冬期軍事調練
一夜明け、王都全域を巻き込んだ調練がついに始まった。
アイオン誘拐事件を受けて今回は王都が攻撃を受けた場合を想定しているため、港は鎖で封鎖され、下町や各宗教の教会・礼拝堂では王都近郊からの避難民受け入れの手順を実際になぞった。必要となれば略奪で敵勢を肥え太らせないよう、近隣の村落はすべて焼かれ、水源も埋められる。大量の避難民だけでなく彼らが連れてくる家畜や猟犬などの管理もしなくてはならないから、訓練しておかないと都内の混乱だけで死人が出かねないのだ。王都に逃げ込むのが難しい地域の住民は敵の手の届きにくい山地に入ることになっている。
病院の庭では医療従事者たちが街道騎士団から護身術の稽古をつけられ、騎士団本部内の治療院へ応援にいく決まりになっている人員はその訓練も受けた。
非常時には一般市民の夜間外出もいっさい禁止される。店は例外なく日暮れ前に営業を終了しなければならず、軒先に灯りをともす義務が課される。夜闇の危険を和らげ、騎士や兵士たちによる警邏を助けるためだ。
そのため、調練中の王都の夜は異様な緊迫感と静寂に包まれることになった。
王城の城門もまたすべて閉ざされ、作戦室では武器・弾薬・兵糧の運用や調達についての議論が尽くされた。
各砦では砲撃はもちろん投石や火矢への対処訓練も行われ、轟音と土煙が派手に上がった。
王城内の練兵場では騎士や近衛兵、調練に呼ばれた主要貴族の私兵らが日夜、切磋琢磨しあい、連携を確認している。領地を持つ貴族は国防のためその規模に応じて一定の兵力を確保・維持する義務があるが、練度の足並みを揃えるのはこんな機会でもないと難しい。
魔術師たちの訓練も並行して実施され、三日目の夜中には、攻守の二手に分かれて王都の魔術防壁が必要な強度を満たしているか実戦で確かめることになった。当然魔術師団の火力といったら一兵卒の比ではないので、夜間外出禁止令が出て静まりかえった王都の夜空はその日夕焼けのように赤く明るくなってしまった。ドカンドカンと大魔術が王都外からひっきりなしに行使され、そのたびに王都上空の魔術防壁がそれを防ぐ。都中の赤ん坊がわんわん泣いていたらしいと後でヘンリエッタから聞き、アイオンはそりゃそうだろと白けたことを思った。
離宮に押し込められてきたアイオンにはなにもかもが初めての体験だった。
ここまでの大訓練が実施されたきっかけが自分の誘拐だということもいまいち実感が湧かない。
平民だろうが王太子を半殺しにしようが結局この国の命綱であることに変わりはない大魔女ヘンリエッタと、アルトベリ家の優秀な魔術師であるレオナルドは魔術師向けの訓練に召集されているし、イースレイまで有言実行とばかりに文官向けの訓練に参加してしまったので、目下のところ彼らの訓練中手持ち無沙汰なのはアイオンだけだ。
調練四日目のランチタイム。練兵場前にある王宮外周警備隊の兵舎の食堂で四人は待ち合わせた。
先にテーブルに陣取っていたアイオンのところへ、他の三人が「お疲れー」と異口同音に挨拶しながらやってきた。当たり前だがどの顔にも疲れが見える。
「席確保しといてくれてありがと~」
「やぁっと昼飯だ、腹減った~」
「それゆで卵かレオナルド? 俺が行ったときにはもう在庫切れだった……」
食堂では非常炊き出しの実地訓練中で、三人は各自カウンター前の列に並んで昼食をもらってからアイオンのいるテーブルに来たのだが、順番が来たタイミングによってメニューに多少違いがあった。食事の中身を比べてわいわい言いながら、テーブルに着く。
食堂の窓からは兵舎の中庭が見える。そこにも昼休憩を取りに来た人たちがいて、甲冑を着込んでいる兵士なんかは立ったままサンドイッチを食べている。隅には武器庫から引き出されてきた大砲が一門放置されており、「要確認」と貼り紙がされていた。手入れの際に故障が発覚したらしい。こういうことがあるから定期的な調練が大事になってくるんだろう。
「雪こそ降ってないけど外で食べるのは寒いだろうなぁ」
「甲冑も冷えるだろうしな」
