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きちんとお断りしよう


 翌日からもイースレイとレオナルドが食事と休憩の時間を除けば日がな一日せっせと目録を作っている間、アイオンとヘンリエッタは温室や娯楽室、ギャラリーなどで引き続きもてなされた。

 アグリッサの態度も変わらず、アイオンだけにしきりに話しかけ、なにかにつけて至近距離で世話を焼こうとする。

 どういう理屈があってのことかさっぱり分からないが、彼女がアイオンに好意を抱いているのはもはや明らかで、アイオン自身にも否定できないほどの熱量だった。


 ……意味が分からん、なんで俺なんだよ。やっぱ非現実的だ、こんな展開。


 よく知らない女に訳も分からずぐいぐい来られ、アイオンはうんざりするばかりだ。

 こういうとき何も言わなくても横から話を引き取ってくれるはずのヘンリエッタは静観の構え。アグリッサに喋り掛けられたくないアイオンは隙あらば彼女に対応を丸投げしようとするのだが、なにが面白いのか入れ替わり立ち替わりやってくる使用人の手ばかり見ていて使えやしない。

 いやこういうときこそ空気読まずにからかってこいよ、どんだけでも水を差していいんだぞ。


 チーブル邸に来て三日目の午後、煙草を好まないアイオンが喫煙室への誘いを断ると、アグリッサは「じゃあお庭をお散歩しましょう!」と例の目をかっぴらいた笑みを浮かべた。

 エレーナは娘にお願いでもされたのか、二日目以降はアイオンたちを応接する頻度がぐっと減り、今も「もてなし」にやってきているのはアグリッサひとりだ。まだ庭は案内されていなかったがテラスから見渡したことはあったので、池や迷路まで備えた立派な造りであることは知っていた。が、だからって特段興味はないしただただ面倒くさい。アグリッサを伴うことを考えると余計に億劫だ。

 返事をせずにいるとアグリッサが笑顔のままぐるんとヘンリエッタを振り返り、

「……あぁ、ヘンリエッタ様も来ますぅ?」

 暗に来るなと言っている。あいにくヘンリエッタはこんな圧に屈する女ではないので、いつものにこにこ顔で平然と同行するに決まっているとアイオンは考えていた。

 ところが彼女はアイオンの顔をちらっと見てから、

「そーですね、さっきパイをいただいたときに手が汚れちゃったんでそれを洗ってからすぐ追いかけますね」

 生クリームがついた指先を見せてにっこり笑う。……おいふざけんな。

「お前面白がって……っ」

「うふふふふ……! ではメイドにフィンガーボウルを持ってこさせますねっ! このままのぉんびり、この温室で、お待ちくださいねぇ!」

 こんなとんでも一家の巣で短時間とはいえアイオンとアグリッサをふたりきりにする愚を犯すなど、なにかと周到なこの女に限ってはわざとでなけりゃあり得ない。

 文句を付けようとしたアイオンだったが、喜色満面のアグリッサの大声でかき消されてしまった。まるで獲物を前にした猛禽のような目つきに変じている。

 ヘンリエッタはアイオンに向かって「ごめんね?」と唇の動きだけで謝り、かわいこぶって微笑んだ。謝るからにはアイオンとアグリッサをくっつけようだなんて不届きなことは考えていないようだ。にしてもなんだよその顔。

 ……なにか腹があるのはイヤってほど分かったが、その中身の尻尾すら掴めないのが癪だ。



 アイオンたちの受難を暗示するかのようにこの三日ずっと空模様がすっきりしない。

 アグリッサに問答無用で連れ出されたアイオンは、彼女と並んで温室から近い池のそばを散歩しなければならなくなった。もう天気もなにもかもクソだ。

「秋の花と池の青が美しいでしょぉ……? あたし、この家の庭の中でここが一番お気に入りだから殿下と一緒に見たかったんですのぉ……」

 なんか勝手にうっとりしてる様子だが知らねーよ。引き続き目ぇかっぴらいてるし。億劫さに任せて足を止めたくなるが、立ち止まるとアグリッサが素早く距離を詰めてきてべったりとくっついてこようとするので歩き続けるしかない。温室から離れていくほどヘンリエッタの到着も遅れると分かっているのに、これじゃ自分で自分の首を絞めているようなものだ。


 正直、アグリッサの上手い処理の仕方が分からない。

 こういうのの対処はまず自分に自信を持たないと下手を打ちやすいというヘンリエッタの主張はたぶん正しいんだろう。なにしろアイオンは他人から好意を向けられた経験なんて無いに等しいし、恋愛感情など言わずもがな。

 しかもアグリッサはどう考えても普通の女じゃない。自分だけならいざ知らず、部下たちの身の安全がかかっている状況で逆上させるような拒絶は上手くない。今でも充分強烈なのに、キレたアグリッサが家族ともどもなにをやってくるか予想がつかない。

