狙われた第二王子
マリオネット馬車を飛ばしてヘレネー領から南部王領地へ帰ってきたヘンリエッタだったが、庁舎へ続く坂道の途中で異変に気づいて馬車を降りた。
……魔力の残滓?
一帯に異様な魔力が漂っている。この感じ、難易度の高い魔術がこの場所で何度も行使されたみたいな……。
いや落ち着け、なによりもまずアイオンを探さないと。昼間だから行動はしやすい。
注意深く歩みを進め、庁舎の前庭に行けばもっと具体的で重大な異変が見つかった。南部行政監督庁のマリオネットたちが折り重なって倒れている。シャペロンの姿もその中にあった。
様子を確かめてみたところ、完全に破壊されているというわけじゃなく、強力な魔術で一時行動不能になっているだけらしい。ヘンリエッタたちの留守中に庁舎が強力な魔術師を含む何者かによって襲撃を受けたのは確定した。
「……アイちゃんっ……」
奥歯を一度ぐっと噛みしめ、姿の見えないあの子を呼ぶ。落ち着いている場合じゃなくなった。こうなった以上、もうヘンリエッタはもっと不安になるべきで、もっと焦り、恐怖するべきだった。
「アイちゃん!! どこ!?」
もし犯人がまだここに残っているとしても好都合だ。アイオンにも、犯人たちにも見つけてもらえるように大声で呼びながら庁舎内を捜し回る。人気は無く、あちこちに激しく争った形跡がある。
心臓がばくばくと早鐘を打っている。彼の実力なら抗えたはずだと思う端から最悪の想像が浸食していく。なんでこんなことになってんの、良い報せをお土産にできるはずだったのに、やっと運が向いてきた矢先にこんな、なんで。
探索の果てに裏口の扉に血痕を見つけ、ヘンリエッタは外へ飛び出した。
見れば森へ続く小径に点々と血の跡が続いている。出血量自体は大したことはなさそうだ。迷わず血痕を追いかける。
「アイちゃん!! いたら返事して!! アイちゃん!!」
アイオンのいらえか敵の攻撃が返ってくることを期待して森の入り口で声を張り上げる。緊張のあまり視野が狭くなるほどの吐き気が襲ってくる。
「アイちゃんっ!!」
ここにいないなら次の手を考えなくちゃいけない。でも行政監督庁の「鳥」は全滅してて使えない、初動が遅れる。アイオンの安全に影響する可能性が……いや、なんとかする。しなくちゃ。
必死に考えながら何度目か分からない彼の名前を叫んだとき、どこからかかすかに「ここだ」と声がした。
「……!」
ヘンリエッタは弾かれたように声のしたほうを振り返る。
聞き間違えじゃない。アイオンの声だ。
「ここだ、下。下だって」
大声で叫んでいるような声の張り方なのに聞こえる声量が妙に小さい。
疑問に思いながらも、罠なら罠で構わないと言われるままに下を向く。
「せーぜー笑う準備してから岩の上を見ろ」
岩の上?
道の脇にうち捨てられている小ぶりの岩は確かにある。
その上に、手のひらサイズのアイオンが載っかっていた。不機嫌そうに片脚を抱え込むようにして座り込んでいる。
ヘンリエッタは思わず目をこすり、岩の上を二度見するが、うん。幻覚じゃない。
極度の緊張が一気に弛緩し、頭の中が一瞬ぐちゃぐちゃになる。
「アイちゃ、……よ、良かったぁ……!」
「……良くねーよ、こんなふざけた魔術があるなんて聞いてねぇぞ」
と小さくなったアイオンが言い終わるか終わらないかというときだった。
森の奥から馬車が猛スピードで突っ込んできて、ヘンリエッタはとっさにアイオンを胸に抱え込んで伏せようとした。が、轢かれはしたかったものの伸びてきた腕に首根っこを引っ掴まれて、直後、頭を強い衝撃が襲って意識が白く霞んでいく。アイオンが血相変えて自分を呼ぶ声さえ遠い。
あぁああああもぉお、マジでぐちゃぐちゃじゃん!
