三人と一匹
セルビアが城を出発してから一日が経った。その間、セルビアはほとんど休まずに馬を駆っていた。
(一体、何を企んでいる?)
セルビアは馬が潰れないように走らせながら考える。
そこまで見抜かれている時点で、ドイットの底は知れていた。問題は罠の内容だ。
東の方角といっても、その範囲は広い。セルビアはドイットの命令通りに動いていた。
いつまでも連絡役をしているつもりはないが、それは手を抜く理由にはならない。
その努力の甲斐もあり、連絡の仕事はほとんど終わっていた。残っているのは、山の中にある村、一つだけだ。
セルビアとしては、今日のうちにそこにたどり着きたかったが、日が暮れてきたので諦めるしかなかった。
見通しのいい所に馬を繋ぎ、落ちた枝を集めて火をおこす。手際よく野営の準備を終えて、セルビアは毛布に包まり、腰を下ろした。
静かな空気に薪の爆ぜる音が響く。干し肉を炙り、水とともに固いそれを飲み下す。
唇を指でぬぐって、今日の晩餐を終えたセルビアは、じっと火に当たった。
秋とはいっても吹く風は肌寒く、暖がなくては辛い。布を体に巻き付け、手の届くところに刀を置く。
目を閉じたセルビアは意識を沈めていく。思い出すのは旅人となったばかりの時だ。
「師匠、今どこにいるのかな…」
呟きを小さく漏らして、セルビアは記憶を脳裏に呼び起こす。
まだ十代だった時、キャッスヘルワに逗留していた一人の男に弟子入りしたのだ。とはいっても、その男はセルビアを受け入れたわけではなかった。セルビアが無理矢理押しかけて、押し切ったのだ。
彼から習ったのは、旅人として生き抜く術だった。戦うことよりも生き延びること。それが旅人として一番重要なことだ、と彼はよく言っていた。
セルビアがこうやって野営をこなせるのも、その時の教えを身につけているからだ。
つらつらとそんなことを考えるセルビアは目を閉じている。半分は寝ているが、神経は起きているのだ。いつ襲われても反撃できるように周りの気配を感じ取っている。
そんなセルビアが顔を上げた。
空にはうっすらと光がうかんできている。セルビアは座ったまま、夜を明かしていた。
大きく伸びをしながら、立ち上がって軽く手足を動かす。
セルビアは火の始末をした後、布をたたんで馬の背に縛り付ける。そして、馬に乗ると一気に走り出した。
昼前に村があるはずの山に到着したセルビアは、村に入る道の手前で馬を止めた。
空は青く澄み切り、風が優しく頬をなでる。山の木々は青々と茂っていて、細い道は頼りなくその奥へと続いていた。
ごく普通のどこにでもある光景だ。なにもおかしなところはない。
しかし、セルビアの第六感が激しく警鐘を鳴らしている。決して足を踏み入れてはいけない何かがそこに存在していた。
(危険だ…。この山は何かある)
セルビアが思い出したのは、王が倒れた時のことだ。
あの時の王の体に纏わり付いていた黒い手。あれと同じ忌避感と嫌悪がその森から感じられた。
(しかもあの時は触れて気づいたっていうのに…。これは危険すぎる)
良くないものだということは、セルビアにも分かる。存在するだけで周囲に害を与えるものだ。
「逃げたいのに逃げられない…か。ここまでとは思ってなかった…」
小さい声で弱々しく呟いて、セルビアは顔を上げた。
「ま、女は度胸。さっさと行きますか」
固い声ではあったが、その口調は明るかった。
旅人だったセルビアにとって、死地に飛び込むのは珍しいことではない。
セルビアは手綱を操って馬を進めた。
馬はセルビアを乗せて、緩やかな坂道を登っていく。
目に映るのは緑あふれる木々。耳に入るのは風の囁きと馬の蹄の音だけ。静かすぎる空気に刺すような気配が混じっていく。
