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空腹のあまり力が入らない。
華奢な作りだったヒールは折れていて、履かないで怪我をするよりはマシといった程度で。
けれど、それでも足を止める訳にはいかず、ドレスをたくし上げながら豪奢な廊下を走り抜けた。
後方からは怒声を上げる使用人達が追いかけてくるが、目当ての男に会う前に捕まったら確実に消されてしまうだろう。
今度こそ完璧に、秘密裏に。
誰がこんなところで死んでやるものか
広間に繋がると見られる扉を開け、中に転がり混むと、驚いたようなメイド達の奥に目的の男が座って食事をしているのが見えた。
ーーーやっと見つけた、彼だ。
男達のばたばたとした足音を後目に、立ち並ぶメイドを突き飛ばしてテーブルに向かって駆ける。
上がる悲鳴に優雅に謝罪を述べている余裕なんて、無かった。
急げ、急げ、急げ!
力が入らずにふらつく足を無理やり上げて、椅子を踏み台にテーブルの上に飛び乗り、目的地まで一足飛びに着地しようとしてーーーしかし、横手から裾を引っ張られてテーブルの上に置かれていた皿の上に倒れこんだ。
陶器の割れる音、身体の下でぐにゃりと何かが潰れる感触、メイド達の甲高い悲鳴。
衝撃に目を閉じて歯を食いしばり、全ての耳障りな音が収まってからーーゆっくりと目を開いた。
これで、もう大丈夫だ。
これだけ目立てば、この館の主人である男に話しかける前に始末される事は無い。
姿が見えないならともかく、主の前に現れた【客人】を追い出すかどうかなんて判断はただの使用人達には出来ない。
顔をあげ、ひたり、と目の前の男に視線を合わせると、自然ととびきりの笑顔が口に浮かんだ。
「お初にお目にかかります、伯爵様。私、シャーリー・ウッドでございます」
可もなく不可もなく、毒にも薬にもならない、という言葉を体現したような男ーーー私の婚約者殿が驚きながら目をぱちくりとさせる。
顔は地味だし、性格も温和、学生の頃の成績だけは最優で、趣味は乗馬にダーツ。
最近では風の噂にすらなりにくい私の婚約者様は、突然の私の訪問に目を白黒させながら曖昧に微笑んだ。
そして、ぐしゃぐしゃになったお料理の乗った皿や燭台の上で、尻餅を着いて座り込む私に恐る恐ると言った声をかけて。
「……初めまして、可愛いシャーリー。痛くないかい?」
ゆったりと結っていた髪はぼさぼさ、ドレスはソースでぐしゃぐしゃだし、はだけた裾からは白タイツが覗いてしまってる。
初めて婚約者の前に現れる格好では、ない。
普段付けられる可愛い、という定型の挨拶でさえも恥ずかしさを感じる。
けれども座り込んだ身体の下から香ばしい匂いが漂って来て、過った羞恥心はすぐに食欲に掻き消された。
「ええ、大丈夫です。私、三日も“貴方の家の者”にお食事も与えられずに監禁されてたからとってもお腹が空いてるの」
悲痛の色を含ませた声でこちらの要求を口にすると、婚約者の男は思案するようにゆっくりと瞬きをし、それは大変だったね、と頷いた。
放心していたメイドに私の為に軽食を用意するようにとのんびりした口調で伝える様子は、まるでそれが些細な事だとでも言うようで。
こんな大事件に巻き込まれたっていうのにその反応。
どうやらこの婚約者様は、見た目以上には豪胆な性質なようだ。
未だにドレスの端を掴む男達の手を打ち払いながら、慌てふためくような繊細な箱入り貴族だったなら扱い易かったに違いないのに、と心の何処かでため息をついた。