神さまを探していた 末村 夕季
神さまを探していた
末村 夕季
学校から配られた薄っぺらい進路希望のアンケートには、私立高校への進学を希望すると書いた。理由の欄には、寮生活か一人暮らしをしたいから、と。これが先月の話である。ついに母にこの話をしなければならないのだと考えると、今から気分がふさいで仕方がない。きっとひどく怒られるだろう。私は廊下の椅子の上、緊張で手を強く握り締める。教室の中から、私と母を呼ぶ先生の声が聞こえた。
それにしても、ああ、私はどうしてこんなにも束縛されなければならないのだろうか。朝は起きる時間から朝食の時間まで決まっている。当然、夕食も、寝る時間も両親によって管理されている。休日は家族で過ごすことを半ば強制されているため、友人と遊ぶ時間は少ない。平日も授業が終われば、部活に行く間もなく学校を出なければならない。ただでさえ友達と呼べる人が少ないというのに、部活もサークルも満足にできない状況で、新たに交友関係を築くのは至難の業である。これが高校になっても続くのかと考えると、いよいよこの先に暗闇しかないように思われてくるのである。
私には自由が無い。決して大袈裟なことを言っているつもりはない。父も母も、私を家に縛り付けようとしているのだ。両親は私のためだと言う。それは確かにそうなのだろう、彼らの基準では。一方的な価値観を押し付けられて黙っていられるのは、小学校に上がるくらいの幼い頃に限られるものだ。
「さて、叶恵さんの進路なんですが」
椅子に座ってすぐにその話は始まった。
「一人暮らしを希望するとのことで」
母は一瞬きょとんとしたような表情を見せ、それから戸惑ったような目を私に向けた。
「そうなの?」
「勉強したいから。外にも出ないと、一人じゃ何もできなくなっちゃう」
「でも中学を卒業してすぐ一人暮らしだなんて……」
「叶恵さんご自身も書いているんですが、寮という手もありますから。お母さんがどうしても心配で。それでも叶恵さんが譲れないと言うのならそちらの方がいいでしょう。寮なら生徒の生活管理も徹底していますから」
「はあ……」
「叶恵さんは成績もいいですし、もしその気があるなら高専という選択肢もあります。でも寮だと多少遠くへ行かないと入寮許可が出ないのが普通ですし、私立は負担も大きいですから、何にせよお家の方でもよく話し合ってみてください」
先生は母の心中を察しきれていない様子で、わかりきったことを得意げに言って私たちの顔を見た。母は私の書いたアンケート用紙に目を落としたままだった。
「一人暮らしがしたいって? 叶恵が言ったのか。自分で?」
父の反応は私が想像していたそれそのものだった。「まだ早いに決まってるだろう、駄目だよ」
「でも私だって一人でいたいこともあるんだよ。したいことだってあるんだからこんなに縛り付けなくたっていいでしょ。門限とか早すぎるよ。高校生になってもこれじゃ私独りぼっちになっちゃう」
「部活なんかに入れ込んでる子から見れば少し過保護にかもしれないけどな、うちは普通なんだよ叶恵。お前は反抗期だからそう感じるんだ。生活を管理して教え込むのは親の役割だし、友達と遊ぶ暇だって無いわけじゃないだろう。勉強だってしなきゃいけない。お前に教えたいことはお父さんにもお母さんにもまだ山ほど残ってるんだよ」
「私はこの家にいるのが嫌なの。私だって他の子と同じように過ごしたいの。わからない? 休みの日に必ず家にいなきゃいけないなんて変だよ」
「今はそう言っててもな、お前だっていつか家を出なきゃいけなくなるんだよ。そうなったら叶恵がどんなに嫌がっても家を出てもらう。それまでは家にいるんだ」
私は閉口した。やはり私は両親に縛られて生きなければならないのだ。この二人は高校どころか、大学、果ては結婚にまで口を出してくるだろう。この親ある限り、娘の私に自由は無いのだ。返す言葉はない。何を言っても無駄なのだから。
私は苛立ちを隠すよう、静かに居間のドアを閉めた。見ると向かいある引き戸が少し開いていて、そこから兄が顔を覗かせていた。
「何の話?」
「私の進路」
ああ、と納得したように兄が頷いた。「父さんも母さんもうるさいだろ」
「すごく」
「大変だな、お前は」
歳の離れた兄は、私とは違った自堕落な生活を許されている。暇さえあれば寝たり、本を読んだり、パソコンを見たりと自由気侭もいいところだ。私のような徹底した生活管理がなかったためか、所謂生活リズムというものも備わっていないらしい。昨晩も深夜にコンビニへ行ってきたのだろう、昨日までなかったスナック菓子の袋や、空のペットボトルなどが散乱している。
「お兄ちゃんは楽でいいね。お母さんもお父さんも文句言わないもんね」
「まあね。でもたまに家の外に出ないと窮屈で駄目だ」
「私ももう少し甘やかされたかったな。お兄ちゃんと私、多分足して二で割って調度いいんだよ」
「叶恵はそう言うけど、俺だってこれで考え事ばっかりなんだよ。なにをすればどれがよくなる、これをすればあれが悪くなる。それが理想で終わらないようにするために俺自身が何をすべきか。父さんや母さんが、叶恵が、みんなが幸せになるために何ができるのかってさ」
「お兄ちゃんの考えること全部はわからないけど、すごいなって思うことあるよ。でも私は私で、自分のこともちゃんと考えたいんだもの」
「だから俺や父さんや母さんがいるんじゃないか。お前もちょっと自分以外のこと考えろよ」
私は表しがたい気持ちに襲われた。兄は兄のやりたいようにやっているのではないのか。それなのに私は私のやりたいようにやってはいけないと言う。
「俺はここでこうして考えているだけで家族に貢献してるんだよ叶恵。お前も自分の役割をそろそろ自覚しなきゃいけない。それがないから父さんも母さんもお前を家から出したがらないんじゃないのか?」
目眩がする思いだった。そうだ、私は家族のことをしっかりと考えていない。家族の描く理想のために、私は働いていない。両親から解放されるには、やはり両親の思い描く私にならなければならないのだ。
――本当に?