隣に座ったヘンリエッタと他愛ない話をしながらカブのスープをスプーンですくう。
非常時のメニューを再現しているとは言うがこれでも豪華なほうで、現実にそんなときが来れば糧食や水の質はどんどん下がり、病気が流行して内側から崩壊するだろうとイースレイから聞いた。そもそも厳しい状況を想定しているから仕方ないが、調練が始まってからこっち明るい話をちっとも聞かない。
「文官向けの訓練ってなにやんの?」
レオナルドが思い出したようにイースレイに訊くと、彼は苦い顔で、
「体術や魔術が主だと思っていたらそれ以前に体力作りだと言われて、とにかくマラソンさせられている。寒さもあって訓練というより修行という感じだよ。息を吸うと肺が痛いし……」
「純粋にキツイな……」
「達成感もなにもないわね」
魔術師団の訓練に参加しているふたりは同情を示している。
「魔術師は忙しそうだよな」
アイオンが話を振ると、ヘンリエッタがうむむと唸る。
「忙しいけど私は暇なのよねー。死屍累々の惨状になってからが私の出番だし、基本待機なんだよねぇ」
「……」
おくびにも出さないが、アイオンの脳裏によぎったのは痛めつけられるオリバーを前にして魔力暴走を引き起こしたヘンリエッタの姿だった。宮廷魔術師時代、もっとひどいものを見せろと言い放ったのと同じく、「死屍累々になってからが出番」という言葉もアイオンにはもう額面通りの意味には聞こえない。
そこへ、「おや!」と素直すぎる驚き声が背後からかかった。
「みなさんもこちらでお昼ですか! アイオン殿下、ご機嫌麗しゅう」
「ドラクマン支部長」
振り仰いだ先に立っていたのは、昼食に来たらしいドラクマンだった。街道騎士団の支部長として彼も今度の調練に召集されていた。
「こんにちは、支部長はこれからご飯ですか?」
真っ先にヘンリエッタが反応し、にこやかに訊ねる。
ドラクマンは特徴的な口ひげを撫でて困ったように眉を下げ、
「ええ。でも少々出遅れてしまいましたから、もうあまり良いものは残ってないかもしれませんが……。あぁそうだ、良い機会ですのでひとつ仕事のご報告を!」
一転ぱっと表情を明るくし、ドラクマンがアイオンに向き直る。
「例の……オリバー少年、殿下の助命嘆願自体にはまだ陛下からのリアクションはありませんが、身柄はいったんウチの支部へ移送することになりましたので、今後は罪人としての処遇の範囲でのケアなら用意出来るかと。私にお任せ下さいますか?」
そりゃいい。この調練への参加が許されたことにポジティブな感想を持てていないアイオンにとっては久しぶりの吉報に、「あぁ頼むわ」と即答する。
思えばドラクマンと仕事上で連携するのもそれなりに回数を重ねているし、お互い気心も知れてきた。彼ならオリバーを悪いようにはしないだろう。
横目でヘンリエッタの様子を盗み見ると、少しほっとしたように眦を緩めている。……本当は助命が叶うならそれが一番だが、今後に期待しつつ今はひとまず状況が好転しただけでもマシってことにしといてもらうしかない。
ドラクマンは彼自身もオリバーの境遇に同情しているような様子で、
「殿下とヘンリエッタ様のお気持ちはきっとあの子にも伝わっていると存じます。このドラクマン、拝命致しました! お食事中失礼して申し訳ありません、午後は工兵隊との合同訓練がありますので私はこれで!」
溌剌とした笑顔で食事を取りに行った彼を見送った四人は、この真冬の調練の中にあって元気をほとばしらせているその様子にちょっと呆気にとられた。
「おお……やっぱ本職の騎士はこういうときこそ活き活きしてるな。すげぇ体力」
「騎士なんか文官より魔術師よりずっとハードだろうに、鍛えてるだけあって年齢を感じさせないタフさだな」
「単にドラクマン個人の特性じゃねぇのか? 騎士でもしなびてるヤツ結構見かけるぜ」
「持ち場問わず顔一面に『早く帰りたい』って書いてる人いるよね~」
あくまでも魔女然として、オリバーを案じているような素振りを見せる気はないらしいヘンリエッタは早くもさっきの安心を引っ込め、世間話の延長をアイオンに向ける。
