魔女と湖
「はいどーぞこっちこっち~! こっちの部屋も使えるようにしてあるからね~!」
まるでトラブルの解決をお祝いしているようなすっきりとした秋日和、庁舎の前庭ではヘンリエッタが身振り手振りを交えて人だかりを誘導していた。
彼らはチーブル伯爵家に務めていた使用人たちだ。ときおり不安げなメイドたちと会話を交わしたり、職人の子どもたちにふざけかかったりと忙しそうなヘンリエッタを眺めながら、アイオンはご苦労なことだと関心半分、呆れ半分だ。
イースレイがはぁ、と重く溜め息をつき、
「手筈通りチーブル一家を検挙できたはいいものの、路頭に迷った使用人たちの仮宿に庁舎を提供することになるとは……」
「山のような衣装もなー。置き場がないからって結局うちが『押収』することになっちまって」
苦笑するレオナルドの視線の先で、行政監督庁のマリオネットたちがせっせとチーブル家のコレクションを倉庫へ運び込んでいる。
現在チーブル伯爵らの身柄は街道騎士団が拘束しているが、これに関しては伯爵が操心術を扱えるレベルの魔術師だという点で確かに騎士団が適任だろう。その代わり使用人たちと衣装の山は行政監督庁が引き受けることになったわけだ。
チーブル伯爵は屋敷を包囲した騎士団員たちに拘束される際、あの無表情のまま「女王陛下は私たちに人生の全てを捨てよと仰った。だからそのようにしようとしただけです」と言い残した。後悔や懺悔は全く見せず、夫人も同様だった。
アグリッサは今なおアイオンに会わせてほしいと激しく訴えているらしいが、アイオンが応じることは永遠にない。ヘンリエッタの言ったようにすでに「必要充分」の対応はした。これ以上彼女を自分の人生に関わらせてやることはない。
ぼーっと眺めているうちに使用人たちを庁舎内へ案内し終えたヘンリエッタが小走りで戻ってきた。
「いったんみんな部屋に入ってもらったけど、これからどうする?」
この問いにはイースレイが応じた。
「報告書を作るために使用人たち全員から事情聴取する必要がある」
ご苦労なことだ。目録作りからやっと解放されたと思ったのに、まだまだイースレイに休暇は訪れないらしい。他人事として聞いていたアイオンだったが、イースレイの矛先は急に方向転換した。
「聴取には行政監督官としてアイオンも同席してくれ。レオナルドにも、万が一彼らの中にチーブルの操心術が残っている者がいないかチェックしてもらわなくてはいけない。ふたりとも道連れになってもらうぞ」
「ぅぐぁぁあ~ッ……」
「…………紙の上では同席してたことにしとけ」
「ダメに決まってるだろう」
レオナルドはカエルの潰れたような変な呻き声をあげて天を仰ぎ、アイオンはげんなりと眉間に皺を刻む。するとヘンリエッタが見かねて、
「あーじゃあ、使用人たちの再就職先の相談に乗ったり大量の衣装を処分したりは私が適当にやっといていい? ひとりだけ暇だし。それ系の連絡は全部こっちに回してくれて構わないから、イースレイたちは聴取と報告書の作成に集中しててよ」
「あぁ、そうしてくれると正直助かる」
イースレイがそう即応したのに三人ともが目を瞠った。ヘンリエッタがここぞとばかりにわぁ、とからかうように歓声をあげる。
「イースレイにしちゃずいぶん素直じゃない! ……ってわけでもなく単にメチャクチャ疲れてるだけだね? 報告書なんて最低限必要なことが明記されてりゃいいんだからほどほどにしときなよ~」
「君に言われるまでもない」
「……」
そのままイースレイと言い合いを始めるヘンリエッタだが、不要品の片付けはまだしも再就職支援なんか行政監督庁の仕事じゃないだろう。お節介焼きめ。
そう考えながら無意識に睨んでいたのか、彼女はアイオンの視線に気づくとぱっとこちらを見て「なーに?」と言うようににっこり笑う。答えたくないアイオンはつるりとした顔を作って黙って視線を外した。
◆
主立った使用人たちへの事情聴取はひとりひとり書斎に招くやり方で行われた。
レオナルドが見たところ、これまでに操心術がかけられたままの使用人は見つかっていない。たまにヘンリエッタが前庭で子どもたちと駆け回っているのが書斎の窓から見えたが、その他の時間は宣言通りに使用人たちの再就職相談などに費やしているんだろう。
