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即位記念日を乗り切ろう

 チーブル伯爵家の件を経てますます南部行政監督庁の評判は右肩上がりで、ドラクマン支部長を通じて届く相談事も増えてきている。

 些細なものからさばいているうちにあっという間に女王陛下の即位記念日は目前に迫り、昨日がアイオンの出立日だった。

「じゃあ今年も適当にやり過ごしてくるわ」といつもと変わらない飄然とした態度で出掛けていった彼を、ヘンリエッタたち三人は見送ることしか出来なかった。

 メレアスタ女王の即位記念日はイコール、彼女の父である先王ツィドスの命日でもある。だからこの国では女王の即位記念日は祝われない。女王自身も毎年この日は父王が特別好んでいたロードライト城に籠もり、肉親とわずかな側近とともに瞑想にふけるのが通例だ。息子のアイオンが召集されたって、王太子を殺しかけたばかりのヘンリエッタはもちろん、護衛の名目でレオナルドが同道することさえ叶わない。

 このロードライト城は行政監督庁同様、この南部王領地内にあるので、アイオンの今回の旅路はほんの短いものだ。でも距離の長短じゃなく気が重いのには違いないだろう。

 こんなときにお留守番するしかないなんて穏やかでいられるはずないよ。

 これから出掛けるってときには「いってらっしゃ~い。くれぐれも殿下によろしくね~!」とかなんとかへらへら笑って手を振ったヘンリエッタが、いざアイオンがいなくなると落ち着かない様子でレースを編む手も思うようにいかないのを見咎めたのはイースレイだった。

「色々と気がかりなのは分かるがその調子で書斎にいられると仕事の邪魔だ。どうせ肝心の行政監督官が不在なんだし、良い機会だ、君も休暇を取れ。本来なら職分も与えられていない君は毎日が休みのはずなんだから」

 と厳に言い渡し、ヘンリエッタを庁舎から放り出した。

 出会った頃に比べればびっくりするくらい強引になった事務官様と嫌がるヘンリエッタの短い攻防を、レオナルドは腹を抱えて笑って見ていたんだからまったく薄情な友達だ。

「やだぁあ! やめてよ! なんで追い出すの!?」

「なんではこっちのセリフだ! 休みをやると言ってるのになぜそんなに抵抗する!?」

「イースレイ、ブーメランだぞそれ~」

 困惑しきりのイースレイに笑い声をあげる合間を縫ってレオナルドが言う。

「いいから散歩なり買い物なり行って気を紛らわして来なさい!」

 最後にはバン、と背後で玄関扉が閉ざされて、秋晴れの爽やかな前庭に尻餅をついたヘンリエッタはよろよろ起き上がった。

「いったー!? しんっっじらんない、レディを文字通り叩き出すヤツがある!?」

 イースレイのバカー! と憤慨しても、彼がころっと手のひらを返して謝ってくれたりはしない。

 少し前までは大勢いたチーブル家の使用人たちも今はひとりも残っていないから、庁舎は静かなものだ。みんな自分の努力やヘンリエッタの支援によって再就職先を見つけて旅立っていった。あんなに遊んであげた職人の子どもたちももういないし、だーれも相手してくんない。

 山のようだったチーブル家からの押収品も華麗に処理してやったし、アイオンが珍しく忠告してくるからマディのこともお得意の弁舌で良~い感じに収めといた。ので、マディももうここにはいない。

 家事はマリオネットがやってくれるし、要するに、やることがなさすぎる。


 なんで抵抗するかって、ひとりでいたってつまんないからに決まってるでしょ。ホント分かってないよ。

 やることはないのに心配事はあるもんだからどうやっても落ち着かないし……。こういう時間って苦手だぁ……。


「……はぁ。レース編み以外にも趣味増やすべきかなぁ……」


 南部王領地、四季折々の花が咲き乱れる丘の上に美しい白亜の城がある。

 母の即位記念日にして祖父の命日であるこの日、毎年ロードライト城の塔のてっぺんには王室旗が掲げられる。城に王を迎えている間だけこの旗が使われるのだ。

 今年は晴れてはくれたが風がなく、王室旗はしおれた花のように沈黙している。

 馬車から降りたアイオンは一度その旗を見上げてから入城した。


「これはアイオン殿下。無事のご到着なによりでございます」

 大理石でできたエントランスホールで、急に声を掛けられた。

 五十がらみのいかにも品位を備えた紳士だ。ウェーブのかかった背中の半ばほどの青みがかった黒髪をひとつに結び、まなざしには知性をにじませ、口元にわざと好感を示すがごとくかすかな笑みを刷いている。顔立ち全体に鷲を思わせる峻厳さがあった。

