表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

古風

作者: 石井 謨

 美濃国郡上藩士山田清左衛門は十七歳の時に、父の逝去に伴い三十俵二人扶持という俸禄の家督を継いだ。翌年、祐筆役に就くと、文化、文政、天保、弘化、嘉永、安政、万延、文久に渡って三代の藩主に仕えた。奉職して四十五年の間、勤める役職も俸禄も変わることは無かった。嫡子だった利定が早生したため、元治へと元号が変わるのをきっかけに、孫の小四郎に跡目を譲った。


 俸禄や役目と同じく、清左衛門の生活は、毎朝七ツ半(午前五時)に起き、洗顔、三百の素振り、朝食、登城、下城、内職の提灯貼り、湯浴みを終えて夜四ツ(午後十時)の就寝と、体内に時計があるかのように、規則正しかった。

趣味も同様であった。釣りに出た日は、坊主の日でも、釣果が多い日でも、必ず八ツ半(午後三時)丁度に帰宅し、近所の人々は彼の帰宅を寺の鐘の代わりにした。碁は毎月の十、二十、三十の三日間だけ、木戸番へと足を運んだ。


 小四郎はある時、祖母の喜代、即ち清左衛門の妻に、お爺様の一日は、まるで刷物のように同じですね。私はお爺様が寝坊した所も、帰宅が遅れた所も見た事がありません、と言った。すると喜代は口を袖にあてて、笑い声と共に、私も見たことはありません、と答えた。

喜代は、清左衛門と一緒になって四十余年、装身で言えば、髷や衣服など、様々な流行り廃りがありましたが、髷は短めの銀杏、普段の服は小袖袴に黒一色の縮緬羽織と、何ひとつ変わっておりません、と付け加えた。

「毎日同じことの繰り返し、それで宜しいのでしょうか」元服を終えたばかりで、洒落っ気の多い小四郎は尋ねた。喜代は答えの代わりに、優しく微笑んだ。


 跡目相続を翌日に控えた日、小四郎は喜代に投げかけた、同じ問いを清左衛門にした。小四郎の質問の意図が読み取れないのか、清左衛門は首を傾げ、暫く黙った。やがて口を開くと「そのようなことはない」と短く言い、そして続けた。「四月には綿入れを外し、袷にする。五月には炉を閉め、風炉とする」

笑いを堪える為に俯く小四郎に「武士たる者は、常在戦場、臨機応変でなければならぬ」と清左衛門の声が被さった。

言葉使いが違う、と思ったが小四郎は口には出さなかった。そしてこの日以降、より祖父を敬慕するようになった。


 やがて御一新を迎え、新政府は廃藩置県を断行し、太陽暦と定時法を採用した。清左衛門は髷を切らず、夕餉の時間を暮六ツから変えることを拒んだ。為に山田家の夕食は、冬至は十七時、夏至は十九時半となった。

それでも世の中の仕組みが変わってゆくのを肌で感じていたのであろう、十六夜の月を眺めながら、何故今日が晦日なのだ、と寂しそうに呟いた清左衛門の背中を、小四郎は生涯忘れることは無かった。


廃仏毀釈の嵐が収まった頃、七十三歳で清左衛門は没した。神式の葬儀が流行るなか、彼の遺言は、仏式で行え、というものだけだった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