セルビアは腰の刀の柄に手を置きながら、前だけを見つめて手綱を取る。
そして、村まであと半分というところに来た時、『それ』は襲ってきた。
馬が悲鳴を上げて倒れる。セルビアはそれに巻き込まれる前に鞍から跳んで、綺麗に地面に着地した。その手にはすでに抜き身の刀が握られている。
馬の首にその鎌を突き立てていたそれは動かなくなった馬に興味をなくし、セルビアに向かって威嚇の声を発した。
セルビアよりも巨大な蟷螂だ。
血に濡れた両手の鎌はその名の通り、金属すら断つことのできる鋭さがある。地面を踏む4本の後ろ足も人の体を突き刺すことができそうなほど尖り、上半身は堅い外皮で覆われていた。
金切り蟷螂だ。
相手に考える暇を与えず、蟷螂は前に飛び出す。セルビアは振り下ろされた鎌を横に半歩動いてかわすと、後ろ足の一本を切り落とした。
「ギャアアアッ!」
痛みで叫びを上げる蟷螂。セルビアにそれを気にする余裕はない。
なぜなら同種の鳴き声を聞きつけて、他の蟷螂たちが現れ始めたからだ。
『走れ、誰よりも早く走れ。この手に勝利を掴む為に』
魔術が発動し、セルビアの動きが常人のそれを超える。
斬撃が蟷螂の首を半ばまで切り落とし、返す刀で他の蟷螂の片腕を叩き切った。
しかし、それだけでは押し返すことにしかならない。なぜなら森の中からはさらに金切り蟷螂たちがわいて出てくるからだ。まるでセルビアを囲むように動く金切り蟷螂たち。
「ちっ…」
それを見て、軽く舌打ちをしたセルビアは地面を蹴って蟷螂の包囲網を跳び越え、木々の中へと紛れ込む。
それを追いかけ、蟷螂たちも森へと入っていく。セルビアよりも巨体だが、その動きは素早い。
セルビアは無表情で起伏のある地面を走る。まるで目指しているものがあるようにまっすぐ進む。
隆起した根を踏み、低く垂れ下がった枝をかいくぐりながら走り続ける。
(とはいっても…確証があるわけじゃない)
強いていうなら、魔力を感じ取るセルビアの才能が囁きかけてくるのだ。こちらに来いとセルビアを急き立てる。
そんなセルビアの目の前に一匹の蟷螂が立ち塞がった。セルビアの足は止まらない。止まれば、後ろから斬り殺される。
(決めるなら一刀。それしかない…)
白緋の力は使えない。狙うのは首か頭。すれ違いざま、一瞬で落とすしかない。
刀と鎌が交差しようとしたその時、涼やかな男の声が響いた。
『一条の閃光は闇を裂き、敵を貫け』
「うわっ!?」
轟音とともに発射された雷が蟷螂の胸を貫く。外皮を貫いた雷はセルビアに直撃しそうになった。セルビアは奇声を発しながら、閃光をぎりぎりで躱す。
黒髪の先が少しだけかすり、焦げ臭い匂いが漂う。セルビアの顔は恐怖で引きつり、両手で倒れかけた体を支えた。
危うく顔面が貫かれるところだったので、当たり前といえば当たり前だが。
雷光の魔術を発動させたのは、セルビアの前方にいた男だった。
長身だが細い体。とはいっても軟弱さはまったくなく、研ぎすまされ、鍛えられた体だ。妖精族のそれとは違う淡い金色の髪と紫紺の瞳。
セルビアは後ろから迫ってくる蟷螂を忘れたかのように固まっていた。その目は食い入るようにその男を見ている。
そして、驚きのまま、叫びを上げた。
「なんでこんなところにいるの!?師匠!」
男は極めて冷静にセルビアに言葉を返す。
「それはこっちの台詞だ、セルビア。まあ、それは後で聞こう。今は逃げるぞ」
セルビアはその言葉を聞いて、後ろに迫る蟷螂を思い出し、慌てて走り出す。
男は先導するように前を走る。
男、セルビア、蟷螂たちの順でおかしな一行は森の中を駆け抜けていった。
しかし、その追いかけっこは長くは続かない。
