鍛錬
眩しい光を感じて、セルビアは目を開けた。
いつもの目覚めとは違って、瞼が重い。ようやくのことで固まりきった瞼を持ち上げ、軽く周りを見渡す。
あまり見上げたことのない自分の部屋の天井と、ある程度の気品を感じさせる調度品。
間違いなく城にある自分の部屋だ。
それだけを確認して、セルビアは体を起こそうとした。
「あ…れ…?」
かすれた声が小さな疑問をこぼした。
体が動かないのだ。手足が思うように曲がらず、力も入らない。
「!セルビアさん!」
驚いた声と共にレーナがセルビアに駆け寄る。セルビアはゆるゆると首を動かし、そちらを見た。
「レー…ナ…ま」
その声はまったくといっていいほど、出なかった。
「!セルビアさん、落ち着いてください。まずはこれを飲んでください」
差し出された水を飲み干すセルビアの背中をレーナはゆっくりとさする。
水を飲み終わったセルビアは、レーナを見つめた。
「レーナ様…ご無事で…」
「はい、セルビアさんのおかげです。シーカーも傷一つありません」
「そうですか…」
心底安心した吐息を吐いたセルビアはもう一度、寝台に横になった。
いつものセルビアなら、他にも何か聞いただろうが、ほんの少し話しただけでその体力は容赦なく削られていた。
「大丈夫です、今は眠っていてください。また明日、話しましょう」
「…すいません」
セルビアは言われた通りに目を閉じて、もう一度眠りについた。
「生きていた奴らに尋問してみたが、首謀者に繋がるような情報は持っていなかった。まあ、当たり前だが」
「ですね」
頷いたセルビアは皿に盛られた野いちごを一つ、摘まんだ。ヴァイツも同じ皿から野いちごを取って、口の中へと放り込む。
「あ、私が言った灰色の目の男のことについては、何か分かりましたか?」
「ああ、どうも裏の方では名の通った男らしいぞ。『灰剣』と呼ばれているらしい」
「瞳が灰色でしたからね。そこからきたんでしょうか?」
セルビアが凶刃に倒れてから既に20日が経っていた。目を覚ましてからのセルビアを待っていたのは、情報の波と感謝の嵐だった。
王を筆頭にレーナ、シーカーがセルビアの部屋を見舞いに訪れた。
特にシーカーの心情には変化があったらしく、セルビアに素直に礼を言い、また親しみを持ったようだ。セルビアもにこやかにそれに応じる。レーナはそれを微笑ましそうに傍で眺めていた。
情報を持ってきたのは、ヴァイツだった。
セルビアに、と見舞いの品として手渡しされたのは、ヴァイツの故郷であり、領地でもある地から送られてきた野いちご。
セルビアは喜んでそれを受け取って、ヴァイツの話に耳を傾けていた。
「ま、というわけで調査はほとんど進んでない。依頼主が何かへまをしていない限り、これ以上は進みそうにもないがな」
「そういうことはヴァイツ様たちに任せます。私には向かないので」
「嘘をつけ。裏に片足を突っ込んで不穏な動きを確認していたのはお前だ。どれだけ危ない綱渡りをしたんだか」
セルビアは苦笑で応えて、赤く色づいた実を口へと運んだ。
「まあ、いい。今は養生するのが、肝心だろうからな」
そこでセルビアの空気が変わった。
「…皆さん、それを言うんですよね」
ウンザリとしている顔で、セルビアはぼやいた。
「分かりますよ。私は大怪我をしましたし、つい最近まで意識がありませんでした。だからといって、皆さん過保護過ぎです」
言いたいことがたまっていたのか、セルビアは怒涛のように喋りはじめた。
「一昨日は寝台から足を下ろそうとして王子に止められ、昨日は部屋の外に出ようとしたらレーナ様が引き止め、今日は廊下で陛下に見とがめられ、私はどれだけ弱くなったんだと怒鳴りたい気分なんですよね」
怒りすぎて逆に平坦になっている口調を聞いて、ヴァイツは軽く怯えた。
(殺気が漏れ出してるぞ…)
漏れ出している黒い何かがひたひたと迫ってくる。
そこでヴァイツはセルビアにある提案をした。
セルビアは目を見開いた後、大喜びでヴァイツに礼を言い、傍らに置いていた刀を嬉しげに撫でた。
閉じていた目を開けたセルビアは、体の力をすみずみまで行き渡らせて、抜き身の刀を正眼に構える。
セルビアが立っている場所は城の一角にある訓練場だった。
セルビアはヴァイツから直接使用の許可を貰い、この場に来ていた。
周りには人っ子一人いない。地平線から顔を出した太陽がもう少し昇るまでは、軍人たちも来ないだろう。
