血脈
王は寝台に入り、上半身を起こした姿勢で書類に目を通していた。
開け放たれた窓からは暖かな風が流れ込み、春の息吹を感じさせる。
広い室内には、王一人きりだ。
王が原因不明の病から回復して、既に二日が経っており、王の容体も順調に回復していた。
元々、頑健な体を持った人物だ。歩き回るとはいかないが、上体を起こして執務をこなすことが出来るまでになっていた。
扉が叩かれ、入室の許可を求める声が聞こえてきた。
王がそれを許すと、侍従の服を着た男が一人だけ部屋に入ってくる。
本来ならその場で一礼するのが普通だ。しかし、男は堂々とした足取りで歩き出し、部屋を突っ切って、王の寝台に近づいた。
男は驚く王の枕元まで来ると、そこで軽く頭を下げて口を開いた。
「夕闇の一族の長殿、お初にお目にかかる。ゼンとセンの友人のラグンだ」
王は驚きで目を見開いた。
微笑を浮かべたラグンは金色の目を光らせながら、袖の中に隠していた短剣を王に突きつけた。
「妖精族の血、ですか」
「ええ、私にも流れています。とても薄くはなっていますが」
中庭で庭いじりを終えたセルビアとレーナは、日陰で休憩していた。
レーナが会話の中でセルビアに語ったのは、王家に流れる妖精族の血についてだ。
妖精族とは、キャッスヘルワに多く住む民族のことを指す。
魔術を尊び、自らの故郷に深い愛着を持つ一族だ。
身体的特徴としては、耳が長いこと。また、純血の妖精族は全員魔術を使えるという特性を備えていた。
「父上の曾祖母様が純血の妖精族の方だったそうです」
「【それは運命に導かれし出会い。流れる血すら止められぬ絆の導き】でしたか」
「ええ、その唄です」
セルビアが暗唱したのは、その王子と妖精族の姫君の恋を唄った詩歌だった。
実話を元にし、100年以上前に作られたとされる曲で、最後は愛を誓って終わる。半島では有名な恋歌だ。
「歌の中にある決闘したとか、妖精族が押し掛けてきたとか。あれって、本当なんですか?」
「そう聞いています。当時は大騒ぎだったとか」
麦藁帽子の下で微笑みながら言うレーナは、自らの祖先を愛しているようだった。
セルビアは遠くを見つめる目つきで言う。
「私は自分の出自をほとんど知りません。父が誰かは知りませんし、母についてはアイズバーンの出身ということ以外は何も知りません」
どこか侘しげな口調でそう語ったセルビアに、レーナは問い掛けた。
「知りたいと思いますか?自分の祖先を」
問われたセルビアは肩をすくめて、無表情で答えた。
「いえ、あまり知りたいとは思いません。母は私に決して、自分の過去の話をしようとはしませんでした。それだけ昔に知られたくないことがあったのでしょう。なら、私は知るべきではないと思います」
レーナはそう語るセルビアの横顔をじっ、と見つめた。何かを探るかのようにその視線は深く、鋭い。
セルビアはそれを感じながら、目を逸らして無視する。
ついさっきまで、穏やかな空気が流れていた二人の間に奇妙な緊張感が漂った。
「それは寂しくはありませんか?」
「いえ、まったく」
きっぱりと言い切ったセルビアは、刀の柄に手を置いた。
レーナが見た限り、セルビアがその刀を手放す瞬間はない。常に肌身離さず持ち歩いている。
「私は自分の血の流れを知らなくても、自分のことはよく分かっているつもりですから」
今度こそ銀色の瞳同士が見つめ合った。
同じ色の瞳だが、受ける印象は全くと言っていいほど違う。
レーナの目は清廉で星の煌めきのような明るさを感じさせる。柔らかささえ、そこからは
感じ取れる。
対して、セルビアの目は厳しく冷たい。研ぎ澄まされた刃の如き鋭さと鍛え抜かれた強さを兼ね備えている。
