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強い人

 夜の歓楽街はアイオンの想像を遙かに超えて騒がしい。酔っぱらいたちの歓声、歌声、怒鳴り声になにかががしゃーんと壊れる音、無音の瞬間がちっとも訪れない。キュンメルに限らず、街では毎夜毎夜この調子で人生の悲喜こもごもが無数に生まれているのかと考えると不思議な気分だ。

 レオナルドとイースレイを見送った後、アイオンとヘンリエッタは「テリアの尻尾」が見える路地に身を隠した。しかしイースレイ、あの様子で戦力になんのか?

「そんな不安そうにしないで、あのふたりなら大丈夫だよ」

 先行きを案じるこちらの内心を読んだようにヘンリエッタが明るく励ましてくるが、アイオンは心の中で溜め息をつく。


 ヘンリエッタの「キュンメルでネズミが増え続けてるのは地下競技場のせいだから証拠を押さえにいこう」という発言に初めこそ衝撃を受けたものの、アイオンはさほど抵抗もなく「そういうワケの分からねぇもんがこの世にはあるんだな」と納得した。彼女は出自と経歴のせいもあって世情によく通じている。

 だから、釈然としなかったのはそこじゃなかった。

 ヘンリエッタは当たり前のように自分もキュンメルに行くと言い、イースレイもレオナルドもそんな役割分担に疑問を抱いてはいない様子だった。あの三人は働きたがりというところは共通していてアイオンがあの手この手で話の腰を折ろうとしても歯が立たない。話し合いが悪あがきをしても甲斐がないという段に至ってからは基本的にむっつりと黙り込んで流されるのがお決まりのアイオンだが、いつまで聞いていても誰一人ツッコミ役に回らないので解せなくなってきた。


 いや……。

 そいつはこの前ぶっ倒れたばっかだぞ。そんなヤツにドブネズミやら猟犬の大群の向こうを張らせていいわけあるか。

 ……なんで誰も突っ込まないんだ?


 しかしヘンリエッタはあの性格なので、ツッコミどころ満載で進むイースレイとレオナルドの会話にいったんはノッてやってるだけで、どこかのタイミングで「ちょっと待って私ヤダよ! この大魔女にネズミなんかと対戦カード組ませないでよね!?」とかなんとか噴火すると思っていた。

 だが結局そんな展開はなく。

 彼女はネズミ駆除問題という軽い響きの裏にある事態の危険性ばかり押し出し、危ないからアイオンだけ留守番しているように勧めてきた。

「私が完璧に治したとはいえこの前怪我したばっかなんだからお大事に、だよ」

 とか、どの口が言ってんだ。留守番しとくべきはお前だろ。

 ヘンリエッタをはじめとする南部行政監督庁の面々は、性格は千差万別だがみんな気が回るタイプだ。アイオンの懸念くらい誰かしら思い至っているだろうからわざわざ自分が言うまでもないだろう、面倒だしなと思って放置していたのに、一体どうした? 


 無意味な「なぜ」が頭の中を渦巻くのは嫌いだ。いつだってアイオンは思考停止で流されていたい。

 となると、理由の追及よりも適当な手で停滞している現状を動かすほうがまだストレスは少なくて済む。


 あまりに事態が改善しないのでアイオンは仕方なく「俺も行く」と言い、こうして四人全員で視察に赴く羽目になってしまった。

 だから二手に分かれて街を調査することになったときもアイオンはヘンリエッタを引きずっていったし、彼女が「テリアの尻尾」に乗り込む要員に数えられないよう見張ってもいたのだ。

 なぜか急に察しが悪くなった三人がアイオンのこうした思考に気づいていたとは思えない。これはアイオンの個人的な所感だが、ヘンリエッタに至っては、どうも自分が心配される側に回る発想自体がないように見える。

 ……なんで俺が一番気を遣えるポジションみてぇになってんだ、あり得ねぇだろ。

 ものぐさなアイオンが自分がそんなことを考えて行動していたなんて話すわけもなく、したがって何も知らないヘンリエッタは今イースレイやレオナルドの進捗を気にしている。そっちじゃねぇよバカ。

