昔と昔の話
セルビアとの会話を終えたヴァイツが、真っ先に会いに行ったのは、王の右腕と称される宰相だった。
名はラザムス・エダ。下級貴族の出ながら、その鋭敏な頭脳と交渉の手腕を買われて、先代の治世の際に文官の最高位に当たる宰相に抜擢された人物だ。
「さて、それでお話というのは?」
目の前に座るのは一人の老人。
小柄で痩せたその姿は、お世辞にも力があるとは言えず、どう見ても好々爺といった風情だ。
薄くなった頭髪は全て白髪で、重ねた齢を感じさせる。
「レーナ様に新しい侍女が就いたのはご存知で?」
「ええ。名は確かセルビアと言いましたかな?陛下がご自分で連れてこられたとか」
「はい、そのセルビアの事でご相談が」
ラザムスの目の奥が鈍く光った。
「セルビアは信頼できる、それは事実です。私もそれは保証します。しかし、それが解せない」
「なるほど。貴方はその理由がお気になるのですな」
その言葉にヴァイツは首を横に振った。
「私がここに来たのは、宰相にお聞きしたいことがあったからです」
「?それでご質問とは?」
「ハースという名字にお心当たりはありませんか?」
その一言にラザムスの表情が変わる。
一瞬何かを思い出そうとする顔つきになり、そして、激しい驚愕に襲われたかのように全身を固くさせた。
その変化にヴァイツの方が驚く。
王の懐刀であり、王国の重鎮であるラザムスがここまで感情を露わにするということは、ヴァイツが考えている以上に、ハースという名には何かあるということだ。
「まさか…ハースは…」
息も絶え絶えになりながらラザムスは呟く。その顔は血の気がなく、額は汗に濡れている。
驚きのあまり気絶してしまいそうな老人に、ヴァイツは近くにあった水差しから水を汲むと、それを差し出した。
震える手で杯を受け取ったラザムスは、それを一気に傾け、中身を飲み干す。
それでようやく落ち着いたのか、ヴァイツに向かって軽く頭を下げた。
「…お見苦しい所をお見せしましたな」
それだけ言うと、ラザムスは椅子の上で姿勢を正した。
「さて、ヴァイツ殿。一体その名をどこで聞かれたのですか?教えていただきたい」
好々爺の雰囲気などまったく感じられない重圧。
明らかに何も知らなかったラザムスに、ヴァイツはゆっくりと言った。
「セルビアです。あいつの名はセルビア・ハースというんです」
肘掛けに置かれていた手がかすかに震えた。それは恐怖からくるものではなく、驚愕と困惑からくるものだ。
ラザムスは動揺を必死に抑えながら、深呼吸を繰り返した。
「分かりました。申し訳ありせんが、私はこれから会議がありまして…。お話はまた後日ということで」
詳しいことは何一つとして聞けなかったが、ヴァイツはラザムスの異様なまでの焦り具合から大人しく引き下がることに決めた。
ハースという名には自分でも知ることが出来ない秘密が隠されている。
それを知ることが出来ただけでも、来た甲斐があったというものだ。
素直に引き下がったヴァイツを見送ったラザムスは、自分も部屋を出た。
そして、まっすぐに歩き出す。しかし、その足の動きはだんだんと速くなっていき、最後はほとんど駆け足に近くなっていた。
必死の形相で廊下を歩くラザムスを、何人かの侍従が呆気に取られて見送る。
そのままの勢いで、ラザムスは王の執務室にとび込んだ。
王はいつものように数人の侍従と大量の書類に囲まれていた。顔を上げて、許可も取らずに部屋に入ってきたラザムスを眺めている。
「思ったより来るのが遅かったな」
「…申し訳ありません」
王は冷静に自らの腹心に声をかけ、ラザムスは呼吸を整えながら、主君に一礼した。
「お前たちは下がっていなさい」
ラザムスの命を受けた侍従たちは、素早く部屋から出ていく。