どちらも美しく、どちらも人に訴えかける力のある目だ。
その時、こちらに向かって誰かが歩いてくる気配がした。
「ああ、こちらにおいででしたか」
現れたのは侍従だった。侍従はレーナに一礼した後、王の言葉をセルビアに伝えた。
「陛下」
呼びかけられた王は目を開けた。
まだ外の日は高く、窓の向こうには青空が広がっている。
セルビアは王の寝台の横に立ったまま心配そうな表情で、王の顔を覗き込んでいた。
「セルビア」
王は手でセルビアに椅子を勧め、上体を起こした。セルビアは枕元に置かれている椅子に座り、王と向き合う。
「お加減はいかがですか?」
「ああ、大事ない。呼び出してすまんな」
顔色は良いもののどこか憂いのある表情で、王はセルビアをひた、と見つめた。
「今日はお前に頼みがあるのだ」
「なんなりと」
何の躊躇いもなくセルビアは言い切った。そこには気負いや誇り、覚悟さえも感じられない。
当然のことを当然のこととして言った、という調子だ。
王の顔が少しだけ歪む。目には悲痛の色さえあった。
「…今日、ここにラグン殿がいらした」
「はい。先日、お力を貸していただきました」
王はセルビアに問いかける。
「あの方が何者なのか。興味があるだろう?」
「それはありますが…。私が理解できない力を持っているということは分かります。それだけで充分なのだということも理解しています」
「そうだな。私もそこまで詳しいわけではないが、あの方は普通の人ではない」
王はそこで言葉を切った。深く息を吸い、重々しい言葉で語る。
「ラグン殿がおっしゃるには、私の身に起きた変異はこれから起こることの幕開けに過ぎないらしい。これからこの国は様々な災厄を引き寄せる。そして、誰よりも危険なのは、王冠に近い者だそうだ」
セルビアは眉根を寄せた。しかし、何も言わずに王に話の続きを促す。
「私自身よりも、私の子供たちに危険が迫っている。そして、その危機を回避するためにはセルビア、お前の働きが重要だとも仰った」
「私、ですか?」
「ああ。『銀の流れ星が一つ目の鍵を握っている』のだと」
話しながらセルビアを見た王は、その表情の変化に驚いた。
笑っているのだ。嬉しそうに楽しそうに笑っている。柔らかそうな唇には心からの笑みが浮かび、銀色の瞳は白刃の輝きを放つ。
「それは良いですね。手応えがありそうだ」
声まで寒気を感じさせるようなものに変わっている。
「分かりました。私はどうすれば?」
首を傾げた仕草は可愛らしいが、一皮剥けば、その下にいるのは化け物だ。
牙を鳴らし、爪を尖らせ、唸りを上げる獣が笑っている。
「すまん。私はいつもお前に面倒を押しつけてばかりだ」
「その面倒が私は好きなんです。お気になさらず」
セルビアはさらりと言って、王の言葉を待った。
王が口を開き、セルビアはそれに聞き入る。
いくつかの事項を確認し、セルビアは部屋から退出していく。
一人残された王は、苦しげに息を吐いて呟いた。
「残酷だな…、私は。どうしようもなく、残酷だ」
その囁きは風に紛れて消えた。
面談を終えたセルビアはその足でレーナの部屋を訪れ、暇を願い出た。レーナは理由も聞かずにそれを許した。いつもように穏やかに笑いながら、セルビアに許しを与え、その手を握り、無事を願う。
セルビアは礼の言葉を一つ言って、その日の内に城から姿を消した。
セルビアの姿が城から消えて、二ヶ月ほど経った。
人の噂ほど移ろいやすいものはなく、すでにセルビアの名すら、王城ではあまり聞かれなくなっていた。
噂ほどではないにしても、季節も春から夏へと変わる。
