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第九話:にじゅうさんにちめ!

 ――みし、と小さな音がした気がして、浅い眠りからすぐ目が冴えた。


「………」


 思わず下唇を噛んで息を殺す。

 恐る恐ると横になっている体勢のまま目を開けば、その目の前には壁があって安心した。

 入り口から奥、窓際の壁に寄せてあるベッドで、わたしは外側を向いて寝ているみたいだ。

 同時に部屋の内側へ振り向くことが怖くなってしまうんだけど……。


 心臓がうるさくなる。

 こ、こわい。聞き間違いじゃないはずだ、絶対に、足音。

 重たいものが木の板の上に乗った音。

 続く音はないけれど、だからこそ余計不気味に思う。

 トゥーレちゃん? だったら、音を立てないように歩く必要はないだろうし。

 ネズミ? それならいいけど、でもいままで見てなかったし……久々に思い浮かべたよ、ネズミって。いるのかな。

 どうなんだろう……。


 ――ああああ、ダメだ! こういうのは本当に苦手。何か安心出来るものを抱き締めたくなってしまうけど、寝ているフリは続けたいし……、そういえば、シエル様に貰ったものを枕下に入れといた気がした。

 目立たない動きでまさぐって、見つける。引っ張り出す。

 透明感ある黄色の宝石。お守りだって言って、つい先日くれました。


『何かあったらこれを握り締めて、カチカと唱えるんだ。あ、ちゃんと目は瞑るんだよ? 眩しいからね』


 と教えてくれたので、これも魔法なのかな? ともかく護身に使えるものだからって頂いていたその宝石を、大事に胸元で握り締める。

 うん、ちょっと安定した、けど。


 みし。


 うん、確かに聞こえましたね。しかもさっきより近い。

 どくんどくんと加速していく動悸が胸をいっぱいいっぱいにして、本当につらい。

 耳を済ましていられない。

 ……もしかしてこの部屋にいる?

 なんとなく、気配を感じる。

 す、すごい嫌だ。トゥーレちゃんなら早く言って。そうじゃないならどっか行って!

 ほ、本当に怖い。どうすればいいんだろう。

 こっ、……一か八か。これを使って……。

 そのあとどうしよう。そのあと何が出来るんだろう。

 身体が緊張する。肩に力が入ってしまって硬直とする。

 時間は真夜中だ。トゥーレちゃんに助けを求めても、もしこの空間に誰かがいて、例えば高崎さんと二人きりだとして、逃げ切れる算段もなければそんな勇気もなくて、本当にどうしようもない。


 気配がにじりよる。

 きゅっと目を瞑って、わたしは身体を強張らせた。

 こ、このままじゃ。

 このままじゃあ、だめだ。嫌だ。触れられたくない。

 覚悟、しないと。

 ………。

 もう、どうにでもなっちゃえ!


「―――――っ、〈カチカ〉ぁ!」


 ガバッと身体を起こし、振り返って、何もかもを確認する前にそれを唱える。

 すると、チカッと瞼すら突き抜けるあまりにも眩い光が辺り一面を真っ白に染め、一瞬だけ。本当に、一秒ほどの短かな時間を、目も開けられない明るさで染め上げた。

 そして。



「トゥーレちゃぁーんっ!!」



 叫ぶ。叫ぶ。たじろぐように両目を抑えて悶える謎の影をよそに、隣の部屋にいるはずの彼女を必死で呼ぶ。助けを乞う。

 その答えは、カチカの光よりも速かった。


「ユズッ!」

「その人!」

「クソがぁぁァア……!」


 寝起きは弱いはずなのに、駆けつけたトゥーレちゃんは勇ましくて、点いた部屋中の灯りが彼女の存在感を際立たせて、そこに呻く影との対比を分かりやすいほどにして。

 憎悪に溢れる赤い瞳がトゥーレちゃんのことをまっすぐ射貫く。恐ろしい目の色にその人の本質が、如実にそこに、現れてくる。


「伏せて!」


 トゥーレちゃんが声をあげた。って、ぇぇえ!?

 ぱりーん!

 なんて大きな音を立ててその男にタックルしたトゥーレちゃんは、そのまま窓を突き破り二階から外に飛び出した。

 えっ、こっ、にかっいぇ……とぅ、トゥーレちゃん!!

