2人の女性
この世界には『魔獣』と呼ばれる生き物達が存在する。
はるか昔、この世界を創りし神が人の横暴を見かねて生み出したとされる動物の総称だ。凶暴で人を襲い、食い殺す。
軍や旅団の仕事は、その魔獣退治がほとんどだ。
魔獣は人の血や気配に敏感で、それに近寄ってくる。その為、国同士の戦争はほとんど行われない。そんなことをすれば、魔獣が大量に発生してしまうからだ。
大きな伸びをしたヴァイツは、机に積まれた書類を眺めた。
王との話し合いが終って、3番隊隊長の執務室に帰ってきたヴァイツを出迎えたのは、分厚い書類の山だった。先程の王とのやり取りで疲れのたまっていたヴァイツはそれを見て、一瞬固まってしまったほどだ。
三年前、アイズバーンの南西にあるシリゾイが戦を仕掛けてきた。その余波で例年よりも魔獣の報告が多く、犠牲者も増えている。これでも戦争が終わった時よりは、ましになったのだ。
今日も泊まり込みになることを予感してため息をついた時、執務室の扉が叩かれた。
「入れ」
「失礼します」
落ち着いた声と共に入ってきたのは、40歳ほどの男だった。
ヴァイツと同じ黒を基調とした制服に身につけているが、ヴァイツの少し崩れた着方とは違って一分の隙もない服装だ。
薄い茶髪を綺麗に整え、薄青色の目を持つその姿は柔和の顔立ちと相まって、学者か詩人のような印象を人に与える。
「クリフか」
ヴァイツは手に持っていた書類を机の上に置くと、自らの副官を出迎えた。
男の名はクリフ・ジェルス。国軍3番隊の副隊長だ。
「はい、お呼びと伺いましたので」
ヴァイツは椅子を無言で椅子に座るように促し、クリフはあくまで優雅に腰を下ろした。
「悪いな、ちょっとばかし調べてほしい事ができた」
「はい、何をでしょう」
ヴァイツは今日の王との会話を伝える。王女の暗殺については伏せてたが、それ以外のことは全て。
「なるほど、そのセルビア・ハースの素性を調べれば、よろしいのですね」
ヴァイツは頷いて言った。
「頼む。出来れば目的の方も知りたいが、さすがにそれは無理だからな。本人に聞いてみるさ」
軽く笑いながら言うヴァイツに、クリフは律義に頭を下げた。心のこもった礼だ。
「お願いします。情報の方は明日にでも、お伝えできるはずです」
人一人の素性を一晩で調べるというのは、余程の情報収集能力がなければ無理だが、クリフは軽く言ってのけた。ヴァイツも自らの副官を信頼しているので、疑問など口にしない。
かわりに冗談を言う。
「仕事熱心なのもいいが、老体も労われよ」
「貴方も30を過ぎてから老けられたようなのでお気をつけ下さい」
クリフも冗談で返すと、優雅に一礼して、部屋を出ていった。
セルビア・ハース。22歳。
特定の伴侶や恋人はいない。
キャッスヘルワの出身。
幼少の頃から魔術の才を発揮し、『学術院』に入学。優秀な成績を修めた後、16歳でキャッスヘルワを出国。旅団に入団した。
旅団での評価は高く、入団してから一年で『名持ち』になる。二つ名は流れ星。これは剣の素早さと銀色の目から付けられたものだと思われる。
基本は一人行動のようだが、『紫電』や『激流』といった名持ちと仕事をすることもあった。無益な殺生を好まず、子供や女などを見逃すことも多々あったようだ。
強者には厳しく接することもあったが、弱者には親切。
仕事になると冷酷とともとれる言動が目立つ。
3年前に二年間、オトで誰かに師事した模様。それから後は得物を剣から刀に変えた。
オトを出た後はアイズバーンに入国し、最近まで国内で活動していた。その内容は過酷なものも多いが、全て成功させている。
脱退したのは一カ月前。『支部長』からはかなり残留を懇願されたようだが、最終的には脱退を許された。
その際「旅の目的は果たした」という趣旨の発言があったようだ。
腕は女とは思えないとの情報あり。今までの功績を見る限り、少なく見積もっても旅団の主力ども呼べるほどの実力はあるものと思われる。
補助系の使い手で『強化』を得意としている。『二重唱』や『無詠呪』も扱えるとの噂を確認。
学術院はキャッスヘルワに設立された魔術の才がある者だけが所属できる教育機関だ。その学び舎を卒業した生徒は総じて素晴らしい魔術師であるとの呼び声が高い。
