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声を失った聖女は、断罪の三秒前を視ていました〜予知は語らず、ただ覆す〜【短編・転生・婚約破棄・ざまぁ】

作者: uta
掲載日:2026/07/15

「聖女ミレイユ。貴様の予知は偽り。国を惑わせた大罪人として――処刑する」


大広間に、王太子ジェラルドの声が響き渡った。


磨き抜かれた大理石の床。居並ぶ貴族たちの好奇と侮蔑の視線。その中心で、わたしは静かに跪いていた。


(はいはい、断罪ね。お疲れさまです。……で、その決めゼリフ、あと三秒しか持ちませんけど)


声は出さない。出せない。


わたし――ミレイユは、この世界で一度も言葉を発したことがない。前世は日本で過労死したしがないSE、美嶺。異世界転生の代償として《声》を失い、代わりに《予知》のギフトを授かった、そういう娘だ。


だから、こう思っても口には出せない。


(三秒後にあんたが階段で盛大に転ぶのも、ばっちり視えてます。でも――教えてあげない)


三。


二。


一。


「――ふん、これで王国も清らかに……うわぁっ!?」


どしゃっ、と間抜けな音。


言葉を吐き終えるより早く、ジェラルドは玉座へ続く階段で足を滑らせ、無様に尻から転がり落ちた。金冠が床を跳ね、からんからんと哀れな音を立てて転がっていく。


(はい、転んだ。金冠も落ちましたね。からんからん、って。……様式美ですね)


会場が、ざわりと揺れた。


わたしは首から下げた石板を、静かに持ち上げる。チョークを走らせ、たった一言を記した。


《存じておりました》


最前列の令嬢が息を呑む。誰かが小さく悲鳴を上げた。


扇で口元を隠したアンリエッタが、金切り声を上げる。


「な……なんですのその石板! 縁起でもない! 気味の悪い女ですこと!」


(ええ。五年前から、全部視えてましたとも。魔物の氾濫も、飢饉も、暗殺計画も三度分。全部この石板に書いて、書いて、書き続けて、防いできたんですけどね)


なのに返ってきたのは「喋らない気味の悪い聖女」という陰口だけ。


従者に支えられ、真っ赤な顔で立ち上がったジェラルドが叫んだ。


「き、貴様! 今、俺を呪ったな!? やはり危険な女だ! 早く連れて行け!」


(呪ってません。予知しただけです。呪いと予知の区別もつかないんですか、この王太子)


アンリエッタが勝ち誇ったように目を細める。


「そうですわ、殿下! こんな女、いてもいなくても同じ。喋りもしないのですから!」


(喋らないんじゃない。喋れないんですよ。……まあ、あなたには一生わからないでしょうけど)


衛兵の手がわたしの腕を掴む。


「……聖女様、こちらへ」


痛くはなかった。ただ――ひどく、静かだった。


(そうですか。連れて行くんですね。抵抗はしません。……ただ、最後に一度だけ)


わたしは石板の《存じておりました》の文字を、王太子によく見えるように、高く掲げてやった。


「……っ、その顔をやめろ! 早く連れて行かんか!」


屈辱で歪んだ、王家の表情。


(ええ、しっかり視えていましたよ。これで最後です。さようなら、この国)


それが、この国でわたしが最後に見た「王家の表情」だった。


◇◆◇


牢は冷たかった。


と言っても、処刑は明朝。それまでの一晩、わたしは石造りの独房に放り込まれていた。


(……まあ、脱獄するんですけどね)


視えているのだ。今夜、見張りの兵士が居眠りすること。裏門の鍵がかけ忘れられること。城壁の東側、崩れかけた石垣に人ひとり通れる隙間があること。


全部、視えている。


かつん、と足音。


格子の向こうに、白髪を布で覆った老シスターが現れた。シスター・エルマ。神殿でわたしの世話係を務めてくれた、唯一の理解者だ。


「……ミレイユ様」


彼女は懐から、分厚い手記を取り出した。わたしが五年間、予知を書き続けてきた記録。王国の危機管理そのもの。


「持って、お行きなさい。あなたの努力の証です」


わたしは石板に書く。


《エルマは、危険では?》


老シスターは静かに首を振った。


「写しは、神殿の記録庫に隠しました。……いつか、必要になる日が来ます」


(この人、策士だ)