聴取を始めて三日目の午後、黒髪を結い上げた若いメイドの順番が回ってきた。
「客間メイドをやっておりました、マディ・ヘンダーソンと申します」
マディの顔には見覚えがあった。チーブル邸の温室でのお茶会で度々接待してくれたメイドのひとりだ。
イースレイに促されて着席した彼女は理性的で落ち着いた瞳で三人を見た。物怖じしないたちなのか、それともなにか主体的に話したいことがあるのか。三日間も他人から話を聞き出しているとアイオンも経験値を積んできて、相手の態度で読み取れる機微が少しずつ増えてきていた。
「……うん、大丈夫。彼女にも操心術は残ってないみたいだ」
じっと様子を観察していたレオナルドが言った。
それを合図に、イースレイが主導してマディの事情聴取を進めていく。
マディの話に特段目新しい情報はなく、他の使用人から聞いた話とも齟齬はなかった。やはりこの調子なら、チーブル家の罪状は女王の衣服改革宣言に反したこと、そして行政監督庁を欺き、家族ぐるみで自家の使用人数十人を老人・子どもに至るまで抹殺しようとしたことで確定して構わないだろう。
こちらがあらかた質問をし終えると、マディは少し躊躇してから下げていた視線をすっと上げた。
「……恐れながら、退室する前にお訊ねしたいことがございます。あの、よろしいでしょうか?」
これは予想外だったようで、イースレイは一瞬虚を衝かれた。しかしすぐに立て直して手のひらを見せる。
「構わないが……。なにを訊きたい?」
マディは気の強そうな目つきで答える。
「再就職先のことなのですが……私がこちらで、いえ、ヘンリエッタ様のおそばで働かせていただくことはできませんでしょうか?」
「……は?」
イースレイはもちろん、アイオンもレオナルドも目を丸くして椅子の背もたれから起き上がった。世に広く畏怖されている王太子殺害未遂犯かつ大魔女の付き人になりたいだなんて突拍子のないことを。
なんだこいつ、若いうちの苦労は買ってでもするタイプの変人か?
また胡乱なヤツが出てきたなと内心思うが、当のマディは真剣そのもののようだ。
「実はもうヘンリエッタ様に直接お願いして断られてしまったのですが、私にはどうしても諦められない訳があるのです」
「訳?」
マディは力強く頷く。
「同僚たちにヘンリエッタ様に助けを求めてはどうかと提案したのは私です。経験上、あの方ならきっと応えてくださると分かっていました。……私が生まれた村は湖の近くにありました。ラローシュ侯爵領、ウル湖と申し上げればお分かりいただけるかと存じます。ヘンリエッタ様に救われたのはこれで二度目です。もはやなにかの導きあってのことと思わずにはいられず、ご本人に必要ないと断られてもどうしてもご恩を返したいのです」
ラローシュ侯爵領、ウル湖。
アイオンにはなんのことだか分からない地名だが、イースレイとレオナルドにはそうではなかったらしい。得心いったように表情を険しくし、マディを見返している。その分かってます感がなんとなし不愉快で、アイオンは長く閉ざしていた口を開いた。
「その湖があの魔女となにか関係あんのか?」
レオナルドとイースレイが一度顔を見合わせ、お互いの出方をうかがうような仕草を見せる。なんなんだよ。そのあとイースレイがレオナルドを手で制し、まとう雰囲気に責任感とわずかな後ろめたさを滲ませながら説明役を買って出た。
「……以前、昔彼女がとある侯爵を断頭台送りにしたと話したよな。それがマディの言う先代のラローシュ侯爵だ」
「ウル湖はラローシュ侯爵がダム建設に伴って作らせた人造湖だ。建設当時は野良まで含めて魔術師も多数動員されたし、人夫たちの一部はそのまま湖の周辺に移住していくつかの村を作った。彼らのほとんどは貧しい人々で、土地を求めていたんだ。
新天地での暮らしは最初のうちは順調だったが、しばらくすると村人の体調に異変が起こり始めた。新種の病だと考えた村人たちはラローシュ侯爵に医者の派遣を陳情し、診察を受けたものの医者はこれを病とは認めず、厳しい労働の日々と開拓生活で疲れが溜まっているだけだと適当な薬を処方するだけで帰って行った。病に倒れる村人は増える一方。病を恐れた他の村からも次第に交流を拒絶されるようになっていき、かといってこの土地を見限ってよそへ移ろうにも病を広げるなと妨害されてしまい叶わなかった。
