月夜の舞踏会
煌びやかな世界だった。
城の大広間には貴婦人の控え目な笑い声が響き、あちらこちらで挨拶が交わされる。
卓上には様々な珍味や料理が並べられ、大広間の奥では、楽団が各々の楽器を準備していた。
その中でセルビアは、ウォルターの陰に隠れるようにして、人の視線から逃れていた。
セルビアのドレスは薄緑色の絹地を基調としていて、銀糸で細かな刺繍が施されている。
首飾りには大粒の真珠をあしらったもの。髪は金の簪で留められていた。
いつものセルビアからは想像できないほどの淑女らしい美しさを誇っている。
「何故隠れている?」
「なんとなく、ね」
ウォルターはカーテナの騎士服を着ている。あまり飾り気はないが、その分剛健さが伝わる装いだ。
「いやさ、あんまり目立つのはよくないでしょ。今の私は演じる側だから」
その時、前の一段高い場所に正装の王が現れた。
王は豪奢な外套を翻し、胸には3本の剣が交差した王家の紋章が縫い取られた上着を着ている。
「今宵は我が国の舞踏会に臨席していただき、感謝する。存分に楽しんでいってくれ」
堂々とした声だ。50代とは思えないほど若く見えるのは、姿勢の良さとその立ち居振る舞いからだろう。
王の言葉が終わった後、楽団の面々が音楽を奏で始めた。
まずはシーカー王子とディレオーネ王女が、広間の中央で踊りを披露するようだ。
「まあ…、お似合いですこと」
「そうですわね。まるで一幅の絵画のようですわ」
貴婦人たちが軽やかに笑いながら、そんな感想をもらす。
セルビアも広間の中心で優雅に回る二人を見た。
(確かにお似合いだね)
桃色のドレスを着たディレオーネは清楚な美しさがあり、シーカーは理想の貴公子そのものだ。
そうして二人を眺めていたセルビアはウォルターの空気が変わったことに気付き、驚いた。
(分かりやすっ!)
他の人間には分からない些細な違いだったが、セルビアには分かった。いつもより機嫌が悪い。
「あのさ、ウォル。王女殿下が他の男と踊るだけでそんな機嫌が悪くなるんだったら、とっとと奪っちゃえば?」
「…黙れ。あの方は王女だぞ」
セルビアは呆れた声を上げた。
「それが言い訳だって一番分かってるのは、ウォルでしょ。長子ならともかく、あの方は三女だよ?王座に座る可能性は低い。そんなことを言ってる内に、大切な人を失って後悔しても遅いと思うけど?」
ウォルターは何も答えない。ただ、広間の中央で踊る少女を見つめるだけだ。
それでも口からは小さな言葉がこぼれ出た。
「私は…殿下に幸せになってもらいたいだけだ」
「人の幸せを他人が決めるのはよくないと思うけどね」
間髪入れずに苦言を呈したセルビアは、ウォルターの手を軽く握った。
「私は同じ師に習った者として、あなたに幸せになってもらいたい。これは本当だよ」
いつもの軽い口調ではなく、真剣そのもの声だ。
その時、二人の間に粘ついた声が割って入った。
「これはこれは…。仲がよろしいことで」
セルビアは素早くウォルターの手を放し、声のした方に振り向いた。そして…。
その場から全速力で逃げ出したくなった。
声の主は華美な装いをしていた。
上着の裾には毛皮。帯には色鮮やかな宝石。指には指輪を何個もはめている。恐ろしいほど派手だ。
顔には嫌らしい笑みが浮かび、脂ぎっている。少し赤くなっているところを見ると、酒を飲んでいるのだろう。
セルビアはその男と一度だけ、顔を合わせたことがあった。
ドイット・イジェだ。
セルビアは素早く表情を笑顔で固めた。
ウォルターは眉根を寄せたが、なんとか取り繕って無表情になる。ここも外交の場だ。
貴族の中でも一、二を争うイジェ家と問題を起こすのは、カーテナにとって好ましくない。嫌でも、愛想よくしなければならない。(ウォルターの無表情に、愛想なんてものがあればの話だが)
「お初にお目にかかるな、ドイット・イジェだ」
「ウォルター・デセオと申します。カーテナで副騎士団長の任に就いている者です」
「ああ、貴公のことなら知っているぞ。中々の武名を轟かせているとか」
「お褒めにあずかり光栄です」
完璧に馬鹿にしている声音に、素晴らしく棒読みの口調。
どっちもどっちである。
しかし、馬鹿の方は偉そうに胸を張った。
