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白黒昼迄夢現  作者: 朝霞ちさめ
第三章 邂逅が手繰り寄せる可能性
55/125

55 - 紐解く記憶と紐付く記録

それは、記録されていない彼らの死。

 近道を通ってみよう、明日からはこっちの道を使うからと話しながら、僕達は中学校の入学式から下校した。

 何気ない会話を挟みながら、中学生という大人に一歩近づいたと実感を抱きながら、僕と洋輔は歩き、酒屋さんの近くで野良猫を見つける。

 僕はそれに惹かれて追いかけて、野良猫はしかし逃げること無く、僕に大人しく撫でられていた。

「お前は本当に、なんつーか、猫に好かれてるよな。普通逃げるだろ……」

「だよね。僕としては嬉しい体質かな」

「俺としても羨ましいけど、でも小三の時の虎騒動とかもあるからな」

「あの事は言わないでよ本当に……恥ずかしいから……」

 虎騒動。

 それは小学校からの下校中に、横道から突如表れた『虎』に驚き、襲いかかられ僕が防犯ブザーを鳴らしたあの事件である。

 但し、恥ずかしいという僕の感想が真相を暗示しているけれど、その『虎』は実はただの、大型の猫だった。

 メインクーンという品種の猫だと後に教えてもらい、以降、僕たちはその猫の飼い主さんの家にお邪魔して、時々遊ばせてもらったものだ。

 その代償は小三にもなって路上でお漏らしをした男子という汚名だったが、幸いにもクラスメイトはその事をあまり弄ってこなかった。

 今にして思えば後ろで洋輔が色々とやってくれてたんだろうな。

 ま、そんな事件にも代表されるように、どういうわけか僕は猫に警戒されない。

 むしろ猫に酷く懐かれる体質で、見知らぬ猫に近づいても、逃げられた事は一度もない。

 自分からはマタタビの匂いでもするのだろうか? などと、一時期は真剣な悩みだったんだけどそれはそれ。

「ごろにゃーん。ほれほれ。なでさせろー」

「いやもう撫でてるだろ」

「もっともっと」

 ほれほれ、と喉元をさすってやると、猫はごろごろと喉を鳴らす。

 尻尾を見ればご機嫌のようだ、けれどそろそろ不機嫌になるかな。

 猫はちょっとしたことで機嫌を変えるからなあ。

 引っ掻かれないうちに離してやって、と。

「うん。満足」

「……まあ、良いけどな。後でちゃんとブラシかけとけよ」

「え、あの子に? 甘やかしすぎじゃない?」

「違う。制服にだ。さっきの猫の毛、付いてんぞ」

「げ」

 しまった、そう言う事もあるのか。

 今度から気をつけないと。

「にしても、さっきの子、始めて見たな。新入りの野良猫かな?」

「どうだろうな。野良にしては懐き過ぎ……、いや、お前にそれは通じないか。首輪はしてなかったよな?」

「うん。だから野良猫かなって」

「だとしても珍しいな。お前、大概の野良猫に名前付けてるんだろ?」

「毎日名前変わるけどね」

「薄情者め」

 とはいえ、見覚えがあるとかないとか、そのくらいは判別している。

 つもりだ。

「そういや、佳苗は今日、帰った後用事あんのか?」

「ううん。特にないよ。遊ぶ?」

「だなー。俺も特に用事ないし。ゲームでもしようぜ。入学式の日くらい許してくれるだろ」

 いや、昨日も一緒にゲームしてたけどね僕達。

 まあいいか。

「おっけ。じゃ、僕の家かな」

「そーだなー」

 酒屋さんの横の道に入って、雑談しながら歩く。

 そして、ふっと、なんか奇妙な浮遊感。

 風?

「洋……」

 あれ?