 追いつかない思考で慌てて下を覗く。

 すると、取っ組み合うように男の背後を取り、その両腕を後ろで固めて地に伏せさせるトゥーレちゃんが見えて、安心した。


 よ、良かった……!

 その光景を見て、途端胸を撫で下ろすように安堵感から一歩二歩と窓辺から引いてへたり込む。と、真夜中の空、大きな月明かりを背中にして、新たな人影が風を纏って空から姿を現した。


「こらこら、ダメじゃないか」


 そのシルエットは一目でシエル様だと分かったし、何よりそんな頼もしくて落ち着けるような偉大な声に――わたしは胸を膨らませて、嬉しくなって、泣きそうになって。


「選択肢の話はなんだったのかな? まぁ予想はしていたけどね。君という人間を見れば」

「畜生共が……ッ」

「滑稽だね。さて」


 地上に降り立ち、シエル様がいつも片手にしている大きな杖。それをトンと地面に付くと、その場を中心に風圧にも似た大きな一陣の風、空気がブワッと一新される。

 シエル様を基点としてドーム状に膨らんだそれは物質に阻まれることはなく、身体のなかすら突き抜けて通っていくような魔法に、抜けた瞬間少しだけ身体を引っ張られてたじろいだ。

 思わず自分の身体を確かめるように、にぎにぎと手を握り込む。

 ――風圧の魔法に森が揺れ、うんと頷くシエル様。


「東に二人。南西。北。南南東。西にいるのが本物かな。全部で六人。警戒は怠らないように」


 トゥーレちゃんが捉えていた高崎さんは、いつの間にか靄になって消えていたけれど、シエル様はその所在地を掴んだようだった。

 すごい……!

 シエル様は、やっぱり本当にすごいんだとたまらない高揚感に、嬉しくなる。

 頼もしくて、理知的で、無駄がなくて、安心をもたらしてくれる。

 もちろんトゥーレちゃんも!

 彼女がいて、本当にわたしは良かったと、つい泣きそうになってしまいながら。


「さぁみんな、起きる時間だよ」


 また新たな風が吹き流れた。

 それに伴って、村中のあらゆる民家に一斉にして灯りが点き、開戦を告げる。

 わたしも、高崎さんに襲われたこの場所に一人で留まっているのは嫌なので急いで彼女たちのもとに向かっていった。

 ……な、なんか上着……。

 トゥーレちゃんは想定していたのか薄地でも服を着ていたみたいだけど、わたしは下着姿のままで寝てしまっていたので、ちょっと外に行くには恥ずかしすぎる格好だ。気にしてる場合でもないんだろうけど、外が暗くてほんとに良かったといそいそと着替えながら。

 階段を下り、すぐに合流する。

 トゥーレちゃんとシエル様は、ふぅと息吐くように話し込んでいた。


「しかし予想外だったかな。万が一は思っていたけれど、これほどまでに浅慮で直情的で目先に踊らされるような三下とはね。考えるだけ損したよ」

「三日後。それも寝込みとは……」

「この調子なら思ったより簡単になりそうだ。暴走しているのは彼一人。一見誰でも気付ける愚作なはずなのに、部下の誰も止めなかったのだから、彼はもはや捨てられてしまっているんだろうね。可哀想に」

「トゥーレちゃん!」


 玄関を飛び出し、二人の姿を目の当たりにすると、わたしはついついトゥーレちゃんに抱きつくような突進をかましてしまう。

 それにちょっとよろめきながらも受け止めてくれるトゥーレちゃんに全力で甘えながら。

 彼女は、優しく頭を撫でてくれた。


「偉いねユズ。おかげで先手を取れた」

「がんばったよぉおおおおお!」

「うん」


 怖かった! 怖かった! もう一人の夜はイヤすぎるかもしれません!

 だから今度からは一緒に寝よ? トゥーレちゃんとは近くにいたい……もうこわい……。

 本当に、離れたくなくなってしまった。


「あっはは。やっぱりいいね、とても和む。でもユズ、忙しいのはこれからだよ」


 分かってるけど、分かってるけどチラッとまるで助けを求めるようにトゥーレちゃんを見る。

 やっぱりダメだった。トゥーレちゃんが「頑張ろう」って励ましてくれるんなら、仕方ないですね。

 あと少しだけ頑張って、ここを乗りきって、そしたらまたトゥーレちゃんと一緒の日々を過ごせるはずだから。

 だったら、いえ、だからこそ! やってやるしかありません!

