コタツ・ミカン・アイスクリーム Y作
コタツ・ミカン・アイスクリーム
Y作
コタツには魔物が棲んでいる。それはおそらく真実だ。特に今日のような日には。
分厚いカーテンに隠れた窓の外は、雪で真っ白に覆われていた。耳を澄ますと、猛烈に吹きつける氷雪が窓枠をカタカタと震わせている。一度外に出れば、たちまちの内に体温を奪われ鼻から一筋の涙を流すことになるだろう。
既に卒論の提出も終わり、わざわざ大学へ行く用事もない。食料の備蓄も十分にある。今日一日を六畳一間の自宅で過ごす決心を改めて固め、俺はコタツの上にたんまりと用意したミカンに手を伸ばした。
「あ、ミカン私にも剥いて」
コタツを挟んだ反対側、こんもりと盛り上がった布団から声が聞こえた。声の主は、寝そべって肩まで潜った姿勢で雑誌をめくっているらしい。しかし、わざわざ剥いてやる義理はない。
「自分で剥け」
「ぶー、ケチ」
抗議を軽く無視する。ミカンの真ん中に親指を差し込み、皮をヒトデ状に広げていく。そうして皮と分離した中身を房ごとに分けようとしていると、コタツの中からごそごそ物音がした。
どうやら、先の声の主が中を通ってこちら側に出ようとしているらしい。伸ばした足の上に重量がかかり、その間から黒い頭が出てくる。中に籠っていた熱気がむわっと顔に押し寄せ、俺は反射的に顔をしかめた。
「おい、狭いだろうが」
効果はないだろうが、一応そう抗議してみる。重くて苦しいということはないが、このコタツは一辺に二人入れるようには出来ていないのだ。
「別にいいでしょ、減るもんじゃなし。それより、あーん」
俺に寄り掛かった彼女――倉田凛は抗議を軽く受け流すと、小鳥が親鳥にするように口を開けた。どうやら抵抗は無意味らしい。俺は諦めてミカンを一房取り分けると、丁寧に白い筋を取り除いて口に入れてやる。
数回口をもごもごとさせ、しばらくして細い喉が小さく上下する。そして、凛は満足げに頷くと、再度口を開けた。
「ん、おいしい。もう一個」
「はいはい」
倉田凛は、俺のいわゆる幼馴染だ。同い年だが、中学の頃から変化の無い外見のせいで随分年が離れて見える。確実に機嫌を損ねるので聞いたことはないが、身長はおそらく一五〇センチに届くかどうかというところだろう。今も、彼女の体は俺の膝の上にすっぽり収まっている。傍から見たら、年の離れた兄妹にしか見えないだろう。
いくつかの偶然と必然により、俺と凛は小・中・高・大と同じ学校に進んだ。大学に入って一人暮らしを始めてからは、すぐ隣に部屋を借りているにもかかわらず俺の部屋にいることの方が多かった。特に、今日のような寒い日には必ずと言っていいほど俺の部屋でごろごろしている。本人曰く
「どうせ暖房付けるなら、二人で居た方が安上がりでしょ」
とのことだ。だったら光熱費を払ってくれてもいいと思うのだが、今の所その気配はない。
俺が剥いたミカンをほぼ全て食べると、凛は俺の膝の上で雑誌を読み始めた。動くに動けず、俺は積み上げていた新刊の山から一冊手に取り、ページを開いた。
部屋の中から音が消える。例外は、窓が風でカタカタと鳴り、たまにページをめくる音がするぐらいだ。時間の流れが曖昧になっていく、不思議な感覚。
どれくらいそうしていただろうか。ふと本から目を上げると、テレビの上に置かれた時計の針は六時一五分を指していた。どうやら、既に日は暮れたらしい。栞になるようなものはないかと周囲を見渡したが見つからず、仕方なく読んだ所までのページに折り目を付けて本を閉じた。
いつの間にか冷たくなった部屋の空気に肌寒さを感じ、無意識に手をこすり合わせた。
(そろそろ晩飯にするか……)
そう思い膝の上の住人に声を掛けたが、返事がない。顔を横から覗きこむと、かすかに開いた口から寝息が洩れているのが分かった。いつの間にか眠っていたらしい。
一瞬起こそうかとも思ったが、気持ち良さげな寝顔を見るとそれは憚られた。それに、実際の所さほど腹が空いている訳でもない。少し考え、俺も一眠りすることにした。起こさないよう注意しながら凛の体を横にし、その脇の隙間に潜り込む。さらに、天井から垂れ下がった紐を引いて電気を消し、座布団を二つ折りにして頭の下に置いた。時折身じろぎする幼馴染の体温を感じながら、俺はゆっくりと目を閉じた。
§
コタツには魔物が棲んでいる。それはおそらく真実だ。特に、今日のような日には。
現代文明というものは実に偉大だと思う。外で猛烈な吹雪が吹き荒れる最中でも、室内が快適な温度に保たれるのだから。そんな益体のないことを考えながら、俺は手の上の紙製容器から白い塊を掬い、口に含む。それは、口の中で一気に溶け、舌にミルク味の甘みを提供した。
