眠る女
ヴァイツが森に入ったのは、魔術の壁が壊れたのとほぼ同時だった。後ろには何人かの部下を連れ、全員が馬を疾走させている。
馬を急がせて森の奥へと入っていくと、そこにはかろうじて生きている男たちが転がっていた。同じ短剣が全員の体に突き刺さっており、息はあるものの、それぞれが動けない程度の怪我をしている。何人かはそう時間を待たずに死ぬだろう。
「…ちっ」
ヴァイツは低く舌打ちして、部下たちに捕縛を命じて、自らはさらに先へと進む。
いつもの森のようにも見えるが、静かな空気が殺伐している。
静かな木々の間を覗きこみながら、ヴァイツは馬を進めた。その片手は剣の柄に置かれている。
その時、ヴァイツは草の間から投げ出された人の両足を見て、鞍から跳び下りた。
ヴァイツが見たのは、脇腹に致命傷とも思えるほどの傷を負ったセルビア。
セルビアは背を木の幹に預け、ぐったり座りこんでいる。
「おい!セルビア、しっかりしろ!」
耳元で叫びながら、ヴァイツは上着を脱いだ。その上着でセルビアの脇腹を、強く押さえる。
セルビアは目を閉じたままで、ぴくりとも動かない。呼吸も浅く、死にかけていることが一目瞭然だった。
「おいおい…」
ヴァイツは苦い顔をして、改めてセルビアを眺めた。
細かい傷は手足に残り、手には刀が抜き身のまま、握られている。
今からどんなに急いだところで間に合わないことが一目でわかる状態だ。
「これは…」
そんなヴァイツの耳に、部下たちの驚きの声が届いた。
「…様、ヴァイツ様!どちらにおいでですか!」
聞き覚えのある、透き通った声だ。
ただ、こういう時にはあまり聞きたくない声だな、とヴァイツは頭を抱えた。
「隊長!王女殿下が…」
そんな声を後ろに従えて、レーナは藪から出てきた。金色の髪に小枝や枯れ葉をくっつけている。
「!セルビアさん…!」
レーナはヴァイツには目もくれず、セルビアの傍に膝をついた。
険しい顔のまま、レーナはセルビアの傷口に両の掌を当てる。
ヴァイツは思わず、その手首を掴んだ。
「レーナ様!一体、何をなさるおつもりですか?」
「放してください。こうする以外にセルビアさんを助ける術はありません」
「駄目です。セルビアが守ろうとしたのは、貴女なんですよ。それを貴女自身が傷つけるおつもりですか」
「私にはセルビアさんを助ける権利があります。大丈夫です、私も自分の力を操れるぐらいには成長しました」
銀の瞳と茶の瞳が交差して、ヴァイツは掴んでいた手を放した。
軽く頭を下げて感謝を表したレーナは大きく息を吸い、朗々と呪を唱える。
『傷を癒すは力。力は血肉となり、流れるものはそこにとどまれ』
セルビアの脇腹に当てられた両の掌に淡い白色の光が宿る。その光が傷口に集まって、そこから体の中に潜り込んでいく。
ヴァイツは目だけを動かして、セルビアとレーナの表情を交互に窺った。
セルビアの顔は死人のように青ざめ、レーナは額に大粒の汗を浮かべて、顔を顰めている。
呪文を唱えてほんの数十秒で光は消え、レーナは手を下ろした。息は微かに乱れ、僅かな時間で精力を使いきってしまったかのように、脱力している。
それでもレーナはセルビアの服をめくり、傷を確かめた。
脇腹の傷は跡形も無く、その痕すら残っていなかった。
「良かった…。ヴァイツ様、セルビアさんを急いで城へ運びましょう。私には他の細かい傷を治すほどの力はありません」
「分かりました」
ヴァイツは自分の上着でセルビアの上半身を包んで、そのまま抱き上げた。
そのまま馬に跨り、前にセルビアを座らせて、体ごしに手綱をとる。
「レーナ様、貴女も私と一緒に城に帰りましょう。お一人になるのは危険すぎます」
レーナはその言葉に素直に頷いて、自分も馬の鞍に跨った。
城に帰った二人を出迎えたのは、王だった。門の前で仁王立ちという無駄に迫力のある光景で出迎えられた二人は、気が抜けた反動もあり、思わず苦笑してしまう。
王はレーナ、ヴァイツと見て、最後にヴァイツの腕の中にいるセルビアを見て、息をのんだ。
「セルビア…!」
「陛下、落ち着いて下さい。大きな傷は塞がっています。すぐに医者を」
「!そうか、分かった」
頭を切り替えた王の指示でセルビアは担架に乗せられ、奥へと運ばれていく。レーナは迷わず、それについていく。
レーナに続こうとした王を引きとめたのは、ヴァイツだった。
「陛下、お話が」
固い表情で王を呼び止めたヴァイツは慎重に言葉を選びながら言った。
「レーナ様が、治癒の魔術をお使いになりました」
「!そうか…」
答えた王の声はどこか頼りなく、小さかった。
「治した傷はどれほどのものだ?」
「致命傷です。セルビアは脇腹を深く斬られていたので」
王は深く息を吸って吐いた。押しこめられた何かをそのまま隠すかのように。
