女神になるための試練 〜三姉妹のうち女神に相応しかったのは?〜
神界にも、世襲の問題はある。
最高神たる老父神は、目の前に控える三人の娘たちを静かに見つめた。天界の法に従い、いずれこのうちの一人が彼の後を継ぎ、新たな女神とならねばならない。
「いいか、お前たちに求めるのはただ一つ。信仰だ」
老父神の声は、至って事務的だった。感情を排したその響きは、長年神界の最高責任者を務めてきた者の冷徹さを物語っていた。
「地上に降り、聖女として振る舞え。人々の心、その深奥から湧き出る信頼と畏敬の念、すなわち信仰を最も多く集めた者が、女神の座に就く」
長女の名はエーテル。
彼女は神々しい光を放っていた。その聖なる力は、地上に降りればあらゆる病や傷を瞬時に治癒できることを、彼女自身が知っていた。自信に満ちた目で、老父神に一礼した。
「承知いたしました。私の力こそ、人々が真に求めるものです」
次女の名はロゴス。
彼女は神界の書庫で、知識を蓄えることに時間を費やした。病の原因、正しい治療法、衛生の重要性。奇跡ではなく、理屈で人々を救えると信じていた。
「真の救済は、無知から人々を解放することにあります。私はそれを証明します」
そして三女の名はミスティア。
彼女はやる気というものを持ち合わせていなかった。この試練自体、とてつもなく面倒だと感じていた。代わり映えしない神界の暮らしから抜け出すための、ただの暇つぶしだと捉えている節があった。彼女はあくびを噛み殺し、軽く手を挙げた。
「えーと、はい。分かりました。適当にやっておきます」
試練の期間は、地上時間で一年。三人の娘は、それぞれ異なる信念と態度を胸に、下界へと降り立った。
一年後、神界。三人の娘は再び老父神の前に並んだ。
エーテルの顔には、どこか疲れと不満の色が滲んでいた。
「私は、病を治し、怪我を癒しました。しかし、すぐに王に囲われてしまいました。王は私を丁重に扱いましたが、力を独占し、民に接触することを許しませんでした。私は休みなく働いたのに、集まった信仰は、ごく一部の特権階級からのものに留まりました」
民たちも彼女の力を見たが、それはあまりに遠く、あまりに手の届かない奇跡だった。彼女は崇拝されたが、信仰は広がらなかった。
ロゴスは、苛立ちを隠せない様子だった。
「私が人々に与えたのは、知識です。病は悪霊ではなく、汚れた水が原因であると説きました。薬草の効果的な使い方、清潔な暮らし方。人々は救われるはずでした。しかし彼らは猿でした…」
彼女は言葉に詰まり、唇を噛んだ。
「奴らは私の話を、奇妙な風習か、おかしな異端の思想だと受け取ったのです。猿は私の知識を理解できません。信仰の光は、全く生まれませんでした」
彼女は、人々の愚かさに打ちひしがれ、おまけに一年で口が悪くなった。
そしてミスティア。彼女は実にリラックスしていた。下界での日々を、のんびりした旅行のように楽しんだのだろう。
「私? 私は特に何もしてないですよ」
彼女は素っ気なく答えた。
「病人を治すのも、理屈を教えるのも面倒だったので。とりあえず、聖女っぽいことだけやりました」
「具体的には?」
老父神が問う。
「近くの川から水を汲んで、綺麗な青い花びらを浮かべました。で、それを『聖水』として配ったの。『これを飲めば、病が癒えるかもね。神の恵みだよ』って。それだけ」
エーテルが憤慨した。
「ただの着色した水ではないか!」
ロゴスが叫んだ。
「それは詐欺だ!」
ミスティアは肩をすくめた。
「でも多くの人が喜んで飲んだよ? 中には本当に治った人もいたみたいで。人間の思い込む力って、すごいんですね、知らないけど」
彼女は続けた。
「私はただ、『聖水』と名付けた水を与えただけ。彼らはそれを飲み、勝手に『奇跡』だと騒ぎ、勝手に信仰を深めたみたい。面倒なことはなかったし、良い暇つぶしになりました」
老父神は天秤を見た。
エーテルとロゴスの皿に、信仰はほとんどない。だが、ミスティアの皿は、溢れんばかりの信仰の光で満ちていた。その光は強大すぎて、天秤の機構そのものが軋んでいた。
「裁定は下った」
老父神が静かに言った。
「新しき女神は、ミスティアだ」
「えーっ!?ちょっと待ってよ!」
ミスティアは、驚きと嫌悪をあらわにした。その態度は、まさに女神の座を拒否する態度だった。
「なんで私が!? 私、言ったでしょう? 女神なんて、面倒くさいったらありゃしない!」
彼女は老父神の玉座に駆け寄り、テーブルを叩いた。
「私が地上に降りたのは、暇つぶし! 女神になりたかったわけじゃないの! 私はダラダラ生きたいの! 仕事なんかしたくない。なんでサボった結果、一生分の仕事を押し付けられるのよ、それ、どんな罰ゲームよ!」
エーテルとロゴスは顔を見合わせた。信仰を集めて女神になることに人生を賭けた姉たちの目の前で、それを罰ゲーム扱いで全力拒否する妹。自分たちの努力は何だったのか。
老父神は、そのミスティアの顔を、何故か満足そうに見ていた。
「お前こそ、女神にふさわしい。理由を説明しよう」
「エーテルは聖なる力で、ロゴスは高度な知識で、人々を救おうとした。だが、人々が求めているのは、力でも知識でもない。彼らは何の努力もせず、何の理屈もいらない、都合のいい救済を求めている」
老父神は、玉座に座ったままのミスティアを指差した。
「お前は、最も無関心で、最も無責任な方法で、それを実現した。人々はただの水に、自分が望むだけの夢と希望を投影した。お前は彼らの幻想を、傷つけることなく、最大限に膨らませた」
そして、老父神はミスティアの目を見据えた。
「女神とは、人々の都合のいい夢の置き場所だ。熱心すぎる女神は、すぐにその夢を壊す。力で依存させ、知識で真実を突きつける。だが、お前の無気力なら、余計なことをしない。信仰の維持に必要なのは、無為だ」
「だから、お前は座に着け。その怠惰と無関心こそが、人類の信仰を最も長く、最も安定して支える。嫌でもだ。これは私だけではなく、神界の判断だ」
ミスティアは、雲のソファーに深く沈み込んだ。まるで、自分という存在が、巨大で、動かせない、神界の歯車のピースとして嵌め込まれてしまったかのように感じていた。
「もう……最悪っ!」
かくして、最も仕事が嫌いな神が、最も信仰を集める女神となった。彼女の治世の元、世界はかつてないほどの安定を迎えることになる。
なぜなら、彼女が何もしなかったから。
今から600万年前の「地球」の話。




