第8話 「変わらなきゃ」ではなく「変わりたい」
終業式が終わり、生徒たちの喧騒が嘘のように消え去った校舎は、まるで巨大な生き物が深い眠りについたかのように、静まり返っていた。
夏休みが始まって、三日が過ぎた。
月影蓮は、一人、目的もなく、その眠れる校舎の周りを彷徨っていた。
うだるような暑さの中、校門は固く閉ざされ、敷地の内側と外側を隔てている。
窓という窓はすべて閉め切られ、がらんとした教室が、ガラスの向こうでぼんやりと口を開けているのが見えた。
人気のない廊下を、強い日差しが横切り、床に整然とした光の四角形を描き出している。
その光景は、誰にも見られることなく上演される、静かな舞台のようだった。
耳をつんざくような蝉の声だけが、世界のすべてを支配していた。
ジリジリと肌を焼く太陽、まとわりつく湿気、そして額から止めどなく流れ落ち、顎の先から地面に滴り落ちる自分の汗の匂い。五感が捉えるすべての情報が、蓮に、自分の存在の孤独さを、執拗に突きつけてくるようだった。
彼の心は、OSがクラッシュしてしまったコンピュータのように、真っ暗な画面に意味不明な文字列が点滅しているような状態だった。
『違う形の、真実』
あの日、ひかりが言った言葉が、壊れたレコードのように、頭の中で何度も何度もリフレインしていた。
自分の信じてきた「正しさ」という絶対的な指針を失ってしまった今、彼は、自分が何を信じ、何を頼りに歩いていけばいいのか、全く分からなくなっていた。
目の前には、無数の道が広がっているように見えるのに、どの道がどこに続いているのか、皆目見当もつかない。
ただ、広大な荒野の真ん中に、一人で立ち尽くしているような、途方もない心細さだけがあった。
ふらふらと、まるで夢遊病者のように歩き続けるうちに、蓮の足は、いつの間にか、中学時代によく使っていた古い公園へと向かっていた。
金網で囲まれた、小さなバスケットコート。
ゴールリングの塗装は剥げ落ちて赤錆が浮き、バックボードは太陽の光を浴び続けて黄色く変色している。
地面のアスファルトは、あちこちがひび割れ、その隙間から、ど根性大根ならぬ、ど根性タンポポがたくましく黄色い花を咲かせていた。
ここで、翔太と、毎日のように一対一をした。日が暮れるまで、ボールがもう見えなくなるまで、泥だらけになって走り回った。
あの頃は、未来のことなんて何も考えず、ただ、目の前のボールを追いかけることだけが、世界のすべてだった。
蓮は、コートの隅にある、ペンキの剥げたベンチに、どさりと腰を下ろした。
そして、目を閉じ、懸命に、過去を再体験しようと試みた。
ひかりの言葉を、羅針盤にして。
もし、自分の「正しさ」が、唯一の正解ではなかったとしたら。
もし、翔太にも、翔太だけの「真実」があったのだとしたら。
あの日の、翔太の顔が浮かぶ。
『お前に、何がわかるんだよ』
あの瞳に宿っていたのは、単なる怒りや反発ではなかった。
もっと深く、もっと痛切な、助けを求めるような、悲痛な響きがあったのではないか。
彼は、スランプに陥り、プレッシャーに押し潰されそうになっていた。
彼が欲しかったのは、「こうすべきだ」という正論やアドバイスではなかったのかもしれない。
ただ、「辛いな」「苦しいな」という、そのありのままの感情を、誰かに、特に一番の親友である自分に、ただ黙って、受け止めてほしかっただけなのではないか。
なのに、自分は何をした?
彼の弱さを「甘え」だと断じ、自分の価値観を一方的に押し付けた。
彼の心の叫びに耳を傾けず、自分の「正しさ」という名の壁で、彼の口を塞いでしまった。
自分の「善意」は、翔太にとっては、ただの「暴力」でしかなかったのかもしれない。
自分の「友情」は、翔太にとっては、息苦しい「束縛」でしかなかったのかもしれない。
その可能性に思い至った瞬間、蓮の胸に、鋭い痛みが走った。
それは、プライドが傷つけられた痛みとは違う。
生まれて初めて感じる、他人の痛みに共感したことで生まれる、温かくも、そして切ない痛みだった。
「……でも」
蓮は、呟いた。
「じゃあ、どうすればよかったんだよ…。何も言わないのが、正解だったのか…?友達が間違った道に進もうとしてるのに、黙って見てろって言うのかよ…」
新たな疑問が、混乱した思考の中に湧き上がる。
自分の正しさを押し付けるのが間違いだとして、かといって、何もしないのが正しいとも思えない。
白か、黒か。
0か、100か。
その間の、どこに正解があるというのだろう。
結局、思考は振り出しに戻り、彼は再び、深い霧の中に迷い込んでしまった。
それから、さらに二日が過ぎた。
夏休みの水やり当番で、蓮は、久しぶりに学校の敷地に入った。
担当のプランターに水をやり終え、ぼんやりとした気持ちで昇降口へ向かっていた、その時だった。
前方から、見慣れた人影が歩いてくるのが見えた。
一色ひかりだった。
彼女の腕には、あの、教室で育てていたガジュマルの鉢植えが、大切そうに抱えられていた。
どうやら、彼女も水やり当番で、夏休みの間、家に持ち帰って世話をするつもりらしい。
ひかりは、蓮の姿に気づくと、小さく手を振った。
「やっほー、蓮くん。奇遇だね」