――本当に私は何も考えていないんだろうか?
――本当に私の両親は私のことを考えているんだろうか?
――本当に私の家族は正しいんだろうか?
貴方の家って特殊よね、と言われたことがある。祈乃は何か言う時に遠慮しない。放って置いてほしいところまでずかずかと踏み込んでくる。
「やっぱり反対されたんだ、一人暮らし」
「お父さんが言うには、生活を管理するのは親の責務なんだってさ」
「そうかもしれないけど、高校に行ってもそのまんまの門限っていうのはないんじゃないの?」
「このままだと思う……このままだよ絶対」
私はこの時溜め息をついたのだったろうか。飽きれたような祈乃の顔を思い出す。
「貴方って文句言うだけで反抗しないのね」
「親に反抗しきれる子供なんてそうそういないでしょ。お金を出すのはみんな親だよ?」
「でもね、親の駒にされると思うなら、そこから抜け出す努力はしなきゃいけないと思うの」
祈乃は「貴方の家って特殊でしょ?」ともう一度言った。
「お父さんとお兄さんの掲げる教義にも、貴方は納得できてないんじゃないの?」
私は言葉を詰まらせた。そうなのだ。私は家族に賛成しきれていない。それどころか、間違っていると思うことさえある。
私が物心つく前、つまり兄が小学校を出る頃、彼は事故で生死の境を彷徨った。しかし片目の視力と片耳の聴力がそれぞれ少し衰えた程度で、大した後遺症も無くこちらに戻ってきた。その時に父と兄は同じ声を聞いたのだという。
曰くそれは神の声であり、間違った方向へ進みつつある人を救えという啓示だった。兄はその目的のために一命を取り留めた「カミノヨリシロ」なのだと、幼い頃から私は父によく聞かされたものだ。小さいながらも集会は毎週土日に行われ、何がいいのか信者も以前より増えている。
みんな、口達者な兄の言葉に惑わされているのだ。弱っている人は、何の力もない人に幻想を見出してしまう。兄はその弱ったところに入り込むことで、そうした人から崇められるようになったに違いない。それが人を騙すに等しい行為なのではないか、しかも私がそれに荷担しているのではないかと思い悩む反面、本当にそれで幸せになれる人がいるのならそれでいいと思っている自分もいる。
「あのね祈乃、私、将来支部を作るんだよって言い聞かされてるんだ」
「うん、そうなんだろうと思ってた」
「だからもっと知らなきゃいけないことが沢山あって、そうしたらお父さんとかお兄ちゃんのことも全部信じられるかなって思ってたんだ」
「うん」
「でも最近本当にわからなくなるんだよ、あの人たちは何でお兄ちゃんのためにお金を置いていくんだろう。何で病気を治してくれだとか、生活が楽になるようにだとか、お兄ちゃんに言うんだろう。何でお兄ちゃんがそんなことできると思ってるんだろう。もっと他に頼むべき人がいるのに」
「うん」
「私このままあの家にいて、お母さんとか、お父さんとか、お兄ちゃんとかの考え方に合わせながら、みんなのこと考えて過ごせるのか不安なんだ。今でも食い違ってる考えを無理に捻じ曲げて、あの家に集まってくる人を見ているのに耐えられるのかわからないんだ」
祈乃は一つ一つ頷きながら聞いてくれた。そして私がそれ以上言うことを無くすと、笑顔で言った。
「ねえ、今いくらある?」
「三百円くらいかな」
「叶恵のお母さんには進路相談しに行ったことにしてさ、ちょっと気晴らしに行かない?」
気晴らし。今の私に一番必要なものだ。祈乃との会話も勿論気晴らしの一環ではある。しかしそれよりももっと確実に、私を癒してくれるもの――
学校を出てすぐ近くの小さな商店街にそれはある。小奇麗な洋服屋さんや学生御用達の書店、少し場違いな魚屋、そしてお洒落な喫茶店。可愛らしいケーキやパフェの見本を横目に、その二階へ続く階段を上る。ノックをしてドアノブを回すと、金属の擦れる音が響いた。
私と祈乃はいつものように、入り口の小さな箱に百円玉を二枚入れる。募金箱のようなものだ。
「あら、久しぶり」
「お久しぶりです」奥のカーテンから顔を覗かせた若い女性に、私たちは深々と頭を下げた。「いつもありがとうございます」
「叶恵ちゃん、ご家族はどう?」
「前からあまり変わりありません……でも、私も自分で考えるようになりました。加夜さまのおかげです」
「そう。もっとご両親とお話ができるようになって、貴方の言葉も受け入れてもらえるようになればいいわね。……大丈夫よ、何も心配すること無いんだから。貴方もちゃんと自力で道を開くことができるのよ。分かったでしょう? 私はちょっと背中を押してあげただけだもの、貴方が頑張ったに違いないのよ」
ああ、今の私にとって、この方の言葉のどんなに頼もしいことか。
「集会の日だから、奥にみんな揃っているのよ。調度いいわ、始めましょうか」
そう言って彼女は微笑む。私たちは揃って頷いた。この薄いカーテンのむこう側に、私たちと同じように何かに悩んでここに辿り着いた人たちがいる。彼女を慕って集まった仲間がいる。
そうだ。兄も父も、そして母も間違っている。加夜さまこそ、この方こそ、この暗澹たる世界から私を救い出してくださる――――