この六畳間にはエアコンのような最新の機器はないが、電気コタツと石油ストーブは俺達に十分すぎるほどの温もりを与えてくれている。そして、コタツとアイスという組み合わせが至高の贅沢であることは、論を待たないことであろう。今俺達は、その贅沢を堪能していた。
「ね、それ一口頂戴」
対面に座った凛が甘えた口調でそう言ってくる。見ると、彼女が選んだチョコアイスは綺麗に空になっていた。どうやら、物々交換ではなく一方的な割譲を要求しているらしい。無論、そのような不当な要求に屈する気はない。
「やなこった。それ一個で我慢しとけ」
そう言って空の容器を指差すと、凛はむっとした感じで頬を膨らませた。元より子供っぽい容貌をしているのが、なおさら幼げになる。その様子を無視して視線を手元に戻し、俺は再度ミルクアイスを掬って口に運んだ。
「隙ありっ」
「あ、この野郎」
ミルクアイスの載ったスプーンが俺の口に到達する一瞬前、凛はいきなり身を乗り出しスプーンをパクリと咥えた。勢いよく手を突いた衝撃でアイスの空容器が跳ね、コタツの上から転がり落ちる。
「にひひ、ご馳走様」
俺が思わず発した抗議の言葉もどこ吹く風で、凛は満足げに笑っていた。
その後、更に数口分強奪されたアイスの空容器を捨てて戻ってくると、凛がテレビとゲームの電源を入れていた。公共の電波を受信できなくなって久しい年代物のブラウン管テレビが低くブーンという音を立てて点灯し、ゲーム機が冷気を取り込もうと健気にファンを回し始める。
「ね、対戦しよ」
そう言って凛は手に持った格ゲーのケースをかざし、俺が返事をする前にディスクをゲーム機の中に入れた。
(俺の意志関係ないじゃねえか……)
そう心の中で突っ込みを入れる。とはいえ、特に断る理由もない。俺は2pのコントローラーを手にとってコタツに入った。メニュー画面からキャラを適当に選択し、凛が選択するのを待つ。
「あのさ」
ボーっと画面を眺めていると、凛がそう切り出してきた。
声の方へ振り向く。凛は落ち着きなく目線をあちこちにやり、口を開いては閉じるということを何度か繰り返していた。聞きたいことは決まっているのにどうやって聞いたらいいか分からない、そんな様子だった。
「えっと、さ。あんた、最近楽しい?」
しばらくウンウン唸っていたかと思うと、凛はやけに歯切れ悪く質問を発した。
俺は思わずきょとんとしてしまった。楽しいか、とはずいぶん漠然とした問いかけだ。何を聞きたいのか、いまいちピンとこない。
「それってどういう――」
「ごめん、やっぱ今の無し。聞かなかったことにして」
――意味だ、そう聞き返そうとするのを遮り、凛は誤魔化すような笑みを浮かべた。そのままボタンを入力し、対戦を開始させる。正直、どうにも釈然としなかったが、本人がそう言うなら大したことではないのだろうと考え、俺は画面内で跳び回るキャラクターへと意識を移した。
俺がゲームの持ち主としての威厳を見せつけて快勝すると、凛は何度も再戦を要求した。そうして何時間かプレイを続けると、さすがに目が疲労を訴えてくる。どちらからともなくコントローラーを置き、電源を付けたまま仰向けに寝転がった。ほどなく心地よい睡魔が襲ってきて、俺は意識を手放した。
§
コタツには魔物が棲んでいる。それはおそらく真実だ。特に、今日のような日には。
外は吹雪で、何も用事はなくて、部屋には凛が来ていた。対局開始二十分ほどでほぼ丸裸になった王将を前に凛がトイレ休憩という名の敵前逃亡を図ったため、俺はその内戻ってくるだろうと思い、何かして時間を潰そうと周辺を見渡した。
コタツに半分埋もれた雑誌を見つけ、引き寄せる。すると、その下に一緒になって何かが付いてきた。手にとって確認する。チョコアイスの空容器だった。
どうということのない物だった。コタツから落としたカップがそのまま忘れられた、それだけのことだ。しかし、それは俺にかすかな違和感を覚えさせた。何かを忘れている、そんな気がした。
頭を左右に振り、違和感を吹き飛ばす。気分を変えようと、俺は手近に積んであった新刊本の山に手を伸ばした。一番上に載った一冊を手に取り、ページをめくろうとする。
勝手に一つのページが開かれる。端の折られたそのページにはしかし、見覚えがなかった。そもそも、この本は買ってからまだ一度も開いていないのだ。
薄気味が悪くなり、本をそのまま放りだす。気分を変えようと周囲を見渡し、俺は目に付いたゲーム機に手を伸ばした。ブラウン管が青白い光を発して点灯し、鈍い音を立ててゲーム機のファンが回転する。
先ほどのカップアイスは、まだ冷蔵庫に入れてあるはずだった。だが、食べた後でカップを捨てるのを忘れ、さらに食べたことも忘れていたのかも知れない。あるいは、知らぬ間に凛に食べられていた可能性もある。