 アイオンはすぐに彼の正体に気づいた。

「……あんたがギャレイ宮廷伯か。さすが、ここへの同行を許されたんだな」

 限られた宮廷の主要メンバーしかここへは来られない。ギャレイは兄の教育係のひとりでもあったと聞いているし、女王の信任もさぞ厚いんだろう。ここにいてもおかしくはない。

 ギャレイは微笑んだまま恭しく肯定した。綺麗すぎるほど綺麗な所作だ。

「この城の管理・修繕を妹とともにお任せ頂いている関係で、ふたりとも残っていてよいとお許しをいただけたのです。のちほどご挨拶にうかがわせてください」

「……それは構わねぇが、そうか。いつも世話かけて悪いな」

「とんでもございません。ヘレネー司教領、ハノーバー男爵領、チーブル伯爵家の件と、殿下の目覚ましいご活躍のほどは私も聞き及んでおります。行政の才覚もさることながらあの魔女までもコントロールしていらっしゃるとは、敬服いたしました」

 コントロール? アイオンは思いがけない表現に紫色の眼を眇めた。

「あいつがお節介焼きなおかげで結果的に得してるだけだよ。おとなしく誰かのいいように使われてくれるような女じゃねぇだろ、あれは」

 ご謙遜を、とギャレイは微笑みとともにお定まりの文句を返し、すっと半身を引く。

「どうぞこちらへ。陛下がお待ちです」

 嘘つけ、待ってるわけあるかよ。


 ロードライト城は現実離れした美しさを追究し祖父ツィドスが造った城だ。若き日に善政を敷き偉大な王とあがめられた王ほど、晩年にさしかかるにつれて死後の救いを求めるようになるんだろうか。現世の楽園を表現すべくデザインされたというが、アイオンにはその構造はどちらかというと鳥籠に似ているように見えるし、うそ寒さと圧迫感しか感じられない。

 ふんだんに使われた大理石は差し込む日差しを受けてぴかぴかに輝き、窓にはステンドグラス、天井や扉の周囲には美しいモザイク画が施され、柱や壁面のくぼみには天使をかたどった彫刻が鎮座している。あまりに美がたたみかけてくるので、しんと静まりかえった廊下を歩きながらだんだん現実味が薄れていくのも毎度のことだ。


 城内にある礼拝堂に、やはり女王はいた。

 祖父の亡骸が眠る場所でもあるからか、よくここで祈りを捧げたり瞑想にふけっているのだ。

 祖父はとりわけこの礼拝堂の設計に心血を注いでいたらしく、十字に伸ばされた回廊の両脇に噴水のある中庭から大理石の階段を上った先にある堂々たる威容は神殿のようで、内部に入ればそこにはひとつの別世界が広がっている。ここに入れるのは王族だけだ。

 アイオンの呼吸は我知らず浅くなる。

 純白と黄金の二色で統一された寒々しく静謐な世界、祭壇の前に置いた安楽椅子に腰掛け、一心不乱と表現しても良いくらいにじっと頭を垂れて意識を集中させていた女王がアイオンに気づいて視線を上げる。

「…………あぁ。そなた、来たのか」

 温度のない金色の瞳がアイオンを射抜いた。かすかに隈の浮いたほの白い冷厳な美貌を囲む、銀色と明るい水色の狭間の色をした美しい髪が身じろぎの振動でさらりと揺れる。兄には受け継がれたその色彩はアイオンの持たないものだ。

 一言発されただけでも伝わってくる、理由も分からない拒絶の気配。十四年もつき合ってきたものに今さら感慨もなにも湧かないはずが、また頭の片隅が「なぜ?」と不思議そうに呟いた。