「大丈夫だろう。レーナとて、子供ではない。魔力を理解し、操れるだけの体もある」
「ならば、いいのですが…」
王はヴァイツに背を向け、足早にセルビアが運ばれた方へ向かった。
襲撃から二週間経った。
段々と暑さを増す空気と強い日差しが、夏の訪れを告げる。
レーナは侍女の服を着て、手には冷たい水をたたえた洗面器と布を持ちながら、セルビアの部屋へと入った。
寝台の上には、薄い毛布を掛けられて目を閉じるセルビアが横たわっている。
わずかに上下する胸が息をしていることを知らせている。けれども、それだけだ。セルビアは目を開けず、ぴくりとも動かない。
枕元には愛刀が立て掛けられ、いつでも抜けるような状態で置かれている。
レーナは洗面器と布を近くの机に置いて、部屋の窓を開けた。
差しこんでくる朝日の光に目を細めた後、レーナは寝台に目を向けて、悲しげに顔を伏せた。
セルビアは二週間、昏睡状態に陥っている。深く眠ったまま、目を覚まさない。ただひたすら眠り続ける。
理由は分かっている。セルビアは力を使い過ぎ、血を失いすぎたのだ。
魔術には魔術師本人の力が必要だ。それが不文律であり、魔術の根幹でもある。
セルビアがあの時発動させた魔術は、大規模すぎるものだった。セルビア自身の才をもってしても追いつかないほどの強力な術。
そして、それに追い討ちをかけるかのように負った傷。そのまま放置していたら、一時間たらずで死ぬような傷を負ってしまったのだ。
普通ならそこで死んでしまう。そこからどんなに手を尽くそうと、セルビアの体がもたないからだ。
しかし、レーナが自らの力を発揮して傷を癒した。
そして、辛うじてセルビアは生き残った。
それでも、セルビアの力は大きく失われ、呼吸をするのがやっとという状況にまで落ち込んだ。
レーナは水に浸した布をきつく絞った。その布でセルビアの顔を丁寧に拭いていく。
手を動かしながらレーナはセルビアの顔をじっ、と見つめた。
整った顔立ちは20過ぎにしては可愛らしい。銀の瞳は瞼の裏に隠され、いつもの硬質の美しさはない。
その時、レーナの手がぴたりと止まった。
最初にセルビアに会った時に感じた既視感。それが天啓のようにレーナの脳裏をよぎった。
そう、幼い頃にどこかで見た顔。
違う。どこかではない、ある場所で見た顔立ち。
幼い頃、たった一度だけ見たことのある、青白い肌と閉じられた目。自分よりも大きく力強く見えたあの人が、力なく寝台に横たわっていた。
足元が崩れ落ち、目の前が暗くなったような気さえした。
そう、あの時の顔。あの顔と今のセルビアが、はっきりと重なる。
なぜ、こんな簡単なことに気付かなかったのかと、レーナは逆に拍子抜けしてしまった。
「ふふふ…、そういうことでしたか。似た者同士というわけですね」
唇を綻ばせたレーナはふ、と顔を上げた。
扉を叩く音が響いた直後、静かに開けられ、レーナの父である王が部屋に入ってきた。
「父上」
「レーナか。セルビアの調子はどうだ?」
気軽に部屋に入ってきた王をレーナは快く迎え入れた。
王はセルビアの部屋に一日に一回は顔を出していた。
周りの噂にはまったく頓着しない王の行動は、臣下如きには制限が出来ない。レーナにはある程度の力はあるが、本人は苦笑や笑顔をその麗しい顔に浮かべるだけだ。まったく当てにならない。
そんなレーナは今、ただ穏やかに笑っていた。美しい顔に笑顔だけを乗せて、レーナは言う。
「父上。セルビアさんは、きっともうすぐ目を覚まされますよ」
「そんなことが分かるのか?」
「いえ、なんとなくそう思ったのです。それに…」
そこでレーナは間をあけた。
「彼女は大切な人をようやく見つけたのですから」
慈愛に満ちた声に王は息をのんだ。
その目が既に亡き面影を映す。
儚げに笑って逝った最初の妻と、自分の手を握りながら眠るように亡くなった最後の妻。その二つがレーナに重なり、消えていく。
「レーナ…」
「父上。セルビア様がなぜここまで王家に尽くすのか、私にはわかったような気がします」
レーナの瞳が王を見据えた。
「彼女は父上の為だけにここまで傷ついたのですね。父上の子供である私とシーカーを守るためだけに彼女は命を危険に晒した。私にはやっとその訳が分かりました」
レーナは優しく微笑んだ。
「そんな人がこんなことでいなくなりはしません。そうでしょう、父上?」
王は答えなかった。諦めたかのように目を伏せ、苦笑を浮かべるだけだ。
「お前は…本当に賢い子だ」
それだけ言って、王はセルビアのすぐ近くに寄ると、その頭を軽く撫でた。そして、微笑ましげに二人を見守るレーナを見る。
「レーナ、私はもう行かねばならない。セルビアを頼んだ」
「はい、セルビアさんのことはお任せください」
王は部屋を出ていき、レーナは深く頭を下げて、その後ろ姿を見送った。