 深呼吸をして、覚悟を決めて握り拳を作ります。


「はい!」

「うん。いい返事だ。作戦は覚えているね」

「……もう一回教えてください」

「ぁははっ、一応道案内はしてあげるから安心して。でもここからだとCルート、ちょっと迂回するような道で、目的地に行ってほしいかな」

「了解です!」

「終わったらみんなで迎えにいくからね。……カチカも充填しておこうか。もう一度使えるようにはしとくから、また何かあったら使って欲しい」

「はいっ。……あの、トゥーレちゃんは……?」


 こっちも分かっているけれど、やっぱりダメだ、確認せずにはいられない。

 始まりがインパクト強かったせいで、一応この数日で固めておいたはずの覚悟が見る影もなくしてしまっている。

 だって、だって。

 ぅうう、本当に怖かったんだもん!


「私は、ごめん。着いていけない。現場で指揮をする人間も必要で、負けたくないから」


 ――トゥーレちゃんも、わたしのためにここまで覚悟して立ち向かってくれているんだ。

 いくら武人でも、警備隊長でも、こんなわたしと同じ、女の子なのに。種族とか関係なくて、年齢も関係なくて、その本質は変わらないはずなのに。


 彼女だって頑張ってる。頑張ってくれている。

 だったらわたしも、頑張んなきゃいけないですよね。


 ――と、下の方で大きな爆発が起こった。

 その破裂音と衝撃波に身体を強張らせて、この世界の命運を分ける戦いがいま本当に起きていることを理解する。時間がないことを理解する。


「猶予はないね。じゃあとりあえずは作戦通りにいこう。大丈夫。きっと上手くいくさ」


 覚悟を決めて。


「「はい!」」


 ――シエル様が再び杖をついて風圧の魔法を使った。

 トゥーレちゃんはその俊足で麓の兵団本部まで駆けていく。

 わたしは横道、住宅地の更に奥の森のなかへ姿を眩ます。


 ―――――時の超越者・エルフと、世界の超越者・高崎との、戦いがいまここで始まった。



     ☆



「はぁっ、はぁっ」


〝そこを右ね〟


 暗い森のなかを走っていると、いつかのあの日を思い出す。

 不気味な森に、狼の遠吠えが響く夜。トゥーレちゃんがこれはフォレストウルフという、群れを作らない習性を持つ狼であることを教えてくれた。

 ホゥホゥとフクロウの鳴き声がこだまする。これはこの森独自のエルアウル、神聖なフクロウっていう意味の名前で、エルフとは古くから親しまれている良い魔物さんだって。ちょっと怖いけどね。

 ときたま、茂みがガサガサッと揺れると、びっくりして立ち止まってしまいそうになるけれど。

 風に乗って耳に届くシエル様の声が、立ち止まるなとわたしを止めない。


「ぃたっ」


 擦りむいて、転んで、暗闇に心細くなりながら、指示を頼りにがむしゃらに。

 月明かりに蒼く染まる森のなかを、山のなかを走って進む。

 ――一定のペースでシエル様のあの風圧が波のように訪れた。

 背中を押されては身体の芯を突き抜けていくその風に引っ張られてしまいながら、それでもなお進んでいく。

 どうやらこの風圧はサーチ? 周囲の地形や物体を瞬間的にマッピングするものらしくて、それで敵の数だとか、今現在のわたしの居場所を把握してくれているんだそうです。

 そんな魔法が使えるなんて本当にこの世界はすごいと思うし、なによりもシエル様がただただ格好良すぎると思っちゃう。


〝あー。一人そっちに行った。気を付けて、とりあえずは左へ〟


 その一言にドキッとした。

 でも立ち止まる余裕もなくて、声のまま無我夢中で左へ。――と、足を踏み外す。


「きゃア――……んっ、んん!」


 反射的に叫びたくなってしまって、でもグッと口を抑えて堪える。

 荒くなって乱れた呼吸を正しながら、泣きそうになりながら。

 うぅ……もうやだぁ……。

 でも挫けません。わたしが一番に諦めるわけには、絶対にいかないですから。

 早く、立て直さないと。


〝多少遠回りになるけど撒かないと意味がない。ユズ、大丈夫だね?〟


「っ、がんばります!」


 本当はもう無理と根を上げてしまいたいほどだけど、でも捕まるのなんてぜったいイヤだ!