半島唯一の魔術師専門の養成機関であり、その戦力は軍に匹敵するというのが専らの噂だ。
名持ちというのは、旅団の中で二つ名を付けられた者の総称である。普通の旅団の構成員である札持ちとは違い、一際腕の立つ者にのみ二つ名はつけられるのだ。
これだけでも、どれだけセルビアが腕の立つ人物なのかが分かる。
強化は主に身体能力の増幅を司る魔術のことをさす。
二重唱は俗に言う魔術の同時行使のことを言い、熟練者のみが扱える高度な技だ。
そして、無詠呪というのには、ヴァイツも驚いた。本来あるべきはずの呪を省略して、魔術を発動させるという荒技だからだ。魔術師のなかでも限られた者にしか出来ない技で、ヴァイツもそれだけは出来ない。
これはやれという方が無茶なのだ。なにせ自然の力を借りず、自らの精力のみで魔術を行使しなければならない。強い精神と集中力、そして術師本人の才が揃わなければ、決して成功しない。
それにこの二重唱や無詠呪は行使する際に目立つ光を発する為、不意打ちには使えず利点も少ないのも使う者が少ない理由の一つだった。
報告書に目を通し終えたヴァイツは、前に立つクリフを見て、複雑そうな表情で感想を言う。
「報告ご苦労、と言いたいところなんだが…」
そこで言葉を切ったヴァイツは報告書を指で弾いた。
「詳し過ぎるぞ。どうやれば、こんな細かいところまで一晩で調べがつくんだよ?」
「蛇の道は蛇です」
ヴァイツは椅子の上で脱力した。クリフはいつもと同じ柔らかい笑みを浮かべたままだ。
日の出から二時間後に現れたクリフは、昨晩言った通りにセルビア・ハースの調査書を持ってきたのた。
その内容はどうやればここまで出来るのか、と言いたくなるほどの詳細な情報が書き連ねられた物で、犯罪の匂いすら漂う代物と化していた。
「これはまずいだろ。人に見られたら弁解すら出来ねぇよ」
「ですね。最悪、変態呼ばわりされるでしょう」
作った本人がいけしゃあしゃあと言うのを聞いたヴァイツは怒りを覚えた。
そう、クリフは剣の腕より、その頭と情報収集能力を買われて、副隊長に就任した変わり種なのだ。
出身はダレバの商家で、物腰の丁寧さはその時の教育の名残らしい。軍に入隊した後は使い勝手の良い部下として頭角を現し、40になった頃に前3番隊隊長に抜擢された。
その頃から情報面に関しては異様なまでの才能を発揮していたらしく、貴族達の弱みは大体掴んでいるというのがまことしやかに囁かれている。
柔らかな物腰と丁寧な口調に騙されれば、痛い目を見るのは確実だ。
「しょうがない。じゃ、演習の監督は頼んだぜ。俺はこれに目を通さなきゃいけないからな」
クリフは恭しく一礼した。
「お初にお目にかかります。セルビア・ハースと申します」
城の南の方角にある塔の一室で、セルビアは跪いて頭を垂れた。
昨日の服装とは違い、貴族の従者のような格好をしている。もちろん男装だったが。
塔の一番上にある部屋には窓から陽光が差し込んできて、室内を照らしていた。
「お話は父上から聞いています。顔を上げてはくれませんか」
セルビアはその鈴のように軽やかで美しい声に従い、ゆっくりと顔を上げた。
レーナ・マリア・ライトワイツ。国王の長女でありアイズバーンの第一王女。
美の神ロアが生みだしたとまで言われるその美貌とセルビアは対峙した。
腰まで流れる金髪は黄金のように輝き、銀色の目は優しく温かい。
ゆったりとしたドレスを着ていても、女性の誰もが羨むような体の線は隠せていない。
白磁のような肌には弾力と瑞々しさがあり、血のように赤い唇が緩やかな弧を描いて笑みをつくっている。
神々しいまでの美貌だが、表情は柔らかく優しい。
「初めまして、私はレーナ・マリア・ライトワイツと申します。今日からよろしくお願いしますね、セルビアさん」
「姫様、どうかセルビアと呼び捨てにしていただきたい。私のような者には恐れ多いことにございます」
そう言ってもう一度頭を深く下げたセルビアに、相変わらず気安い調子でレーナは話しかけた。
「姫様ではなく、レーナと呼んで下さい。それに私は貴女に守っていただくのですから、敬意を払うのは当然のことです」