 視界が狭い空になっている。

 そして、背中に衝撃が。

 ……ああ、僕は転んだのか。

 やれやれ、何に足を取られたんだか……ていうか恥ずかしいな、何も無いところで転ぶの。

 前につんのめるならともかく、仰向けに転ぶってのも変な話だな……。

 慌てて立ちあがろうと、地面に右手をつく。

 地面のアスファルトは、しかしなにか、ぬめりという奇妙な触感だった。

 ぬめり?

 右手を見る。

 右手は真っ赤なペンキに濡れていた。

 なんでこんなところに、ペンキが……。

 ていうか、洋輔はどうした?

 一緒に転んだ……なんてことはないよな、洋輔だし。せめて起き上がるの手伝ってくれても良いのに。

「洋輔ー、なんかペンキが道路……に……」

 ブチまかれてんだけど。

 そんな僕の言葉は、途中で止まってしまった。

 僕の目の前に、俄かに信じがたいものがあったからだった。

 僕が見ているものは、何だ?

 自分の目がおかしくなったのかと、僕は目をこすろうとして、両手が真っ赤に染まっている事に気付く。

 両手が真っ赤に。

 両手だけでは無い。おろしたての制服も、赤く染まっている。

 赤く染め上げたそれは、ひどく生温かくて……。

 息が。

 詰まる。

 苦しい。

 なんで。

 ああ、息を、するのを忘れていた。からか。だから、苦しいんだ。

 慌てて、息をする。意識をして、息をする。むせかえるような、変な匂いがあたりからした。あたり一帯からした。

 それは鉄のような匂いだった。

 けれど、どこか生臭い匂いだった。

 苦しい。嫌だ。何だ、この空気は。なんだ、この匂いは。気持ちが悪い。気色が悪い。

 すぐに、すぐにここから離れないと……洋輔、洋輔、洋輔も、洋輔も逃げないと。

「よー、すけ」

 逃げようよ。

 なんか変だよ。

 ここは、凄く変だ。ここは、なんか、絶対におかしい。こんなの、あるわけがない。

 ねえ洋輔、答えてよ。

 いつもみたいに、しょうがねえなあとか言って、僕を引っ張り上げてよ。

「あ……、ああ、あ……」

 なんで、ねえ、なんで、洋輔。

 洋輔はなんで、倒れてるの?

 洋輔はなんで……。

 駄目だ。理解しちゃだめだ。気づいちゃだめなんだ。

 頭がそれを理解したら、見ている物を理解したら、きっと僕は取り返しがつかなくなる。

 二度と僕は僕になれなくなる。

 二度と僕は洋輔に会えなくなる。

 それは嫌だ。とても嫌だ。絶対に嫌だ。

「いやだ……やだ、やだ、やだ、やだ、」

 だから、僕は何も見ていない。

 僕は何も気づいていない。

 僕は全て理解していない。

 僕は自分にそう言い聞かせる。

 全ての感覚が嘘なのだと、全ての感覚が間違っているのだと、そう自分に言い聞かせる。

 嫌だ。怖い。逃げ出したい。すぐにこの場を離れたい。

 なのに、足が動かない。なのに、身体が動かない。

 誰か、誰か、助けて。洋輔、助けてよ。いつもみたいに助けてよ。

 ブザー……そう、そうだ、防犯ブザーを鳴らせば、誰かが来る。誰かが来てくれる。ブザーは、鞄につけてある。だから、鞄に……鞄に、手を、伸ばす。

 鞄は赤く、染まっている。気のせいだ。赤く染まるわけがない。そんなのは錯覚だ。

 手が、震えている。思った通りに動かない。なんどもなんどもやり直して、やっとブザーに手を当てる。あとはタグを引っ張るだけだ。それで音が鳴るはずだ。

 なのに、タグを引っ張ろうとしても、指が滑ってうまくいかない。ぬるりとタグから、外れてしまう。力が上手く入らないだけだ。何かに濡れているからそうなっているわけじゃない。そう、僕の手は何にも濡れていない。だから、これは、上手くいかなかっただけだ。

「あ……」

 あれ……?

