いがけない提案にアイオンは思わず目を丸くした。こんなことを言ってくる貴族は初めてだったが、公爵のまなざしには純粋な親切心と敬意が見て取れる。……にわかには信じがたいが、こりゃチャリティーウィークでよっぽど気に入られたらしい。

「なんか公爵にしちゃ色々正気じゃねぇこと言ってるが大丈夫か?」

「だ、大丈夫じゃない自覚はありますが……呼ばれて行ってもせっかくの食事を美味しく食べられないと殿下が判断されるのであれば、よく食べてよく育ってきた私個人の感情としてはそれを尊重したいと思いますし……」

 言葉を選びながら、公爵はたっぷり肉のついた頬を揺らして困ったように微笑む。

「それに、もしこの場にヘンリエッタ様がいたらきっと怒ったでしょう。家族で夕食それ自体は実に結構なことですが、これじゃまるで殿下には拒否権自体ないようなものじゃないですか。主従関係でもない母と息子、家族どうしなのに」

「……だから、ないんじゃねぇの」

 アイオンは混乱を諦めで包んで丸めるようにして頭の中のゴミ箱に投げた。

 口の端を持ち上げて笑い、気だるげに腰で立つ。

「あんたの厚意には礼を言うよ公爵。自分が貴族にこんな風に世話を焼かれる日が来るとは夢にも思わなかったぜ」

 公爵は心配そうにアイオンを見る。

「行かれるんですか?」

「ガキならイヤなこと全部かくれんぼでやり過ごせたんだろうけどな。だいたい、今日はそれでなんとかなっても調練が終わるまではとても逃げ切れやしねぇよ。無駄なあがきはしねぇ主義だ」

 アイオンはこの強制的で薄っぺらな「家族団らん」を本心では嫌がっていることを隠すことなくそう返した。弱味を見せるようで躊躇いがなかったとは言わないが、公爵が「ヘンリエッタも怒るはずだ」と断言したのを聞いてまぁいいかと思ったのだ。

「向こうがなんのつもりだか知らねーが俺が行くって決めたんだから、あんたももうバックレちまえとか滅多なこと言うなよ。たかだか夕飯なんぞのことで女王に睨まれたかねーだろ」

「……分かりました。殿下がそうおっしゃるのなら」

 失礼しましたと最後まで心配そうに公爵が去ったあと、アイオンは暗い部屋で迎えとやらを待った。

 果たして五分後、公爵の予言通り女王付きの侍女がやってきて、このだまし討ちじみたやり口を上っ面だけでも恥じようという気配すらなく、主そっくりの無表情で「殿下、陛下がお呼びですのでいらしてください」とぞんざいに言った。



 王とその家族の食事には会食の間が使われる。

 両開きの扉をくぐると、バカ長いテーブルを壁に飾られた過去の王族たちの肖像画が眺め下ろしている。その中には父アルフレドのものもあった。

 女王と王太子はすでに着席していたが食事はまだ運ばれていないようだ。世話役を仰せつかっているらしきギャレイ宮廷伯と彼に似た面立ちの若い侍女――たぶん前に言っていた妹なんだろう――がその傍に控えていて、アイオンに微笑みと目礼を寄越した。

 アイオンはギャレイの誘導に従って、ハイラントの向かいに座った。部屋の奥側のテーブルの短辺に座っている女王をアイオンとハイラントが挟むかたちになる。

「ではお食事をお持ちします」

 給仕がスープを運んできて並べる。

 誰もなにも言わない。

 女王の手が動いたのを皮切りに陰気で静かな食事が始まり、アイオンは流されるがままに味のしないスープに手を付けた。

 向かいのハイラントを見るともなしに見ると、あっちも粛々と食事を進めている。美味いと思っているのかどうかすら分からない鉄面皮のままだ。

 スープが下げられて鴨肉が運ばれてくるころ、女王がふっと口を開いた。

「調練に参加していないと聞いたが」

 とっさに誰に向けた言葉なのか分からず、アイオンは数秒押し黙ったが、女王の鋭い金色の目がこちらに向いているのに気づいて自分が話しかけているのだと理解できた。その上で、なんのことを言われてるんだか分からない。誰に呼ばれて俺がここにいると思ってんだろう。

「……参加してますよ」

「しておらぬだろう」

 女王は冷え冷えとした声で重ねて言う。

 アイオンにとって永遠にも等しく感じる一拍の間を置いて、

「そなたの取り柄を使うことを避け、座学などで漫然と時を浪費することを、そなたの言葉では『参加している』と表現するのか?」

「……、い、や……」

 アイオンは明確に返事や口答えをしようとしたわけじゃなく、思わず呻き声を漏らしたに近い。しかし女王はそれを聞きとがめ嘆息した。

「……これならば、呼ぶも呼ばぬもいるもいないも同じ」

「…………」

 喉になにかが詰まったように声が出なくなり、呼吸が乱れる。じっと斜め下を見つめたまま身じろぎひとつ出来ない。

 女王はアルフレドの肖像画を視線だけで振り仰いで呟く。

「私は……家族三人で、……、……」

 どんな感傷からくるものなのか言葉尻にいくほど女王の声は掠れ、ほとんど吐息になってしまって残りは聞き取れなかった。

 アイオンは自分の鼓動が早鐘を打ち、うつろな感覚が手足の先に渦巻いて、口の中が食べ物の味からくるものではない苦味と乾燥で満ちるのを感じた。三人――三人か。あぁそう。

