結果を待とう
陽が傾きかけたころ、息抜きにと前庭に出たイースレイの目はベンチに座ってぼんやりレースを編んでいるヘンリエッタの姿を捉えた。
はぁ、とため息をついて、少し考えてから何気ない風を装って彼女のもとへ歩み寄る。
「結局どこにも行かなかったのか?」
マリオネット馬車を使ったって構わなかったのに買い物どころか散歩にもいかず、日がな一日ここで過ごしていたらしい。
ヘンリエッタは横目でこちらをちらりと見て、また視線をぼんやりと前に戻す。最近なんとなく分かってきたが、アイオンなどへの対応と比べると彼女のイースレイに対してのそれはかなり雑だ。
「まったく、休みなさーい! って私を閉め出すなんて君くらいのもんだよ。ひとりでいたってつまんないだけなのに」
「そんなに心配か? どちらが?」
「両方」
アイオンの心痛もハイラントの様子もどちらも気がかりなんだとヘンリエッタは言い切った。だが迷いのないきっぱりした口調とは裏腹に表情は拗ねているようにも、なにかに挑みかかるときのように緊張しているようにも見える。
「離宮ってさぁ」
と彼女は出し抜けに言った。
「元王宮書庫番さんの印象でいいから教えてほしいんだけど、どんなとこなの?」
アイオンを案じているヘンリエッタがなにを知りたがっているのかは明々白々だ。濁す必要もないので、イースレイは彼女の斜め前に立ったまま聞き返す。
「君はどれくらい知ってる?」
ヘンリエッタは首を横に振り、
「ほとんど知らない。王宮が主な行動範囲だったし、勉強と宮廷魔術師の仕事と殿下のサポート業務で毎日いっぱいいっぱいだったし、そもそも……殿下は意図的に私から離宮や弟くんの情報を遠ざけてたんだと思う。多分だけど」
「殿下が? なぜだ?」
「んー、分かんない。やっぱ不可解だよね。殿下とはそのことも話し合わなきゃと思ってるよ」
頭の回るこの魔女がこの世の誰より執着している相手の真意が読み解けずにいるなんて意外だ。軽い調子で肩をすくめてはいるが、現状この件に関しては本当に手詰まりなんだろう。
イースレイの視点でも、ハイラントがヘンリエッタにアイオンの冷遇をことさら隠す理由に心当たりなどない。いくら目が回るような忙しさだったといってもヘンリエッタが王宮に来てからの五年間、その情報を遮断しきるのは容易ではなかっただろう。必要に駆られてのことか、あるいは心理的な理由か。なぜそこまでして……。
「……。それで俺に教えてほしいということか」
「うん。だって私とラローシュとの因縁をアイちゃんに教えたの君でしょ? そのお代がまだだよね~?」
一転にまっと笑って催促され、イースレイはちょっと気が抜けた。
アイオンに彼女の過去を明かしたことをもっとなじられるかと思ったが、ヘンリエッタはそんなことなんか織り込み済みとでも言うようにあっさりしたものだ。
まぁ、それならそれでこちらも割り切って話ができるか。
「俺も内情までは知りようがなかったからな。だが表面的な情報と現存する記録で語るなら、離宮は『ゲートルード・シャムエールの庭』だと言えるだろう」
「その人は知ってる!」
ヘンリエッタがぽんと手を叩く。
「前の王様の愛妾だったんだよね? ものすんごい年の差じゃなかったっけ?」
「ああ。レディ・ゲートルードはまだ三十代半ばの若さだ」
現国王メレアスタは先王ツィドスと王妃との間に生まれた娘だから、ゲートルードとの血のつながりはなく、容姿に共通点もない。ゲートルードは焦げ茶色の豊かな髪に妖しげな緑色の瞳のヒョウを思わせるきつめの美女で、生まれ自体は平凡な下級貴族の娘だった。
王妃亡き後ツィドスは娘とさして歳の変わらないゲートルードを気に入り、周囲の反対を押し切って愛妾として王都に迎えた。ツィドスが新たに造営した離宮を彼女に与えたときから今日に至るまで、ゲートルードはその頂点に君臨している。玉座がメレアスタ女王のものになっても、だ。