「アイちゃん的にはどう? 初めての調練は。なんか面白いことあった?」
「ありそうに見えるか?」
つーか懸念が多すぎて面白いもなにもあったもんじゃねぇんだよ俺は。思わず返答がやさぐれる。
もう間もなく女王と兄が来ると思うと頭上に暗雲が垂れ込めてくるような気分だってのに、なにも知らないこのおしゃべり女はにこにこと能天気なことを訊いてくれる。いや説明するつもりなんかねーけど。
「まぁ他にやることもねぇから王宮の避難訓練とか講義? みたいなのには紛れ込んでるけどな。マジでどんだけ人が多いんだ王宮は、どこも黒山の人だかりだぞ。俺が混ざっててもバレにくいのはいいけどよ」
不思議そうなヘンリエッタに、アイオンは気だるげにお茶を濁す。それらのプログラムは集団の後ろのほうでこそっと立っているぶんには第二王子だと気づかれることもほぼないし、これまで離宮暮らしで縁のなかった知識を聞きかじることもできた。南部に来てすぐの頃ヘンリエッタに受けたスパルタ勉強会の記憶がよみがえって嫌気が差すかと思ったが、むしろ考え事にふけることを避けられて好都合だった。
ヘンリエッタは白身魚のフライをナイフで切るのを中止して「いや良くないでしょ」とアイオンが依然軽んじられていることにしっかり不平を言ってから、細い指先で頬を掻き、
「でもそっちに参加してたのかぁ、道理で合間合間に練兵場とかの様子見に行ってもアイちゃんを見つけられなかった」
「なにやってんだお前……」
魔術師団の訓練で忙しい身でそんな無駄な時間の使い方してやがったのか。面食らったアイオンは、むずむずするような呆れたような原因不明の複雑な気分で溜め息をつく。
ヘンリエッタは不満げに、
「そうだよねぇ、考えてみればアイちゃんが訓練に加わってたらもっとこう、演劇のときみたいに性別問わない黄色い声がきゃーきゃー上がって盛り上がってるはずよね。もー、それならそうと教えといてよぉ。延々捜し回ったんだからねっ」
「俺はあっちに参加するなんて一言も言ってねぇぞ。お前が勝手になんか舞い上がって空回ってるだけ」
のらくらと交わし続けるアイオンにめげることなく、ヘンリエッタはまだしつこくそそのかそうとしてくる。
「けど講義聞いたりするだけじゃつまんないんでしょ、身体動かして気分転換したくない? どかんと一発ギャラリー湧かしてすっきりしたくなーい?」
「ないね」
「なくない! このままじゃどの訓練も粛々と進行しちゃって盛り上がりに欠けるじゃん!」
「俺は宴会部長か?」
◆
……とどうでもよさげに鼻で笑って食事に集中したアイオンだったが、午後になると暇を持て余して結局気まぐれを起こした。
他の三人は一足先にそれぞれの訓練の場へ向かってしまったし、馴染みのない王宮にいても落ち着かない。兵舎の食堂から近い練兵場にふらりと足が向いたのはまぁ自然な範囲ではあった。
午後からの練兵場は兵装が統一されていない非正規の軍団、傭兵らが予約を入れて使用していた。
冬空の下、異国の流派やなりふり構わない喧嘩殺法が入り乱れた試合が繰り広げられている。彼らの戦い方は騎士たちのそれとは明らかに違っていて物珍しく、目を引かれた。
「…………」
しばらくその様子を眺め、かなり泥臭いものまで彼らの戦法を脳みそに輸入したアイオンは、もののついでというような何気ない足取りで練兵場に入っていく。
「よう、調子はどうだ?」
「ん?」
いま手合わせしているふたりの剣士の観戦に熱を上げている連中のうち、後ろのほうに立っていた陽気そうな巻き毛の男に適当に話しかけると、邪気のない顔で振り向かれた。
巻き毛の男は自分を指さし、「俺に話しかけてるのか?」といきなり現れたアイオンの頭からつま先まで無遠慮に観察する。
「誰だあんた? どっかで会ったことあるか? いや、俺が知り合いを忘れてるとかだったら悪いんだが」
不審がられてしまったが、アイオンは焦らず肩をすくめた。鼻つまみものの第二王子の顔なんて傭兵が知らなくても当然だ。
「安心しろよ、これが初対面だ。こっちこそ驚かせて悪かったな」