 ついにやる気の芽生えが訪れたかなんて言ってたが、そんなもんお前の勘違いだよ。お前が今までになく意味不明な鈍さだから、俺がこんならしくもねぇことを……あぁくそ。


「……早く帰りてー……」

「だねぇ」

「……」

 コイツどうでもいい独り言はしっかり拾いやがって、察しが良いのか悪いのかはっきりしろよ。歯噛みしてみても、いま自分がここにいること自体理屈に合わないのだとヘンリエッタが気づく気配はない。彼女はアイオンの声に反応しはしたが、今まさにイースレイたちが潜り込んでいる「テリアの尻尾」からじっと眼を離さない。

 もしかするとイースレイやレオナルドの対応のほうがこの大魔女の扱い方としては一般的なんだろうか。――ドブネズミの群れや猛犬どもに襲われたら簡単にへし折れちまいそうな、こんな弱っちそうな女を、ひとりぽいっと配置しとくのが鉄板だって? 離宮の外ではそれが当たり前の常識なんだろうか。

 どちらにせよアイオンにそういった「常識」は分からないし、この十四年間知る由もなかった。

 誰もヘンリエッタの行動に疑念を呈さず、彼女自身も平然とそれを受け入れていることを考えると首をもたげてくるよく分からない感情は意識的に見ないようにして、アイオンも「テリアの尻尾」に注意を向けた。無駄に疲れる考え事はしない主義だ。


 そのとき、轟音が耳をつんざいた。

「!!」

 目を瞠った先で「テリアの尻尾」の二階部分の漆喰壁が崩壊し、その土煙と大勢の悲鳴や怒号の奥から巨大な黒いシルエットがぬうっと立ち上がった。

 魔力のうねりが瓦礫を巻き込み、押し合いへし合いしながら建物から逃げ出していく客たちに降り注ぐ。状況が呑み込めていない他の酔客たちが驚きからくる硬直から徐々に立ち直り、悲鳴を上げて散り散りに逃げる。

 壁をぶち破って現れた黒い大きな影は、まさに怪物じみたサイズに変異したドブネズミだった。本来目がある位置から額にかけて、真っ赤に毒々しい光を放つ八つの目がついている。

「……なん、だありゃ……」

「ヘンリエッタ!!」

 愕然と大ネズミを見上げて停止しそうになった思考をレオナルドの大声に引き戻される。

 彼は暴れる客たちや猛犬を拘束したり眠らせたりと必死に魔力を編むかたわらこちらを肩越しに振り返り、

「客に野良魔術師が混じっててネズミを改造しやがった!! 魔術師は拘束したけど完全に暴走してる!!」

「……!!」

 ヘンリエッタは一瞬ぎくりとしたがすぐに気を取り直し、

「イースレイは!?」

「無事だ!!」

 レオナルドに無力化された人や犬たちの向こう側に帳簿をしっかと抱えてグロッキー状態になっているイースレイの姿が見えた。怪我をしている風ではない。

 と、身の丈三メートル以上はあるだろう大ネズミがぐっと脚に力を入れ、びょんと二階から跳躍した。崩落が加速し、集まってきた野次馬からどよめきが上がる。

「分かった、こっちは任せて!!」

 ヘンリエッタがすぐさま応じてきびすを返した。アイオンは反射的にそれを追う。

「どうするつもりだ!?」

 大ネズミが家の屋根から屋根へ跳躍していくのを追いかけながら訊ねると、ヘンリエッタは両腕に抱えたバスケットを視線で示し、

「ドブネズミは風を嫌がる習性があるって言ったでしょ、上空からなら進行方向をある程度コントロールできると思う!」

 どう見ても走りにくそうにしているので、アイオンは問答無用でその腕からバスケットを取り上げた。蓋を開ければ中にいた『鳥』のマリオネットが翼を広げて外に飛び出した。そのまま猛スピードで大ネズミのほうへ飛んでいく。