男が森の中にあった小さな洞窟の中に駆け込む。セルビアもそれに続いた。
蟷螂たちもそれを追いかけようとして、何かに切り裂かれて悲鳴を上げる。
セルビアは驚いて足を止めた。
まるで、洞窟の入り口に見えない刃が隙間なく置かれているかのようだ。突っ込めば突っ込むほど、勝手に切れていく蟷螂たち。何匹かが力つきて倒れ、そこでようやく突撃する無駄を悟ったらしい。三々五々に森の中へと戻っていく。しかし、洞窟のそばを離れる気はないらしく、蟷螂の気配は途切れることはない。
残されたのは無惨な死体だけだ。
「ああ、ようやく来たな。流れ星」
その声にセルビアが振り向くと、肩の上に火の玉を浮かべた小柄な女性がそこに立っていた。男はその横で不機嫌そうにたたずんでいる。どこか不本意そうな雰囲気だ。
口を開こうとしたセルビアは足に何かが当たる感触に視線を下げた。
「ニャア」
そこにはセルビアの足に頭をこすりつけて鳴く可愛らしい黒猫がいた。
セルビアは相好を崩して、その猫を抱き上げる。
「久しぶりだね、ターロン。元気だった?」
黒猫、ターロンの青い目を覗き込みながらセルビアは優しい声を出す。ターロンはのどをごろごろと鳴らして答える。
じゃれあう一人と一匹に、男が声をかけた。
「それぐらいにしておけ、状況を整理するほうが先だ」
三人の男女が丸く輪になって思い思いに座る。明かりは中空に浮く人の顔ほどの大きさがある火の玉一つだ。
「まずは自己紹介から始めようか」
火の玉を発生させている小柄な女は話し始めた。
腰に短剣を差しているが、戦士のような鋭さはない。服装は祖末だが、小綺麗な格好をしており、行商人といった風情だ。
顔立ちは整っているが、どこか癖のある雰囲気がある。
真っ黒な髪は首が露になるほど短く切られ、緑の瞳は厚い布に覆われたように感情を見せない。ただし、その表情は愉快そうに歪んでいた。
「私の名前はセン、見ての通りの魔術師だ。ここには後始末に来ている。悪いが、詳しいことは話せない」
放埒な口調でそう言って、センは男の方を見た。
「サイス・フィアン。旅団で『紫電』と呼ばれている」
簡潔な言葉だ。その手が膝の上で眠る猫の頭をなでる。
「こいつはターロン。私の相棒だ」
それを聞いて、センは興味ありげにターロンに目をやった。その目はサイスにも向いている。
「しかし、聖獣使いと会えるとはな。貴重な体験だ」
サイスは眉を少し動かしただけだった。セルビアもあまり反応はしない。
聖獣使いとは、聖獣とともに行動する者の名称だ。元々、聖獣は人とは相容れない。それが前提であり、聖獣使いは稀な例外だ。その為、聖獣使いは時には畏敬の対象ともなる。とはいっても、聖獣使い自身が特別な力を持っているわけではない。その魂に惹かれた聖獣が行動をともにしているだけなのだが。
「私がここにいる理由はターロンに連れてこられたからだ。こいつが来いと言うので、仕方なくついてきたら巻き込まれた」
どこか愚痴が混じった声音に、セルビアは吹き出しそうになって、慌てて口をおさえた。
しかし、その笑いの気配を感じとったのか、サイスの視線がセルビアを突き刺す。セルビアは必死で真顔を保つはめになった。
「私はセルビア・ハースといいます。昔は旅団に所属していましたが、今はアイズバーンの一軍人です。少し罠に嵌まってここに来るはめになりました」
「お前が軍人とはな…。世も末だ」
サイスがもらした感想にセルビアが食ってかかる。
「その言い方は酷いですよ、師匠」
「お前の師匠になった覚えはない」
「少し良いか、二人とも」
二人に口を挟んだセンはセルビアとサイスを見比べた。
「二人は昔からの知り合いなのか?」
至極当然の疑問に、二人は同時に答えた。