わたしは目を見開いた。従順な世話係を演じながら、この人はずっと見抜いていたのだ。アンリエッタの偽予知も、ジェラルドの愚かさも。


「あの子は」エルマは静かに続けた。「一度も、嘘を書きませんでした。それを、わたくしは知っております」


胸の奥が、じん、と熱くなる。


声は出ない。だから、わたしは石板にゆっくりと決意を刻んだ。


《もう、この国のために視るのはやめました》


エルマは、それを読んで――静かに微笑んだ。


「ええ。それが、よろしゅうございます」


五年間、耐えた。尽くした。報われなかった。


もう、いい。


この国が、わたしのいない未来でどうなろうと――知ったことではない。


わたしは分厚い手記を胸に抱え、腰に予知の記録を提げ、そっと立ち上がった。


(さようなら。二度と、視てあげない)


その夜。予知した通りに見張りは眠り、裏門は開いていた。


声を失った聖女は、一言も残さず、静かに国境を越えた。


◇◆◇


同じ夜。王城の一室では、まるで違う笑い声が響いていた。


「あーっはっはっは! やりましたわ!」


アンリエッタ・ド・ヴァレンヌは、扇を振り回して高笑いしていた。


「これで聖女の座は、完全にわたくしのもの! あの気味の悪い女、ようやく消えてくれましたわね!」


侍女たちが困ったように顔を見合わせる。


「喋らない女なんて、いてもいなくても同じですのよ。むしろ、いない方がせいせいしますわ。神託はこれから、すべてこのわたくしが授かるのですから」


彼女は鏡の前でくるりと回り、うっとりと自分の姿に見惚れた。


――だが。


読者だけが、知っている。


ミレイユが去った、その三日後。


彼女の予知手記に、こう記されていたことを。


《六の月、十三日。北の空より竜種の大群、王都へ襲来。数、三百を超える。防衛を怠れば、王都は三日で陥落する》


そして――アンリエッタの「神託」には。


その記述が、ただの一文字も、存在しないことを。


「さあ、明日は処刑の見物ですわ。あの女が泣き叫ぶところ……あら、声が出ないから叫べませんわね。ふふ、それも一興」


彼女は知らない。


処刑台に、もう誰もいないことを。


そして、迫りくる破滅の影が、すでに北の空でその翼を広げ始めていることを。


扇の陰で笑う唇は、あと十日ののち、絶望に歪むことになる。


だが今はまだ――彼女は、何も、知らない。


◇◆◇


辺境の冒険者ギルドは、酒と汗と鉄の匂いがした。


国境を越えて数日。わたしは疲れ果て、あてもなく、この荒くれ者たちの巣窟に流れ着いた。


「おい嬢ちゃん、迷子か? ここはお貴族様の来る場所じゃ――」


がらの悪い冒険者が絡んでくる。わたしは石板を掲げた。


《仕事を探しています。予知ができます》


「あぁ? 予知だぁ? しかも喋れねえのかよ、こいつ。使えねえ――」


その時。


どん、と重い足音が床を揺らした。


振り返って、わたしは息を呑む。


身の丈二メートルを超える巨躯。鋼色の鱗。背には折り畳まれた竜の翼。赤い瞳がぎろりとこちらを見下ろす。


竜人。


『冷酷な戦鬼』と、後で知る男――ギルドマスターのガルヴァスだった。


周りの冒険者たちが一斉に道を空ける。


ガルヴァスは、わたしを見下ろした。それから、石板に目をやった。


低く、地を這うような声。


「……予知が、できるのか」


わたしは頷き、チョークを走らせる。だが、緊張で手が震え、なかなか書けない。


すると彼は、腕を組んで――待った。


わたしが書き終えるまで、辞書のように、じっと。急かしもせず、覗き込みもせず。


《明日の朝、東の森で角兎が大量発生します。北の鉱脈、崩落の危険。近づかないよう》


ガルヴァスはそれを読むと、静かに部下へ命じた。