◆
次に目が覚めたとき、ヘンリエッタはどこかの廃屋の一室にいた。藁を詰めただけの簡素なベッドからむくりと起き上がる。
「起きたか?」
とまた下の方から声がする。
気絶せずに済んだらしいアイオンが、手のひらサイズとはいえ五体満足でそばにいることにまずはほっとした。ずっと心配してくれていた様子の彼のほうは、そういうヘンリエッタの反応を見て眉間に皺を寄せる。
「頭ぶん殴られて気絶したヤツがいっちょ前に人の心配してんじゃねぇよ。気分悪ぃとか痛いとか真っ先に口に出すべきことがもっとあんだろうが」
「んん、へーきへーき。急展開すぎてそっちのが気になるよ。それより今どういう感じ?」
時間は夜、部屋に自分たち以外の人間がいないことを確かめ、たんこぶのできた後頭部を撫でてから、ヘンリエッタは軽く笑う。アイオンはまた眉間の皺を深めたが、この程度、本当に心配には及ばない。言うほど痛くないしね。
「……拉致されたんだよ。お前が庇ってくれたおかげで俺の存在には気づかれなかったみてぇだが……つかお前バカか? 貧弱なくせになに無茶してんだ」
「え~あれこそ無茶のしどころじゃない! あそこで私たちがはぐれてたら詰んでたよ。あ、ていうかどこここ?」
「さぁな。意識があっても馬車がどこへ向かってるかすら分かんねぇナリにされちまったし。ただ相当走ったから、南部王領地を遠く離れた場所だ。たぶん部屋の前に見張りが置かれてると思うから普段のノリでデカい声出すんじゃねぇぞ」
まだ納得いかない様子ながら、アイオンはことの経緯を簡単に説明する。
「お前が戻る直前、俺ひとりのときに庁舎が襲撃を受けたんだ。正体は分からねぇが盗賊風の連中で……適当にぶっ飛ばせると思ったんだが魔術を使えるヤツが紛れ込んでた。せめて俺が父親か母親のどっちかに似てりゃ少しはあがけたんだろうが、現実この通りのろくでなしなもんでフツーに詰んだわ」
「なに言ってんの。マリオネットを軒並みダウンさせるくらいの魔術師を相手に、私が帰るまで捕まらずにいてくれたんだから超のつく有能でしょ」
二、三日ならひとりでやれると言ってヘンリエッタを説得した手前、ばつが悪そうなアイオンにヘンリエッタは首を横に振った。う、いてて。
思わず笑顔が引きつってしまったのを見逃さず、アイオンが元々鋭い目つきをさらに尖らせる。
「不用意に頭動かすな」
「あはは、いやーうっかり……」
笑ってごまかしてから、ヘンリエッタはふと真剣な目でアイオンを見つめた。とっさに常と変わらない人を食ったような態度を取り繕いはしたみたいだけど、アイオンがほんの一瞬ぎくりとして視線を微妙に外したことはお見通しだ。あーこういうときに責任感じちゃうタイプだもんねー。この子がまた自分を卑下する前に、ここは早めに釘を刺そう。
「アイちゃん、君は王子様にしちゃこういう計画的な犯行の標的にされた経験がまだ少ないから思考がそっちにいっちゃうんだろうけど、敵が襲ってきてるときに『誰のせい』とかないからね。上手に生きていくには、他人に迷惑かける度胸や、必要以上の責任を取ろうとしない線引きも大事だよ。そこんとこはちゃんと分かってて」
「……」
アイオンが倦んだ目つきで無言のままヘンリエッタを見返す。ヘンリエッタはにっこり笑い、
「考えてもみてごらん、襲う側は準備し放題なんだから初めから百パーこっちが詰むように入念に計画して襲ってきてるんだよ? それを覆そうとやれるだけやった中で何がどう不発に終わろうが、襲われてる側の人間に『してやられたのはお前のせいだ』なんて言ってなんの意味があるの? こんなことになったのが誰のせいかって敵のせい以外にないでしょーが。私やアイちゃんが気に病む道理なんかどこにもないんだよ」
「……」
「それどころか逃げ延びて私と合流してくれたんだからワンセット先取って言っても過言じゃない。ひとりでよくがんばったね!」
「……それは言い過ぎだろ」
はぁとアイオンが気の抜けたような溜め息をつく。あんまり説教くさい空気が続いても良くないし、さっさと次の議題に移ろう。
「さ、そんなつまんないことより実りのあること考えよ。敵は何人くらいいるか分かる?」
