眠れない魔女
イライラする。この苛立ちの中身は自己嫌悪と恐怖だって分かっている。自分の感情に振り回されて、ヘンリエッタの足を引っ張ることしか出来ていない。
ヘンリエッタは下っ端のオリバーが持ってきたイチゴと酒を当たり前のように毒味してからアイオンに与え、「どっちも上等すぎるよねー。組んでる魔術師も野良にしてはレベル高すぎるし、それどころかもしかしたら……。あいつら相当な大物に雇われてるのかもね。アイちゃんひとりのタイミングを狙われたのだって偶然じゃないかも。でもどっかから情報が漏れたにしても耳が早すぎるよね?」と冷静に分析した。
そうやっていちいち対処が堂に入っていること追及しようとしたのを、早くもアイオンは悔やんでいる。
「拉致されたとき生き延びるテク」とやらを実演されているうちにヘンリエッタの過去のほうが気になってきて、考えてみればいつもイースレイやレオナルドといった他人からの伝聞ばかりだと気づいたらもう文句が口をついていた。少なくとも、彼女ひとりに負担がかかっているこの状況で訊くようなことじゃなかったのに。バカか、俺は。
チャリティーウィークで成功したすぐ後にこの大失態。ほんのささいな一歩で気が大きくなっては、家族や他人に冷や水を浴びせられ、我に返る。つくづく自分の人生はその繰り返しに終始しているようだ。そのうえ他人が横槍を入れているときは代わりのように家族が出し抜けに甘い顔をしてくる。
いっそもう無視するなら一貫してくれと頼み込みたくもなってくる。今さら冬期軍事調練なんぞに呼ばれたってとてもじゃないが喜べやしない。こっちにはその翻意の理由が分からないんだから。
しかもこいつも同行させるって、いったいどういう心変わりだよ。
嬉しそうなヘンリエッタにその報せを聞かされたとき、アイオンが途方に暮れた理由を、彼女が知るよしなどない。即位記念日にハイラントが言った言葉を知っているのはアイオンだけだ。
あの兄はヘンリエッタを拒絶する気でいる。あれからそう日も経っていないのに突然アイオンの公的行事参加が認められ、ヘンリエッタの同行が許可されるなんて、どう考えてもろくな理由じゃないだろう。
アイオンの視点では、ヘンリエッタの抱く期待は風前の灯火だ。そうとは知らず、嬉々として「とびきりの朗報だよ」と打ち明けながらアイオンを励まそうとすらしてくるが、人の世話を焼いてる場合じゃないのは彼女のほうだ。
なのに……俺はなにも出来てない。本当になにひとつ。
ヘンリエッタが殴られさらわれても、このナリじゃ手も足も出なかった。捕まってからも良い知恵のひとつも出せてない。「私が頑張るね」という宣言に偽りなく、彼女が危険な大男の前に身をさらしたり、命令さえあれば武器を振りかざして襲いかかってくるだろう少年を籠絡する様子を見ていることしかできない。というか後者については八つ当たりまでした。つーかあのときなんであんなにムカついたんだ……いや、考えるな。
行政監督庁のマリオネットは壊滅状態。レオナルドやイースレイ、街道騎士団の助けを頼ることもできない。事実としてこの場をなんとかできるのはヘンリエッタひとりだけだ。
それを理解しているからだろう、彼女の雰囲気もずっとどことなく張り詰めている。いつも通りおちゃらけてはいるが、やりたくないことをさせていると分かる。
じゃなけりゃ何かと子どもに甘いあの女が、オリバーを利用しようとするものか。
ヘンリエッタには「自分を責めるな」と釘を刺された。彼女の言う理屈にも納得できたし、そっちの懊悩には自分なりにケリをつけられたつもりだ。あいつが毎度毎度飽きもせずにしつこく励ましてくるおかげで、我ながらおめでたくなったもんだと呆れるが、あれだけ染みついてたはずの自傷癖が抜けてきちまってるらしい。
だから、今この胸を占める苦しみは、足元にぽっかり大穴が口を開けているような恐怖は、それとは別種のものだ。
今の俺こそ、本当に「なにもない」んだと気づいてしまった。
なにもできない。それがこんなに怖いことだと知らなかった。
この魔女はことあるごとに周囲の恐怖心を煽り、それを利用して立ち回るが、彼女を怖いと感じたことは出会ってから一度もない。こんな風になにかを心から怖いと思うのは本当に久しぶりだった。
本来の自分は、あれでまだまだ力があるほうだった。自分では無力と思っていても、できることはいつでもたくさんあった。
ハイラントに敵わないとか女王に嫌われているとか無能と笑われているとかそんなの、今に比べたらなんてことはなかったのだ。
ここを無事脱出できたとして、冬期軍事調練当日にはこの魔女はハイラントや女王と対面するし、婚約についてもなんらかの――おそらく彼女の意には沿わない――結末に行き着くことになるかもしれない。
「そうなったらどうする?」と焦って訊く自分と、それを「どうもしねぇし出来ねぇよ」と冷笑する自分が頭の中に現れ、その両方を振り払った後で自分がその未来をも恐れていることに気づいた。自分のでもない縁談の結果が出てしまうのが怖いなんておかしいだろう。
恐ろしいものが増えるのは不快だ。惰性でだらだら生きていくのが難しくなる。
第一なんでそんなことが怖いんだ? と変な方向に行きそうになる思考を中止し、頭の中のぐちゃぐちゃから目をそらす。その気持ちについては、まだ考えないようにする。
「もう今日は出来ることないねー。今日の戦果は無事ふたりとも生き延びられたってことでヨシとして、そろそろ寝ようかアイちゃん」