「北の鉱脈への立ち入りを、明日一日、禁じる」


「え、マスター!? そんな女の戯言――」


「いいから、やれ」


翌日。北の鉱脈は、予知通り崩落した。犠牲者は、ゼロ。


その夜。ガルヴァスは酒場の隅で、わたしの前にそっと湿らせた布を置いた。


「石板が、汚れている」


わたしがきょとんとしていると、彼はぶっきらぼうに続けた。


「喋らないなら、こっちが待てばいい。それだけの話だ」


――ああ。


五年間、誰も待ってくれなかった。誰も、聞こうとしてくれなかった。


この人は、当たり前のように、待つと言った。


声が出ないのが、初めて――悔しいと思った。


ありがとう、と言えないことが。


だからわたしは、石板に書いた。少しだけ、丁寧に。


《ありがとうございます》


ガルヴァスは、ふいと顔を背けた。赤い鱗の頬が、ほんの少し、赤く見えたのは――気のせいだろうか。


◇◆◇


辺境での日々は、驚くほど早く回り始めた。


《西の谷、三日後にゴブリンの群れが移動してきます。討伐なら今のうちが好機》


的中。ギルドは大量の討伐報酬を得た。


《南の湿地、東側に薬草の群生地。特に高値の月光草が採れます》


的中。薬師ギルドが目を剥く量の月光草が採れた。


《街道沿いの古井戸、水脈が魔石鉱に通じています。掘れば魔石が》


的中。ギルドは一夜にして、莫大な富を手にした。


(前世の工程管理、こんなところで役に立つとはね)


リスクを洗い出し、優先順位をつけ、被害を最小化し、利益を最大化する。社畜時代に叩き込まれた危機管理思考。それが、予知と組み合わさって、恐ろしいほどの精度を叩き出す。


「ミレイユ姉ちゃん! すげえよ! また当たった!」


栗色の癖っ毛を跳ねさせて駆け寄ってくるのは、見習い冒険者のロロ。十四歳、そばかす、おしゃべり。


「ミレイユ姉ちゃんの石板、すげー当たるって、皆言ってるよ! ギルド始まって以来の大儲けだって!」


わたしは石板に書く。


《ロロ、字が読めるようになったのね》


「へへっ、ミレイユ姉ちゃんの石板読みたくて、猛特訓したんだ!」


胸が、じんとする。


ロロは目を輝かせ、それから急に眉をつり上げた。


「なあ、聞いたよ。ミレイユ姉ちゃん、王都でひどい目に遭ってたんだろ? 手柄、全部横取りされて。喋れないってだけで、気味悪いとか言われて」


わたしは静かに頷いた。


「そんなの、絶対おかしいよ! こんなに皆を助けてるのに! 王都のやつら、目ぇ節穴かよ!」


少年は、本気で怒っていた。わたしのために。


(――ああ、そうか)


王都では、わたしの沈黙は「気味悪さ」だった。


ここでは、わたしの沈黙を、皆が「待って」くれる。


ガルヴァスが、離れた席から静かにこちらを見ていた。目が合うと、彼は小さく頷いて、また一言、口にした。


「……やはり、聖女殿の石板は、一度も外したことがない」


それは、ぶっきらぼうな声だったけれど。


五年分の陰口よりも、ずっと、ずっと温かかった。


◇◆◇


王都。竜種襲来まで、あと三日。


北の空が、不吉に翳り始めていた。


物見の兵が血相を変えて城へ駆け込む。


「て、竜です! 竜種の大群が、北の空から――! 数、三百を超えます!」


大広間は騒然となった。


ジェラルドが青ざめる。


「な、なぜ誰も予知しなかった!? アンリエッタ! お前の神託はどうなっている!」


寵姫は扇を握りしめ、口ごもった。


「そ、それは……わ、わたくしに神託が降りましたの! ええ、そう、竜が来ることは、ちゃんと……」


「ならば対処法は!? どう防ぐ!? 迎撃布陣は!?」


「そ、そんなの……知りませんわ! だって、細かいことは神託には……!」


(当然だ。彼女は何も視ていない。視る力など、最初から持っていないのだから)