その、いつもと変わらない、太陽のような笑顔を見た瞬間、蓮の中で、何かが堰を切ったように溢れ出した。
彼は、すがるような気持ちで、ひかりの前に走り寄っていた。
「ひかりっ!」
その声は、自分でも驚くほど切実だった。
「なあ、俺、どうすればいいんだよ…。ずっと、考えてた。でも、分かんないんだ。俺、やっぱり、変わらなきゃダメなのか?今のままじゃ、ダメなのか…?」
彼の声には、かつてのような刺々しさは、ひとかけらも残っていなかった。
ただ、道に迷った子供のような、純粋な戸惑いと、助けを求める響きだけがあった。
ひかりは、蓮のその必死な様子を、静かに見つめていた。
そして、腕に抱いたガジュマルの、艶やかな葉を、そっと指で撫でた。
そして、静かに、しかし、はっきりと答えた。
「『変わらなきゃいけない』なんてルール、この世界のどこにもないよ」
その言葉は、蓮の心に、染み渡るように優しかった。
「今の蓮くんのままじゃダメだなんて、誰も決めてない。蓮くんが、そう思い込んでるだけ。蓮くん自身以外は、誰も、蓮くんをジャッジしたりしてないよ」
ひかりは、まず、蓮を縛り付けていた「~ねばならない」という、呪いのような強迫観念を、優しく解きほぐした。
そして、彼女は、この物語の、そして蓮の再生の、核心を突く言葉を続けた。
「でもね」
ひかりの瞳が、夏の強い光を反射して、きらりと輝いた。
「もし、ほんの少しでも、蓮くんが、心の底から『ああ、変わりたいな』って思ったとしたら、それは、すっごく素敵なことだと思う。ワクワクすることだと思う」
「……」
「そしてね、そう思ったその瞬間に、実はもう、世界はガラッと変わってるんだよ」
蓮は、その言葉の意味が理解できず、眉をひそめた。
「…どういう、ことだ?」
ひかりは、楽しそうに、にっこりと微笑んだ。
「だってね、世界っていうのは、外にゴロンと転がってる、客観的な事実のことだけを言うんじゃないんだよ。本当の世界っていうのは、蓮くんが、蓮くんの目と、耳と、心を通して見ている、その景色のこと全部。だから、蓮くんの心のあり方が変われば、蓮くんの見る世界の色が、その瞬間に、パッと変わるんだよ。テレビのチャンネルを、ガチャって変えるみたいにね」
その言葉は、蓮の頭の中に、鮮やかな光となって差し込んだ。
世界は、変えるものではない。変わるものなのだ。自分が、変われば。
「変わらなければならない」という、重苦しい義務ではない。
「変わりたい」という、軽やかで、前向きな、自分自身の内側から湧き上がる願い。
そして、その願いを抱いた時点で、もう、自分は、過去の自分ではない。
新しい世界の入り口に、立っている。
蓮は、自分が「どうしたいか」の答えを、その瞬間、確かに見つけた。
過去に縛られて、自分を責め続けるのは、もうやめだ。
まだ来ぬ未来を憂いて、動けなくなるのも、もう終わりにする。
「今、ここ」から、新しい関係を、自分の手で、始めてみたい。
翔太と、もう一度、話をしたい。
謝罪したいわけじゃない。自分の正しさを、今更、証明したいわけでもない。
ただ、今の自分が、何を感じ、何を考えているのか。あの頃とは違う、新しいOSを手に入れた(あるいは、手に入れようとしている)自分が、彼のことをどう思っているのか。それを、ただ、伝えたい。
蓮は、ひかりの目の前で、震える手で、ポケットからスマホを取り出した。
連絡先リストを開き、スクロールする指が、何度も滑る。
そして、二年以上の間、一度も開くことのなかった、その名前を見つけ出した。
『宮田 翔太』
その五文字を、蓮は、まるで初めて見る外国語のように、じっと見つめた。
そして、通話ボタンに、親指をかけた。
指が、わずかに震えている。
怖い。
また、拒絶されたら?無視されたら?
その恐怖が、彼をためらわせた。
指が、ボタンを押す直前で、ぴたりと止まる。
蓮は、顔を上げ、ひかりを見た。
ひかりは、何も言わなかった。
ただ、静かに、そこにいた。
その瞳には、心配や、憐れみはなかった。
ただ、深い、深い信頼の色だけがあった。
「あなたなら、大丈夫」と、その瞳が語っていた。
その眼差しが、蓮の背中にある、最後の見えない壁を、そっと押してくれた。
蓮は、ゆっくりと、しかし深く、息を吸い込んだ。
そして、夏の生ぬるい空気を、すべて吐き出すと同時に、意を決して、親指に力を込めた。
ピッ。
電子音が鳴り、画面の表示が切り替わる。
『宮田 翔太に発信中…』
コール音が、夏の、あまりに静かな世界に、響き渡った。
トゥルルルル……、トゥルルルル……。
翔太が、この電話に出るか、出ないか。
それは、もはや、蓮にとって、重要ではなかった。
重要なのは、彼が、他人のせいでも、過去のせいでもなく、自分自身の純粋な意志で、未来へと繋がる「今、この瞬間」の行動を、確かに選択した、という事実そのものだった。
夏の強い日差しが、ひかりの持つガジュマルの葉を透かし、美しい緑色の影を、蓮の顔に落としていた。
彼の顔には、もう絶望の色はなかった。
恐怖と、しかし、それを遥かに上回る、新しい世界への希望をたたえた、本当の「月影蓮」の顔が、そこに、あった。
彼の、長く、暗いトンネルの出口が、すぐそこに見えている。
そんな、確信に満ちた、夏の一日だった。