午前三時十七分の残響
「午前三時十七分の残響」
1
アキラは目覚めてすぐに、自分の世界が決定的に変容してしまったことを悟った。
太陽光が薄く差し込む土曜日の朝。いつもなら鳥の鳴き声が聞こえるはずの部屋は、奇妙な静寂に包まれていた。
そして、手首に鈍い重みを感じた。
「なんだ、これ……」
彼はゆっくりと右腕を持ち上げた。そこには、アキラが一度も見たことのない、しかし異様に馴染み深い、無骨な金属の腕時計がはまっていた。文字盤のガラスは蜘蛛の巣状に砕け、見る影もなく粉々だ。そして、重々しい秒針も分針も、一分の隙もなく重なり合い、午前三時十七分で静止していた。
無理に外そうと力を込めた瞬間、バックルが皮膚に食い込み、鋭い痛みが走った。金属の裏蓋は体温よりも冷たく、まるで生き物のようにアキラの肉に張り付いている。
強い吐き気と、昨夜の記憶の欠落。深い闇が広がっているはずの深夜の時間が、アキラの頭から綺麗にごっそりと抜け落ちていた。
そして、彼は次の異常を発見した。
視線を上げた先、ベッドの真上の壁に、彼の拳ほどもある不自然な穴が開いていた。黒く、丸く、不気味な開口部。穴の縁は僅かに焦げたように煤けており、そこから吹き出す冷たい風が、彼の肌を撫でた。
昨夜、そんな音や気配があっただろうか。
いや、何も覚えていない。
「……三時十七分」
アキラは時計の時刻を再度呟いた。その数字は、彼にとってただの時間ではない。それは、五年前に彼の妹が交通事故に遭い、息を引き取った時刻だった。
なぜ、今、この時刻が、こんな形で自分の手首に固定されているのか。
アキラは不安と混乱の中で立ち上がった。まるで彼の内面に開いた穴のように、壁の穴からは、微かに、何かの囁き声が聞こえるような気がした。
「たすけて……」
聞き覚えのある、少女の声。
「まさか……」
アキラが手を伸ばし、穴の奥に指先を入れた瞬間、ドアがノックされた。驚いて手を引っ込めると、指先にはひやりとした冷たい金属の破片が触れた感触だけが残った。
「アキラさん、起きてますか?」
隣人のサキの声だ。彼女はいつも、アキラの生活を気にかけてくれる。
「ああ、今開ける」
アキラは服の袖で慌てて腕時計を隠した。壊れた時計と、壁の穴。この二つの異物を、他人に知られてはならないという直感が働いた。
サキはいつもの明るい笑顔だったが、アキラの顔を見るなり表情を曇らせた。
「顔色が悪いわ。昨夜、何かあった?」
「いや、ただの寝不足だ。少し変な夢を見ただけだよ」
「そう。でも……」
サキの視線が、アキラの隠した手首に一瞬注がれた気がした。アキラは咄嗟に腕を組んで隠した。
「あ、そうだ。昨日の夜中、この辺で何か変わった音とかしなかったか?」
アキラが壁の穴の件を遠回しに尋ねると、サキは首を傾げた。
「いいえ。とても静かでしたよ。ただ、夜中の三時過ぎくらいかな、風が急に強くなった気がしたけど。気のせいかもしれないわ」
三時過ぎ。三時十七分。
サキには何も見えていない。あるいは、彼女の「現実」では、壁の穴も、この壊れた時計も存在しないのかもしれない。そう考えると、アキラは背筋が凍る思いがした。
2
壊れた腕時計は外れない。アキラはそれを「残響装置」と名付けた。過去の、最も後悔した瞬間の「残響」を、現在の彼に強制的に浴びせ続ける装置。
その日一日、アキラは奇妙な「デジャヴュ」に襲われ続けた。
電車のホームで、突然、五年前の事故現場の光景がフラッシュバックする。横断歩道を渡る人影が、妹に見える。
そして、街中で、アキラと同じように壊れた腕時計をつけた人間を三人見かけた。
皆、スーツ姿で、無表情。その誰もが、一瞬だけ、アキラの手首の時計を見つめ、そして無言で立ち去っていく。幻覚だろうか。だが、その腕時計の金属の質感までもが、あまりにリアルだった。
帰宅後、アキラは壁の穴と再び向き合った。
「たすけて……」