「……庁舎を襲撃してきた男三人が、馬車でお前を攫ったらしい。この廃屋で残りの仲間と合流したと考えると、敵は三人以上。目的はまだ分からねぇが、お前の素性を知ってて攫ってきたならずいぶんな自信家だな」
「そうそう、目的」
アイオンは小さい身体でもできる限りの情報収集を心がけていてくれたようだ。頭の中で情報を整理しつつ、気になるポイントについて考える。
「やっぱ目的はアイちゃんなんじゃない?」
「あ? なんで俺だよ?」
自分に構う価値なんてないと言うように首をひねるアイオンに、とんでもないと目を剥いてヘンリエッタは言い聞かせる。こ、この状況でまだ「なんで俺?」が出る思考回路を抱えてるとはっ。ダメだ危うい、危ういぞ……。
「ちっとも不思議なことじゃないよ! コツコツがんばった甲斐あってアイちゃんの努力は認められつつあるし、一部の不届きな人たちに政治的に邪魔だと思われるほど君の存在感が増してきたってことかもしれない。君はもうハイラント殿下みたいに命を狙われる立場になっちゃってるんだよ。そろそろ防犯意識も更新すべきだねー」
アイオンは戸惑いがちに目線をうろつかせる。よっぽどビックリしたみたいだ。
「……んなわけあるか、女王はいまだに俺を無視してるし……即位記念日のときは兄貴だって……」
だよね。今までの境遇を思えばアイオンがすぐに信じられないのも無理はない。
だけどここでちゃんと自覚してもらわなきゃ、みすみす暗殺の危険にさらされるだけだ。もう一押しが必要ならとっておきの朗報を持ち出しちゃおう。
ヘンリエッタはにっこり笑い、内緒話をするように口の横に手を添えて、
「分かんないよ、人の心変わりなんかいつも突然だもの。実は宮廷魔術師団長に教えてもらってきたんだけどね、今年の冬期軍事調練、陛下がアイちゃんも呼ぶって! しかも私も同行していいみたいなの! ね、実際こうやって結果が出てきてるじゃない!」
「……え」
アイオンがたじろぐ。ただ出席して壁の花をしていればいい類いの式典は別として、こういう実践的な重要行事からは排除され続けてきた彼には寝耳に水だろう。
でもワイヤードが言うからにはこの情報の確度は高い。常時春の陽気みたいにのほほんとしてるけど、あの人は人をぬか喜びさせる人じゃないから、数日後にはメレアスタ女王から正式な令状が届くだろう。
態度こそ素直じゃなくても喜ぶアイオンを想像して、ヘンリエッタは嬉々として続ける。
「やったね~! ギャレイ宮廷伯が口添えしてくれたんだって! 何を隠そうこれを伝えたくて急いで帰ってきたんだよ私!」
「…………、へぇ」
アイオンはなにごとかを言いかけてまた口を閉じ、少しうつむくように視線を下げる。
「……アイちゃん?」
その仕草はあまり嬉しそうに見えなくて、ヘンリエッタは困惑した。
へ、変だな。きっと喜んでくれると思ったのに。
しかしアイオンはつい出てしまった自分の所作を隠すようにぱっと顔を上げ、いつもの飄々とした態度になって機先を制する。
「ま、陛下が許したんなら、お前もやっと大手を振って兄貴に会いに行けるってもんだな」
「う、うん」
「なら俺の取りなしはもう要ら……」
「え!? 要るけど!?」
要る要るめちゃめちゃ要る。とんでもないこと言わないでよね、やっと巡ってきたチャンスなんだから埋められる外堀はどんだけでも埋めます。
目を剥いて食い気味に遮ってくるヘンリエッタに、アイオンはうんざりと肩をすくめ、
「はぁ……兄貴との婚約に結論が出るのが先か、お前の復職が叶うのが先かどっちが早いかイースレイたちと賭けでもするかね」
「そりゃ仲立ちのお礼だと思って賭けくらいは許すけど……」
言いながら、やっぱりちっとも嬉しそうじゃないアイオンの様子にヘンリエッタはだんだん不安になってくる。
いったんタイムと言うように手のひらを立て、
「待ってアイちゃん、もしかしていまいちこのニュースの重大性が分かってない? もっと嬉しそうにするところだよここ?」
「うるせぇな、分かってるからほっとけ。ここを無事脱出して身体が元のサイズに戻ったら心置きなく喜ぶわ。イースレイたちにも言いふらす」
「え~ホントに~……?」
やっぱちょっと反応が変じゃないかなぁと首の角度がますます傾いでしまう。アイちゃん、なんか言いたいこと我慢してたりしない?