 視界が揺らぐ。

 世界がひっくり返る。

 ごろりと何かが転がる音がした。

「   」

 いやだ。

「     」

 みとめない。

「     」

 しんじない。

「   」

 うそだ。

「   」

 これは、

「   」

 ゆめだ。

「夢じゃないよ」

 誰かが言う。

 もうなにも聞きたくない。

 もうなにも見たくない。

 僕はもう、これ以上。

 苦しい思いを、したくない。

「現実さ」

 誰かが言う。

 だったら、そんな現実はもういらない。

 僕はもう、どうでもいい。

 僕は洋輔と一緒に、何でもない日常を送れればそれで良いんだ。

 たとえそれが現実ではなく、夢の中の虚構でも。

 中学生で馬鹿をして、高校生になって、大学生になって、大人になって、いつか子供だったころの自分たちを笑い合えれば、それで良いんだ。

 それが叶わないというならば。

 僕はもう、現実なんてどうでもいい。

「本当に? 君が現実を諦めれば、君が命を諦めれば、それこそあの子とは二度とあえなくなるけれど」

 洋輔は生きている。

 洋輔には何事も無かった。

 僕は生きている。

 僕にも何事も無かった。

 だから、僕も洋輔も、日常を送っている。

「そう。ならば君たちは適格で、ならば君達が適任だ。君達を選んだのは、どうやら間違いじゃあないらしい」

 誰かが言う。

 とても耳障りな声で、僕に話しかけてくる。

「君が塞ぎこみ、君が失意に沈みこみ、それでも君は生まれ変わった。生まれ変わった君は、きっと彼と再会するだろう。その時はまだ、何も覚えていないのかもしれない。その時はまだ、何もわからないのかもしれない」

 誰かが言う。

 聞いても無い事を、喋っている。

「だけれど、もしも君が望んで自らを思い出そうとしたならば、そしてこの会話も思い出せたならば。あの焼きついた光景を現実と受け入れる事ができるならば、君達には機会が与えられる」

 誰かが言う。

 聞きたくも無い事を一方的に喋っている。

「君達は死んだ。死んだんだ。けれど、その死は普通じゃない。その死は自然の死じゃあない。その死は世界の記録に残らない……だから君達の死は、打ち消せる」

 誰かが言う。

 もう放っておいてくれ。

 僕はもう、思い出したくないんだ。

 何もかもを忘れて、何もかもを捨てて、ただ、幸せな筈の日常を送るんだ。

「もしも君が、この会話を思い出したならば、もしも君が、彼と再会できたならば、もしも君が、君達が、『また君達として生きたい』と願うならば、君達は選ばれたと自覚しなければならないよ。君達は選ばれ、異なる世界に迷い込むだろう。迷い込んだ先で、君達は何かを成し遂げなければならない。『()たりの御子(みこ)』は交わる世界の契り。契りは因果を世界から千切り、何かを成し遂げれば戻されるだろう。君達の死は、未だ世界に記録されていないから。君達の死は、今は世界から千切られているから。だから、君達が契りを果たせば、君達は死を乗り越えられる」

 誰かが言う。

「さあ、()ってらっしゃい。全てを終えて、お(かえ)りなさい。君達への報酬は、君達という命の再開だ。君達という生の再開だ。君達が真に望むのならば、君は彼を説得し、君は彼と成し遂げなさい。もちろん……」

 誰かは、僕の頭に手を乗せて言う。

「君がそれを信じるかどうかは、君が決めることだけれどね」

 誰か(野良猫)の手で、僕の身体は沈んでゆく。

 地面の底へと、落ちて行く。

 僕は、洋輔は。

 白昼夢の中に、消えて行く。

 白黒の世界に、溶け込むように。

 色々なものが、僕の中に溶けてくる。

 色々なものに、僕の命が溶けてゆく。

 ああ、

 とても、

 とっても、

 きもち悪い。

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