 アイオンは用済みになったバスケットを投げ捨てて疾駆する。ヘンリエッタは置いていかれないように懸命に脚を動かし、

「い、今はレオナルドの魔術から本能的に逃げるほうを優先してるけど、あの大きさじゃ家畜どころか人間も食べにかかるよ! 悠長にしてられない!」

 大ネズミに屋根を踏み台にされて驚いた住民も次々と飛び出してきて、通りの混乱は増すばかりだ。

「けど誘導したところであいつを殺せる火力がどこにある!? 『鳥』が狩れるのは通常サイズのネズミ止まりだろ!」

 アイオンの指摘に対しても、ヘンリエッタは息を弾ませつつよどみなく即答する。

「この街の市庁舎に誘導させよう! 警備の兵に協力してもらえたら大砲とか持ち出せるかも……!」

「大砲!? あったとしても撃てるようになるまで時間かかるだろ!? 今回俺たち行政監督庁を名乗ってねぇんだぞ! まともに連携できやしねぇよ!」

「……最悪あの時計塔に登ればやりようはあるわよ!」


 時計塔……、そういうことか。


 っんとに、ああ言えばこう言う。アイオンはもどかしく舌打ちして、

「じゃあ俺がやってやるからお前はここで待ってろ!」

「は!? 急になに!? やだよ! 塔を使うなら重しは多いほうがいいし、アイちゃんひとりで行かせたりもしないから!」

 ヘンリエッタは眼の色を変えて撥ね付ける。そりゃこいつはこう言うって分かっちゃいたが。

「……っ」

 このバカ、腹決めんのが早すぎるんだよ。

 命令に忠実な『鳥』は翼で風を撃ち出し、右へ左へと大ネズミを翻弄して市庁舎へおびき寄せていく。

 市庁舎はたいてい、都市の心臓部にあたる大広場に面して建てられており、その都市の力を示すように際だった高さを誇る。キュンメルのものもいくつかの尖塔と時計塔を備えていてどの建物が市庁舎か一目で分かる。アイオンたちはそこを目指して走った。


 市庁舎前には武装した警備兵が数名出てきていたが、この大混乱になにをすればいいのか分からず呆然と立ち尽くしている。他の人員もパニックになった住民たちに「なにがどうなってるの!?」「早くあれをどうにかしろ!!」ともみくちゃにされて身動きを封じられている。

「おい、今いる兵士は何人だ!? 大砲出せるか!?」

「はっ、た、大砲ですか!? え、えぇと失礼ですが所属は……」

 アイオンに掴みかかられた若い兵士はおろおろと指揮系統の確認から入ろうとする。ダメだ、頼りにならねぇ。

「……所属もなにも俺は……この国の第二王子様だよ、大砲がすぐ出せねぇなら全員ここから離れろ! あの大ネズミをこれからここへ誘導する!」

 言葉の前半は小声にしかならず、早口にもなってしまったが、完全に息が上がっているヘンリエッタが隣でこくこくと首を縦に振っていた。

 ……こんな緊急事態でまで俺が偉ぶってみせたことに満足げな顔してんじゃねぇよ。とっさにいつもこいつがするような言い方になったのが口惜しい。

 当たり前だが、兵士は「へ?」と呟いたきりぽかんとしている。

 一瞬で見切りを付けて兵士の胸を突き飛ばし、そのついでに、かき集められた武器の中から「借りるぞ」と剣を一振りかすめ取った。

「あ、ちょっとっ!?」と制止の声が背中にぶつかる。アイオンはヘンリエッタを連れて構わず庁舎を駆けた。

 アイオンは階段の途中でヘンリエッタを先に行かせ、機械室で時計を整備するための金属製の梯子を見つけた。倒れないよう固定している縄を剣で切り、梯子をかついでヘンリエッタの後を追った。と思ったらすぐに追いついてしまった。だから引っ込んでろっつってんのに、この貧弱。

 らせん階段と梯子をがむしゃらにクリアしてやっとの思いで塔に登ったころには、ふたりとも息も絶え絶えの状態だった。それでも、外の騒ぎを眼下にしては休憩なんかしていられない。