素人目にも今の二人の雰囲気は異常だ。緊張と困惑が混じり合い、重く鋭い視線が交差する。
剣士同士の決闘のような殺気すら感じさせる空気だ。
「さて、取り次ぎもなしに、ここまで駆けこんで来たのだ。何か重大な問題が発生したか?」
微笑を浮かべて言う王から気迫がにじみ出る。それは国を統べる君主の威だ。
それにラザムスは一歩も引かずに答えた。
「陛下もお人が悪い。私がここに来た理由を一番ご存知なのは、陛下の方ではございませんか」
「そうか、それはすまん。このところ物忘れが激しくてな、あまり細かいことは覚えていないのだが」
どちらともとぼけた会話である。まさに狐と狸の化かし合いだ。
ただ今回は宰相の方が痺れを切らし、真正面から王に切り込んだ。
「陛下がハースという名を忘れるはずがありません。セルビア・ハースと言えばお分かりになるのですかな?」
「…」
王は無言でラザムスを見つめた。
その目には、およそ感情というものが表れていない。どこまでも深い光があるのみだ。
「私は本来王になるはずがなかった王だ。あんなことさえ起きなければ、私は一生王子のままでここに暮らしていただろう。だから、私はお前に言ったはずだ。私は私のしたいようにすると」
「覚えておりますとも。即位式の前日に貴方はそう言われた」
「覚えているなら、無駄な事を聞きに来るな」
斬りつけるような言葉は鋭く冷たい。
しかし、ラザムスは一歩も引かなかった。
「それで終わらせるおつもりですか?」
「いけないか?」
本気で言われたラザムスは大きくため息をついた。
「陛下、御冗談が過ぎます。あの者はもしや…」
王はラザムスの言葉を遮る。
「もし、そうだとして、それが一体なんになる?」
「…本気でおっしゃっていますか?」
「ああ」
これにはラザムスも頭を抱えてしまった。
「そう気にするな。頭が禿げるぞ」
「私の髪など、どうでもよろしい!」
青筋をたて怒鳴るラザムスとにこやかに笑う王。対照的な表情の二人は、視線を合わせた。
「あの者がもしそうであるなら、何故陛下は王女の護衛などに就けたのですか?ほかにも手段はあったはずです」
「私は娘を信じているからな」
簡潔な一言でラザムスの問いに答えた王は、ゆるりと笑ってみせた。
「ラザムス、これは命令だ。これ以上、この件に手を出すな。お前は遠くから眺めていればいい。それで全てが丸くおさまる」
しかし、口から発された言葉は真逆だ。絶対的な力を持ってしての命令だった。
ラザムスは頭を垂れて、それを受け入れた。
それが臣下の務めであったからだ。
「ヴァイツ様」
廊下を歩いていたヴァイツを優しい声が呼び止める。ヴァイツが振り返ると、そこにはレーナの姿があった。
「レーナ様、いかがされました?」
「いえ、ヴァイツ様のお体が気になって」
心配そうにヴァイツを見たレーナは少しだけ笑った。
「とは言いましても、実はそれほど心配している訳ではないのです」
と、あっさりと打ち明ける。
このおとぼけぶりはあの王の血を感じさせる。王もこういう肩すかしのようなことを無意識にやるのだ。
ヴァイツの内心の葛藤など気にせず、レーナは花のように笑った。同性すら魅了する笑みを見せられて、ヴァイツも表情を緩めてしまう。
「ヴァイツ様にお聞きしたいことがありまして。お時間をよろしいでしょうか?」
話がしたいと言って、レーナに連れてこられたのはレーナの居室がある南塔。レーナが勧めた椅子にヴァイツは大人しく座った。
何度もその部屋に入ったことがあるヴァイツは、茶の支度をするレーナを見る。
よどみない手つきで茶を淹れる姿は堂に入っていて、レーナがいつもそうやって動いていることを示していた。