 だから、大丈夫です! がんばります!

 頑張らないと……!

 少しずつ、蒼白い光で森のなかを照らしてくれていた月が雲に隠れていく。

 徐々に手の届く範囲以上の外が見られなくなっていて、急激に狭まった視界にざらつきのある不安感が心を襲った。

 走る。走る。挫けるな。トゥーレちゃんを心のなかに、トゥーレちゃんのあのかわいい笑顔を思い浮かべるんだ。

 仲良くなって、一日一日立つほど色々な顔を見せてくれて、いまではキスまでしてくれちゃうくらいの、あのトゥーレちゃんを心のなかで。

 それだけで、不安感は散らされるようになくなっていく。……気が、する。


「はぁっ……はぁっ……」


〝――ダメだ。追い付かれる。ユズ、聞いて。カチカをちゃんと持っているね〟


「はぁ……んく、はい」


〝それを右手側に投げて。囮に使おう〟


 そう言われて、ポケットにしまっていたカチカの石を手にとって、息を呑む。

 これはついさっきのを見れば分かるけど、目の前で使えば相手を一時的に無害化させられる閃光弾みたいなもの……なんだと思う。

 それを、ただ注意を引くためだけに使うのは、不安になるし、恐れ多いけれど。


「ふぅっ……ふうー……」


 長く息をはいて、浅く空気を取り込んで、息を止める。睨むのは遠く。

 まるで暗闇には輪郭の一つも浮かんでいなくて、ちょっと木に跳ね返って戻ってきたらどうしようとか、あんまり現実味のないことを考えてしまう。

 だめだめ、振り払って。

 前を見る。なるべく遠く。物音を立てないように、これは偽物のわたしを遠く離れた場所に作るということなのだから。


「〈カチカ〉」


 投げながら唱えた。



〝――走れ!〟



 どこまで飛んだとか、ちゃんと発光したかとか、見ている余裕がないままに前を向く。

 その声と再びの風圧に背中を圧されながら、わたしはもう一度走り出す。

 ずっと、ずっと。

 全てを見ないようにして、いまどうなっているかも理解出来ないままで、ただひたすらに。


 ――目の前でグルルと牙を向いてこちらへ唸りをあげる、赤い目の魔物がいた。


「ひ……」


 その猛烈な敵意に、わたしの勢いはみるみる萎んで消えていく。

 狼だ。慎重な歩調で、こちらを品定めするかのようにわたしの周囲をぐるりと回りながら、そこに一匹。

 狙われている。どうしよう。

 野性動物に襲われる。その恐怖が、途端に身を竦ませてきた。

 かっ、咬まれる。

 咬まれるで済めばいいけど、食べられる! 病気を持っていたら死んじゃう! そもそも魔物だから毒とかだって持っているかも!


「あ、あわわ……」


 ゆっくりと後退するように一歩一歩、後ろへ下がる。とは思っても、追っ手が気になって後ろにも引けなければ、道のないような森のなかじゃ、ここを抜け出すことも出来ない!

 パニックだ。八方塞がりだ。狼はシンプルにこわいよ!?

 どうしよう、さっそくカチカを囮に使ったことが悔やまれる。


 いや、例え持っていても、狼に使った時点で追っ手にわたしの居場所をバラしてしまうようなものだから、どのみちダメなんだろうけど、でも。

 回りにはなにも転がってなかった。棒もなければ枝もない。石ころもなくて、ただ雑草ばかり。ただ少し拓けた空間になっている。

 拓けているけれど、先程から頻繁に転びかけてしまうようなほどここら辺の森は根っこが飛び出してしまっているからで、上手く逃げ切れる自信がなかった。

 詰んでいます。だれかたすけて!


「ガルルル……」


 ひぃいいいい。

 や、野性動物はだめだって! ペットじゃないなら触れません!!

 ものすごくこわい。なにあれ、血……? すでにもうなにか食べてるの……!?