まだ開いていない新刊本に折り目が付いていた。しかし、積み上げておく内に折り目が付いてしまったのかもしれないし、最初から折り目のついた不良品である可能性も否定できない。
どちらかだけなら見逃していただろう違和感。それは、ブラウン管に表示された画像によってさらに強まる。
「どうなってんだよ、これ」
ブラウン管に格ゲーの派手なタイトル文字が映し出される。そのゲームを入れた覚えは無かったが、俺の意識はそこではなく、画面上の一部に釘付けになっていた。ゲームのロード画面、そこには“最終セーブ時刻:1/24 20:15”と表示されていた。途端に自分の記憶が信用できなくなり、俺は背後のカレンダーを確認し、さらにテレビの上の時計を凝視する。だが、それらの数字は俺の認識が正しいであろうと示していた。
「このデータ、未来を指してやがる」
時計には“1/24 14:30”と表示されていた。
一つの仮説が浮かぶ。食べた覚えのないアイスの空容器、読んでいないはずの本の折り目、そして普通ならあり得ないセーブデータ。これらを一挙に説明できる現象を、俺は知っていた。
「ループしている、のか?」
タイムリープ。決まった期間を何度も繰り返す現象。
有り得ない、そう理性が反論する。そんなことはフィクションの中でしか起こらないと。だが、状況証拠が十分すぎる今、理性の反論はあっさり俺の脳内を通り過ぎた。
「気付いちゃったんだ」
不意にかけられた言葉に、反射的に体が硬直する。聞き慣れた声、聞き慣れた口調のはずなのに、どうしてもそれが良く知るあいつのものだと認識できなかった。
「……お前は、知ってたんだな」
やっとのことでそんな言葉を絞り出した。心臓が早鐘を打ち、嫌な汗がにじむ。油が切れたように言うことを聞かない体を動かし、俺は彼女の顔を見上げた。
「うん、私は知ってたよ。ずっと前から」
『今日の天気は?』と聞かれて答えるようにあっさりと、凛は俺の問いに答えた。台所へ繋がる扉に寄りかかり、両手を後ろに回して見下ろしている。その顔には、いつも通りの笑みが浮かんでいた。
「この部屋の中はね、今日一日をぐるぐると繰り返してるの。朝この部屋の玄関に立ってる所から始まって、夜日付を跨ぐ時に次の“今日”に送られる。それを、これまで何回も、何十回もやってきたの。あんたは全然気付いて無かったけどね」
こちらへゆっくりと歩いてきながら、凛はそう事も無げに言った。同じ日を、記憶を保ったまま繰り返す。それは並大抵のことではないはずなのに。
それが癪に障った。俺は凛のことを一番気心の知れた相手だと思っていた。それなのに、こいつはこんな重大なことを俺に黙っていたのだ。それが納得できず、つい言葉尻が荒くなる。
「なんで教えてくれなかったんだ。二人で話し合えば解決策だって見つかるかも知れないだろうが」
それまで浮かべていた笑みが消える。すぐには答えず、凛は俺の後ろに廻ると、背中合わせに座った。大きく深呼吸をしたのが聞こえる。
「このままでね、いいかもって思ったんだ」
ポツリと、呟くような口調だった。
「多分、この部屋を出れば“今日”は終わる。自分でもよく分かんないけど、私はそれを知ってるんだ」
一度言葉を切り、俺の手を握る。その小さな手は、なぜかひどく冷たかった。
「でも、ここにいれば明日は来ない。そうすれば、卒業式の日も来ないし、あんたと離れ離れにもならない」
手にかかる力が一際強くなる。
そう、俺達はもうすぐ別々の道を行くことになる。さすがに、就職先まで同じという訳にはいかなかったのだ。今のように毎日一緒にいることは出来なくなるだろう。だから――
――だから? その続きは、なんだっただろうか。記憶に霧がかかったように思い出せない。
「私ね、あんたとずっと一緒にいたいよ。その為なら、他に何もいらない、他に誰もいらない」
彼女の言葉は、俺の背筋に衝撃を走らせた。情けない話だが、緊張で身動きが取れなくなった。俺の脳みその大部分がその言葉への対処に追われる。俺の頭は彼女の発言の意図を理解しようとする振りをしていたが、その実理解できた内容を呑み込めていないだけだった。
「ね、いいでしょ。ずっとここに居ようよ」
俺の背中に寄りかかりながら、耳元で凛が囁く。そのねだる様な提案に、一も二もなく同意しそうになる。小さく、穏やかで、それなりに楽しい世界。それは、中々に魅力的だった。
だが、頭の中のどこかが、それに待ったを掛けていた。一つ重要なことを忘れていると、そう警告していた。
目を閉じ、先ほど思い出せなかった部分から、錆付いた記憶の扉を開けていく。
そうだ、昨日俺は何かを計画していたはずだ。何を?