アイオンは訝しむヘンリエッタを遮り、
「とにかく……そんな一大イベントが待ってんだから早いとこ脱出する方法を探すぞ、っつーか主にお前が探せ。レオナルドたちが休暇を終えて戻ってこない限り、行政監督庁が襲撃されたこと自体誰にも気づかれないかもしれねぇ。急ぎたいとこだが、今の俺じゃ動いても亀の歩み以下だからお前が起きるまでどうしようもなかったんだ」
「待って、ここはあえて我慢の時だよ!」
ヘンリエッタが声を励ますとアイオンがじっとりと暗い目線を向けてくる。そ、そんな不満そうにしないでよぉ。
「あのね、ヘンな魔力が宿っちゃったモノが私が持ち歩くうちに鎮まるのと同じで、生半可な使い手の魔術は私のそばでは長続きしないの。この状況を一定時間乗り切りさえすれば、アイちゃんは私のそばに隠れてるだけで元に戻れるはずなのよ!」
「……マジか?」
「マジマジ」
ヘンリエッタは大真面目に請け合い、力強く言い聞かせる。
「だから目下やるべきは、魔術が解けるまであらゆる手を使って生き延びつつ、誰がなんの目的で企んだことなのか情報を集めるために手を尽くすこと。残念だけど今回はレオナルドもイースレイもマリオネットもドラクマンもいないから、生き延びることについてはとにかく私が頑張るね!」
「………………」
アイオンは相変わらずもの言いたげに浮かない顔で口を閉ざしているが、ヘンリエッタはお構いなしに改めて狭い室内を見回す。
ひとつしかない部屋の窓には板きれが打ち付けられており、外はろくに見えない。隙間から月明かりが差し込んでくるから、夜ということと天気がいいということは分かる。アイオンが小さくなってなければパンチ一発でぶち破ってくれただろうけど、今は望めないな。
室内は内装も調度品もボロボロで、壁際にある戸棚の中に放置されている陶器やグラスの縁は欠けているし、心得のない人が編んだのだろうバスケットにも埃が積もっている。その前には同じくボロボロの机と椅子。
気になったのは、木材や布にかじられたような破損があったことだ。
「どうだ?」
「しっ」
ベッドの前にちょこんと乗っかったまま訊ねてくる小さなアイオンを制して少し耳を澄ますと、部屋の隅にわだかまる闇をとととと、と軽く速い足音が駆けていくのが分かる。
「ネズミだ。やっぱいるよね~」
「またネズミ……」
キュンメルでの一件を思い出したのもあってか、アイオンはうげっと顔をしかめたが、ヘンリエッタのほうは死中に活を見いだしたような気分で口の端を持ち上げる。
「そりゃどこにでもいるから。じゃぁアイちゃん、まずあのネズミやっつけようか」
「は? なんで?」
怪訝そうにするアイオンにヘンリエッタはマイペースに答える。
「敵のうちでも屈強な上位メンバーにはできる限り接触したくないからね、弱っちいヤツを引っ張り出してお世話係にしてもらうための作戦だよ。私レース編みの糸と編み棒持ってるから、あのバスケットも使ってネズミ罠作るね。んで編み棒はアイちゃんの武装にしよ。直接触んないで済むようにね」
「……このサイズになってまでネズミ退治かよ……」
迷いなく名案とばかりにぴんと人差し指を立てるヘンリエッタにアイオンはますます嫌そうな顔をしたが、すぐ「しゃあねぇな」と溜め息ひとつで割り切った。
うんうん、付き合いは短くたって、そりゃもう多種多様な難題に見舞われてきたしね私たち。殿下にも会えることになったし、名実ともに仲良し姉弟になれる日も近いんじゃない?
キュンメルの地下闘技場摘発ですでに披露したスキルだけれど、平民あるあるというべきか、ヘンリエッタはネズミ取りならお手の物だ。宮廷魔術師になる前には他の街にあった闘技場を廃業に追い込んだこともある。
編み棒を装備したアイオンも戦力としては充分すぎるほどで、罠に掛かって首が絞まった状態のネズミを仕留めるくらい楽勝だった。さっすが~!
