流れ星は落ちた
冷たい風が吹き抜け、セルビアの髪を舞い上げていく。
ダレバに落ちていく夕日をセルビアは身動き一つせず、眺めていた。
「こんなところにいたのか」
城壁の上に昇ってきたヴァイツはそう声をかけて、セルビアに近づく。人に慣れない獣との距離を計るような慎重さで、ヴァイツはセルビアの隣に立った。
セルビアは何も言わない。ただ沈んでいく太陽を無言で見つめている。ヴァイツも寒さに耐えながら、それに付き合う。
それから数分後、セルビアが話し出した。
「…母が心を病んだのは、私が6歳になった頃でした」
セルビアの口調は乾いている。何の感情の欠片も窺えない淡々とした声だ。
「最初は感情の起伏が激しくなったり、意味もなく落ち込んだりしていただけでした。でも、それは時が経つごとに酷くなりました。段々現実と夢との区別がつかなくなったんです」
セルビアはその目に何も映していない。虚ろな声が冬の風に響く。
「私を陛下と思い込んで話すことなんてしょっちゅうでした。まだ自分と恋人同士だった頃のように話しかけてきて、頬を赤らめる。幼心にもその異様さが分かりました。私が8歳で学術院に入学した時には、ほとんど夢に生きているような状態でした。それから二年後、母は死病に罹りました」
その時、一瞬だけセルビアの目が陰った。銀の色が鈍く光る。
「私が家に帰った時には、母はほとんど死にかけていました。骨と皮だけになり、目だけがぎらついて…。まるで幽鬼のようでしたよ。父を探すように頼まれたのは、その時です。我ながら歪んでいるとは思います。錯乱して、その人の名前すら思い出せず、口に出来なかった母の遺言を守って、ここにいるなんてね」
セルビアの独白と自嘲は続く。
「陛下と会ったのだって偶然です。信じられますか?お互い顔も名前も知らない、父にいたってはその存在すら知らなかった。そんな父と子が酒場で隣り合うなんて。神様の悪戯がすぎますよ」
ヴァイツはその響きに眉根を寄せた。
自然に手を伸ばして、セルビアの頭を優しく撫でる。
「…ヴァイツさん、私を子供かなにかと勘違いしてませんか?」
頭を撫でられているセルビアがそう抗議すると、ヴァイツは撫でていた手を止めて、肩を竦めてみせた。
「減るもんじゃないだろ」
「そういう問題じゃないです…」
ヴァイツはセルビアの顔を覗き込んだ。
「俺にはお前は今充実しているように見える。あんまり昔のことばかり気にしていると、幸せにはなれないぞ?」
セルビアはその言葉でようやく微笑んだ。
ヴァイツもそれを見て、満足げに言う。
「そうやって、笑っとけ。そっちの方がずっと良い」
セルビアはヴァイツに少しだけ頭を下げた。
「ありがとうございます、こんな話を聞いてくれて。ちょっとすっきりしました」
「気にすんな、と言いたいところだが…」
ヴァイツがにやりと笑う。その笑い方にセルビアの顔が引きつった。
「お前には色々と貸しがあるからな。少しぐらい見返りを要求したところで罰は当たらないだろう?」
「まあ…そうですけど…」
警戒心がありありと分かる眼差しでセルビアはヴァイツを見る。
「私の出来る事なら善処しますけど…」
「ああ、嫌なら断ってくれて構わないぞ」
あっさり引いて、ヴァイツは頼み事を口にした。
「俺と結婚してくれないか?」
静寂が辺りを漂う。ヴァイツはセルビアを見下ろし、セルビアは完璧に固まっている。
数十秒後、セルビアは硬直が解けて、一気に顔を紅潮させた。
「い、いきなり、何を…」
「とりあえず落ち着け。深呼吸しろ、深呼吸」
セルビアはヴァイツの言葉を無視して、頬を赤くしたままヴァイツに詰め寄る。
「なんで、頼み事が『結婚してくれ』なんですか?訳が分かりません!」
「分かった分かった。分かったから、そう詰め寄るな」
どうどうとセルビアをなだめて、ヴァイツは楽しげに笑う。ここまで冷静さを失ったセルビアを見たのは、初めてだったからだ。
真っ赤になって叫ぶ姿は、どこか幼さを感じさせる。きっとこれがセルビアの素なのだろう。
「…まさか、王の娘である私をこの国に縛り付けるために?」
「んな訳あるか。あんまり俺を見くびるな」
ヴァイツは一言でセルビアの懸念を切って捨てると、言い聞かせるように話す。
「俺は言葉の通り、お前を妻にしたいんだ。とは言っても、お前に好感は持っているが、愛してるとは言えない。だが、大切にするつもりだ。マヤもお前に懐いてる」
ヴァイツはしっかりとセルビアを見据える。
「俺はお前と家族になりたいのさ」
熱情はないが、真摯な想いが伝わる告白だった。
セルビアは呆然とヴァイツを見つめる。その銀色が徐々に潤み、慌ててセルビアは顔を伏せた。
「セルビア?」
「ちょっと…ちょっと待ってください」
セルビアは片手で目の辺りを覆う。
「すいません、ちょっと色々…」
ヴァイツは何をしていいのか分からず唸っていたが、セルビアの体に腕を回して、優しく抱きしめた。セルビアもそれに抵抗することなく、身を任せる。
「私…ずっと思ってました。家族が欲しいって…」
セルビアは途切れ途切れだが、必死に言葉を紡ぐ。
「母が居なくなって…父を探して…。自分の居場所が欲しくて…」
「お前の居場所なら、この国にある。少なくとも俺はお前にここに居て欲しい」