「そうか、気にすんな。こういう稼業してっとそうと知らずにかつての敵と鉢合わせることも多くてよ。なんの用だ? 同業者か?」
アイオンは口の端で笑った。
「まさか。素人だよ。その辺ぶらついてたら結構白熱した試合をやってんのが見えたから気になってな」
「白熱? 白熱ときたか」
巻き毛の男が分かりやすく顔に喜色を浮かべて復唱する。
「あぁそうだろうとも! 俺らのやり方はお上品な騎士とはワケが違う。見てるだけでも面白いだろうさ。ったく賭け試合が禁止されてるのが悔しいぜ」
「そりゃつまんねぇな」
アイオンはさっき聞いたヘンリエッタの言い草を借りて調子を合わせる。すると巻き毛の男はさらに態度を気安くし、
「あんたもちょっとやってかないか? いつもの面子といつも通り、変わり映えしない手合わせしてたって非常時の訓練になんかなりゃしねぇ。のっぴきならない状況ってのは想定外の連続なんだから。そうだろ?」
「あー……」
アイオンは首筋に手を当ててちょっと間を置き、考える。
性懲りもなく挑戦してみなよと繰り返すヘンリエッタの不満げな花顔がなぜかまず意識の端に引っかかり、加えて巻き毛の男の言葉にも一理あるなとも思った。予定外のことがなくちゃ訓練にならないと言われればそれもそうか。
「……まぁ、迷惑じゃないなら」
とぶっきらぼうに言えば、巻き毛の男は「そう来なくちゃ!」と得意げに笑う。
彼は仲間たちに声をかけ、試合の決着を迎えたばかりのふたりにも話を通して、あっという間にアイオンを土俵に押し上げた。
ギャラリーは新顔の登場を完全に面白がっており、「兄ちゃんの試合だけ見て便所行くわ!」「あんま早く終わってくれるなよー」などとはやし立てている。
アイオンには彼らの来る者拒まず去る者負わずの距離感は都合が良く、足首を軽く回しながら「あぁ」と適当に返す。
そうしているうちに、手合わせ相手の男が群衆の中から押し出されてきた。
堂々たる偉丈夫だった。赤銅色の肌が巨木のような体躯を彩っている。石弓が似合いそうだ。
人を圧倒する見かけだが、目元の笑い皺から本人の人柄に宿っているユーモア精神のようなものがうかがえた。
「初めまして、面白い兄ちゃん。退屈な調練に新風を吹かせてくれるとは、親切というか物好きというか……いや恐れ知らずか?」
「どれも言われたことのねぇ言葉だな」
親切、物好き、恐れ知らず。普段アイオンがそういう感想を抱いている相手はあのおしゃべり女だ。
アイオンが渋い顔をしたのを見て、偉丈夫は軽く笑った。当たり前だが侮られているらしい。当たり所が悪ければ最悪の事態もあり得る剣じゃなく、素手での手合わせにしようと決められたのだってそうだった。
「それ以外ならまぁ、勇敢とでも言っとくか。一戦よろしく頼む」
「よろしく」
握手を求められ、応じると偉丈夫の大きく分厚い手は少しひんやりしているように感じた。代謝の問題なのか、アイオンは普段から体温が高いが、彼よりも自分の手のひらが熱くなっていることに内心少し驚いた。
改めて相手の姿を視界に収め、それでぴんと確信した。
……勝てるかどうかで言えば、勝てる。
「始め!」
開始の宣言を耳が捉えた瞬間、ギャラリーの上げる大声が頭の中ですっと遠ざかった。
間合いを保って相手の出方を見るのはほんの数秒で飽き、アイオンは踏み込んで拳を突いた。
偉丈夫は顔の横すれすれで避け、その初撃を見ただけで様々な認識を改めたようだ。
ギャラリーが一拍水を打ったように静まりかえり、それからざわつきだしたこともアイオンは認識していなかった。
数発打ち合い、互いに足も出たがヒットはない。適当に遊んだ後は偉丈夫のほうが一方的に制圧するだろうという大方の予想は外れ、それどころか組み合っての格闘にもならなかった。想像より遙かに高度でハイスピードな試合展開になっている。
ただ一発で決着がつく。どっちがそれをたたき込めるかだ。
俄然かぶりつきになったギャラリーが一発ごとに野太い歓声を上げ、場の空気が熱されていく。
