危険な知らせ
冬がせまり、王都にも北風が吹くようになった。町では冬支度が整えられていく。
そんな平和な日常を嘲笑うかのような知らせが、王とその臣下に齎されていた。
「魔獣の大群だと?」
王の声は険しい。顔もだ。
「はい。南のイジェ家の領地であるロバンで魔獣が大量発生したとの情報が、旅団から知らされました」
そういうセルビアの顔も苦い。
今二人がいる王の執務室には、二人の他にラザムスとヴァイツ、そしてトマだ。その三人もいい顔をしていない。
当たり前だ。魔獣は血と荒廃を好み、更に災いを招くとされているものである。
「それは本当か?私の耳にはそんな情報は入っていないぞ」
ラザムスは国の宰相として疑問を口にする。宰相は場合によっては、王より情報を持つこともある職だ。
セルビアはその疑問に冷静に答えた。
「どうも領地の主であるドイット・イジェ様が、魔獣発生の情報を広がらないようにしているようです」
それを聞いた三人は一様に顔を顰めた。
「あの馬鹿なら、やりかねませんね」
ヴァイツがそういうと、トマは吐き捨てるように言った。
「同じ貴族として恥の極みだな。子供のような仕業だ」
「セルビア。魔獣の種類や正確な数は分かるか?」
王の言葉にセルビアはさらに苦虫を噛み潰したような顔になった。
「種類は金切り蟷螂、数は最低でも百匹以上だと聞きました」
その言葉に全員が息を飲んだ。
金切り蟷螂は成人の男ほどの大きさの蟷螂だ。その手先の鎌は革鎧すら一刀両断し、足は丸太を突き刺すほどの力がある。
手練でも一対一では危ういような強さがある魔獣だ。
それが百匹以上。下手すれば被害が増えるどころではない。
「至急、軍を派遣する!隊長はヴァイツ、人選もお前に任せる。セルビア、同行を頼めるか?」
「はっ!」
「承りました」
敬礼したヴァイツは急いで部屋を出て行き、セルビアもそれに続いた。
「まず、ロバン城に入って情報収集だ。その後は臨機応変に対応したほうがいいな」
「魔獣が今どこにいるかというのも気になりますね」
「現地の情報はさっきのあれ以外になにかあるか?」
「一応、名持ちが一人いるとは聞いています。ただこちらから連絡を取るのは難しいそうです」
早足で歩きながらヴァイツとセルビアは会話する。どちらも焦燥の色がある表情だ。
「間に合うか?ロバンは南西の国境に近い場所だ。どんなに馬をとばしても三日はかかるぞ」
「それを間に合わせるのが、私たちの役目です」
「だな」
二人は一気に廊下を走り出した。
街道を騎馬が疾駆する。
先頭を走っているのは、黒毛の馬に乗ったヴァイツ。その横を並走するのは、鹿毛の馬に乗ったセルビアだ。
二人の後からおよそ100人の騎馬隊が続く。
王都から三日。昼夜問わずで走り続けて、軍人たちの体は土埃で汚れ、顔には疲労の色が濃い。それでも誰も文句は言わない。全員が致命的な遅れを感じているからだ。
ほんの一時でも遅れれば、無辜の民が魔獣に食い殺される可能性が、それだけ高まる。
先頭の二人はまったく疲労を見せない顔で馬を駆っている。超人的な体力と精神だ。
その軍が目指す先に、ロバンの城壁が見えてきた。
ロバン城の広間に入ったヴァイツとセルビアを出迎えたのは、くつろぐドイットとそばに控えている騎士と侍従だった。
「よく来てくれた。感謝する」
まったく感謝しているようには聞こえない声で、ドイットはそう言う。しかも自分は椅子に踏ん反り返り、ヴァイツたちに椅子も勧めない。
その言動にヴァイツは危うく目の前にいる男に拳を見舞うところだった。セルビアも大人しく後ろに控えているが、その右手は不気味に動いている。
「…今の状況を教えていただけますか?」
ヴァイツはかろうじて踏みとどまると、一番重要なことを口にした。
今現在、最も優先するべきなのは民の安全だ。ここで問題を起こしてはいけない。
ドイットはふん、と鼻を鳴らすと自分のお付きの騎士に地図を広げさせた。
「魔獣どもが現れているのは、我が領土の西にあるこの森だ。ロバンの軍はここを包囲している」
その肉のついた指が地図の一カ所を叩いた。
ヴァイツはそれをちらりと見て一礼し、踵を返す。しかし、ドイットの一言がそれを止めた。