訓練場の隅で精神統一を終えたセルビアは腕を振り上げた。
「934…935…936…」
一定の間隔で空気を切る音と小さな声が訓練場で起こる。
あくまで片隅の狭い空間で行われている一人の素振り。この場ではよく見られる光景だ。
ただ、それをひたすらやっているのが王の愛人と噂され、先日まで意識不明で寝ていたセルビアというのがまずかった。
男たちは自分の訓練を行いながら遠巻きでそれを眺め、話を聞きつけて見物にきた者たちが窓や外に面した廊下に詰めかける。
その場は騒然となったが、当の本人はその騒ぎを完璧に無視して、素振りを延々と繰り返す。
さすがに千騎長たちは、気もそぞろになる部下たちを一喝して訓練を行っているが、見物人まで追い払うわけにはいかないので、騒がしさはあまり変わらない。
「1502…1503…1504…」
セルビアの素振りが1500を超えた辺りから王族たちまでが押し掛けてきた。
しかも王にレーナ、シーカー両殿下とそうそうたる面々が、訓練場に飛び出さんばかりの勢いで駆けつけてきたのだ。
下っ端である兵士などは近くにいるのも恐れ多く、逃げ出す者が続出した。
「本当に…やっているのか…」
「そんな無茶を…」
「うわあ…」
上から王、レーナ、シーカーの順である。
ちなみにシーカーの口調は驚きのあまり、年相応のものになっていたりする。
「レーナ、セルビアの体調はどうなっていた?」
「回復はしていましたが、こんな過酷なことをできるほどでは…」
「いつものセルビアでも無理でしょう?こんなの」
「セルビアさんは名持ちですから、全快状態ならこれぐらいはできるでしょう」
そう言うレーナも不安げな表情で、訓練場の隅に視線を注いでいる。
「止めますか?」
シーカーの問い掛けに、父と姉は互いの顔を見合わせた。どちらも不可解な視線で首を傾げている。
「どうだ?」
「いえ…、邪魔なんてしようものなら…」
「…ああ。殺されるな」
「は!?」
仰天したシーカーを置き去りにして、王と王女はうんうんと頷き合った。
「まあ、当たり前か。武人の鍛錬の邪魔などしたら、怒りを受けるのは至極当然のことだ」
「ええ、特にセルビアさんは自分のなさることに横槍を入れられることを嫌っておられるようですし」
「それは元来の性格が、旅をしている間に磨かれた結果だろう。独立独歩といえば聞こえはいいが、行き過ぎればただの自分勝手になりかねん」
「ですが、セルビアさんは冷静な方です。出来ないことを無理になさろうとはしないでしょう」
「だといいのだがな…」
心配げに呟いて、王は踵を返した。
「すまない、レーナ。仕事がまだ溜まっているのだ。後は任せる」
「はい」
頷いたレーナは、隣でまだ呆けている弟に声をかけてやった。
「シーカー、貴方も仕事に戻りなさい。セルビアさんは私がきちんと見ていますから」
シーカーは少しばかり抵抗していたが、レーナの言葉通りに自らの執務室へと戻った。
なにせ、次期王位継承者として王国の運営に必要な知識を詰め込み、実際に国務の一部を担っている身だ。あまり無駄な時間はない。
残ったレーナはいつセルビアが鍛錬を終えてもいいように、必要な物を準備し始めた。
「3125…3126…3127…」
すでに素振りが3000回を超えていたが、セルビアの動きにほとんど変化はない。
しかし、その表情は苦しげに歪められている。顔には汗が浮かび、顎から滑り落ちても拭う気配すらない。
この段になると見物人たちもほとんどおらず、残っているのはわずか数名だけの状況だ。
レーナはその場からほとんど動かずに、ただひたすらセルビアを見つめていた。
(いざとなったら、体を張ってでも止めよう)
そんな決意を持って、レーナはそこにいた。
日が昇り切って、頂点を過ぎた頃。セルビアが素振りを始めてから優に6時間は経過していた。
「4996…4997…4998…」
セルビアの動きは緩慢になり、呼吸も苦しげだ。
「4999…5000」
最後の一振りが終わった瞬間、セルビアはその場に座り込んだ。
膝を折り、刀を握ったまま荒い息を整えようと努力していたが、さすがに無理がある。
「セルビアさん!」
駆け寄ったレーナは急いでセルビアに水筒を手渡した。セルビアは礼も言わずに勢いよくそれを呷る。
「…ありがとうございます」
水を飲み終わり、ようやくそれだけ言ったセルビアに、レーナは布を渡した。