本来ならば大勢の侍女を傅かせ、様々な宝石や衣装に囲まれて暮らすはずの第一王女。
まかり間違っても、こんな場所に居るべきではない血筋を持つ女性。
しかし、この待遇を望んだのは王女自身だった。
まだ16の王女は、居を移したばかりの塔の一室で椅子に座っていた。
「レーナ様、考え直してはいただけませんか?これではまるで幽閉のようです」
そんな少女を諭すのは、一人の男。
少女と同じ銀色の瞳と同色の髪を持った50ほどの男性だ。背筋は伸び、身体つきも悪くはない。纏う空気には軍人特有の厳しさと迫力がある。
年齢を感じさせない男は更に言い募る。
「この度のこと、決してレーナ様がお気になさるようなことではありません。王女には何の落ち度もないのですから」
「いえ、伯父様。それは違います」
自分より齢を重ねた男に向かって、少女は堂々と反論した。
幼いながらも匂い立つような美しさを持った少女は、母の兄であり国軍1番隊隊長でもあるトマ・スワノーフを見つめ返す。
「私には王家とスワノーフ家の血が流れています。その事実がある限り、愚かな者達は私に近づいてくるでしょう。せめてシーカーが周りから王位継承者として認められるまでは、表に出ることは控えるべきです」
シーカーとは、少女の二人の異母兄弟の一人である。
少女の母は国を代表する貴族、王家の遠縁でもあるスワノーフ家の姫君だった。
王とその姫の血を受け継いだ少女は美しく、また賢かった。その美しさは人々を魅了し、頭の良さには国の学者達でさえ舌を巻くほど。
しかし、その母親は出産の際に命を落とし、王が新たに迎えた王妃は下級貴族の娘だった。
その王妃の名はアイディ・ナエン。
身分は低くとも優しく温かな人柄を持ち、少女を我が子のように愛した女性でもあった。
彼女は王との間に二人の子を授かり、三人の子供たちを分け隔てなく愛し育てたが、一年前に病に倒れて床に就いてしまったのだ。
そして闘病の末、2ヶ月前に亡くなった。
「私はあの方を母と思ってきました。ならなおのこと、弟や妹を危険な目にあわせる訳にはいかないのです。伯父様にはご迷惑をおかけしますが、どうかお許し下さい」
そう、王妃が亡くなったことにより、一つの問題が起こったのだ。
それは王位継承者は誰なのかというものだった。
候補は二人。
一人は由緒正しき貴族の血を引く王女、レーナ・マリア・ライトワイツ。
もう一人は母の身分は低いが、男子である王子、シーカー・ノエン・ライトワイツ。
その争いは主に臣下の間で激しさを増し、本人である王子王女の制止すら効かなくなってしまった。
そして、少女は自らを犠牲にして、それを収める手段に出たのだ。
それは表舞台から少女自身が身を引くこと。
大胆極まりない行動だが、効果的な手段であることは否定できない。
少女の伯父でもあるトマの顔も、苦り切っている。
「伯父様、私ならば大丈夫です。むしろ一人の方が気楽に暮らせます」
「…貴女様が重荷を背負うこともありますまい。どうかお考え直しを」
あくまでも反対する伯父は、まだ幼い姪を案じているのだ。
それが分かっているからこそ、少女はなんでもないことかのように笑って見せる。
「これは国の為なのです。この国が戦場になるところなど、私はもう見たくないのですよ」
諭すかのように呟かれた言葉にトマの顔が歪む。
それには16の少女にはおよそ不釣り合いなほど達観した響きがあった。
もし、この少女が男であったなら、とトマは考えてしまう。
誰もが跪き頭を垂れる王になったに違いない。国を支え、民を重んじる慈悲深き王になったはずだ。
そんな埒もない思いを抱いてしまうほど、少女は『金の王』と呼ばれる現国王の血を色濃く受け継いでいた。