「そなたはなぜ訓練を避ける? なぜここに我ありと力を見せぬ? 兄に気を遣ってでもいるのか?」

 これもこちらに訊いているようでそうじゃないんだろう。喋っても黙っていても同じなら、やらなくていいことはやらない。口を開くことも質問の答えを頭の中で探すこともしないで思考を止める。

「……食事中には語らえぬか。それはまた行儀の良いこと」

 女王はもう一度こちらを一瞥し、沈黙するアイオンを揶揄するように抑揚のない声で促して食事を再開した。

 命令を受けたに等しいアイオンはのろのろと手を動かし、ひたすら義務的に目の前の料理を腹に落とし続ける。

 受け取りようによっては「兄を負かしてしまうとまずいから訓練や大会に出ないのか」というような意味に聞こえ得る女王の発言にもいっさい反応せず、ハイラントは終始黙したままだった。


 デザートのワインゼリーまで淡々と腹に収め、重苦しい夕食が終わると、アイオンは無言で席を立って会食の間を出た。誰も止める者はいなかった。

 隣室には護衛の兵士が十人から詰めていて、その前を通り過ぎようとすると扉の向こうからかすかに話し声が聞こえた。「今回の剣術大会でもハイラント殿下が優勝するか賭けようぜ」と言ったヤツにすぐ別のヤツが「賭けにならないだろ」と突っ込み、ひと笑い起きていた。

 歩みを進めようとしたとき、「アイオン殿下」と後ろから呼ばれて振り返る。

 ギャレイとその妹らしき侍女が廊下に出てきて、気遣わしげにこっちを見ていた。

 会食の間での一部始終でさすがにアイオンに同情したんだろうが、あいにく彼らからの同情も慰めも求めちゃいない。

 ギャレイはさっきの今で不自然なほど凪いでいるアイオンの表情を見て、夕食の席でのことには触れないことにしたらしい。お互い素知らぬ顔のまま事務的に向き合う。

「明日も侍女が同じ時間にお部屋へお迎えに上がります。ですので明日以降は、午後は日暮れまで長引くような訓練には参加なさらないようお願いします」

「……、あぁ」

 本当に調練期間中は家族で夕食を取る羽目になるらしい。なんでそうなるんだよ。「なぜ」を考えたって、いてもいなくても同じと言いながら夕食の席には呼びつけ、訓練に出ろ兄とかち合えと言う女王の考えてることなんか分かりっこない。まともに取り合うのも面倒でアイオンは適当に頷いた。

 するとギャレイはこう付け加える。

「……それと明後日の夜、ハイラント殿下は時間を作ってヘンリエッタ様とお会いになるそうです。彼女にはのちほどお知らせしますが、日時を決めればそれまでは彼女に突撃されることもないし、また彼女が魔力暴走を引き起こしたときに備えて警護も固めやすいだろうと殿下はお考えのようです。何度私どもが危険だとお止めしても、自分を瀕死の重体に追い込んだ件は水に流し、対等に話し合って結論を出すと心に決めていらっしゃるんですよ」

 アイオンは一瞬口元を強ばらせはしたが、動揺を表に出さないよう努めて平静を装った。何に対する強がりなのか自分でも判然としないまま、本能的に自分を守ろうとした。

「……勝手にすりゃいい。なんでそれを俺に言う?」

 ギャレイは凜とした直立姿勢を保ち、私情を交えず事実だけを述べる口調で答える。

「いえ、ただ……殿下はこの情報をお求めかと思ったもので。失礼、出過ぎた真似をいたしました」


 アイオンは自室に戻るとまっすぐベッドに大股で歩み寄り、倒れ込んだ。この短時間で普通あり得ないほど疲れ切っていた。

 袋小路にはまったような無力感と虚脱感。

 明後日の夜なんて、あっという間に来てしまう。

 兄が昔のことは水に流し、ヘンリエッタと対等に話し合って結論を出すつもりでいるなら、ふたりの終わりは周囲の想像よりも静かで決定的なものになる。

 王太子の身の安全を考えて万全を期すのは妥当な判断だとは思うが、きっと魔力暴走は起こらない。浮気だなんだでキレたときとはそもそも経緯が違うんだ、あいつは――兄貴の気持ちを無視することはしない。

 即位記念日のときアイオンに漏らした本心を今でも翻していないなら、兄がそれを打ち明ければ彼女はちゃんと聞くと思うし、さほど労せずこの婚約を破談に出来る。別れ話が最低限の言葉で足りるだろうことがせめてもの救いか。

 ……身内に失恋した女なんかいったいどう気遣えってんだよ……ほとんど会話も成り立たない母親や兄貴の上手い扱いさえ分かんねーんだぞ。

 ただでさえ自分のことで大概手一杯なとこに明後日の夜に大失恋する予定のヘンリエッタのことを考えるとさらに憂鬱になる。……はずなのに、頭の片隅から未知の自分がささやきかける。


 いいじゃねぇか。あの女だって案外これで一区切りついて、遠からず別のもんに目を向ける気になるさ。


「………………クソッ……」

 ベッドの上で寝返りを打って瞼を下ろしたアイオンは、ぐちゃぐちゃにこんがらがった気分のまま浅い眠りに引き込まれていった。

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