「ふん。しかし、我が二番隊の勇士には敵わんだろうよ。ほら、お前たちも挨拶しろ。あの有名な副騎士団長殿だ」
後ろからこれまた派手な三人組が歩いてきた。
その三人を見た途端にセルビアは堪らず噴き出し、笑われた三人も顔が恐怖によって引きつる。
「!女!何が可笑しい!」
ドイットが叫ぶが、セルビアは笑い続ける。隣にいるウォルターの腕に縋って、ようやく立っているようなものだ。無理矢理声を押さえているので、余計に苦しそうに見える。
それでも、根性でなんとか言葉をしぼり出す。
「いや…こんな冗談なんてあるんだなと…。可笑し過ぎて…」
笑いで所々声が途切れ、目には涙まで滲んでいる。
「だって、私に素手で沈められるような人たちが、ウォルより勇士とか…」
駄目だ、笑えるとセルビアは口を手で押さえた。
三人の男はドイットになにやら耳打ちをして、そそくさとその場から逃げ出した。それがさらにセルビアの笑いを誘う。
ウォルターはセルビアの言葉を聞いて目が点になったが、それでも今はセルビアの笑いを止める方が先だと思ったらしい。セルビアに話しかけた。
「セルビア。落ち着け」
「落ち着いてるよ、ブハッ」
「どこかだ」
漫才のようなやり取りに先に痺れを切らしたのは、ドイットだった。
「その女が怪しげな術を使って、我が隊の隊員を陥れたことは知っている。まあ、そちらの方の手も早いらしいが」
嫌らしい目つきでセルビアの体を舐めまわすドイット。
セルビアの笑いが一瞬で引っ込んだ。表情が平坦なものに変わり、銀色の殺気が体を取り巻く。徹底的にすわった目が細められ、抜き身の刀のように光った。
「それ以上、私を侮辱するようなら、それ相応の手段を取らせていただきます」
「ハッハッハッ!お前如きが」
ドイットの言葉が、途中で途切れた。
セルビアが動いたのだ。まるで流れるような、自然で素早い動きだった。
一歩前に出て、ドイットに肉薄する。常人の域を超えた早さで左手がドイットの首を掴み、右足がさらに前に出た。
どしん、と重い体が床に転がった。
仰向けに倒れたドイットは何が起こったのか分からないようで、目を白黒させている。状況が把握できていないようだ。
ウォルターの目が明らかに死んでいる。『やらかしたか…』という目だ。
セルビアはというと、楚々とした美女の仮面を即座に被り直していた。体勢を整えて、ゆったりとした立ち姿を取り戻していたりする。
あまつさえ、
「まあ、ドイット様。大丈夫ですか?」
と心配げに言う始末だ。
顔を怒りで紅潮させたドイットは立ち上がると、セルビアに詰め寄った。
「きっ、貴様…!」
「あらあら、どうかされましたか?お酒をお召しになって、ふらついてしまったのでしょう。お気をつけください」
ドイットは唖然となり、ウォルターは鉄面皮の裏で頭を抱えた。
白々しいにもほどがある言葉だが、セルビアの表情は笑顔で固定されている。しかし、その目は違う。まだ何か言うようなら手加減しないと相手に悟らせるような殺気のこもった目だ。
そんな硬直した空気に割り込んできたのは、二人の男女だった。
「ドイット殿、どうかされたのか?」
隣にディレオーネを連れたシーカーが、にこやかにドイットに声をかけた。
「これは…殿下」
姿勢を正して礼を取ったドイットは、そそくさとその場から立ち去った。最後までセルビアに憎悪を込めた視線を送っていたが。
セルビアはドイットが完全に離れたことを確認すると、シーカーに向かって軽く膝を折った。
「ありがとうございます、殿下。おかげで助かりました」
「私がいなくてもどうにかなったように思いましたが、少し心配だったので」
そこまで言って、シーカーはウォルターに向き直った。
「貴方がウォルター・デセオ殿ですね、お噂はかねがねお聞きしています。お会いできて光栄です」
「ありがたきお言葉です」
畏まったウォルターにシーカーはある頼み事をした。
「申し訳ありませんが、ディレオーネ殿下をお頼みしてもよろしいでしょうか?急な知らせが届いたようでして、退席しなければならないのです」
ディレオーネは落ち着かない様子で、ウォルターを見上げている。
その時、セルビアがウォルターの背中を軽く叩いた。
「何迷ってるの、ウォル。早く行きなって」
「セルビア…」