 口許にべったりと付着する何かの赤黒さに、本当に戦慄する。もういやだ!

 これは無理だよ!


「うううううう」


 何かあったっけ、何かあったっけ、森のなかで出来ること。生き残る手段。ここから逃げ出せるだけの、なにか!

 動物が怖がるもの!

 …………………………………………………ま、魔法ってどうやれば使えるんだろう……。

 う、うううう、ううううううう!

 トゥーレちゃんは魔法を感覚だって言った。

 イメージだ。大丈夫。実物を一度見たことあるんだから、あの時の感覚を確かに。


〝……魔法? 魔法使おうとしてる?――やるしかないか。いいよ、簡単にだけど指南しよう。媒体は?〟


 上着を脱いだ。ぐるぐると左手に巻いて、インナー姿になって、狼を睨み付ける。


〝それでいこう。さて、物質とはそこにあるだけでエーテルという粒子を産み出す。魔力だね〟


 わたしの明確な敵意。それに、狼はより強い唸りをあげていて、だんだん腰が引けてくる。

 深呼吸しよう。

 ふー、ふー、ふー、ふー……。


〝黒色の光粒だよ、光の粒子。立ち上るエネルギーだ。それを見て、想像して。信じて〟


 目を瞑って意識しようと思ったけど、狼が怖いし、シエル様にちゃんと見るんだと言われて、頑張る。

 くるまった洋服を一点に見つめた。

 そこから、言われた通りに想像する。思い描く。

大丈夫。ゲームとか漫画とかアニメとか、なんかきっと、あるじゃない。

 考えられる。似たようなものを思い出して、ここに当て嵌めてみて。

 そういうのは、悲しいかな――得意でもあるよ!


〝それを凝縮するように。その粒子がエーテルだ。あとはそれを、好きなように魔法にして。君なら出来るよ、ユズ〟


「――っ! 〈ふぁいあー〉!」


 トゥーレちゃんが使って見せてくれた、炎の魔法。空中で燃え広がるそれは、すごいと感嘆する暇もなく洋服に……引火した!?

 ああああ、媒体にしても塵になってはいなくて安心していたのに、燃えてしまったらダメじゃんか!

 どどどどうしよう。

 トゥーレちゃんがせっかく買ってくれたやつなのに。マカロさんの丹精込めて作ったお洋服なのに!

 媒体にしようと思ったタイミングで、原型がなくなることも覚悟だけはしていたけれど、実際取り返しがつかなくなるとあたふたしてしまう。

 ややや、ダメだダメだ。あとでものすっごく謝ろう!

 いまはこの狼を退けることを考える!


「やああああ!」


 ぶんぶんぶんぶん!

 熱いあつい熱いあつい!

 洋服を振り回す手が熱い。けど、もうやっちまえ心でブンブンと振り回す。

 ここらへんが拓けてくれていてよかった、じゃなかったら木に引火して、こうやって振り回すのは本当に出来ないし危なかったかもしれない。

 その乱暴で雑すぎる追い払いは、誰が見ても近寄りがたい代物で、狼だって当たり前。

 なんとか逃げていってくれて。


「はぁ……はぁ……」


 どっと息を吐く。洋服を投げ捨てて消火だけ済ませ、木を支えにしてへたり込む。

 逃げなきゃ。走らなきゃ。目的地……安全で見つからないという、シエル様がこの日のために用意してくれたその場所にいかないと。

 地面におかれた上着を呆然と眺める。

 焦げたのはどの辺りだろう? 広げてないから分からないけど、でも、もうどうしようもないですよね……。

 薄い生地で、わりと気に入っていた、かわいいお洋服。

 残念だなぁ……。


 ――でも、ここまでして、逃げてきたんだ。ここまで犠牲にして、わたしはわたしのために逃げ続けたんだ。

 本当はもっとやり切るべきところ。ここで諦めてしまうのは、本当にただの無駄で、もったいなくて、損しかないこと。

 でも、気力が湧かない。疲れちゃったんだ。

 わたしは、本当は誰かにここまでしてもらうようなほど価値ある人間じゃなくて。

 それが申し訳なくて。


 ずっとバカだった。頭が悪くて、迷惑ばかりかけて、責任は取れないからいつもなにも負えなくて。

 だからここまでやばいくらいなことになって、初めて実感して、わたしは高崎さんについて行くほうが、エルフの村のためだったんじゃないかと……当たり前だったことをいまさらながらに考えてしまって。