いちおう追慕の森で回収した例のペーパーナイフも身につけてるけど、これはこれで私がこんだけ持ち歩いてもなおまだ魔力が落ち着ききってない曰くつきの品だから持ち出しちゃいけないな。これひとつ武器にして大立ち回りなんか出来っこないし。
にこにこと称賛を惜しまないヘンリエッタを白けた顔で振り向き、アイオンが言う。
「おい、物音立てちまったからたぶん様子見に来るぜ」
「だね。アイちゃんはちょっと隠れてて」
ヘンリエッタはアイオンをベッドの陰に隠れさせ、バスケットを棚に戻して罠の痕跡を消し、ネズミの死骸の横に立つ。
すぐさま錠が開けられる音とともに「おい!」という怒号が響き、部屋へ熊のようなひげ面の男がランタンを手に乗り込んできた。なるほど、元のサイズのアイオンがいたならまだしもこんなムキムキが三人以上いるとなると、やっぱりアイオンなしじゃまともなやり方で突破するのは無理だろう。
ひげ面はヘンリエッタの目前に迫るや恫喝する。
「てめぇなにを騒いでた?」
ヘンリエッタは苦笑し、床のネズミを指さす。
「こんな即来るなんて見かけによらず敏感だなぁ。あと一歩でも近づいたら踏んじゃうよ? ソレ」
「あ? ……うわっ!?」
ひげ面はヘンリエッタの指さす先を怪訝そうに視線で追いかけ、ネズミの死骸に気づくと目を瞠って飛び退った。
目を鋭くして一挙手一投足を見逃さないようにヘンリエッタをじりじりと睨み、
「この野郎、魔術か!?」
「起き抜けに部屋にネズミが出たらやっつけるに決まってるでしょ。なーに、それすら許可制なの?」
ぬけぬけと肩をすくめれば、ひげ面の表情が本気の苛立ちと威嚇のためにさらに歪んでいく。よしよし、向こうは一通り大魔女に関する知識を持っているようだ。
魔力暴走を警戒させられさえすれば、向こうは下手にヘンリエッタに危害を加えられなくなるし、処遇についても配慮せざるを得なくなる。現実問題ヘンリエッタが爆発してしまったらあっちにはどうしようもないんだから、自爆覚悟でもない限りヘンリエッタが自重していてくれるように脅し文句を並べてくるはずだ。
「言っておくが抵抗は許さん。アイオン・レンスブルクの命が惜しけりゃおとなしくしてろ」
そうそうこんな感じで。
「そっちの要求はなに?」
「……だから、今てめぇに出来ることはさっき言った。おとなしくしろ、クソ魔女」
「……」
強力な魔術師が仲間にいるにもかかわらずアイオンを殺さずに無力化する魔術をかけるに留めたのは、ヘンリエッタに対する人質も兼ねてのことだったらしい。前々から出回ってた、兄から弟にさっそく乗り換えたとかいう滅茶苦茶な噂を信じたのか。節穴極まれりって感じだけど、この受け答え。アイオンがヘンリエッタと合流済みって知らないな?
情報の集まり具合は上々だ。
ヘンリエッタは軽薄な笑みを浮かべ、
「だったら私に余計なストレスかけないでくれない? おとなしくしろってそればっかり言うけど、誰の命がかかってようが、極論ムカついたら遠慮無く爆発するのが大魔女だって知らないわけないよね? 半端な人質作戦が効く性格に見える?」
ヘンリエッタは後ろ手で棚のグラスに結びつけた糸を引っ張った。グラスが床へ落ち、がしゃんと音を立てて砕け散る。魔女の生態を知っている相手の目には、ひとりでに周囲のものが壊れるという現象はヘンリエッタの魔力暴走の予兆に映っただろう。
「……」
硬直し、声を詰まらせるひげ面ににっこり笑いかけ、
「情報収集を怠らないタイプの悪党みたいで助かるよ。宮廷魔術師になる前の話だけど、キュンメルの他にもネズミ狩りの地下闘技場吹っ飛ばしてんだよね。私ネズミが大っ嫌いなの。色んな病気を運ぶから」
分かる? と笑顔のまま訊ねれば、ひげ面が苦々しく舌を打った。なにげない振りで一歩、二歩と後ろに下がり、部屋の外の廊下に広がる闇へ「おい入ってこい!」と荒っぽく呼びかける。まぁ魔女の居所にひとりきりで乗り込んでは来ないよね。二の矢を控えさせてて当然だ。
「お呼びですか……」
呼びつけられておずおずと出てきたのは髪を短く刈り込んだ痩せぎすの少年だった。まだ十歳くらいだろう。長袖から覗く細い手に包帯が巻かれている……可哀想に。
ひげ面がネズミの死骸を顎をしゃくって示し、
「そいつを片付けろ。手で触るんじゃねぇぞ、病がうつる」
「はい」
少年は殊勝に答え、外したマフラーでネズミの死骸を包み始めた。ひげ面は彼に錠前の鍵を押しつけ、「次に反抗すれば王子の命はないと思え」と言い捨てて部屋を去って行った。ふんだ、行け行け。私が用があるのはこっちの子のほうだもん。
少年はマフラーで床の血まで拭ってから立ち上がる。
「ね、その鍵くれない?」