アイオンは試合が始まってからずっとほぼ頭を空っぽにして反射で身体が動くに任せていたが、さっきの観戦で覚えた傭兵たちの小技の中で試したいものはあらかた試し終えたことに気づくと、身を沈めて偉丈夫の拳を避け、腕を突き出したせいで伸びきっている肘を下からすくうように掴んで捻って、その巨躯をひょいと転がした。
「おおぉっ!?」
ギャラリーと偉丈夫が全く同時に叫び声を上げたと思うと、偉丈夫の身体は地面にどたん! と横様に倒れ込んでいた。
◆
今日で一生分の「すげぇな兄ちゃん!」を聞いたかもしれない。
なんやかんやで勝ちをもぎとったアイオンは興奮冷めやらぬ傭兵たちに囲まれ、思いっきりもてはやされた。
勝った直後までは良くても、それが一〇分、一五分と続くと対応するのも疲れてくるしむさくるしい。
「……もういいだろ、俺が逆に居たたまれねぇんだよ……」
我に返ってどんどん据わりが悪くなってきた。
アイオンは聞き慣れない褒め言葉に接したとき、胸にこみ上げる困惑や照れやあまのじゃくな反発心を他人に悟られたくなくて、さも気づいていない振りで無視する癖がついてしまっているのに、こう取り囲まれちゃその手口も使えない。
嬉しげに構い倒してはきても、アイオンがいよいよ困惑を深くすると全部承知したように前に出て話を引き取ってくれるのがヘンリエッタだが、今は彼女もいない。
というか、アイオンのほうが彼女が見ていないときに行動を起こしたんだから当然だ。
なんとなく彼女には勝つところも負けるところも見られたくなかった。けど、本人だって「誰かに勝った負けたでその人の評価を変えることはない」と言ってたじゃないか。観戦させてやらなかったからって文句をつけられる筋合いはないだろう。
「そう邪険にするな、見事だったぞ兄ちゃん」
気まずそうにしているアイオンに、服についた泥を払いながら、偉丈夫も称賛を惜しまない。
知恵も技巧もなにもない、別にそれで身を立てたり望みを実現できるレベルに達してもいない、頭を空っぽにして身体が動くに任せている粗野な男というのがアイオンの実情で、今はまだはりぼてが機能しているだけだ。とても現場で実績を築いてきた本職の彼らに褒められるようなもんじゃないってのに、こいつら思った以上に人が好いな。
「あんたが打ち込んできた最初の一発を見て俺も手加減なしで挑んだからな。大したもんだ、良い師匠でもついてるのか?」
「そんなんいねぇって……」
「いない!?」
「マジかよ!?」
「つうかなにもん? どう考えても文官じゃねぇだろ?」
「……」
なんとも答えようがなく、アイオンは若干遠い目をして口をつぐんだ。あまりにもバレなすぎるのも不便だと今知った。
もちろん傭兵たちは納得せず、どこ所属? どこ出身? 王宮に出入りできる身分だろ? と追撃を続けながら、
「なぁ兄ちゃん、まさか拳法家ですとか言わんよな? 剣術大会には出る予定なのか?」
ひとりがそう言うと、周囲もおぉそうだそうだと盛り上がる。
「出るだろ? 出るよな? それだけの腕があるんだから出るんだろ?」
「剣術大会は調練の華だからな。本番は応援するぜ」
「おいおい、今年はずいぶんデカい暇つぶしのネタが出来ちまったなァ」
「俺も出るから本番当たったら空気読んでくれよな~」
「つーか今年初出場になるのか? 俺らの誰も兄ちゃんのこと知らなかったし。台風の目間違いなしだな」
「こりゃ決勝は王太子殿下と兄ちゃんの一騎打ちで決まりかもなぁ! はっはっは!」
「……ん? 王太子……?」
……やべ。
口々に好き勝手なことを言ってはアイオンの背をばっしばっしと激励のつもりで叩いていた傭兵たちが、かなり遅れて記憶の芋づるを掴み始めた。
え? と呆気にとられた無数の目が一斉にこっちを見たのと同時に、
「俺は大会には出ねぇよ。賑やかしに貢献したのに免じて全部忘れてくれ。邪魔して悪かったな」
と言い置いてアイオンはそそくさときびすを返す。
直後、背後で「ちょっと待てよく見たら王配殿下そっくりじゃねーか!!」と我が身を危ぶんだ彼らの絶叫が上がったが、振り向きもしないで足を動かした。