きっぱりと言い切られたセルビアは、唖然としていた。王家の一員であるはずのレーナが、一種の下民である女に敬意を払うと言い、しかも、その通りに行動している。セルビアの常識を覆す事だ。
「承知しました。では、レーナ様と呼ばせていただきます」
そう譲歩したセルビアにレーナは笑った。
「やはり、セルビアさんはそう呼んでくださるのですね。他の方はどうしても呼んでくれないので、嬉しいです」
当たり前だ、とセルビアは心の中で突っ込んだ。
彼女は元旅人で自らの常識とは違う常識を何度か遭遇している。その為、考え方の枠は柔軟だが、純粋な国民にとっては、理解不能の頼み事だろう。
レーナは立ち上がると、手ずから茶を入れ始めた。慣れているのか、てきぱきと茶の支度をするとセルビアに無言で椅子を勧める。
「は?」
「どうぞ、座って下さい。春になったと言っても、まだ寒いでしょう。お茶を飲んで温まって下さい」
「…はい?」
ただ、これにはセルビアもついていけなくなった。
(なんでこうなった…)
レーナが淹れたお茶を口に含みながら、セルビアは一人ごちた。結局、押し切られて椅子に座らされたのだ。
「はあ」
ついたため息は誰もいない部屋に響いた。レーナは仕切られている隣の部屋で着替えているので、聞く者はいない。
疲れを感じたセルビアは、お茶を口に含んだ。芳醇な香りが体を弛緩させ、豊かな味わいが舌を喜ばせる。
一国の王女が淹れる茶がここまで美味しいとは思わなかった、とセルビアは考える。普通なら使用人に淹れさせるものだが、レーナは違うのだろう。
そんな風に思いを巡らしながら、茶を飲む。
「セルビアさん、行きましょうか」
「あ、は…」
着替えていたレーナが部屋から出てきたので、そちらに顔を向けたセルビアは固まった。
声も途中から出なくなり、思考すら停止する。
セルビアが絶句した理由は、レーナの服装にあった。
長い髪を束ねて結い上げており、白いうなじが目に眩しい。
肢体を包んでいる服はセルビアと似ている。動きやすさを追求している点では、レーナの方が軽装とも言えた。
つまりは男装。しかもセルビアより質素な物だ。
(ああ、なんでこんなことになっているのか)
肩を落としたままレーナの一歩後ろについていくセルビアは、部屋の中で思ったことをもう一度心の中で繰り返した。
前を歩くレーナは、規則正しい足音を響かせながら、城の廊下を歩いていく。セルビアが足音をほとんどたてず、気配をも薄めるているのとは対照的だ。
二人は極めて奇妙な組み合わせだった。
騎士のような格好をした人物が、小者のような服装をした人物につき従う。しかも二人とも妙齢の女性だ。
小者は抜群の美貌を誇り、質素な服がそれをさらに際立たせる。対する騎士はその腰に得物である刀を差し、その存在感も微弱だが、中々可愛らしい顔立ちだ。
周囲の怪訝そうな視線を物ともせず、女性二人は歩いていった。
「ここは私の庭です。もう少ししたら、薔薇が見頃を迎えます」
レーナに連れてこられたセルビアは感嘆の目をその庭に向けた。
小さな中庭だ。
うねった小道が花園の中へと続いており、春の花があちらこちらで咲き乱れている。時折、香草や付け合わせに使われる野菜が見えるのは、ここに花を植えた者の好みだろう。
蔓薔薇がちょうど見頃を迎えており、その純白は目に眩しい。
誰でも迎え入れる穏やかな庭だ。
「とても優しい庭ですね。この庭はどなたが?」
セルビアの呟きを聞いたレーナは、嬉しげに笑った。
「私が手入れしているのですよ。お気に召して良かったです」
「…」
見ざる、言わざる、聞かざる、を実践しようとセルビアは心の内で決意した。
剣を打ち合わせる音が響く。男達の荒い息と共に鍛えられた体がぶつかる。
セルビアは先程の決意を撤回せざるおえなかった。
「あの…レーナ様…?」
「はい?なんでしょう]
なんでしょうじゃない、とセルビアは叫びたくなった。
目の前に広がるのは、軍の演習場だ。ちょうど訓練中だったらしく、大勢の男達が剣を振り回している。
そこに女二人というのは、いささかまずいのではないだろうか。
少なくともレーナは場違い過ぎる。他の誰かに気づかれたら、大騒ぎになるのは確実だ。
早めにここを離れようと進言する前に、こちらに向かってくる気配を感じ取って、セルビアはため息をついた。