そうして孤立した湖の村にヘンリエッタが迷い込んだのはこの頃だったそうだ。幼かった彼女に村人たちは親切で、彼女はお礼に彼らの病の原因を調査し始めた。
だがしばらくして、村は魔術師に襲われ壊滅的な被害を受ける。
実はこの風土病の原因は寄生虫にあり、人造湖を作ってしまったことでその寄生虫の生息域が拡大し、人に感染するようになっていたんだ。このことが露見すればラローシュ家の一大事業は全くの無価値と化すどころか、原状回復と領民への被害補償を命じられる。領地経営の腕で右に出る者なしと讃えられたラローシュの名も地に落ちるだろう。だからラローシュ侯爵はこの事実を隠蔽するため、凶悪な魔術師に村人たちの始末を命じたんだ。
……ヘンリエッタはそのとき病の原因をすでに突き止めていて、その魔術師と交戦し、魔力暴走で殺したらしい。同時に、ウル湖の水中や中間宿主となっていた生物や村人たちに潜んでいた寄生虫を全て消滅させ、水質を浄化し、患者の傷を癒やした。生き残った村人たちには恐れられる一方で惜しまれもしたが、そのまま行方をくらましたという。
数年後、宮廷魔術師として登用されたヘンリエッタはラローシュ侯爵の非道の証拠を完璧に集めて彼を告発した。家族にまではかろうじて累は及ばなかったが、ウル湖の件をはじめとして反逆罪に当たるようなあくどいこともやっていたのが暴かれたラローシュ侯爵は、悪あがきも虚しく断頭台へ送られた……というわけだ」
「……。解説どうも」
と、アイオンはしらっとした顔で一言だけをこぼした。その反応を悪く受け取ったのかマディが慌てて、
「私も当時その病にかかっていて、ヘンリエッタ様の力で治していただいたんです。侯爵閣下の魔術師を殺したのだってヘンリエッタ様から手出ししたわけではなく、正当防衛でした!」
「んなこと分かってるっての」
アイオンは鬱陶しげに眉をひそめてマディの勢いをあしらった。気は進まないが、少しばかり調子を合わせないとこの女は頑として食い下がってくるだろう。マディの後も聴取はまだまだ続くのに、面倒はごめんだ。
「ったく……仕方ねぇからあんたのその熱心さは気が向いたときにでもあいつに伝えといてやる。けど、一度本人に断られてる以上期待はすんな。基本的にあいつ俺の言うことなんか聞きゃしねぇし望み薄は望み薄だぜ」
「……、はい、充分です。殿下のご厚情に感謝を」
一縷の希望が繋がったことでようやくマディは安堵を見せ、深々と頭を下げた。
彼女が退室したあと、レオナルドがおずおずとアイオンの顔色をうかがいながら訊く。
「……なぁアイオン、詳細を聞いて驚いたかもしれないけど俺だって仕事上、必要になればそういうことも……」
「あーーハイハイ。うるせぇうるせぇ」
場の雰囲気的にこうくると思っていた。イースレイが先代ラローシュ侯爵とヘンリエッタの因縁について話しづらそうにしていたのも、なまじ彼女と交流が深まったせいで告げ口するような気分になり、気が引けたんだろう。
アイオンが飄々とかわしても、「でも怖いだろう?」と二組の目がそう訊いている。
怖い? バカバカしい。ことあのおしゃべり女に関してアイオンの心にそんな感情が湧いたことは一度もない。だがこのふたりは、たぶん内心どこかでずっと……。
アイオンは手をひらひらさせてレオナルドとイースレイの気遣わしげな態度をぶった切る。
「余談はもういいだろ、別に今さら驚くことじゃねーよ。無駄に勤務時間を長引かせるより早く次呼べ、次」
だるそうに言えば、ふたりはまだ戸惑いがちながらも「あ、あぁ」と応じて支度を始めた。
◆
その晩、アイオンがすっかりくたびれて自室でだらだらしていると、前庭のほうからかすかな笑い声が聞こえてきてふっと目が冴えた。
のっそりとソファから起き上がり、耳を澄ます。これは子どもたちの声だ。それからヘンリエッタの。