その様子を眺めていたヘンリエッタが調子よく話しかけると、彼はどこか茫とした瞳でこちらを見返す。
「すみません、出来ません」
当然の返事が返ってきた。
ヘンリエッタは状況に不釣り合いなほど素直な返事にくすくす笑い、
「じゃあさ、あとでなにか食べるもの持ってきてよ。果物とお酒がいいな~」
「……訊いてみます」
「ありがと。君の名前は?」
「……魔女様は、変なこと訊くんですね。オリバーです」
「オリバーくんね。武器は持ってるの?」
「はい」
「君は痩せてるねー。そんなんでもいざってとき、非力なレディひとりくらいなら殺せちゃうんだ?」
「はい」
「そっかぁ。で、なんで王子や私を狙ったの? ホントの目的は?」
「ごめんなさい。言えません」
「口が堅いねー」
オリバーの受け答えは一見すっとぼけているが、本人はいたって大真面目なんだろう。真剣なままで感情がすり切れてしまった人間の反応に見える。
「でもさっきの熊みたいなごついヤツなんかと比べたら、君のほうが相手してて気分的には全然マシだなー! ……って、仲間に伝えといてよ」
「……? そう伝えればいいんですか。はい、分かりました」
「うん、良い子だね。よろしくね」
終始ぼんやりした顔つきで仕事をこなし、オリバーは部屋を出て行った。きっちり錠をかける音がして、足音が遠ざかっていく。といってもひげ面とオリバーが去ったといっても他にも見張りがいるだろうから、この隙になにか強引な手に出るのはやめておく。
……しかし今回は、つくづくアイちゃんの前でやりたくないことばっかやらなきゃいけないなぁ……。概して良いことと嫌なことは交互に来るもんなんだよね。頑張るって言った以上は頑張らなきゃ。
ま、とりあえずの目標は達成だ。
はぁ~と深く溜め息をついてベッドに腰を下ろし、隠れていたアイオンを両手ですくい上げる。
身を隠しながら、腕組みをして苛立ちもあらわに一部始終を見つめていたアイオンは、不安定な手のひらの上でも強靱な体幹で姿勢を保っている。あっこれ怒ってる……めっちゃ怒ってる……。
「……ふざけてんのかお前? 俺が動けねぇ状況で敵を煽るな、ガキだからってむやみに絡むな。どんな目してりゃアレが『良い子』に見えんだ?」
「わ、私だってやりたくないよ、でもこういう作戦だから! アイちゃんが元に戻るまでここで生き延びるための!」
見張りに聞きつけられないようにこしょこしょと言い訳すると、アイオンの険のある目が説明を促してくる。心配をかけてたって一目で分かる目つきだ。相変わらず優しいんだからー。
ヘンリエッタは場の空気を和ますためにこほんと咳払いして、
「こういうテクがこの先アイちゃんも必要になるかもだからさ、見学だと思っててよ。言ったでしょ、敵が多勢のときはあーやって、まずは立場が弱くて虐げられてるメンバーを引っ張り出すの。アイちゃんの実力がちゃんと正しく世間に知られるようになれば、さっき私がやったみたいな脅しが通じるようになるから上手くやるんだよ。気が咎めても躊躇しちゃダメだよ」
オリバーのほうがまだ相手しててマシだと伝えたので、今後はヘンリエッタの魔力暴走を防ぐために彼が世話役を仰せつかるようになるだろう。一味の中で冷遇されている使い捨て同然の子どものほうが断然取り入りやすい。
要求する食べ物は毒を盛りにくい果物と酒にして、水は求めない。毒が混入されたときに見分けやすい利点はあるが、それ以前に水に当たってしまう可能性のほうが高い。要求が容れられるかどうかは心配しなくてもいい。魔力暴走の予兆があるように見せた以上、魔女のワガママを聞かない選択肢はあっちにもうないからだ。
というようなことをちまちま説明するヘンリエッタだが、そのうちにアイオンの表情はどんどん険を増していった。
地を這うような低い声で、
「……お前いくらなんでも手慣れすぎじゃねぇの。それ王太子の婚約者になってから積んだ経験か? まさかその前から?」
「え、やる側に回ったことはないよ?」
「んなこと疑わねぇよ、ふざけんな」
ヘンリエッタにそんなつもりはなかったのだけど、アイオンは過剰反応なほど強い言葉を使い、真剣な疑問を茶化されたときのような苦い顔で鼻を鳴らす。
「こっちはお前の話っていっつもイースレイやレオナルドから聞くばっかで、お前から聞いたことなんかほぼねぇから訊いたのに……」
「あぁそういえばそうだっけ……え? ん?」
アイオンの反応があまりに意外で、ヘンリエッタはびっくりが行き過ぎて混乱する。
あれ、アイちゃん拗ねて……る……? 本人も自覚なさそうだけど。