「……っこ、こっちだよ、こっちに連れてきて!」

 ヘンリエッタが両手を大きく振って『鳥』に合図すると、心得たようにギュイギュイとおぞましい鳴き声を上げて荒ぶる大ネズミをさらにこちらへ誘導し始めた。ときにはネズミの嫌がる風を起こして脅し、ときには自らを囮にして巧みに引き寄せる。

 アイオンは機械室で取ってきたロープをヘンリエッタに投げ、

「それで俺に適当に錘になりそうなもん片っ端からくくりつけろ」

 たじろぐこともなくロープを受け取ったことから、ヘンリエッタがアイオンと同じ事を考えていると分かった。しかしだとしたら、少しは躊躇しろよとかえって腹が立つ。

 ヘンリエッタはアイオンを急かすように声を張り、

「そんなことしてる時間ないよ! 錘なら私でいいでしょ、私なら自力で掴まっていられるし!」

「……、あんなに体重知られるの気にしてたくせによ」

「はーやーく!!」

 ヘンリエッタが痺れを切らしたのと同時に大ネズミがまたけたたましい叫びを上げた。逃げ惑う人々の悲鳴。街のパニックに乗じて破壊活動に走る住民が出たせいで火の手まで上がっている。

 確かにもう猶予は残されていない。

「……くそっ……ホラ乗れ! 絶対離れんなよ!」

 言い捨てるとヘンリエッタが飛びつくように背に乗ってきて、アイオンがおんぶするかたちになる。アイオンの力では気休め程度にしかならないだろうが一応梯子に強化の魔術をかけ、それを抱えて塀の上に立つ。

 奮闘を続ける『鳥』が大ネズミをアイオンたちのちょうど真下におびき寄せた瞬間、アイオンは足場を蹴った。

「~~~~っ……!!」

 背中にしがみついているヘンリエッタが声にならない悲鳴を噛み殺すのを聞きながら、梯子ごと飛び降りたアイオンは大ネズミの首へ落下した。


 ドゴッ!!


 梯子に掴まっているアイオンと、その背にくっついているヘンリエッタの体重が落下の加速と合わさって大ネズミの首を襲った。

 魔術で強化された梯子は撃ち出された杭のように肉と骨を穿ち、アイオンはタイミングを過たず梯子から手を離した。

 このままの勢いで地面に激突してしまえばふたりとも死ぬ。アイオンは腰に佩いていた借り物の剣を大ネズミの身体に瞬時に、深く突き刺す。

 片手でふたりぶんの体重を支えなければいけなくなったが、負荷が掛かった剣は大ネズミの毛皮と肉を深々と切り裂き、落下の勢いを殺してくれた。

 最後にはその剣も手放し、首に回されたヘンリエッタの腕をすばやく引いて、彼女の身体を引っ張って身体の前で抱く。その状態で、アイオンは無事石畳に軽く着地を決めた。

 胸元にしがみついたヘンリエッタがはっと我に返って「あ、アイちゃんネズミが! ネズミが倒れるっ!」と血相変えてわめくので、アイオンはへーへーと即座に距離を取る。

 ずずん、と大ネズミがどす黒い血を吐いて倒れ込み、八つに増えた赤い眼球から光が消える。幸い食われた人間はいないようだ。……間に合った。

 頭上を飛んでいた『鳥』がそばに戻ってきたので、アイオンは「レオナルドたちのほうへ行って手伝ってやれ」と指示した。働き者のマリオネットは文句も言わず飛んでいく。

 大ネズミから充分離れたところでヘンリエッタを下ろし、

「……はぁ。噛まれずには済んだが毛皮には触っちまったな。この服は捨てて早く風呂と消毒……」

「わぁあああー!! ていうかアイちゃんすごーい!!」

 話聞けよ。

 こっちが珍しくてきぱきと行動してやろうとしてるのに、ヘンリエッタはきらきらと眼を輝かせてすごいすごいと褒めちぎってくる。怪我はないみたいだがこれ以上疲れさせるんじゃねぇ。アイオンはしっしっと手で追い払おうとする。