「腐れ縁だ」
「師匠と弟子です」
違う声で別々のことを同時に言う男女。
サイスはセルビアを心底うんざりとした表情で見た。
「何回も言うが、私はお前を弟子にしたつもりはない」
「師匠もしつこいですよね。とっとと諦めればいいのに」
「…」
サイスは無言でセルビアの頭を鷲掴んだ。そして、掴んだまま、手に力を込めていく。
「ちょっ、ちょっ…痛い痛い痛い!」
セルビアの頭がみしみしと音をたてる。サイスは無表情のままで、さらに力を込めていく。
悶絶するセルビアが悲鳴を上げる余力も無くなったところで、サイスは手を放す。
「仲が良いんだな」
二人の攻防を見たセンの感想がこれだった。
一人は地面に膝をつき息も絶え絶え、もう一人は冷ややかな目でそれを見下ろしている。この光景を見て、そう言えるのは呑気だからか、それとも鈍いのからなのか。
「まあ、そういうわけで…。これからどうするんですか?」
髪を撫で付けながらセルビアはそう発言した。大人げない攻防はなかったことにする気のようだ。
「ここから脱出するのも骨が折れるぞ。蟷螂が何匹いるか、分かったものではない」
「三桁はいくぞ。それだけの力がここには囚われている」
センは淡々と言うが、他の二人の顔があらかさまに引きつった。
「何故分かる?」
サイスの疑問も尤もだったが、センは無表情のまま、口を閉ざしている。はぐらかしているわけではなく、ただ単に答えるのが面倒なのだろう。
セルビアはセンを観察するように見ていたが、思い切って口を開いた。
「ラグンという人を知ってますか?」
「ああ。友人…いや、同族といった方が正しいな」
セルビアはその答えを半ば予見していたのだろう。あまり驚きは見せなかった。
サイスは怪訝そうにセルビアを見ていたが、その度肝を抜くようなことをセルビアは続けて言う。
「分かりました、それだけで十分です。ここには事態を収拾するために?」
「後始末だ。ラグンがやり残していたことを、片付けなければいけないのさ。それが私の役目だからな」
女性二人が一気に打ち解ける。サイスはそれを横目で見ながらため息をついた。
「セルビア、お前はこの女を信用するつもりか?」
「ここまできたら何が起こっているのか、きちんと確認するのが、私の仕事だと思いますから」
あくまで国に仕える身としての回答に、サイスは目を細める。その表情はまったく読めない。
「師匠がここにいるのも、依頼の内でしょ?」
「私が受けた依頼は、違法な人身売買で売られた者たちがどこにいるのか調べろ、というものだ。情報を追ってこの近くまで来た時にターロンがこの山に飛び込んでいった。後は成り行きだ」
「人身売買?」
セルビアは首を傾げた。アイズバーンでは禁止されている行為だ。見つかれば、ただではすまない。
「それって何人ぐらいですか?」
「100人ほどだ」
それほどの人間を隠すだけでも大変だ。それがここまで国の中に入っているということは、身分のある誰かが関わっている可能性が極めて高かった。
セルビアは顔を顰める。その表情は厳しく引き締まり、瞳に鋭い光が点った。
「どうも女の方は付いてくるようだが、お前はどうするんだ?一応言っておくと、私がここを出れば、蟷螂がなだれ込んでくるのは確実だぞ」
センに問われて、サイスはターロンを見下ろした。ターロンは鳴いて尾を大きく振る。その動きはやる気満々といったところだ。
サイスは重い息を吐いて、ターロンを慣れた手つきで抱き上げた。
「まったく…。お前たちはそうやって、私に厄介ごとを運んでくる…」
それでも、自分の意思を押し通さないところはサイスの優しさと言える。
正しく苦労人といった風情に、センは同情を隠せなかった。