穴から聞こえる囁きは、今やメロディを伴っていた。それは、妹が好きだった、古い童謡だ。アキラの精神は極限まで追い詰められていた。妹を失ったあの日の後悔と、今日の幻覚が、彼の正常な思考を奪っていく。
彼は決意した。この穴と時計が、あの日の妹と繋がっているのなら、自分はもう一度、あの瞬間に立ち戻らなければならない。
懐中電灯で穴の中を照らすと、穴の奥、見えない深みに、小さな紙片が張り付いているのが見えた。
針金ハンガーを伸ばし、格闘の末、アキラはその紙片を取り出すことに成功した。
それは、くしゃくしゃに丸められた、古いレシートの切れ端だった。そして、その裏に書かれていた文字を見て、アキラは息を飲んだ。
三時十七分に、戻れ。
それは、まぎれもなくアキラ自身の筆跡だった。五年前に妹を失ったアキラが、どこかの未来で、この装置と穴を使って過去へ干渉しようと試みた証拠だ。
「僕が……過去の僕に、これを残したのか?」
彼が過去に何をしようとしたのか。妹を救おうとしたのか、あるいは何かを取り戻そうとしたのか。
その時、ドアが激しくノックされた。
「アキラ! 開けろ! 残響装置は、お前が持っているべきものではない!」
威圧的な男の声。それは、今日街で見かけた、壊れた時計をした男たちの声だった。彼らは、アキラが過去を改変しようとすることを阻止しようとしている「監視者」たちなのだろうか。
アキラは背中に冷たい汗を感じながら、紙片を強く握りしめた。
「逃げるんだ……!」
彼の脳裏で、過去の自分がそう叫んだ気がした。
3
逃げ場はない。アキラは、壁の穴の前に膝をついた。
妹の童謡が、今や穴の奥から、はっきりと大音量で響いている。そして、手首の「残響装置」が、激しく振動し始めた。砕けたガラスが、アキラの肌をさらに深く傷つける。
「もういい……妹を、救うんだ!」
アキラは恐怖を振り払い、壁の穴に両肩を押し付けた。穴は見た目よりも大きく、彼の頭がすっぽりと入るほどだった。
その瞬間、部屋のドアが蹴破られた。二人の男が飛び込んでくる。彼らの手首にも、やはり午前三時十七分で止まった腕時計が光っていた。
「よせ、アキラ! 過去への干渉は、すべてを破壊する!」
「うるさい!」
アキラは叫び、全身を穴に突っ込んだ。
世界が、崩壊した。
目の前で、光と闇が高速で混ざり合い、視界が色彩の嵐に飲まれる。耳元では、時計の秒針がとてつもない速さで回転し、やがて**「カチッ」という音とともに、再び三時十七分**で停止した。
体が宙に浮くような感覚を経て、アキラは地面に叩きつけられた。
そこは、彼の知っている部屋ではない。古びた道路の脇、雨に濡れた縁石の上だった。
冷たい雨が、容赦なくアキラの顔を打ちつける。
「成功した……のか?」
アキラはゆっくりと立ち上がった。手首の時計は、まだ3時17分を指したまま。しかし、ガラスの割れ目から、微かに秒針が動いているのが見えた。装置が「起動」しているのだ。
周囲を見渡す。そこは、五年前、妹のサヤが事故に遭った、あの交差点だった。道路は濡れ、街灯の光が雨に滲んでいる。
彼のすぐ目の前。信号は赤。
そして、交差点の反対側。傘を差した少女が立っていた。
「サヤ……!」
妹だ。間違いない。五年前の、まだ生きているサヤが、そこにいた。彼女は約束の場所へ向かうため、信号が変わるのを待っている。
アキラは、自分が過去の三時十七分にいることを確信した。今なら、間に合う。サヤを、信号を渡らせる前に、止めることができる。
アキラは走り出そうとした。
その瞬間、道の向こうから、一台の黒い乗用車が猛スピードで交差点に差し掛かった。運転席の男は、よそ見をしている。この車が、サヤを轢いたのだ。
「サヤ! 待て! 渡るな!」
アキラは喉が張り裂けるほど叫んだ。しかし、彼の声は、雨の音にかき消され、サヤには届かない。サヤは、青信号に変わるのを待ち、前を向いたままだ。
黒い車は、止まらない。
間に合わない。過去に戻れたというのに、状況は五年前と全く同じではないか。いや、違う。五年前、この時、彼は家にいた。今、彼はここにいる。