アンリエッタの「予知」は、いつも耳障りの良い言葉と、派手な吉兆だけだった。危機の具体的な日付も、数も、防衛策も、一切ない。


中身が、空っぽなのだ。


「聖女を……本物の聖女を呼び戻せ! ミレイユを!」


ジェラルドが叫ぶ。


「陛下、ミレイユ様は……三日前に処刑されたはずでは」


「牢は、もぬけの殻でした! 誰かが逃したのです!」


ジェラルドは頭を抱えた。


「探せ! 何としても探し出せ! 辺境だ、辺境のギルドに流れ着いたという噂が――使者を出せ! 頭を下げてでも、戻ってきてもらうのだ!」


アンリエッタが、震える声で言った。


「で、でも、あの女は喋れませんわ。役になんて……」


「黙れ!!」


ジェラルドの怒声が、初めて彼女に向いた。


「お前の神託とやらは、今、一体何の役に立っている!?」


寵姫の顔から、血の気が引いていく。


扇の陰で笑っていた唇は、今、みっともなく震えていた。


――失ってから、気づく。


愚かな者たちは、いつも、そうなのだ。


◇◆◇


辺境。竜種襲来、当日の朝。


だが、ここに慌てる者は、一人もいなかった。


三日前。ミレイユは、いつものように淡々と石板を掲げていた。


《六の月、十三日。竜種の大群、王都より逃れ、この辺境へも一部が向かいます。数、約五十。飛来は北北西より。第一波は火竜。水魔法で対処を》


ガルヴァスは、それを読むなり、即座に動いた。


「竜人部隊、招集。西の丘に布陣。弓兵を三段に。第一波は火竜だ、水魔法の使い手を前へ」


部下が驚いて聞き返す。


「マスター、そこまで細かく……本当に来るんですか?」


ガルヴァスは、静かに答えた。


「聖女殿の石板は、一度も外したことがない」


それだけで、部隊は動いた。


――そして、当日。


北北西の空が、竜の翼で黒く染まった。


数、五十。予知通り。


先頭を飛ぶのは、業火をまとった火竜。予知通り。


「――水魔法、放て!!」


ガルヴァスの号令。無数の水の刃が空を裂き、火竜の炎を打ち消す。三段構えの弓兵が、寸分の狂いなく竜の急所を射抜いていく。


迎撃は、完璧だった。


布陣も、タイミングも、対処法も――すべてが、ミレイユの石板に記された通りに。


巨躯を広げ、自ら空へ舞い上がったガルヴァスが、最後の一頭を鋼の爪で叩き落とす。


竜人将軍が、静かに地に降り立った。


「――制圧完了。負傷者、軽傷のみ。死者、なし」


辺境は、守り抜かれた。


わたしは、丘の上でそれを見届けていた。


そして、遠く。


王都の方角から、着の身着のまま逃げてきた民たちが、列をなして辺境へと向かってくるのが見えた。竜に追われ、王家に見捨てられた人々。


わたしは石板に書いた。


《門を開けてください。逃げてきた人たちを、受け入れます》


ガルヴァスが、ふっと目を細めた。


「……聖女殿は、甘いな」


それから、彼はすぐに部下へ命じた。


「聞いたな。門を開け。負傷者を運び込め。ロロ、お前は炊き出しの指揮を執れ」


「まかせて!」


ロロが飛び出していく。


わたしを追い出した国の民を、わたしが守る。


皮肉なものだ。


(でも、悪くない)