 キュンメルの住民の豹変を目の当たりにしたことが、アイオンを慎重にさせていた。


 考え事に忙しいアイオンをよそに、アグリッサははぁ、と恍惚とした溜め息をつく。

「アルフレド王配殿下のルーツがあるこの南部にアイオン殿下がいらしてくださるなんて、やっぱり運命ってあるんだわぁ……」

「……父の?」

 思わぬ名を出されてアイオンはつい反応した。

 初めて彼の気を引けた喜びでアグリッサは目を輝かせ、勢い込んで話し出す。

「えぇ! だってアルフレド様のご実家エクロス家は、この南部の貴族だったんですものっ!」

「エクロス家……」

 四歳で家族と隔絶され、離宮に追いやられたアイオンはどうやら父の実家のことすら知らなかったらしい。今になって自覚させられた事実に唇を噛んだ。

 だがヘンリエッタたちによって詰め込まれた知識によれば、今の南部にエクロスなどという家はなかったはずだ。まさかすでに断絶しているのか?

 母がまだ王位になく、少女だった頃どうだったのかは分からないが、そのときのエクロス家がもうあわや断絶という状況にあったのなら次期国王の結婚相手としては到底ふさわしくない。


 ふたりの婚姻に政治的な理由がなかったとしたら、父と母は逆風を押し切っての恋愛結婚だったんだろうか?

 薄れた記憶に手を掛ける。父はどんな人だっただろう? まだ壊れずに済んでいた家庭にあったとき、女王はどういう人だった? 父が死んだときは――。


「…………」

 やめだ、やめ。

 思い直して、アイオンは思い出を叩き起こすのを中止した。

 なにも知らないアグリッサはうふふと不気味な笑い声を漏らし、ひとり盛り上がり始める。

「あたし、アイオン様のこんなに近くにいられるのなら大好きなドレスもネックレスも差し出せます……。あたしがチーブル家に生まれたのも、こうして大切なコレクションを失うことになったのも、アイオン様がエクロス家の方をお父様に持って南部にいらっしゃったのも、全てがこの運命を導くための不可欠な道筋だったのなら……!」

「は?」

 思わず据わった目で聞き返したアイオンにもお構いなしだ。アグリッサは胸の前で両手を組み合わせ、夢見る瞳で問わず語りを続ける。

「アイオン様とはこれまでまともに言葉を交わすことすら出来なかったあたしだけど、じ、実はっ、子どもの頃から憧れてたんです!!」

「……あこ、……」

 嘘だろ。

 アイオンは疑り深くアグリッサを見たが、彼女の顔つきは完全に別世界に飛んでいた。冷静に考えてそんなわけねーだろと自分の中の懸念を笑い飛ばすには迫真過ぎる表情だった。

 ――向こうは伯爵令嬢なんだから前々からアイちゃんのことは知ってたはずでしょ。案外長いこと想われてたのかもしれないじゃない!

 現実逃避しようとした意識の隅でヘンリエッタの声が蘇って頭痛がしてきた。お前の説が的中したぜ良かったな。どうせならこっからどうすりゃいいかまで指図してけよ。あの魔女、さんざん口出しするくせに結局肝心なところで手を離しやがる。

「あなたは寡黙だったけれど誰にでも同じ態度で接する方……。あたしがどんなに着飾って行ってもこちらを見てくださるのは最初だけで、いつもすぐに興味を失ってしまわれるの……だから次こそはって必死でアイデアを練るんですけど、その産みの苦しみさえも楽しくて、気づけばあなたのことで夢中になって夜も眠れず……それで気づいたんです。あたしが人生の全てを注いで追い求めるに値する美の正解は、あなたのお心の中にしかないんだって。あなたに恋して、あたしの人生は変わったんです」

 いや。いくら俺でもチーブル一家の服装に面食らわなかったわけはない。興味を失ったように見えた仕草も、単に関わり合いになりたくないから見ないようにしてたってとこだろ。誰にでも同じ態度? 誰にどう思われようが自分がどうなろうがどうでもいいだけだ。なにを勘違いしてんだか知らねぇが、俺にはなにもない。

「殿下にはお辛かったと思いますけど……離宮送りにされても腐らないでひとりでしゃんと立っているお姿は孤高で、格好良くて、あたしいっそう憧れたんですぅ……」

 アグリッサの言葉が耳を上滑りして通り過ぎていく。

 俺があんたの言う通りの人間だったなら十四年も放置されてねぇよ。我ながら言ってて笑えるが、そういうのは孤高なんて良いもんじゃなく、ただ孤独で人望がなかったって言うんだ。兄貴の婚約者が弟の存在をほとんど知覚しなかったくらいには無かったことになってた男だ。誰かのためになんて柄にもなく調子に乗って、十数年ぶりに兄へ書いた手紙にもなんら反応をもらえなかった。

 あんたそんなヤツのどこがいいっていうんだよ? 実のところ俺自身でさえそう思うんだぜ。


 ――いや~アイちゃんはちょっと世に出るのが遅かっただけで充分すぎるくらい魅力的な子だと常日頃思ってはいたけど、


 ……うるせぇ、勝手に人の頭ん中で喋るなおしゃべり女。今はお前は関係ねぇだろ。

 意識は目の前のアグリッサの相手で手一杯のはずなのに、一回再生し出したら芋づる式にあいつの言葉が蘇ってくる。なんで……。


 ――私や他の誰かに言われなくても、あの子たちを助けることを自分ひとりで選んだんでしょ、アイちゃんは。みんなが生きて帰ってこられたのは君がひとりでがんばったからで、私は関係ないよ?