ドイットの言葉を聞いた二人は絶句して、顔を見合わせた。どちらも『こいつ、正気か?』という表情になっている。
「つまり…。セルビアを民の避難に使わせろとおっしゃっているのですか?」
しかも西ではなく、まったく関係のない東の方角に派遣しろというのだ。
「勘違いしてもらっては困るな。避難ではなく、連絡だ。女ならば身も軽いだろう?」
その馬鹿にした口調にヴァイツの額に青筋が浮かび、セルビアは小さく微笑む。
ただし、この場合の笑みは怒りと呆れが笑顔として現れただけだ。内心はヴァイツよりも凄まじいことになっている。
「セルビアが抜ければ、戦力は確実に落ちる!その命令は第3番隊隊長として拒否させてもらう!」
敬語を使うのすら放棄して、ヴァイツは怒りをむき出しにした。それにドイットは嘲弄で応える。セルビアは前に出ようとしたヴァイツを片手で制した。
内心の怒りが大きいのは、セルビアとて同じだ。だが、セルビアはそれを完璧に押し隠した。にこやかな表情を顔に貼り付けている。
「承りました。それではすぐに出発しますので、失礼します」
セルビアはたったそれだけ言って、ヴァイツを促して部屋を出た。
部屋を出た二人はさっさと歩き出す。セルビアはさっきまでの表情とは全く違う厳しい顔つきだ。ヴァイツも似たような顔をしている。
二人は足を動かしながら話し始める。
「あの野郎…。あそこまで殴りたいと思った奴は久し振りだ」
「まったくもって同感です」
そこでヴァイツは足を止めた。ヴァイツから見下ろされたセルビアもそれと向き合う。
「にしても、随分素直にあの命令に従ったな。驚いたぞ」
「どうせ罠なら、自分から飛び込んで内から食い破る方が好きなものですから」
さらりと言ってのけたセルビアを、ヴァイツは頼もしげに見た。
「俺としてはお前に抜けられる方が痛いがな。まあ、気をつけろ」
ヴァイツはセルビアの頭をなでた。舞踏会の時には、その手を振り払ったセルビアはおとなしくそれを受け入れる。むしろ笑ったまま、ヴァイツを見上げた。
「お気をつけて。こちらもあの馬鹿を、ぎゃふんと言わせてみせますよ」
お互いに好戦的な笑みを交わして、二人はそれぞれの戦場へと足を進めた。
暗く湿った洞窟に魔術による火の玉が浮かんでいた。限られた光は術師の手元のみを照らしている。
その人は軽やかな手つきで手元の札を操っていた。どこか幾何学的な模様の札を切った後、上から3枚取って自分の膝の上に並べる。人はすぐに札を裏返していく。
最後の3枚目の札をめくり終えて、術師は手を止めた。
札に描かれていたのは、様々な色だった。色が混じり合い、歪に変化する絵。
何が描かれているが、他人にはまったく分からない。しかし、術師には分かっているらしく、一人で頷いている。
「紫の雷、黒猫、流れ星…」
呟きは誰にも聞かれることなく暗闇に消えていく。それだけでその人は札を小さな箱にしまった。
その時、耳障りな叫びが闇の向こうから響いてきた。人以外の何かの叫びだ。冷たく重たい空気には、ある意味似合っているだろう。
顔を動かして響いてきた方を見た人はため息をついて、重い腰を上げた。
「無駄だと分かっていても向かってくるのは、知恵がない証だな」
その声はひどく冷めていた。
森の中を歩いているのは、一人の男だ。
その身のこなしに隙はない。実用性一辺倒の服装で、一目で旅人と分かる男だ。その背には布に包まれた何かが背負われている。
地肌がむき出しになっている悪路だが、動きは素早く無駄がない。
「おい、ターロン。一体、どこに向かっている?」
男の声が静かな木々の間に響く。そう、森の中だというのに小鳥の声や虫の音すら聞こえない。
だからこそ、男の声に答える声がよく聞こえた。正確には声ではなく、鳴き声だったが。
「にゃあ」
可愛らしい鳴き声を発したのは、男の前を歩く一匹の黒猫だった。艶やかな黒い毛皮を持っている猫だ。
その猫は長い尾をゆらゆらと揺らしながら、男を先導するように獣道を歩いていく。鳴き声を返しながらも、男の方を見ないその動きにはわずかな尊大さがあった。
男はかすかなため息をついた。それでも何も言わないのは、既に諦めているからだ。
その時、人のものではない叫びが静寂を切り裂いた。