チーブル家の使用人たちはさすが教育が行き届いていてなるべくアイオンたちの目に触れないように行動しており、一時屋根を貸していても彼らに煩わされることは全くなかったが、一族まるごと幽閉されていた職人の子どもたちはそうはいかなかった。遊び盛りの彼らをヘンリエッタは甘やかし放題で、おねだりされれば勝手気ままに連れ出して構い倒しているのだ。
はぁ、と溜め息を落としてアイオンは立ち上がった。せっかくうとうとしてたのに、これじゃ眠れやしねぇ。
部屋を出て廊下を歩き、明るい三日月が照らす前庭に出る。
「おい、いつまで遊んでんだ。夜だぞ」
咎められたヘンリエッタはぱっとこちらを振り返り、「アイちゃん!」とおそらくは反射で嬉しげに笑いかけてきた。ぎくりとしたのは子どもたちのほうで、
「いっ、いけないぃもう寝ないとぉぉ……!」
「おやすみなさーい!」
「あっ!」
下手くそな演技で取り繕い、ぺこっとアイオンに一礼して全力ダッシュで庁舎へ引っ込んでいってしまった彼らにヘンリエッタが残念そうに眉を下げる。
「今日はキュンメルで買い込んだ爆竹の残り用意してあったのに~……」
「人んちの子どもに悪い遊び教えんじゃねーよ」
やっぱりこいつは子どもが好きらしい。甘えが出てきて手加減のなくなった子どもたちはまるで疲れ知らずで、なにかにつけヘンリエッタに面白い遊びをねだっては引き倒す勢いでまとわりついているが、それににこにこ嬉しそうに応じているこいつもこいつだ。
枯れ草の匂いを含んだ風が一陣吹いた。
「……本人が望んでんだから付き人くらいいいんじゃねーの。仮にも大魔女様が従者のひとりも持ってないんじゃ格好つかねぇだろ。なにが問題なんだ?」
昼間ほとんど押し切られる形で結ばされたマディとの約束をふと思い出し、アイオンは単刀直入に言った。さっさと荷を下ろしたかっただけだからかなり適当だ。
ヘンリエッタにはそれでも充分察せたようで、ありゃ、とわざととぼけた顔をする。
「マディってばアイちゃんたちにまで頼ったの? 思った以上に情熱的だなぁ。前はともかく今回は私がっていうより行政監督庁のお仕事で助けただけなのに、なぜか恩返しの相手には私単品をご所望なのよね~」
そうぼやいてからおちょくるような笑みを浮かべ、身を乗り出してくる。
「てことはイースレイかレオに先代ラローシュ侯爵とのこと聞いたでしょ!? ふふん、あれはさすがのアイちゃんも震え上がること間違いナシの珠玉の大魔女エピソードのひとつ……」
「誰が震え上がるって?」
あっちは愉快そうにしているがアイオンは全く面白くない。白けた顔で聞き返すと、ヘンリエッタが意表を衝かれて灰色の瞳を丸くした。
言い負かすことこそできなくてもほんの一瞬やりこめられた、その隙を逃さずアイオンは言いたいことを言う。
「のちのちラローシュがやったことの証拠集めに苦労したって聞いたが、だったらお前、例の魔術師を殺しちまったのは誤算だったんだろ。当時具体的になにがあったのかなんて俺は知ったこっちゃねぇけど、ま、兄貴のときにうっかりしなくて良かったな」
「……」
予想通りヘンリエッタの沈黙はごく短いものに終わり、彼女はすぐいつもの調子で不満げに唇を尖らせる。
「良かったなって、そんだけ? これでも怖がんないの? ホントアイちゃんはそういうとこ変わってるよ」
アイオンは冷ややかに鼻で笑った。そういうことは寒がる子どもにマントをかけてやりながら「人は見かけによらないよ」なんて笑える脅しを宣うとんちんかんさを自覚してから言え。
あの話を聞いたときアイオンが考えていたのはそういった皮肉と、あとはもうひとつ、些細な発見のことだけだ。
『林道の先に湖があるらしいからそこまでコレに乗せたまま飛ばしてやっても良かったが、そういうことなら自分で歩けよ』
『湖ぃ?』
ヘレネー司教領から帰ったあと、ヘンリエッタを備品の折りたたみ車椅子に乗せて林道を散歩したとき、確かそんなやりとりをした。今思えばヘンリエッタのあの嫌そうな受け答えはウル湖の件が記憶にあったからつい出たものだったんだろう。
子どもが好きで、湖が嫌い。一番好きなのはハイラント。力もないし細いし貧弱。このくらい、兄だってきっと知っている。分かりやすい女だ。これのどこが怖い?