 ――わぁあああー!! ていうかアイちゃんすごーい!!


 ――ありがとね、アイちゃん。ホントに嬉しいよ。大事にするね。


 ――何事もチャレンジするときは先入観を排して……。


「…………」

 そこではっと我に返った。

 違うだろ、余計な「なぜ」は考えるな。

 こんな面白くもなんともない袋小路にチャレンジしてみろなんて勧めてきたあいつに、改めて怒りがこみ上げる。アグリッサしかり兄貴とあの魔女しかり、恋愛沙汰ってのは当事者になるとこうまで面倒だったのか。普段は頭によぎりもしないことまで考えさせられて言葉を選ばされて。

 アグリッサのことを前向きに考えてはどうかとヘンリエッタに暗に提案された瞬間、すうっと腹の底が冷えるような苛立ちが湧いてきたのは、多分あの女があまりに能天気で無責任なことをのたまったからだ。そうに決まってる。

 冷静に考えてみればこちらがやるべきことはごく簡単だ。こんがらがった思考は断ち切って、動かしようのない結論だけ端的に伝えればこの話は終わる。

 アイオンは潤んだ眼で熱っぽくこちらを見つめるアグリッサに向き直った。

「悪いが、話を聞いても俺はあんたに興味が持てそうにない。あんた自身のためにも、早いとこ別を当たってもらえると助かる」

 あえて淡々と言うと、アグリッサは一瞬息を止め、血の気を引かせて固まった。バラ色だった頬が青白く一変する。

 そのとき、

「やーすみません! ちょっと迷っちゃって追いつくの遅れました~!」

 図ったようなタイミングで恥ずかしそうに笑いながらヘンリエッタが現れた。いや、図ったような、じゃない。こいつのことだ、しばらく前からふたりの会話を聞いていたんだろう。

 ヘンリエッタはアグリッサのうつろな表情に気づくと首を傾げ、

「……あれ? どうかされました? ご気分が優れませんか?」

「……っい、いえ……あたしちょっと、先に戻らせていただきますっ……!」

 アグリッサはやっとのことでそう絞り出し、顔を伏せて温室のほうへ駆け去って行く。アイオンはその背が充分遠ざかるのを待ち、

「観戦席は楽しめたかよ?」

 一言言わずにはいられなかった。責めるようなトゲのある訊き方にヘンリエッタはへにゃっと眉を下げた。

「見世物になんてしてないわよ! 真面目に取り合ったぶんだけお断りするほうも案外ダメージあるよねぇこういうの。アイちゃん的には戸惑うことも多かったと思うけど、気まずさから逃げないでちゃんと考えて答えを出したんだから、対応としては必要充分だったんじゃないかな? だからそう苦い顔しないで! 大丈夫だよ~!」

「……、まぁ兄貴に逃げ回られてるヤツが言うと含蓄があるセリフだな」

「それ今言う!?」

 ヘンリエッタは目を吊り上げてぷりぷりと食ってかかってくるが、アイオンに口げんかにつき合うつもりはなかった。自分が鬱陶しいだけだと切り捨てた恋愛という袋小路で兄と踊りに踊り続けているこの魔女との記憶が、今この瞬間も積み重なっていると思うと胸が悪くなる。もう彼女とはこの話はしたくない。

 さいわい別の話題は探すまでもなく見つかっていた。

「で、遅れる口実を作ってまでひとりでこそこそなんの細工をしてきたんだ? またなんか気づいたんだろお前」

 やはり、ヘンリエッタが温室に居残ったのはアイオンとアグリッサの仲を取り持とうとしたとかではない。彼女にはアイオンの背中を押す理由もなければ止める理由もない。視界の外でアイオンがアグリッサと最終的にどうなろうが、未来の義理の姉を自称する程度の関心以上のものはないのだ。そんなことは分かっている。

 だからその行動に真意があるとすればもっと別の、論理的ななにかのはず。

 早く吐けと上向けた人差し指を軽く動かして急かせば、ヘンリエッタはぱちりと瞬きをひとつして不満げに桜色の唇を尖らせる。

「えぇ~分かっちゃう? ……アイちゃんやっぱ私に慣れるの早くない?」

 知らねぇよ。誰と比べてんだよ。

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