木々の緑も濃くなっていき、初夏の爽やかな風が首都の大通りを吹き抜ける。
通りを子供が小銭を握りしめて、大人の足の間をすり抜ける。お使いを頼まれているのか、その顔は誇らしげだ。
その向こうの店の中では、運んでいた皿を落として割った少女が、店の主人に怒鳴られている。少女は泣きそうになりながらも、客と主人の両方に頭を下げた。
主人も少女を叱りながら、客に頭を下げる。
「すいません、すぐに新しい物を持ってこさせます。もちろん、お代もこちらで立て替えさせていただきます」
「お代はちゃんと払いますよ。だから、早く厨房に戻って料理を作ってほしいです。お腹がすいてすいて…」
「はい!ただいま」
主人を見送った客は、未だに頭を下げる少女に優しく声をかけた。
「ほら、早くあなたも仕事に戻りなさい。次からは気をつけてね」
その客の帽子と黒髪の隙間から見えた瞳は、銀色をしていた。
「…それで?旅団を辞めた人間が俺を呼びだして、何の用だ?」
卓の向こうに座っている男に、セルビアは目を戻した。
男は中肉中背で目も髪も黒々としている。目つきは鋭いが確かな知性が感じられ、着ている服も洒落ており、教養を感じさせるものだ。
周りでは客が大声で喋り、飲んでいる。
セルビアもそれに倣って、果実酒で喉を潤した。溢れそうになった雫を舌で舐めとり、唇を湿らす。
「そう邪見にすることもないでしょう、支部長」
朗らかで明るい声にそう言われた男は、嫌そうに顔を顰めた。
男の名はフュラン・ピート。
アイズバーンにある旅団の支部で、まとめ役を担っている人物だ。
「貴様が旅団を辞めて何をしているのかは知っているが、戻ってくるつもりになったのか?」
「全然。これっぽちも未練なんてありませんけど」
ばっさりと切り捨てたセルビアは、ようやく運ばれてきた食事を口に運んでいた。
動物の臓物と根菜を煮込んだそれに舌鼓を打ちながら、セルビアは言う。
「『血の匂い』、ですよ」
フュランは一瞬、目を見開き、驚きを露にした。
しかし、すぐさまそれを打ち消し、真剣な表情を作る。
「…どういうことだ?今、この国が傾いているとでも言うのか?」
血の匂い。それは旅団の中での隠語だった。
すなわち、魔獣発生の兆しを意味する言葉。
「それは支部長の方がご存じでしょう?アイズバーン自体は、平穏そのものですよ」
セルビアの言葉通りだ。
魔獣は荒廃と流血を好む。
弱い魔獣はその限りではないが、強力な魔獣はそういった場所にしか現れない。
赤い目は人間の血と憎悪とされているほどだ。
元々、旅団は魔獣退治や商人達の護衛などをして収入を得ている。
その為、魔獣が発生する事態には敏感に反応する。旅団の動きは魔獣発生の兆し、とまで言われることがあるほどだ。
しかし、現在のアイズバーンは3年前の戦争からも既に立ち直り、順調に繁栄している。
「今近づいているのは、それとは違うものです。それでも一歩間違えば、魔獣を呼び寄せかねません」
抽象的なことを言って、セルビアはにやりと笑った。
「私が言えるのはここまでです。どう動くかはお任せします」
フュランはセルビアを睨みつけた後、立ち上がった。
「情報提供、感謝する」
素気ない一言を残して店を出ていく後ろ姿を見送った後、セルビアは食事を再開した。
食事を終えて、店を出たセルビアは顔を上げた。
その目は白く輝く城を見上げている。
美しい、瑕疵など一つもない、完璧な城。
『魑魅魍魎で溢れかえっている』
ふと、レーナの声がセルビアの脳裏を過ぎる。
「まったく…あなたの言う通りでしたよ、レーナ様」
それだけ呟いて、セルビアは雑踏の中へと姿を消した。