 そんなに嫌いな息子ならどうしてわざわざ呼び寄せ、挨拶させ、敬愛するツィドス先王に祈りを捧げさせさえするんだろう。こういう行事のときだけ親族の結束を表面上取り繕ったって、内実が伴ってないんだから無意味だ。とっくの昔に世間は女王の第二王子嫌いを知っている。なんとか拝謁の栄に浴したいと日々腐心している連中だって掃いて捨てるほどいるのに、ただ体裁を保つためだけに、そいつらを押しのけて俺なんぞがこの場に潜り込んでいる。

 いや、益体もないことは考えない。思考を遮断する。

 アイオンは黙って淡々といつも通りに礼をしたが、母はまるで見えていなかったかのように完全に無視した。このあとにどんな言葉を続けるつもりなのかと、アイオンは無意識に身構える。

「南部ではかの魔女によくよく助けてもらっているそうだな」

 女王は低く暗い声で、こちらを見もしないままでそう言った。

「まぁ、好いた相手の弟であればあれも無下にはすまい。そなたの元でなら、ハイラントと引き離してもしばらくはおとなしくしているだろうと踏んだのは正しかったようだ」

「……」

「であればそなたにも価値はある。所詮そなたには役目らしい役目などないが、この調子であれの機嫌だけは損ねぬよう努めよ。胸を張って仕事場に帰るが良い」

 もういい帰れ、と言われているらしい。

 来たばかりでアイオンは一言どころか一声だって発していないが、女王とはずっとこうだ。顔を見るのも嫌だと言うように頑なに視線を寄越されず、突き刺すような短い会話をほぼ一方的に展開されるだけ。ひとりの人間として興味を示されることなんかあり得ない。

 急に硬い大理石の床が泥のように頼りなく沈み込んだ感覚がしたが、それは当然ただの気のせいですぐに消え失せた。


 唇を引き結んだまま礼拝堂を辞してふと気づいた。あの口ぶり、アイオンが南部に赴任してからなにをしてきたかはすでに女王の耳にも届いていた様子だった。こつこつやってればきっとアイオンの待遇も改善されるし、自分もハイラントと面会できる日が来ると期待に胸を膨らませていたヘンリエッタの予想はすっかり外れたわけだ。


 なにも変わらない。俺にはなにもない。最初から挑まなけりゃ、ただ流されるまま惰性に任せて生きてりゃ、無駄に傷つくこともなかったのに。

 分かってたことだろ。


 アイオンは礼拝堂を背にして回廊を歩いた。いま彼のそばには誰もいないから、ひとりぶんの靴音だけがいやに大きく響く。

 ところが少しすると別の靴音が向こうから近づいてきて、アイオンははっとなった。

 逆光の中、回廊の先に見えたのは水色がかった銀髪の長身で、それが誰かなんて分からないわけがない。全身にまとわりつく倦怠感がどっと増した。

 一本の回廊を両端からそれぞれ歩いているんだから、尻尾を巻いて逃げ出さない限りは当たり前に一点で出くわすことになる。

 アイオンと兄ハイラントは、数歩分の距離をあけて互いに足を止めた。

「――――」

「手紙のことは、すまなかった」

 涼しげでありながら挙措と存在感で周囲を圧倒する端正な容貌が、ほんのわずか苦しげにそんな言葉を発した。

 重みのある存在感と意志の強さを印象づける肉体は、しっかりした両脚で揺るぎない立ち姿を維持している。対するアイオンは片方の肩を下げるように気だるげに腰で立っていた。

 こうなった以上は触れられないに越したことはなかった話題に先手を取られて謝罪までされたことで、アイオンの中のなにかが音を立ててしぼんでいった。ひたすらこの時間が面倒くさい。

「別に」

 長らく没交渉だった実兄に返すうまい言葉を探す気にもならず、投げやりにこぼした。

 冗談めかして混ぜっ返せばまだ格好もついたかもしれないが、この兄の前で虚勢を張る無意味さは言うまでもない。

「……俺は慣れっこだから構やしねぇけど、放置してたってあの婚約者様の気は変わらないぜ。言うべきことを言いさえしねーとか、あんたらしくないんじゃねぇの」

 単に間を持たせるためにそう言った直後、アイオンは自分で自分の発言の意図が分からなくなった。

 兄がヘンリエッタに言うべきだと思うこと……浮気したことへの謝罪か、歩み寄る言葉か、それともこれきり拒絶しろとでも? そんなことになったらあの魔女が暴走しないとも限らないのに、自分は無責任になにを言わせたいと思ったのだろう?