目の前に広大無辺な宇宙が広がりそうになるが、何度頭の中で反芻してみてもアイオンの口ぶりは「お前のことをお前の口から知りたかったのにはぐらかされて腹立つ」としか聞こえない。別にレオナルドたちだって事実しか伝えてないと思うけど、なにその変わったこだわり? でもそれをドストレートに聞き返したりなんかしたら余計に事態がこじれるに決まってる。
サイズが小さくなってると情動も多少若返っちゃうのかな? ヘンリエッタは慌てて両手を顔の前で振り、にこにこと愛想を振りまいてアイオンの機嫌を取る。
「いやあの話したくないとかじゃないんだけどさ、今この場で長々昔語りするのはまずいでしょ~? ホラもうあの子帰ってきちゃうって」
「別に、お前が嫌なら……」
はー話したくないわけねじゃあもういいわ、とでも言うようにますます典型的な拗ねモードに入っていきかけたアイオンだったが、不意に廊下を近づいてくる足音に気づいてはっと口を閉じた。
ヘンリエッタが素早くアイオンを棚に隠したとき、
「……あの、イチゴとお酒をお持ちしました。お気に召しますでしょうか」
目論見通り、ヘンリエッタの世話を押しつけられたらしいオリバーが部屋に入ってきた。布巾に包まれた数粒のイチゴと蒸留酒の瓶を机に置き、「どうぞ」と頭を下げる。ヘンリエッタ個人に敬意を払っての所作でなく、人と接するときはとにかくこうしなくてはと経験上すり込まれただけのものみたいだ。
それから、彼の口元。さっきまではなかった傷がある。……ごめんね。今はそれだけで済んでも、この先私は……。
イチゴはなかなか大粒でまだ新鮮だ。冬イチゴは比較的温暖な地方でしか採れないから、少なくとも現在地は南のほうらしい。蒸留酒は安酒だが瓶入りだしコルクで封もされている。むちゃくちゃな混ぜ物で水増しされた、呑めば呑むだけ寿命が縮む「真の」安酒じゃない。ずいぶん羽振りがいいことだ。
ヘンリエッタは愛想良く笑顔を浮かべ、
「ホントに持ってきてくれたんだ? ありがとう。他の連中に私の要求伝えるの怖かったでしょう?」
「……いえ、平気です」
「嘘」
一足でオリバーに近づき、殴られたばかりの彼の頬に手を添えると、痩せた身体がぎくりと強ばった。顔に影が落ちるほど人との距離が近づくことが訳もなく怖いんだとその反応だけで分かる。
「あ、あの僕……っ」
「ごめんね。私がワガママ言ったからあの熊男か誰かに八つ当たりで殴られたんだよね? こうなるような気はしてた」
――あーもうやだやだ、我ながら。けど背に腹は代えられない。できる限りアイオンに見られていることを意識しないようにしながら、昔「信者」によくやった手つきと声音で彼の頬を撫でる。
あの、あの、と何もかもに慣れていないオリバーが血色の悪い唇をわななかせた。彼はみるみるうちに顔を青ざめさせ、震える両手を胸の前で組み合わせてヘンリエッタから必死に視線を逸らしながら懇願する。
「……ご、ごめんなさ、僕もこっ、殺すん、ですか……?」
「殺す? あぁ、あのネズミみたいに?」
彼が処理させられたネズミを思い出させると、彼はこくこくと首を縦に振る。魔女についてろくに知らない子どもでも、ヘンリエッタが魔術で殺したものと思い込んでいる無惨なネズミの死骸によって危険性を実感させられた後じゃ怯えて当然だ。
ヘンリエッタは微笑んだまま、
「君って良い子だねぇオリバーくん。それにとってもかわいそう。正直アイオン王子がどうなってようが私はそのうち全部吹っ飛ばしちゃうだろうけど、君だけは助けてあげたいなぁ……」
「……、……」
「助けてほしい? 大丈夫、頷いても誰にも言わないよ。誰にも内緒で助けてあげる。そうなったら君は、生まれ変わったみたいに全く別の人生を送ることになるね」
ささやきかけて落ちくぼんだ目を見つめる。
恐怖と裏腹な期待が空っぽだった心の中で急激に膨れ上がり、打ちひしがれたように凍り付いているオリバーが返事をする前に、ヘンリエッタはぱっと彼から離れた。
離れた瞬間、オリバーの表情に崖から突き落とされたような絶望を確認して、あははと明るく笑う。
「いやーそんなに怖がられるとは! ごめんごめん、もう行っていいよ」
「……え、い、行っていい、って」
オリバーは我に返り、でも、とへどもどしてヘンリエッタの顔色をうかがう。それを無視して手をひらひらさせ、「うん、だからもういいよ」と念を押すと、彼は混乱を引きずったまま部屋を出て行った。ちらちらとこっちを気にしながら。
……うん、これでもう一仕事終えたかな。
内心で小さくガッツポーズを決めてから背後を振り返り、
「よし、ア……いたっ!?」
アイオンに呼びかけようとした矢先に足の小指に軽い痛みと衝撃が走り、ヘンリエッタは思わずしゃがみ込んだ。棚の角にぶつけたときみたいに痛い。
「は!? 何!? アイちゃん!?」
拗ねモードの次は突然どういう情緒!?