自分にとって恐ろしい、得体の知れない不気味なものは、そう。
――むしろあの「カップケーキ穴」の闇の中に、きっと今も蠢き続けているんだろう。
「あ、そうだ! 再就職先が未定の人たちなんだけどね、実家に戻ったり恋人のところに行ったりこれを機に開業する人たちは聴取が終わり次第出て行くってさ」
ヘンリエッタが明るく、しかし出し抜けに言う。ちょっと考え事をしている間に露骨に話題を変えられた。アイオンは内心舌打ちしたい気分になる。
「他の人たちについても新聞広告とか紹介所に登録したりとかは手配したし、あとドラクマン支部長の伝手も頼る予定かな。宿屋や仕立屋なら使用人から転職できるし、案外早めにけりが付きそうだよ」
「ふーん。それで? 肝心のマディはどうすんだ?」
と、アイオンは腹いせに痛いところを突いてやる。
するとヘンリエッタは困ったように笑い、
「んん、そりゃここには残らせられないよ~」
「もらえるもんはもらっとくんじゃなかったか?」
「今回はダメ! 私に人生丸ごと捧げかねない勢いなんだもん、重すぎるって!」
両手でバツマークを作るヘンリエッタはものすごくしょっぱい顔をしていて、アイオンはむっとした。貢ぎ物をされるのも縋り付かれるのも日常茶飯事だと公言してんのはお前だろ。人には味方を増やせ友人を作れ好意を察しろと散々うるさくせっつくくせに、自分は従者をひとり持つのも嫌がるのかよ。
……いいさ。どうにかしてたまにはこっちが説得してやる。
皮肉っぽく口元を歪め、
「軽いよりはいいだろうが。あいつ俺たちの前でもお前のことが心底大好きって態度だったぜ。そばにいさせてやりゃいいじゃねーか。貢ぎ物となにが違う?」
「全然違うよ! 恩返しで人生なんて重たいもの捧げられたらねぇ、責任取ることになるのは私のほうなの! いつの間にか奉仕する側と主人側が逆転しちゃうわけよ? こういうのはダメ、受け取れませーん!」
ヘンリエッタはバツマークを作ったままで、ちっとも首を縦に振りそうにない。くそ、やっぱりこっちの言うことなんか聞きゃしねぇ。
「あのねアイちゃん、貸し借りは終わりがあるからいーんだよ。私がもういいよ、充分だよって手放そうとしても食い下がってくるような義理堅い人はちょっと困っちゃうの。そのうち信者みたいになってっちゃう人もいるしね」
「へぇ? つまり終わりのある恩返しならさせてやってもいいって意味か?」
アイオンのこの返しに、ヘンリエッタはむむっと繊細な造形の眉を寄せる。
「……回数制にして清算させろってこと? アイちゃんが私の勝手を改めさせようとするなんて、どーしてまたそんな珍しい真似……」
「少しは気が済むようにしてやれってことだよ。どのみちあいつはお前の居所を知っちまったんだ、かけらすらも受け取り拒否しようもんなら最悪この森に住み着いてお前を助ける妖精かなんかに進化するぞ。あり得るだろ?」
「え? う、うぅん……あるかも……?」
そしてそれはもっと心苦しいかも、と一転ヘンリエッタは腕組みをして悩ましげに考え込み始めた。アイオンはいったん黙ってそれを見守る。かもじゃなくて、頷け。うんと言え。
やがてヘンリエッタはぱっと顔を上げ、
「確かに引っ越せない状況で居場所を知られちゃったのは痛いな~……。なんかよさげなお願いごとでもして満足してもらおっかな?」
「そうしろ」
しれっと肩をすくめると、ヘンリエッタは気が抜けたように視線を宙に投げた。そこへまた乾いた秋風が吹き、ふたりの身体から体温を奪う。
「……ていうか気づいたら結構長々話し込んじゃってたね。もう中に入ろ、アイちゃん。陛下の即位記念日も近いのにアイちゃんが風邪でも引いたら大変!」
きびすを返すヘンリエッタのあとについて行きながら、アイオンはゆっくりと瞬きする。
「即位記念日ね……。そういや秋と言えばそれがあったか」
最近があまりに怒濤の日々すぎてそんな面倒な行事のことはすっかり忘れていた。思わずこぼした呟きにヘンリエッタが肩越しに振り返り、にまっと笑う。
「ね~ぇアイちゃん、殿下に会ったらさぁ~……」
「お前のこととりなしてくれってんだろ。聞き飽きたわ」
呆れたポーズを作ればヘンリエッタはころころと能天気に笑った。「弟くんに直接会って言われたら殿下も心動くでしょ!」と彼女は拳を握るが、それはアイオンの出した手紙が無視されているという事実を知らないから出て来るセリフだった。
だがアイオンは素知らぬ振りで庁舎の庇の下に入る。
もちろんこんな気分はおくびにも出してやらないが、不愉快な出来事が続いていた中で初めてこの魔女をやり込めてやったと密かに小気味よかったはずの夜は、急に苦いものに変わり果ててしまった。