彼の存在こそが、過去を変える唯一の方法だ。
アキラは立ち止まった。そして、サヤと車の間に、自分の体を投げ込んだ。
「ごめん、サヤ。こんなことしか、兄さんはできなくて……」
金属が皮膚に食い込む腕時計の痛みを最後に感じながら、アキラは衝突の瞬間に目を閉じた。
4
気がつくと、アキラは自室のベッドの上で寝ていた。
朝の光が差し込む。腕時計は、ない。腕には、金属が食い込んだ赤い跡だけが残っている。
そして、壁の穴も、消えていた。壁は綺麗で、何もなかったかのように元の状態に戻っている。
「夢……だったのか?」
彼は飛び起きた。夢? いや、あまりに生々しすぎた。手首の赤い跡が、全てが現実だったことを証明している。
リビングへ出ると、隣人のサキが、なぜか彼の部屋のキッチンで朝食を作っていた。
「あら、起きたの? 今日はトーストよ」
サキは振り返り、優しく微笑んだ。
「サキ……なんでここに?」
「え、だって、今日はあなたと一緒に朝食を食べる約束だったでしょう? いつもの土曜日よ」
サキの言葉に違和感はない。だが、アキラはサキとそんな約束をした覚えがない。
「サヤは?」
アキラは、咄嗟に妹の名を口にした。
サキは首を傾げた。「サヤって? 誰それ?」
アキラは心臓が凍りつくのを感じた。
「妹だよ! 僕の、妹のサヤだ!」
サキは困惑した表情で首を振った。「アキラさん、あなたには妹なんていないでしょう? 一人っ子だって言ってたじゃない」
彼の頭の中に、サヤの記憶が流れ込んでくる。あの日の笑顔、事故、葬式、後悔……すべてが鮮明だ。しかし、サキの「現実」では、アキラに妹など存在しない。
彼は慌てて、スマートフォンを取り出した。家族のアルバム。妹と写った写真がない。両親の連絡先。サヤの名がない。
「まさか……」
アキラは悟った。過去を改変した代償だ。彼は妹を救った。彼自身が車に衝突し、サヤを助けた結果、妹のいる**「過去」は消滅し、妹が存在しない「別の現実」が創造された**のだ。
その時、手首の赤い跡が激しく脈動し始めた。
アキラは叫んだ。妹は救われた。だが、その代償として、妹と過ごした記憶は、ただの「過去」ではなく、**彼だけの「残響」**として、この新しい現実の中に置き去りにされたのだ。
「僕は……僕はサヤを救ったのか、それとも失ったのか……」
アキラは茫然と立ち尽くした。
「アキラさん?」
サキが心配そうに彼の腕に触れた。
その瞬間、アキラは気づいた。
サキの手首にも、細いブレスレットがはめられていた。そのブレスレットの中央には、黒曜石の小さな破片が埋め込まれている。そして、その黒曜石に、**「3時17分」**と、微細な文字が刻まれているのが見えた。
「これは……」
「これ? ああ、これはお守りなの。私、五年前に、危うく車に轢かれそうになったことがあって。その時、誰かが私を突き飛ばしてくれて。でも、その人は逃げてしまって……。その時の、車のガラスの破片でできたものなのよ」
サキは微笑んだ。
アキラは、自分が過去を改変するために払った代償の、真の大きさを理解した。彼は妹を救うため、自らが過去の妹を庇う形で衝突した。その結果、妹のいる現実は消え去り、彼が「残響装置」と壁の穴を使って干渉した過去の瞬間――3時17分に交通事故に遭うはずだったサキを、代わりに救ったのだ。
そして、彼はこの新しい世界で、妹の記憶を抱えたまま、残響として生き続ける。手首に残る赤い跡は、妹を愛した過去を証明する、彼のただ一つの勲章なのだ。
アキラは、ただ静かに、微笑んだ。
「……そうか。ありがとう、サキ。トースト、食べようか」
彼は、もう二度と、壊れた腕時計を探すことはないだろう。彼の時間は、もう「3時17分」で止まってなどいない。それは、過去に捧げた永遠の愛の残響を抱えながら、新たな孤独な未来へと進み始めているのだから。
(了)