ヴァイツの力強い言葉にセルビアは顔を上げた。その瞳は潤み、目の縁は少し赤くなっている。
セルビアのその目はヴァイツを見通すかのように、深い光を湛えていた。
ヴァイツは決して目を逸らさず、それを見つめ返す。
セルビアはヴァイツを見つめたまま、口を開いた。
「不束者ですけど…。…よろしくお願いします…」
それは紛れもない承諾の言葉だった。
それを聞いたヴァイツの力が一気に抜ける。
「?どうしたんですか?」
「結婚の申し込みの時に緊張しない男はいないと思うぞ…。はあ…」
大きく息を吐いて腕を解いたヴァイツは、セルビアから少し体を離した。
「まずは陛下に報告だな。気が重い…」
「大丈夫ですよ。陛下なら笑って許してくれます」
「甘いぞ、セルビア。娘を拐かす男を父親が放っておく訳がない」
「拐かされた覚えはないんですけど…。でも、ほだされた覚えはありますね」
「似たようなもんじゃねえか」
そこでヴァイツは少し口角を上げてみせた。
「まあ、惚れた方が負けだからな。覚悟はしておくさ」
「頑張ってください、応援してますよ」
気安い会話を交わしながら、二人は城の中へと戻っていった。
教会の鐘が鳴り、セルビアは顔を上げた。
「まだでございます、セルビア様。動かないでいただけますか?」
そんなセルビアを止めたのは、顔に化粧を施していた中年女だ。
「ごめんなさい…。でも、いい加減動いても…」
「駄目です、もう少し辛抱してください」
強い口調で言われて、セルビアはうっ、と口籠もる。その隙に女は唇に紅を引く。
「そうですよ、セルビア様。後ちょっとで終わりますから」
これは髪を触っている女性の言葉。ほつれを直して、綺麗に整えていく。
側についている二人から同じようなことを言われて、セルビアは思いっきりため息をついた。
「結婚式がこんなに大変だったとは知らなかった…」
雪も解けて、春の息吹が感じられるようになった三月。空が晴れ渡り、暖かな風がそよぐ良き日にヴァイツとセルビアの結婚式が開かれた。
セルビアは結婚するまでにあった様々なことを思い浮かべながら、今の自分の格好を見下ろす。
純白のドレスにはレースや刺繍がふんだんに飾られ、一生に一度の晴れ着に相応しい豪華さがある。胸元と耳には金剛石があしらわれた首飾りと耳飾り。黒髪を飾るのは大粒の真珠が配置された冠。
最後の仕上げに顔の前に白のベールが垂らされた。そこでようやく女たちが、セルビアから離れる。
「お綺麗ですよ、セルビア様」
セルビアはその声に答える気力すらなく、ぐったりとしている。女たちがそれを見て苦笑していると、扉が叩かれて一人の男が入ってきた。
「まだ始まってもいないのに、何故疲れている?」
「ああ…師匠…。花嫁って重労働なんだね…」
きっちりと正装しているサイスはその言葉を聞いて呆れたが、二人の女に労いの言葉をかけてから、セルビアに花束を手渡した。
花束は白の花が主体となり、花嫁衣装と調和するように作られている。
サイスは花束を持ったセルビアの姿をまじまじと観察して、率直な感想を述べた。
「借りてきた猫だな」
ある意味失礼すぎる言葉にセルビアがやり返す。
「王から頼まれて爵位を受け取ったフィアン子爵に言われたくありません」
サイスの顔がわずかに引きつる。
セルビアはしてやったりの笑みを浮かべて、渡された花束の香りを楽しんだ。
「もうそろそろ始まる。支度は?」
「大丈夫です。…あっ、父親役を引き受けてくれてありがとうございます。断られるかと思って、心配だったんです」
「別に構わない。むしろ私で良かったのか?」
「師匠以上に適当な人がいませんから」
その時、部屋の外から声がかかった。
「時間のようだな、行くか」
差し出された腕にセルビアは微笑んで手を乗せた。
教会には様々な人が集まっている。
軍の関係者に混じって、シーカーやレーナが居るのはご愛嬌といったところだ。
参列者の中に髪を染め、変装している王に気づいている者はほとんどいなかった。
シーカーやレーナは気づいているが、ひたすら無視を続けている。ヴァイツも勘付いてはいたが、この時だけは何も言わないと決めていた。
いつもと違い、正装に身を固め真剣な顔をしているヴァイツ。
祭壇の前に立つヴァイツは入り口の扉が開いてたのを見て、目を細めた。
美しい花嫁がそこに立っている。
サイスに手を引かれて、ゆっくりと歩き出すセルビア。その美しさに参列した人々の感嘆の息が漏れる。
ゆっくりと進むセルビアの目にはシーカーやレーナ、そして王の姿も見えた。特に王はどこか涙ぐんでいるように見える。
通路を歩き切った二人は祭壇の少し手前で止まった。そこでヴァイツにサイスからセルビアが託される。
白い手袋に包まれた細い手を握ったヴァイツは、ちょっと微笑んでからセルビアの耳元に顔を近づけた。
「似合ってる」
花婿の賞賛の言葉にセルビアは頬を染めた。小声でありがとうございます、と答えてセルビアはヴァイツの隣に立つ。
神官の咳払いとともに式が始まる。
新たな夫婦の前途を祝すかのように太陽は優しく光を落としていた。
流れ星は空から落ちた。これからは地上で大切な者たちと共に時を刻んでいくのだろう。
その時に幸が降り注がんことを。
———後年発見されたアルフレッド・デバイ・ライトワイツの手記の一部より———