「お前、俺がこれくらいやれると思ったから時計塔に登るのを提案したんだろ? だったらそんなビックリしてんなよ」

「だって……、あ、ねぇ村の子どもたちを助けたときもこうやったの!? やっぱ伝聞とこの眼で見るのとは衝撃が全然違うな~! ダイブしたときはめちゃくちゃ怖かったのにもう吹っ飛んじゃった! う~……かっこいい~……! 鍛えてるって言ったって実際こんなこと出来る人そうそういないよ、少なくとも殿下はできないねっ! もちろん私だってできないし……ホントすごい! すごいよ~!!」

「…………っ」

 だから話聞け。今度はかっこいいかっこいいと舞台の花形役者の名演を反芻するように噛みしめ始めるので、アイオンは人生で感じたことのないほどむずがゆい気分になる。つーかめちゃくちゃ怖かったならあんな爆速で腹くくんな、できると思われたことをやっただけなのに大げさなリアクションすんな。それも、自分のことみたいに嬉しそうな顔で。

「街の人にアイちゃんばんざいしてもらおーよ! 銅像も建ててもらってさぁ、『大ネズミの首を折る第二王子像』的なのを広場にどーんと!」

「だ、……れが喜ぶんだよそんなもん!」

 衆人環視ですさまじく恥ずかしいことをはやし立てるな。耐えきれず声を張ったところで、アイオンはだんだん大ネズミが絶命したと理解できてきた住民たちがいつの間にかふたりを遠巻きにしていることに気づいた。

「お、王子って言ったか今?」

「バカ信じるな、聞き間違いか冗談に決まってる」

「そ、そうよね、王子様がこんな街にいるわけないわ」

「でもさっき確かに第二王子って……」

「そういえば第二王子がこの南部の行政監督庁に来たって聞いたぞ」

「……なぁ、ハノーバーがこの街のことで行政監督庁に相談したってことはないか?」

「もしハノーバーにこのことが伝わったら、俺たち……」

 住民のひそひそ声がじわじわと物々しい雰囲気に染まっていく。大ネズミの危機を脱した今、目端の利く連中はこの街の地下競技が明るみに出てしまったこと対する危機感を募らせている。

「そうさ……お、王子様がこんなとこにいるもんかよ……」

 狼狽と焦燥が集団を駆け巡り、住民たちの眼に不穏な昏い光が鈍く光り始めた。大ネズミの脅威から逃れられた安堵や喜び、ましてや感謝など微塵も感じられない。

 アイオンはあぁそういうことね、と彼らを横目で見た。


 ――口封じするつもりか。


 その衝動は野火のように広がっていき、掃除用具や台所用品のうち少しでも殺傷能力の高いものを見繕った住民たちがぞろ、ぞろ、と外へ出て来た。

 常識的に考えれば、街ぐるみで危険な商売をやっていたことに対する処罰を恐れて証拠を押さえた行政監督庁を全員滅多打ちにしようなんて、仮にやりおおせたってただじゃ済まないと分かるはずだ。相手は――いくら要らない王子と呼ばれている女王陛下の目の上のたんこぶだとしても――王族に貴族、魔女にして王太子の婚約者というそうそうたるラインナップだ。平民が相手取ればどのみち破滅しかない。だが、正気を失った集団にはそんな正論を説いても無駄のようだった。

「……」

 とりあえずレオナルドたちと合流したくてアイオンは視線を走らせたが、じりじりと遠巻きにしていた距離を詰めようとしてくる住民たちの眼つきは正気を失っている。アイオンは「完全に変な気起こしてんなこいつら」と呆れる一方で、正面突破は無理だろうと判断した。

 このまま手をこまねいていれば住民はどんどん集結してくるだろうが、集団ヒステリーの収め方なんかさっぱり分からない。どうする、とアイオンが隣のヘンリエッタに問うより先に、彼女は住民たちの包囲網に向き直り、平然と前に出た。