なんとか大声を呑み込んで信じられない気持ちで食ってかかるヘンリエッタだが、小さくなった拳で(手加減して)靴の上から足の小指をしばいてきたアイオンが見たこともないくらいやさぐれた顔をしていたので「ひぇ」と息を呑んだ。
不満があっても基本的に自分の中で感情を完結させがちなアイオンにしては珍しい。なにより今までずっとなんやかんや言いつつヘンリエッタ含め誰に対しても優しく、怒りにまかせて手を出すなんて素振りさえしなかった彼のこの行動は衝撃的だった。
「あ、アイちゃ……」
どうしようついにマジ切れさせた……!?
ヘンリエッタはめちゃくちゃ慌てた。さっきから慌てっぱなしだ。あわあわと手を差し伸べても、隠れていた物陰からここまで小さな身体で抜き足さし足で移動してきた直後とは思えない素早さでかわされてしまう。
彼がどうしてそんなに憤慨しているのか、脳みそをフル回転させてどうにか察しようと試みる。まぁフラストレーション溜まってるとこに面白くないシーンを見せた自覚はあるし、とにかく謝ればいいか? いいかなそれで?
「やっ、そ、そうだよね嫌なもの見せちゃったよね! 子ども相手に酷いやり口だよね、ごめんアイちゃんっ、ごめん!」
「…………っ」
アイオンはわたわたするヘンリエッタの前に仁王立ちし、しばらくふー、ふー、と肩で息をしながら怒りを鎮めていたようだったが、やがて呆然と自分の拳に視線を落として酷く疲れた顔になった。
「そうじゃない、そんなこと思ってねぇ、…………なんで……俺……意味分かんねぇ……」
「……いや分かんなくないけど……?」
ヘンリエッタがアイオンの立場でも、状況が状況とはいえただ利用されているだけの貧しい子どもが目の前で良いようにもてあそばれていたらむしゃくしゃするだろう。一発しばいて自分がどれだけ酷なことをしているか理解させてやるくらいのことはすると思う。まぁこの先もっと外道な手を使う羽目になるっぽいんだけど。
しかしアイオンのほうは、なんだかよく分からないが自分の行動を悔やんでいるようで、肺の空気を全部吐き出す勢いで溜め息をついて顔を背ける。
「悪かったな、仲間割れしてる場合じゃねぇってのに」
しかも謝ってきた。えぇ……ほんとに情緒どうしちゃったの……。
その場しのぎにあははと乾いた笑いをこぼし、
「あ、それともアイちゃんのことなんかどうでもいいみたいなこと言ったから? あんなの嘘だよ、大嘘! 狙われたのが君じゃなかったらとっくに……」
「んなこと分かってんだよ……もう言うな。もういい。お前の行動は必要なことだし、お前をひでぇ女だとも思ってねぇよ。後ろ向きな勘ぐりすんな」
「そ、そっか? うん、なら……良いんだけど……」
アイオンの表情は暗く鬱屈しているが、彼の言葉にウソはなさそうだ。
だけど、この先私がやる――かもしれない――ことを見てもそんな風に言えるかなぁ。
にしてもなんかもうさっきからアイオンがいつになくご乱心なもんだから全然ついていけない。でもそこを根掘り葉掘り訊いちゃうと悪化するのが男の子心の複雑なところだ。ヘンリエッタはしぶしぶ納得したふりをして、近い未来への不安をいったん棚上げしつつこの話を終わらせておいた。