声のないわたしの石板が、今日、五十の竜から、この辺境を――そして、逃げてきた人々を守った。


それだけで、十分だった。


◇◆◇


王都は、壊滅寸前だった。


竜種の大群は、辺境へ向かった一部を除き、その大半が王都を蹂躙した。何一つ備えのなかった王都は、なす術もなく炎に包まれ、民は逃げ惑った。


そして、その混乱の中で――真相が、暴かれた。


神殿の記録庫。老シスター・エルマが、静かに一冊の手記を取り出した。


「これを、ご覧なさい」


集まった大臣たちの前に、二つの記録が並べられる。


一つは、アンリエッタの「神託書」。


もう一つは、ミレイユが五年間書き続けた《予知手記》の写し。


突き合わせれば、すべてが明白だった。


魔物の氾濫を防いだ予知。飢饉を退けた助言。暗殺を未然に防いだ警告。


そのすべてが――アンリエッタが「わたくしの神託」と誇っていた出来事のすべてが。


ミレイユの手記に、それより前の日付で、正確に記されていた。


「アンリエッタ様の『神託書』には」エルマは静かに言った。「起きた出来事を、後から書き写した形跡がございます。日付の筆跡、インクの劣化具合……すべて、後付けの偽物です」


大臣が愕然とする。


「では、五年間の手柄は、すべて……」


「ミレイユ様のものです」


エルマは、深く頭を垂れた。


「あの子は、一度も、嘘を書きませんでした」


静かな一言が、大広間に落ちた。


それは、どんな怒号よりも重く、確かな断罪だった。


――そして、崩壊は始まった。


アンリエッタは、証拠の前になす術もなく、投獄された。


「ち、違いますわ! わたくしは! わたくしはっ!」


扇はもう、彼女の口元を隠してはくれなかった。醜く歪んだ顔を、すべての貴族が見ていた。


ジェラルドは、廃嫡された。


偽りの寵姫に溺れ、本物の聖女を「気味が悪い」と切り捨て、王国を壊滅寸前に追い込んだ愚かな王太子として。


玉座の間で、彼は膝をついた。


「なぜ……なぜ、俺は、あの女の価値に気づけなかった……」


失ってから、気づく。


ミレイユの沈黙が、五年間、この国を支えていたのだと。


その沈黙こそが、最強の武器だったのだと。


だが、もう遅い。


何もかも、遅すぎた。


◇◆◇


辺境の夜。


竜を退け、民を受け入れた騒がしい一日が終わり、ギルドは静けさを取り戻していた。


暖炉の前で、わたしは古い石板を膝に置いていた。五年間、使い込んだ石板。角が欠け、表面はすり減っている。


ガルヴァスが、隣に腰を下ろした。


「一つ、聞いていいか」


わたしは頷く。


「なぜ、喋らない」


ずっと、誰も聞かなかったこと。


わたしは、少し迷ってから、石板にゆっくりと書いた。


《わたしの予知は、声に出した瞬間に、外れる呪いがあります》


ガルヴァスの赤い瞳が、わずかに見開かれた。


《だから、わたしは声を捨てました。石板に書けば、予知は外れない。喋らないことだけが、皆を守る方法でした》


書き終えて、わたしは静かに続ける。


《王太子が転ぶことを、声に出して警告していたら――きっと、外れて、あの人は転ばなかった。だから、書いただけです。存じておりました、と》


ガルヴァスは、長いこと、黙っていた。


それから、絞り出すように言った。


「……お前は、五年間。声を捨てて、それでも、国のために書き続けたのか」


わたしは頷いた。


「気味が悪いと、罵られながら」


また、頷いた。


竜人将軍は、ぐっと拳を握りしめた。鋼の鱗が、きしむ音を立てた。


「……許せんな」


低い声が、震えていた。冷酷な戦鬼と恐れられた男が。わたしのために、怒って、泣きそうになっていた。


(ああ、この人は)