 でも、だから、そうですね。

 トゥーレちゃんを失望させたくない。わたしはわたしに失望されたくない。

 こんなんじゃ、いたくないんです。


「もっと頑張りたいよ……」


 遠くの地響きがここにまで届く。

 カチカとは別の光が、瞬間的に遠くの空を様々な色に変えた。

 黒煙が立ち上る。風圧がその火の元を掻き消すように黒煙を霧散させた。

 わたしが立ち止まっていることが、シエル様にばれてしまう。


〝ユズ? 大丈夫? どうかしたかい?〟


 蹲ってぎゅっと、擦り傷だらけの両肩を抱いて独り。耐えられない涙に、昨日までの日常を考えて、高崎さんが来るまでの幸せだけの日々を考えてしまって。

 つらい。もう、どれだけ理想を語っても。

 わたしは本当に、ダメダメなんでしょうか。


「あ……」


〝ユズ? ユズ? どうした?〟


 ――風圧が追い掛けるように再び吹いた。


〝っ、いつの間に……!〟


 そして、息を呑むシエル様の声。


「バァカ。ここにいるのは全員俺なんだよ」


 長髪の見知らぬ黒服。てっきり部下かなんかだとずっと思っていたけれど、違う。

 まるで幻が解かれるように顔が変わる。髪型が変わる。体格が変わる。

 そこにいたのは平々凡々な顔つきの、体つきの、黒髪黒目。真っ黒のスーツ姿に、青色のフレームメガネを掛けている――


「チェックメイトだ」


 高崎さんだった。



     ☆



「チェックメイトだ」


 そう言った彼の顔はニヒルにも歪んでいて、勝利を確信したようで、弱者をいたぶるような嗜虐性を秘めていた。


「さんざん抵抗しやがって、めんどくせぇ」


 一歩一歩、着実に。

 傷ひとつ、汚れひとつない身体で、怯えて動けないわたしへと近付いてくる。


「クッソだりぃ。人が下手に出れば舐めたこと言いやがって、ふざけるなよ」


 一つトーンを落としたその本音には、明らかな怒気が含まれていて。


「全部てめぇのせいだぞ。おい」

「ひぅ……っ!」


 前髪を鷲掴みにされて、そのままガンと後ろの木に頭を打ち付けられて、悶絶する。

 こわい。いたい。やだ。殺される。やだやだやだ!


「いいかぁ……てめぇのせいでこの世界は滅ぶ。もろともな」

「ぃゃ……いや! いやだ! いやだいやだ!」

「だだっ子かよ。バカじゃねぇの」


 トゥーレちゃんも、シエル様もアンセムくんもリオンさんもマカロさんも、みんなみんな!

 嫌だ! みんなを無かったことにしたくなんかない!

 この美しくて優しくて温かい世界が、滅ぼされるなんて絶対嫌だ!

 うううう! うぅぅうううう!!