「貴女様の御心のままに。レーナ・マリア・ライトワイツ殿下」
トマは跪いて、少女の願いを受け入れた。
「どうぞ」
ヴァイツは差し出された茶を一口飲んだ。正面にはレーナが座り、ほれぼれするような所作で茶に口をつけている。
「それでお話というのは?」
「ええ、セルビアさんのことです」
ゆっくりと茶器を置いたレーナはヴァイツを真正面から見据えた。その目は色は違えど、王のものとよく似ている。
「ヴァイツ様はセルビアさんを見て、何かを感じませんでしたか?」
ヴァイツは首を傾げた。レーナは真剣にヴァイツを見て、言葉を続ける。
「あの方を見た時、どこかで会ったことがあるような気がしたのです。何故そう感じたのかは分からないのですが…」
歯切れ悪く喋るレーナはヴァイツを見つめた。
「ヴァイツ様は何か感じませんでしたか?」
と言われても、ヴァイツには思い当たることなどない。
あのセルビアに何かあるということはヴァイツにも分かるが、『どこかで会った』という感覚は感じていなかった。
頭の中でセルビアの顔を思い浮かべてみる。
肩までしかない黒髪に星の輝きにも似た銀の瞳。可愛らしい顔立ちに重なる面影はないような気がした。
「本人に聞いてみてはいかがですか?」
「それも考えたのですが、教えてはくださらないような気がするのです」
「それはそうでしょうな…」
レーナに見覚えがあるということは、身分が高い人間の関係者の可能性が高い。そういう人種は何が弱みになるか分からないのだ。
そして、雇う側の王が知らないはずがない。知っていて黙っているのだ。
そこまで考えた二人は揃って苦笑いをした。
「と、いうわけだ、調査を頼む」
「はあ…」
自らの上司の命令に歯切れ悪く答えたのはクリフだ。どこか困った顔をしている。
「ん?無理なのか?」
「いえ、決してそういうわけではないのですが…」
言葉を濁した後、クリフは素直に言った。
「ただ時間はかかります。さすがに国外のことになると、私も難しいので」
「ああ、違う違う。国内でハースという家名の中で、王家に少しでも関係がある奴を調べてくれ」
「…なるほど、分かりました。近日中に報告しましょう」
「有能な部下を持てて俺は嬉しい」
「私も貴方のような働かない上司は初めてですよ」
褒めたら笑顔で毒を吐かれた。
不意打ちも同然だが、ヴァイツはクリフの額に現れた青筋を見てしまい、何も言えなくなってしまう。それだけクリフの笑顔が恐ろしい。
「貴方は一体何を考えているのでしょうか?今は魔獣が大量に発生し、それにあわせて犠牲者も増え、国軍も大わらわ。そんな時にのん気にお茶会とは呆れて物も言えません」
言ってる、と心の中のみで反論したヴァイツは、鋭い視線を浴びせられて、体を硬直させた。
そこから始まったのは説教の嵐だった。そんな時に執務室に入ってきた他の隊員は回れ右をし、離れていく。
ヴァイツの助けてくれという視線はすげなく無視された。誰でもわが身が可愛いのだ。
「まったく…、分かりましたか?」
「はい、とてもよく分かりました。もうさぼったりしません」
どこか子供のような口調で謝ったヴァイツの目はどこか虚ろだ。
クリフの説教は時間をかけてねちねちとやる。一旦本気になると、これまでの鬱憤を晴らすかのように延々と小言を言い続けるのだ。
これには強靭な精神を持つヴァイツもひとたまりもない。
「では、今日の分の書類をよろしくお願いします」
わざと音をたてて置かれた紙の束に、ヴァイツの目が完全に死んだ。
それに追い打ちをかけるようにクリフは付け加える。
「これから緊急のものも増えるでしょうから、なるべく早く終わらせていただきたいと思います」
比喩でもなんでもない、正真正銘の追い打ちだった。