これも無言で受け取り、セルビアはそれに顔を埋める。
「セルビアさん、立てますか?」
「ええ…、まあ…」
消え入りそうな声で言われてもまったく説得力がない。
しかし、セルビアは意地で立ち上がった。刀も脇に置いた鞘に仕舞う。
レーナはそんなセルビアをさりげなく支えた。
部屋に帰ったセルビアに服を脱ぐように言って、レーナは洗面器と布を用意する。洗面器には水がたたえられていた。
セルビアは豪快に汗で濡れた服を脱いでいく。白く細い体には包帯が巻かれ、ところどころには古い傷跡も見える。
布を水につけ固く絞ってから、レーナはセルビアにそれを手渡す。
「背中は私がやらせていただきますからね」
と、付け加えることも忘れない。
素直に頷いたセルビアは、布で首から下を順序良く拭き始めた。
「…ご心配をおかけして申し訳ありません」
「いえ、私より父の方が心配しておりましたよ」
「そう、ですか…。後で謝りに行かないといけませんね…」
落ち込んで頭を抱えたセルビアに、レーナは苦笑した。
自分よりも年上なのに、どこか幼さが残る仕草だったからだ。
王都にも夏の終わりが訪れていた。
夏の名残が残る日差しの下で、秋の気配を感じさせる風が吹き抜け、旬の終わりかけた果物が店前に並べられ、売られている。
そんな平和な城下とは裏腹に、城には慌ただしい空気が漂っていた。
その城の主である王は、執務室で疲れのあまり机の上に突っ伏していた。
「5年前に催したばかりだろう…。私の誕生を記念した舞踏会など…。後、5年は必要ないだろうに…」
ぶつぶつと愚痴めいたものを呟く王の周りの空気は重い。どんよりと澱んでいる。
「陛下、招待状の署名は…。終わっていないようですね」
部屋を訪れたラザムスは嘆息した。
「いつまでも子供のように駄々をこねないでいただきたい。これは国事ですぞ」
「分かっている…。分かってはいるが…」
これを駄々っ子と言わずしてなんという。
これが一国の国主なのかと、ラザムスは滲んできた涙を拭った。
「これでも去年は陛下のご意見を尊重して開催しなかったのです。今年はなんと言われようと行わさせていただきます」
きっぱりと言い切ったラザムスは、じろりと王を睨みつけた。王は慌てて姿勢を正す。
「さて、さっさと手を動かして、署名をお願いします」
「はい…」
哀れになるほど小さく返事をした王は、筆記用具を手に取った。
「陛下の誕生を祝うための舞踏会ですか」
本を机の上に置いたセルビアは、レーナの淹れた茶をすすった。レーナも自分の茶に口をつけながら頷く。
塔でのお茶会で、レーナはセルビアに近くに開かれる舞踏会の説明をしていた。
「ええ。まあ、それ自体は建前ですけれど…。ここ5年は開かれていなかったのです。シリゾイとの戦争がありましたから」
シリゾイはアイズバーンの南東に位置する国だ。領土自体はアイズバーンの半分ほどで、建国時からアイズバーンとの仲は悪い。
シリゾイとの戦争は10年前から小競り合いと一時の停戦を繰り返して、ようやく3年前に終わっていた。
小競り合いと言えば優しく聞こえるが、内実は小規模な戦争だ。死傷者は必ず出るし、農地は荒らされる。
そして、魔獣が人を襲うのだ。
そこでレーナは話題を変えた。
「そういえば、セルビアさんは何か任務に就かれるのですか?」
「ええ、陛下から要請がありました。カーテナの第三王女殿下の護衛に就いて欲しいと」
カーテナとはアイズバーンの北西にある王国だ。国土も小さく、森の多い国でもあり男女に関わらず、王位継承は長子と決まっている。
女王の代に栄えることが多いため、女王の国と呼ばれることもある。現在も女王が王座に座り、その子供たちも娘だけなので、次代も女王になるのが確定的だ。
「たしか、ディレオーネ・パトゥープという方で…。ああ、ちょうどシーカーと同じぐらいのお歳だったはずですね」
レーナはそう呟いた後、セルビアに小さな声で言った。
「もしかしたら、私の妹になるかもしれない方です」
セルビアは目を丸くした。
「それ、本当ですか?」
「まだきちんと決まっているわけではありません。あくまで可能性の話です」
シーカーは16歳。王族としては結婚してもおかしくない歳だ。
むしろ19歳にもなって、まだ嫁いでいないレーナの方が不自然であると言えた。
「なるほど…それは責任重大ですね」
改めて気合いを入れ直したセルビアは、レーナと笑い合った。