いつものしっかりとした口調とはまったく違う、頼りないものだ。
たくましく笑ったセルビアはもう一度、今度は勢いよく叩いた。
「後悔してからじゃ遅いんだよ?早く行く!」
「…すまんな、恩に着る」
ウォルターはディレオーネの手を優しく取って踊りに誘う。ディレオーネは頬を赤く染め、嬉しげに頷いた。
お互いに思い合っていることが伝わる、そんな視線の交わりだ。
「…よろしかったのですか?」
二人を見送ったセルビアに、シーカーはそう話しかけた。
「むしろここまでお膳立てされて駄目だったら、あの男を殴り飛ばすところです」
シーカーはその答えに顔を引きつらせた。セルビアは落ち込むどころか苛ついてすらいるようだ。
そのまま独り言が続く。
「何年も前から守るって決めてる癖に、踏み込むのが怖いとか…。まったく…世話の焼ける」
そこでセルビアは言葉を切った。
「殿下、何かあったのですか?」
「急使が来たらしいのです。さすがに今、父上が抜けてられては困りますから」
「陛下なら代われ、とでも言い出しかねませんね」
シーカーは苦笑しながら頷いた後、優雅に歩き去っていった。
王子が去った後、セルビアは大広間を抜け出した。
慣れないドレスと体験したことのない世界に疲れたからだ。
下弦の月が照らす庭園をセルビアは散策する。今日の為に庭師が丹精込めて造り上げた庭だ。整然としていて、静かな美しさがある。
そんなセルビアの足が噴水の前で止まった。涼やかな音ときらきら光りながら落ちる水。
しかし、銀色の瞳はその光景を映していなかった。ただ虚空を彷徨っているだけだ。
「一人か?」
唐突に響いた声にセルビアは振り返った。
「ええ。あなたもみたいですね、ヴァイツ様」
垣根の裏から現れたのは、上着を肩に引っ掛けたヴァイツだった。
相も変わらず疲れた顔をしてながら、セルビアの近くにまで歩いてくる。
「お疲れのようですね」
「まあな。貴族のおべっかは聞いてるだけで体力を使う。勘弁してほしいぜ」
本人はあまり意識していないようだが、口調が随分と砕けている。セルビアはそれに気付いていたが、何も言わずに会話を進めた。
「ヴァイツ様も一応伯爵ですから、そういうことを言うのは、問題がありますよ?」
「伯爵といったところで、俺は辺境の出だ。取り繕っても始まらんさ」
「辺境というと?」
「北東の国境近くだ。森と川ぐらいしかない所でな。厳しい場所だったが、俺にはあそこが故郷だ」
ヴァイツは懐かしげに目を細めた。その目に映っているのは、深い森とそこを吹き抜ける風だろうとセルビアは思う。
「それよりもお前はあれで良かったのか?」
「なんのことだか分かりません」
「お姫様と騎士の話だよ。はぐらかすな」
「…」
セルビアはすぐには答えずに、噴水へと近づいた。
「最初から分かっていたことですから」
髪を留めていた簪をセルビアは抜いた。この城に来た時より伸びた髪が、ほどけて落ちる。
金の簪が月光の下で鈍く光った。
「私とウォルが同じ師について学んだのは、一年ぐらいでした。決して短くはなかったんです。それでも、私はウォルの大切な者にはなれなかった。たったそれだけの取るに足らない陳腐な話です」
「陳腐、ね…。お前はそれでよかったのか?」
セルビアの唇に苦い微笑が浮かぶ。
「しょうがないことです」
その笑みはヴァイツには、とても寂しげに見えた。親を見失い、今にも泣き出しそうな幼子の顔。
ヴァイツは右手を伸ばして、セルビアの頭を軽く撫でてやった。
不意を突かれたセルビアはきょとんとした後、顔を険しくした。
「…なんですか、これは」
「慰めてやってるんだ」
「言い切らないで下さい。私はマヤ様じゃありませんよ」
セルビアは乱暴にその手に振り落とすと、べえと舌を出した。
正しくあっかんべーだ。
ヴァイツは目を丸くしたのを見て、セルビアは何か言われる前にその場から逃げ出した。素晴らしいまでに逃げ足が早い。
「おいおい…」
ヴァイツは苦笑して、走り去るセルビアの背中を眺めていた。追いかけはしない。
淑女とは思えない子供のような行動だが、彼にはそれが気持ちよく思えた。
ヴァイツは月を見上げる。雲一つない空に浮かぶ白い半円。
ゆっくりと歩き出したヴァイツの背中を月が照らしていた。