「先王が自分の死後もゲートルードが苦労しないで済むよう遺言を残していたせいで、メレアスタ女王も離宮には大鉈を振るえないでいる。先王との間に子をなせず、王宮に住めなかったのがかろうじて救いだったな。ゲートルードはこれはと思った芸術家やデザイナー、思想家などを離宮に招いて援助し、王都の流行を作り続けている。本来なら王配や王妃が担うような文化芸術の振興を、現状ではゲートルードの離宮が牽引しているんだ。性格はどうあれ、才女なのは確かだな」
「うわ、ってことはお友達がたくさんいるのか~。厄介だなぁ」
素直に話を聞きながら、ヘンリエッタは細い指先で小石をつまんでいじっている。
「アイちゃんとレディ・ゲートルードの仲は?」
「……、推して知るべしだ。ゲートルードは先王と別の女の間に生まれた孫を慈しめるような性格はしていない。これは周知の事実だ」
「ふぅん。やーっぱそうなんだ」
ヘンリエッタはつまらなそうに小石を宙に投げ上げ、落ちてきたそれをぱしっと掴む。アイオンを気に掛けている彼女には当然気にくわないはずだ。手遊びに過ぎないその所作がイースレイには不穏に見え、思わず釘を刺す。
「……だからって離宮を吹っ飛ばしたりするんじゃないぞ」
何気ない調子でそう言いながら、イースレイは指先にまで緊張の糸がぴんと通るのを感じた。背筋にさっと悪寒が走る。事実、もしヘンリエッタの気が高ぶれば離宮なんか簡単に吹っ飛んでしまうだろう。それでどれだけの貴族の敵意と恨みを買おうが、彼女のそばにいた人間としてイースレイたちが責任を追及されようが、損得勘定を超えて感情のほとばしるまま暴走する彼女には知ったことじゃない。
けれどヘンリエッタはふんと顎をそびやかし、
「やーりーまーせーんー! アイちゃん本人がやってほしいって言うなら応相談だけど!」
もてあそんでいた小石をぽいと放り捨て、勢いを付けてベンチから立ち上がった。
「ありがと、なんとなく分かったよ。今んとこ君の話が元で離宮が突然爆発するなんてことはないから安心してよね?」
「あぁそうか、それを聞いてほっとしたよ……」
イースレイは呆れたように返し、思い切り伸びをした。凝った肩や腕の筋骨がぼきぼきと鳴り、とたんにヘンリエッタが腰を引かせる。
「肩こりでそんな音する!? ねぇ、今日はもう一区切りつけたほうがいいよ。私ももう中に戻るし」
噂で聞いていたイメージよりずっと世話焼きなたちのヘンリエッタに促され、イースレイはうっと言葉に詰まった。あんまり酷い音が鳴ったので内心驚いていたところだったのだ。
夕暮れの彼方にはまだアイオンのマリオネット馬車の影さえ見えない。
ヘンリエッタとハイラントの仲はどうとでも転がればいいが――そして個人的な見立てで言うと最終的には当然破談に終わるだろうと考えているが――、今日まさに家族との軋轢を突きつけられているだろうアイオンのことはイースレイとしても気がかりだ。
我ながら奇妙な感覚だが、もしアイオンのそばにヘンリエッタが同行していたならこうまで心配にはならなかったような気がする。
確かに彼女は恐ろしい魔女だけれど、悪人というわけではないから。
◆
アイオンがマリオネット馬車に乗って帰ってきたのは翌日、明け方のことだった。
藍色から薄紅色までのグラデーションがうろこ雲の浮かぶ空を染める。弱い風に吹かれながら部屋の窓から外を見ていたヘンリエッタは、前庭をゆっくりと庁舎へ向かって歩いてくるアイオンにすぐ気づくことが出来た。
「おっかえり~アイちゃん!」
庭に飛び出してにっこり明るく笑って出迎えたヘンリエッタに、アイオンは浅く息をついた。うーん、やっぱり疲れてるよね。