「いってぇ……クソッ」


 腕を噛んで逃げようとしたら、でもまるで怯む様子もない高崎さんがぎゅっと手首を捻るように握り絞めて、その痛みに膝を付く。

 蹴られた。

 ジンジンとした鈍痛がとても苦しくて、つらくて、泣きそうで、実はもう泣いちゃってて。

 もうここまでかなって、諦めてしまう。

 諦めて終わるわけでも、救われるわけでもないのに、全てを投げ出そうとして、

 出来なくて、

 つらくて、

 捨てられなくて。


「……けて……」

「あん?」

「たすけて……っ」

「さんざん抵抗した果てにそれか? 頭ん中花畑かよ」

「あなたじゃない……!」


 これは、命乞いじゃない。


「はぁ?」


 これは、いつだってわたしを救ってくれる王子様を。


「――助けてトゥーレちゃん!」


 呼ぶ声だ。


「ハァァァッ!」


 月が輝く。世界が蒼く染まる。そのなかで、強い突風が駆け抜けた。

 金色の風が、一つ。



「クソエルフがぁああぁああア!」



 翡翠色のオーラを纏い、金色の髪をなびかせて。まるで雷のような速度で森のなかを駆け抜けたその黄金の風、その速さ。

 瞬間的に間合いを詰め、わたしの眼前にいた高崎さんの懐に滑り込んでは、腰だめに控えた直刀の一閃。

 目にも止まらぬその速度は、一瞬のうちに切り裂いて、靄が……。


「く、そ……」


 ――現れることはない。

 よろめき、大きな木に背中をドンと打ち付けると、沈み込むように、その裂傷から流れる赤色を抑えながら高崎さんが呻く。

 そのあまりにも気分悪くなる色と匂いに、思わず一人、目を逸らしてしまいながら。


「俺は……俺ぁ死なない……」


 どこを見ているかも分からないその目で、ただひたすらにそれを呟くばかりの高崎さんは、もう警戒が必要な状態とは思えなかった。

 トゥーレちゃんがさくっと地面に直刀を突き立てて、わたしのもとにまで駆け寄ってくれる。

 枝で擦りむいた傷だとか、打った痕だとか、わたしがインナー姿なことだとか。

 トゥーレちゃんはものすごく心配したように、押し黙って思い詰めた表情をしてくれるけど、――大丈夫だよ。トゥーレちゃん。

 ぜんぶ、ぜんぶぜんぶ、いまこうなっている時間が欲しくって、トゥーレちゃんと一緒にずっとずっと居たいから、選んでしまった未来。頑張った現在だ。


 ……わがままを言うと、褒めてほしいです。

 心配なんかより、いっぱいいっぱいなでなでして、褒めて、抱き締めて、キスをして。

 甘えさせてください。

 というか、自分からいきます!


「ぅおわっ」

「ぎゅー!」


 うへへへへ。トゥーレちゃん、トゥーレちゃんだぁあああ。

 んふふ。

 トゥーレちゃんエネルギーを補給します! すぅはぁ、すぅはぁ。

 トゥーレちゃんだ、トゥーレちゃんが目の前にいる。いい匂いだ! いい温もりだ! いい声だ! いい頼もしさだ!

 はぁぁぁあああああ。

 ずっと寂しかったんだよ、でもねでもね、ここまで頑張ったよ!

 トゥーレちゃんトゥーレちゃん!

 ちゅーしてもいいですか?


「んーっ」

「ユズむっ」


 しちゃった! しちゃった! ちゅーしちゃった! 自分から! 自分からだ!

 うへへ……。これで二回目ですね。お口にしたのは!

 一回目は事故でもあったので、ちゃんとしっかりとしたもので考えると、これがわたしとトゥーレちゃんが初めてちゃんとキスをした日だ。

 あ、あれ……そう考えるとちょっと……は、いや、考えなくても冷静になったらやりすぎな気がする。恥ずかしい。

 わたし発情しすぎでは。

 ん、んん、やばい。やばいですね。取り戻さないと。

 ひさびさ……でもないんだけど、極限まで寂しくなったところでのトゥーレちゃんどーい、感情ばーん! でやばいことになっている気がします。

 V字というか、跳ね上がりすぎてチェックマークだ。


「――終わったね」


 遅れて、大きな風を纏ったシエル様が駆けつけてくれると、未だ呻くだけの高崎さんを一瞥しながら地面に降り立ち、息吐くようにそう言った。

 ちょっと恥ずかしくなって、いそいそと抱きついた姿勢のトゥーレちゃんから離れつつ、でも片手はしっかり繋ぎながら。


「ま、だぉ……わってねぇぞ……」

「ユズはもううちの子だよ。こちらの人間さ。君たちはもう、お呼びでないんだ」

「ふ、ふざ……けるな……」


 その何気ないシエル様の一言が、たまらなく嬉しくて。


「君は負けた。我らが勝った。君は朽ちていく。この世界は続いていく。ミスタータカサキ、君の運命はここで終わる」

「………」

「ご感想は?」


 一拍おいて、その瞬間の高崎さんの顔は、いままで以上に一つの感情で染め上げられていた。


「くそったれ」


 結構。シエル様がそう答えれば、照り出す太陽のもと、まるでドラキュラなんじゃないかと思ってしまうようなタイミングで、彼は塵となっていなくなる。


「おつかれさま、ユズ」

「――っ、はい!」


 わたしたちは、次の朝を迎えた。


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