 しかしハイラントは確固たる結論を胸に抱いているかのように峻厳な表情を変えなかった。「言うべきこと」というフレーズを、彼は「ヘンリエッタの魔力暴走を防ぐための仲直り」として受け取ったらしい。

「君には……苦労をかける。私だけならまだしも根本的に彼女の魔力暴走でもたらされる結果には全く予想など立てられないことを思えば、譲歩して怒りを鎮めるのが最も楽で利口な道だということは分かってる。……けれど、私ももう逃げることはできない」

「……逃げる……?」

 って、なんだよ。

 この兄がそんな頼りないことを言い出すなんて夢にも思わなかったアイオンは混乱した。

 考えていることが読み取れない。理解不能だった。

 アイオンのイメージの中の兄は岩のようと評されるほど心身ともに頑健で他者になびかず、あらゆる物事を真っ向から受け止め、そして才能と努力でここまで邁進してきた克己の人で、この世の真理を無言のうちに知悉しているかのような底知れない男だった。女王の、この世界の寵愛を受けるに誰よりふさわしい男。王の器。ヘンリエッタのことだって恐るるに足らず、いつかは上手く手綱を握ってみせるに違いないと思っていた。

 だが兄は低めた声で続けた。

「誰もがこの真実を理解していながら呑み込んできた。彼女はやはり危険なんだ。やろうと思えばヒトもモノも好きに出来る規格外の存在など、人間の手に余る」

「――なに――なに、言ってんのか分かんねーよ」

 アイオンははっと笑おうとして失敗した。訳が分からない。

 世の中の在り方みたいな、そんな話じゃないだろ。

 そんなつもりで彼女の名前を出したわけじゃない。

 あんたと彼女、ふたりの問題をスケールのでかい話にすり替えてるだけだ。このまま彼女の要求に取り合うことさえしないで、話し合うこともなく政治的な判断というお題目で今までの全てをなかったことにするつもりなのか。それこそ逃げだろ。

 思考はぐるぐる高速で空回りして、口もまともに回らない。ふざけた笑みを作ろうとあがきながら、血の気が引いて目の前が暗くなるような感覚に陥る。

 だいたい、考えてみれば社交辞令を含めても兄とまともに会話したのだって数年ぶりだ。なのに。


 ――ずっと、ずっと無視されてきた。それで済む程度の相手と思われてきた。

 同じように彼女のことも無視するのか?


「……あいつが、一度だってあんたの心を操ったことがあったかよ?」

 なにもないはずの自分の中に、ふつふつと湧き出したたったひとつの怒りに任せ、アイオンはようやく声を絞り出す。

「完全無欠の王太子殿下ともあろう者が、一回殺されかけたくらいで日和ったのか? 恐怖で支配されてるとでも? 承知の上であいつに婚約申し込んだのも、浮気したのもあんただろ。ワケ分かんねーのはあいつじゃなくてあんたのほうだ。チーブル伯爵レベルでも人の心を操る魔術が使えるってのに、あいつは無意識ですらあんたの自由意志をねじ曲げちゃいない。やろうと思えばどうとでも強行突破できるヤツが、どうして今、嫌われ者の義弟なんぞのところで苦労を買って出てると思ってんだ? ただあんたに会って、ちゃんと話したいからだろ!?」

 アイオンには、ハイラントのこの衝撃的な心変わりは自業自得で痛い目に遭わされた男の逆恨みにしか聞こえなかった。

「……さっきあんたが言ったこと、あいつには絶対言うな」

 獣が唸るように、初めて自分の主張に異を唱えた弟の姿は、兄の目にはどう映っていただろう。

 どちらにしてもハイラントの態度には表面上の動揺さえも走らなかった。

 冷静そのものの声音と表情で彼は言った。

「君にも、いずれ分かるよ」

 腰の横で拳を握りしめるアイオンの横をハイラントは涼やかにすり抜けていく。

 一定のリズムを刻む靴音が完全に聞こえなくなっても、アイオンはしばらくその場に立ち尽くしていた。

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