夜半、ベッドをぽんぽんと叩くヘンリエッタの手にアイオンははっとなり、それから疲れたように吐息する。
「ベッドはお前使えよ。俺は机でいい。こんな身体だしな」
「良くないよ! いつもと違う身体で疲れてるでしょ? ちゃんと休まなきゃ」
ヘンリエッタはそれこそ口うるさい姉のようにベッドを勧めてくる。アイオンが奇行を連発して振り回したことなんか気にした風もない。かと思うとあっと声を上げ、
「私に遠慮してんの? スパルタ勉強会用カウチで寝落ちしたこともある仲なんだから気にすることないのに~」
「してねぇよ」
と言い返してからなんだか図星のような気がしてきて据わりの悪い気分になった。さっきのは何の気なしの気遣いから出た言葉だったはずだが、確かに出会った当初は平気でやっていたことなのに今はなぜか気が引けている。……いや、だから「なぜ」はいい。堂々巡りの思考をシャットアウトする。
黙りこくったアイオンを心配したのか、ヘンリエッタが困ったように笑う。
「ホントに気にしないで。どうせ私使わないしさ、アイちゃんがど真ん中で爆睡してても損しないもん」
「は? 使わないのか?」
聞きとがめると、ヘンリエッタがわずかに灰色の瞳を輪を掛けて大きくし、一瞬しまったという顔をした。
すぐ元のにこにこ顔に戻ったが、もちろんアイオンが誤魔化されるわけもない。
「使わないってどういう意味だ?」
口の回る魔女だ、いつもならこんな失言はしないだろう。独力で乗り切らなければならない状況に気を張っている証拠だ。うわどうしよっかなと考えているのが丸わかりの作り笑顔で言いよどんでいる。
「おい、まさかお前ひとりで寝ずの番でも買って出る気か?」
「いやいや違う違う!」
んなこと頼んでねぇよどうせ他に出来ることもねぇし俺が、と続けるつもりだったアイオンを遮り、ヘンリエッタが両手の前で手を振って、
「別に貧乏くじ引くつもりで言ったんじゃないの、単なる体質の話だよ」
「あ? 体質?」
「そ、そんな凄まないでったら。やっぱイライラしてるね~……。いつもほとんどベッド使わないからこれが私の通常運転なの。だから大丈夫~!」
にこにことピースサインを作られても大丈夫なんてとても鵜呑みに出来ない。今日はどうも情緒がおかしなことになっているアイオンをこれ以上刺激しないように「大丈夫大丈夫」と宥めにかかっているのは分かるが、実際はまったく逆効果だ。
柄にもなくボロに次ぐボロを出すヘンリエッタにアイオンの目は険を増していく。
「いつもって、普段からそんな生活してんのか?」
「ん、んん~……でももう習慣っていうか好きでやってることだからさ」
どうにか場を丸く収めようとして、ヘンリエッタが早口で言い訳を並べ立てる。アイオンが「お前の話をお前から聞いたことがない」と言ったせいもあるかもしれない。
「私の場合寝るっていっても半分寝ながら半分起きてるみたいな状態? 外敵の多い動物がやる寝方あるでしょ? あんな感じなんだよねー。たぶん慣れれば誰でも出来るようになると思うんだけど、ベッドに寝そべるとリラックスしちゃってやりにくくなるんだよ。なんかアイちゃんとカウチで寝落ちしたときはめっちゃ寝入っちゃったけど……爆睡とか滅多にしないのにな~なんでだろ? まぁいいや、とにかく私は机に突っ伏すほうが身体に合ってるから、アイちゃんはベッド使ってねってこと!」
じゃあそういうことだから、と言うだけ言ってヘンリエッタはアイオンを無理矢理ベッドへ移動させる。なにを言ってもハイハイと聞き流されて終わりだ。
今の身体ではろくろくそれに抵抗もできず、アイオンは歯噛みする。「おい、無視すんな」と呼びかけても宣言通り机に突っ伏してしまったヘンリエッタは答えない。
半分寝ながら半分起きてるという本人の弁が確かなら寝入ってはいないだろうに、これ以上ボロを出して都合の悪いところを突かれることは避けたいようだ。普段のおしゃべりが嘘のように貝になっている。
「……」
状況的にお互い気兼ねなく爆睡できやしないが、それでも元の身体ならぎゃーぎゃー文句を垂れる彼女を強引にベッドへ寝かすくらいのことはできただろう。
だが現実には、やっぱりなにもできない。
何者かに雇われた手勢に拉致監禁されているという切迫感、間近に迫った家族との再対決への不安に加え、今の自分の無力さを実感すればするほどこの魔女に対する「なぜ」と心配がどんどん膨れ上がり、心を重くしていく。
以前イースレイに言った、「世間が噂するヘンリエッタの過去の話に興味なんかない」というのは今でも変わらない。だけど、アイオンが安心するならと馬鹿正直に乞われるままに自分の話をしてみせる彼女の傷痕が少しずつ見えてきたせいで、つい考え込んでしまう。
つまり昔のお前は、その「外敵の多い動物がやる寝方」や恐怖と慈悲を使い分けて他人をたらし込むやり方を、練習して身につけたんだろ? なにか過酷な状況があったから、そうする必要に迫られたんじゃないのか?
そんな弱い生き物が綱渡りでかろうじて生き延びているような姿は、国を挙げて甘やかされて当然だと嬉々として大魔女の看板を掲げ、身分差をものともせず王太子妃の座を傲岸不遜に追い求める普段のヘンリエッタの態度とはどうにも重ならない。
……重ならないが、これも確かに彼女の一面だと、今ちゃんと理解しておくべきなんだろう。