「これは王女殿下、わざわざのお越し痛み入ります」
線の細い40を過ぎた男が、レーナに向かって丁寧に一礼してきた。
腰に剣を下げているものの、雰囲気に剣士や軍人の荒々しさはない。柔らかく静かな空気が漂っていて、詩人や学者と言われた方がしっくりくる。
「こちらの方は?」
セルビアは一礼して、挨拶をした。
「本日より、王女殿下の護衛役に任じられましたセルビア・ハースと申します。以後、お見知りおきを」
「それはそれは。私はクリフ・ジェルス。3番隊の副隊長の任についている者です。」
礼儀正しいその姿を見たセルビアは、心の中でこの人物に要注意との判断を下した。
仕草は優雅で落ち着いているが、目には鋭く観察するような視線が含まれている。一筋縄ではいかない人物という印象だ。
「レーナ様、どうぞ」
そんなクリフからレーナに手渡されたのは剣だった。
慣れた手つきでレーナは剣を鞘から引き抜く。セルビアは一歩離れた場所から、それを見守った。
普通の剣よりも細身で刺突に向いている形状だ。軽く作られているようにも見える。
その場でレーナは剣を何回か素振りした。
空を切る音がして、セルビアは軽く目を見張った。
体の動かし方、呼吸、間合い。明らかに実践的な剣術を習っている者の動きだったからだ。
「レーナ様だ!」「お、お見えになったのか」「今日もお美しいな・・・」
それを遠くから見ていた隊員達が、感嘆や歓喜の声を上げた。
「セルビアさんはここに居て下さい。私は少し声をかけてきますね」
「はい、いってらっしゃいませ」
レーナは剣を腰に差すと、嬉しげに隊員の方に歩いて行った。
「驚かれましたか?」
「ええ。あの方はいつも声をおかけになるのですか?」
クリフは笑って頷いて、言葉を付け加えた。
「それに時々ですが、打ち合いをすることもありますよ」
「それはまた…」
セルビアは絶句した。どこまで規格外であれば気が済むのだろうか、あの王女は。
遠目から見ても分かる。隊員達の視線には身近な人物に対する親しみが感じられるのだ。
アイズバーンの王女といったら、深窓の令嬢。普通の庶民では、顔を見ることさえ叶わないというのが普通だ。それが質素な服に身を包んで、気軽に声をかけるというのは、常識外れもここに極まりである。
「ですから、隊員達はあの御方に対して娘のような感情を抱いています。あの御方を襲う者は痛い目を見るでしょうね」
それは警告。どこの馬の骨とも知らぬ女が大切な王女の護衛に就いたのだから、当然といえば当然な気はするが。
「ご心配には及びませんよ。王女に仇なす輩は私が成敗しますから」
セルビアがにこりと笑って言えば、クリフも笑い返す。ただし二人とも目は笑っていない。
「おい。なんで、お前らが睨み合ってんだよ」
そこに割り込んできたのは、セルビアが昨日聞いたばかりの声だった。
大剣を腰に差したヴァイツが二人に近づいて来る。
「隊長、私たちは睨み合ってなどいませんよ。ただ、少しばかりお話をしていただけです」
相変わらず完璧な笑みを浮かべるクリフ。
セルビアは無表情でヴァイツに向かって頭を下げた。
ヴァイツは内心で、昨日とはまるで違うセルビアの様子に驚いていた。
昨日感じた子供のような朗らかさと無邪気さはなく、どこか固く厳しい雰囲気を身に纏っている。
「お前がここに居るってことは、レーナ様が来てるのか」
「ええ、今はあちらで隊員とお話中ですよ」
いつものようにクリフが答え、セルビアは興味が無いのか、視線をレーナの方に向けたまま微動だにしない。
そんなセルビアを見ていたヴァイツは、思いつきを軽く口にした。
「なあ、ちょっとばかしお手合わせ願えないか?」
「は?」
セルビアは呆気にとられ、クリフは額に手を当ててため息をついた。
その視線には何言い出してんだ、この馬鹿という意味が込められている。ヴァイツはそれを軽く流してセルビアを見た。
「是非お願いします!」
そこには昨日見たどこか幼さが残る笑みを浮かべたセルビアがいた。嬉しいという感情を隠しもしないで笑っているその姿は、先程までとは別人だ。
クリフはここにも手合わせ馬鹿が一人いたことに気付くと、同情してしまいそうになるほど疲れた表情を浮かべた。