「起きてたのかよ……」
アイオンはどこか暗い声音で呟き、ふいと視線を外す。
「あいにく良い報告はないぜ」
言葉を飾り立てる余裕もないのか、アイオンは端的に結論を告げた。
ヘンリエッタは一瞬返答に窮し、笑顔が一気に嘘っぽさを帯びる。
「そ、……っか……」
とっさに上手く声を作れず、無意味な相づちしか出てこなかった。
それでもアイオンの手前なんとか我を失わないようにして脳みそだけは回し続ける。
――いや、うん。アイちゃんの様子を見たらそんなの一発で分かるし、分かってたし。私は大丈夫。
彼ができる限りのことをしてくれたってことももちろん分かった。
本人は無自覚だろうけど、だからこんなに申し訳なさそうな、叱られた子どもみたいな顔してるんだ。
全然気に病むことじゃないのにすっかり萎れて、自嘲的な笑みを作ろうという気さえ起こらずに、せめてと自分がまるで石みたいになにも感じてない振りをしてる。それは心の中、自分を自分で打ちのめしながら他人の目を恐れてる証拠だ。
確かに私は一晩中外を眺めて待ってた。待ってる間は殿下が私と話す気になってくれる未来を期待してたし、アイちゃんが陛下に努力を褒めてもらってちゃんと認められることを祈ってた。それが叶わなかった落胆でさっきは頭が真っ白にもなった。
でも今、朝焼けの中向かい合ったアイちゃんの表情を見た瞬間に雑念は吹っ飛んで、ただ「そんな顔しないで」って反射的に願ってた。
もう殿下のことはこの際いい。私が諦めなきゃいいだけだ。これで終わりじゃないし、今後どうとでもできる。
だけどアイちゃんは……アイちゃんの負った傷は……。
アイちゃん。
ひとりぼっちで、いったいなにを言われてきたの?
「……よし分かったっ!」
ぱーんと思い切りよく手を打ち鳴らすと、アイオンが驚いてびくっと肩を跳ねさせる。ヘンリエッタは構わず陽気に笑い、
「こういう日もあるか~って切り替えるためにはいったん凹み切らないと! ってことで今から気が済むまでふたり仲良くとことん落ち込も! めそめそじめじめ布団の虫しよーっ!」
「はぁ?」
アイオンの腕を引き、えいえいおーっと拳を振り上げるヘンリエッタにとっさについていけず、アイオンが眉をひそめる。だいじょぶだいじょぶ、悪いよーにはしないからお姉ちゃん(予定)に任せなさいっ。
「もう今日はなんにもしなーい! する元気なーい! これアイちゃんもだからね!」
「……俺もかよ」
「そうだよ、ふたり仲良くって言ったじゃん? 私は連休になるけどレオもイースレイも休め休めってうるさかったし別に良いでしょ! ほーんとやってらんないことばっかだよねー世の中!」
「……」
アイオンは戸惑いがちになにか言いかけたけれど、迷った末に呑み込んだ。
うんうん、多分その言葉は捨ててくれたほうがありがたい。誰に宛てるべきかも分からないまま、漠然とした強迫観念に駆られて言う自己卑下の「ごめん」とか、自暴自棄の果てにこの情けな~い連帯感すら拒絶しようとしての「やめろ」とか、どれも口に出してほしくないもの。
私は私で、殿下との間を取り持ってっていう私のお願いを心に留めていてくれたであろう彼にありがとうを言いたかったけど、今は言わない。色んな人に傷つけられて、自分は無力だと決め込んでるときにお礼を言われても、響かないどころか傷口に塩をすり込まれるようなもんだろうし。
私の空元気なんか当然バレてるだろうな。
お互い露骨に気を遣い合うことになっちゃったけど、だからって別に悪いことじゃないし嫌な気まずさじゃない。凹むだけ凹まないと先が見えてこないこともあるでしょ。
目を丸くしながらも、アイオンは割とおとなしく引きずられてくれていた。
大丈夫。永遠に取り返しのつかないことなんか今日一度も起きてない。君にも、私にもね。