いや違う、計画していたのは明日だ。その準備を昨日していた。そして、準備した物を、俺はどこかにしまった。
突然、霧が晴れる。そうだ、今日は一月二十四日だ。そして一月二十五日は――
凛の誕生日だ。
全て思い出した。足を滑らせそうになりながら部屋の隅の机に駆け寄り、引き出しを開ける。そこには記憶通り、赤い包装紙に包まれた箱が入っていた。安堵のため息を漏らし、俺は両手を机についた。
「もう、どうしたのよ」
いきなり背もたれが無くなって頭を打ったらしく、後頭部を抑えつつ凛が尋ねてくる。だが、それには直接答えず、俺は後ろに振り返った。まっすぐ凛の顔を見据える。
「凛、俺は“明日”が来て欲しい」
華奢な肩がビクリと震えた。
「……私と一緒じゃ、嫌なんだ」
明らかに気落ちした様子で、目を伏せ俯く。
違う、俺はこいつにこんな顔をさせたい訳じゃない。
「明日、何の日か覚えてるか」
「私の誕生日でしょ。でも、そんなのどうだって――」
「どうだって良くない。それじゃあ、俺が困るんだよ」
下を向いたまま投げやりに答える凛の言葉を遮る。心臓が早鐘を打ち始め、ジワリと手に汗が滲む。目を閉じて大きく深呼吸をする。
やめておけ、もっと慎重になれと頭のどこかが叫ぶ。それを振り切り、俺は言葉を絞り出した。
「明日、俺はお前に告白するんだからな」
言ってすぐ、後悔した。なんちゅうことを言ってるんだ俺は。穴を掘って飛び込みたい衝動に駆られる。だが、今更後には引けなかった。
「ちょっとは雰囲気のある場所でプレゼント渡してさ。それで、好きだ、付き合ってくれって言うんだ。幼なじみとしてじゃなく、恋人として、ずっと一緒にいたいから。だから、明日が来なきゃ駄目なんだよ」
言いながら、顔に血が上っていくのが分かった。まともに顔を合わせられず、自分のつま先をひたすら凝視する。頭の中がぐちゃぐちゃになる。
もうあれだ、やっぱり頭かち割って死んだ方がいいな俺。そうだ、そうしよう。
「本当に、告白するの」
蚊の鳴くように小さな声が聞こえた。俺は机の角に頭を打ち付けるのを中止し、恐る恐る顔を上げる。いつの間にか、凛はコタツの中に頭まで潜りこんでいた。布団の端を少しだけ上げ、そこから声を出している。
「ああもちろんだ。絶対に、何があってもする。お前が嫌がったって、無理やりしてやる」
半ばヤケクソになりながら言葉を紡ぐ。既に、自分でも何を言っているのかよく分からなかった。凛が中で頷いているのか、コタツの布団が何度か上下した。
しばらくして、凛が布団から頭だけ出した。立ったままの俺を見上げる。耳まで真っ赤になったその顔には、満面の笑みが浮かんでいた。
「分かった。じゃあ、また明日ね」
思わず吹き出してしまう。人の家のコタツに潜りながら言うセリフではない。
「ここ、俺の部屋なんだが」
「だって寒いもん」
いつも通りのやり取りが心地よい。
「告白しに行くんでしょ、明日の私に。早く行きなさいよ。やっぱりやめたとか言ったら、許さないから」
俺は肩をすくめ、苦笑する。これも、いつも通りのやり取りだった。
プレゼントの入った箱を手に持ち、壁のコートを羽織る。台所を抜けて玄関へ行き、身震いしながら靴を履いた。外ではまだ風と雪が吹き付けている。今日は、一日中吹雪だった。
明日は晴れるだろうか。そう思いながらドアノブを握ると、奥から声が聞こえた。
「行ってらっしゃーい」
「行ってきます」
そして、俺は扉を開けた。
おわり