沈黙を、気味悪がらない。


沈黙の重さを、ちゃんと、量ってくれる。


わたしは石板に書いた。


《でも、後悔していません。だって、その沈黙のおかげで、あなたに出会えました》


ガルヴァスは、ふいと顔を背けた。


鋼色の鱗が、暖炉の火に照らされて――やっぱり、少し、赤かった。


◇◆◇


数日後の朝。


ガルヴァスが、ぶっきらぼうに、何かを差し出してきた。


真新しい石板だった。角も欠けていない、つやつやと磨かれた、まっさらな一枚。


「……古いのは、もう限界だろう。使え」


彼は、目を合わせずに言った。照れているのだ、この巨躯の竜人将軍が。


わたしは、その石板を受け取った。


(新品の石板)


初めて出会った夜、彼はわたしの汚れた石板を、そっと拭いてくれた。


今、彼は、真新しい石板をくれた。


この人の優しさは、いつも――言葉ではなく、石板に宿る。


わたしは、新しいチョークを手に取った。


何を、最初に書こう。


この、まっさらな一枚に。


少し、震える手で。


でも、迷いなく。


わたしは、記した。


《ここに、いてもいいですか》


ガルヴァスが、それを読んだ。


一瞬の、沈黙。


そして――鋼色の鱗の顔が、みるみるうちに、真っ赤になった。


耳の先まで。翼の付け根まで。


冷酷な戦鬼と恐れられた竜人将軍は、ぶっきらぼうに、しかし何度も、何度も、頷いた。


「……ああ。いていい。ずっと、いていい」


低い声が、少しかすれていた。


(そっか)


声を失って、五年。


異世界に転生して、初めて。


わたしは――『居場所』という未来を、予知した。


窓の外で、ロロが炊き出しの鍋をかき混ぜながら、辺境の民と笑い合っている。逃げてきた王都の人々が、少しずつ、新しい暮らしを始めていた。


温かい、朝だった。


声のないわたしにも、ちゃんと、聞こえる気がした。


ここが、わたしの居場所だと。


◇◆◇


それから、王都からの使者が、ひっきりなしにやってくるようになった。


嘆願書の山。羊皮紙の束。どれもこれも、同じことが書いてある。


『どうか、王都へお戻りください』


『聖女ミレイユ様の御力が、王国には必要なのです』


『先の非礼は、深くお詫び申し上げます。何卒、何卒――』


わたしは、暖炉の前でそれを一枚ずつ読んだ。


(今さら)


五年間、気味が悪いと罵った。手柄を横取りされても、誰も助けてくれなかった。処刑まで、しようとした。


それが、都合が悪くなった途端に、これだ。


ガルヴァスが、隣で腕を組んで言った。


「……どうする。戻るか」


わたしは、彼を見上げた。


それから、静かに首を振る。


嘆願書の束を、ひとまとめに抱え上げ――暖炉の中へ、くべた。


ぼっ、と炎が上がる。


王都の未練が、王家の後悔が、ぱちぱちと音を立てて燃えていく。


ガルヴァスが、ふっと笑った。珍しく。


「いい火だ」


わたしは、真新しい石板にチョークを走らせた。


最後の使者に、持たせる返事を。


たった一言。


《お断りします》


淡々と。だが、はっきりと。


声のない聖女の、これ以上ないほど明確な、拒絶。


ロロがそれを覗き込んで、げらげら笑った。


「あはは! 姉ちゃん、容赦ねえ! 王都のやつら、これ読んで泣くぞ!」


わたしは、少しだけ口の端を上げた。


(さて)


新しい石板に、次に書くことは、もう決まっている。


この辺境には、まだ竜人族の里も、逃げてきた王都の民も、志ある冒険者たちもいる。


そして、この地を守る、頼れる将軍が一人。


王都に縛られない、新しい国のかたち。


――辺境で、自分たちの手で。


わたしは、予知した。


そう遠くない未来、この地に、小さな旗が翻ることを。


声を失った聖女と、冷酷と恐れられた竜人将軍が築く、あたたかな国が生まれることを。


わたしは、まっさらな石板に、静かにチョークを置いた。


《さあ、次を視ましょうか》


その文字だけは――誰にも、教えてあげない。


(つづく)

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