「いいよ。やれば?」

 ヘンリエッタのあっけらかんとした言葉に、アイオンだけでなく住民たちも「え」と意表を衝かれた。

 ヘンリエッタは余裕を含ませた笑みを浮かべ、

「がんばって自己欺瞞にいそしんでるとこ悪いけど現実見ようねー。その情報が伝わってるなら、第二王子着任に怖~い大魔女がくっついてきたのも当然知ってるよね? なら私が誰かも分かるでしょ。それでもなおみんなで仲良く口封じしようとする団結力に免じて、特っ別に! 大魔女お試しコースを選ばせてあげよう!」

 はっきりと発された大魔女、という言葉に住民たちの間に緊張が走ったのが見て取れた。

 ヘンリエッタはにこにこと続ける。

「このまま黙って滅多打ちにされる気はさらさらないけど、だからって訳も分からずいきなり全滅させんのもあんまりだしね。あなたたちが挑むか退くかはお試しで私の実力を確かめてみてから決めればいい。この中で私相手に一番望みがありそうなのは誰かな? みんなで相談して決める間くらい待っててあげるよ。一番屈強な人? 一番勇敢な人? それとも一番嫌われてるヤツを選ぶ? いなくなってほしい隣人がいるならチャンスかもね? 私は老若男女誰でも構わないよ」

 こちらを睨んでいた住民たちがたじろぎ、お互いうかがうように顔を見合わせる。

「さ、誰にする?」

 ヘンリエッタは重ねて問い、一歩住民たちに向かって踏み出した。とっさに彼女を後ろに庇おうと手首を引こうとしたアイオンはそのとき、彼女が後ろ手になにかを持っていることに気づいた。


 ……爆竹?


 カラフルな紙の筒に火薬を詰め、導火線をつけた爆竹。街中で食べ歩きをしたとき、大道芸人と組んでいたオモチャ屋が子どもらに売っていたものだ。

 思い出してみれば、食べ終わったパイと紅茶のゴミを捨ててくると言ってヘンリエッタはほんのいっときアイオンのそばを離れた。あのとき、どういう理由からか子どもたちにまじって爆竹を買い込んでいたらしい。

 ヘンリエッタはくいくいと後ろ手を動かし、アイオンに合図している。点火よろしくね、と。


 こいつマジで抜け目ねぇな……。


 アイオンはバレないようにさっと彼女の手から爆竹をかすめ取り、へなちょこなりに魔力をかき集め、導火線に火をつけた。小さな紙筒を指で弾き飛ばすと、それは住民から見ればなにもない空中で一瞬閃光を放ち、バチッ! と爆発音を立てる。

「ひっ!!」

 突然の爆音に住民たちがおののいて後ずさる。


 起きえない場所で起きる閃光、物音などは大魔女の魔力暴走の前兆としてこの国で広く知られている。魔力暴走の恐怖に今まさに立ち会っている彼らがそれに思い至らないわけがない。

 思いも寄らないヘンリエッタの提案で「誰かを生贄にすれば自分は逃れられるかもしれない」という発想を植え付けられたところにそんな恐怖が齎されれば効果てきめんだろう。


 ヘンリエッタがまた一歩迫るように踏み出し、住民たちは「あ、う、」と喉につっかえた呻き声を上げてびくつきながら逃げを打とうとする。

 こうなったらやるしかないと思い込んでいるような熱狂はすでに彼らの眼から消え失せていた。団結してなにかに臨むなんてもう不可能だろう。

「うーん。誰も名乗り出ないの?」

 ヘンリエッタが素知らぬふりで訊ねると、住民たちは一瞬呆けた後、ぶんぶんと激しく必死に首を縦に振って武器をその場に投げ捨てる。

「んじゃ、これでおしまいね」

 ヘンリエッタがつまらなそうなフリでそう言ったとき、「アイオ~ン!! ヘンリエッタ~!! 無事かー!?」とレオナルドたちの慌てた声が近づいてきた。

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