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第7話 蓮の「正しさ」という名の壁

七月も終わりに近づき、世界は飽和した光と熱に満たされていた。



明日が終業式だというその日は、長い一学期の終わりを惜しむか、あるいは祝うかのように、空は一点の曇りもなく晴れ渡っていた。



深緑色に染まった校庭の木々は、降り注ぐ太陽のエネルギーをその身いっぱいに受け止め、葉の一枚一枚を誇らしげに輝かせている。



風が吹くと、ざわ、と葉擦れの音が立ち、まるで木々自身が深い呼吸をしているかのようだった。



二年A組の教室は、明日からの長い夏休みに向けて、浮き足立ったような、それでいてどこか物悲しいような、不思議な空気に包まれていた。



授業は午前中で終わり、午後は大掃除とホームルームだけ。



生徒たちは、ロッカーの中の不要なプリントをごみ袋に詰め込んだり、一年間使った机や椅子を、感謝を込めて(あるいは、ただ面倒くさそうに)雑巾で拭いたりしている。



教室のあちこちで、クラスメイトのノートやTシャツにメッセージを書き合う、寄せ書きの輪ができていた。



その喧騒は、普段の授業中とは全く違う、祭りの前夜のような高揚感を帯びている。



だが、月影蓮は、その喧騒の輪の中にいることができなかった。



彼は、窓際の自分の席に座り、ただぼんやりと、その光景を眺めていた。



クラスの誰もが、ごく自然に、互いを尊重し、笑い合っている。



そこには、かつて彼が王様として君臨していた頃の、緊張感も、誰かを犠牲にすることで成り立つ偽りの一体感もない。



ひかりという一滴のインクによって、美しく、穏やかな水色に染め上げられた世界。



その中で、自分だけが、色の混じらない、孤立した透明な油の一滴のように感じられた。



ひかりの言葉の「正しさ」は、もう、理解している。頭では。



世界は単純な二元論ではできていないこと。



物事はすべて移り変わり、固定的な実体はないこと。



幸せは、今、この足元にあること。



個々の小さな変化が、全体を動かしていくこと。



その美しい理論、その完璧なOSを、蓮は理解すればするほど、絶望的な無力感に苛まれていた。



なぜなら、そのOSを自分の心にインストールする方法が、どうしても分からなかったからだ。



「変わりたい」と強く願っているのに、いざとなると、他人をジャッジし、世界を呪う、古くて重たいOSが自動的に起動してしまう。



彼は、自分の心の、そのどうしようもない頑固さに、ほとほと疲れ果てていた。



彼は、机の中から、一冊の古いアルバムを取り出した。



中学時代の、卒業アルバムだ。



パラパラとページをめくり、ある集合写真の前で、指を止める。



バスケットボール部のページ。



三年間、汗と涙を流した仲間たちと、顧問の武田を囲んで、全員が少し照れくさそうに、しかし誇らしげな顔で写っている。



彼の視線は、自分の隣で、同じように屈託のない笑顔を浮かべている一人の男子生徒に注がれていた。



宮田翔太。



中学時代の、彼の唯一無二の親友だった。



その笑顔を見た瞬間、蓮の脳裏に、錆びついたフィルムのように、あの日の光景が蘇る。



中学三年生の夏。



最後の大会の、レギュラー争いが熾烈を極めていた頃。



翔太は、スランプに陥っていた。



才能はあるのに、本番のプレッシャーに弱く、大事な場面でミスを繰り返していた。



蓮は、そんな翔太が歯がゆくて、そして心から心配だった。



だから、言ったのだ。



良かれと思って。



親友として、彼を正しい道に導く義務があると思って。



『翔太、お前のそういうところがダメなんだよ。もっと自信持てよ。練習でも、もっと声出せ。お前はうまいんだから、もっと自己主張しなきゃ、監督にアピールできないだろ』



『試合でミスすること考えて、弱気になってるから、動きが小さくなるんだ。もっと大胆にいけよ。俺がパス出すから』



それは、蓮の信じる「正論」だった。



彼なりの、最大限の友情の表現だった。



だが、翔太は、俯いたまま、震える声でこう言ったのだ。



『……お前に、何がわかるんだよ』



その瞳には、蓮が今まで見たこともないような、深い絶望と、拒絶の色が浮かんでいた。



『蓮は、いいよな。いつも自信満々で、誰からも認められてて。俺みたいに、毎晩、吐きそうになるまで緊張したり、手が震えてボールが掴めなくなったりする奴の気持ちなんて、わかるわけないだろ!』



そう言って、翔太は蓮の前から走り去っていった。



それが、二人の最後の会話になった。



結局、翔太はレギュラーにはなれず、蓮だけがスタメンとしてコートに立った。



そして、卒業と同時に、二人は別々の高校に進学し、関係は完全に断絶した。



蓮にとって、この出来事は、彼の価値観を決定づけるトラウマとなった。



自分は、親友のために、正しいことを言った。



なのに、理解されなかった。



それどころか、拒絶された。



自分は、善意を踏みにじられた、悲劇の被害者なのだ。



人が離れていくのは、自分のせいではない。



自分の「正しさ」を理解できない、相手の側の問題なのだ。



その頑なな自己防衛の論理が、今日までの「王様」としての月影蓮を、作り上げてきたのだった。



「……帰るか」



蓮は、アルバムを閉じ、重い体を無理やり起こした。



夏の長い一日が、ようやく終わろうとしていた。



学校を出て、最寄り駅へと続く、商店街の道を歩く。



数時間前に、短い夕立があったらしい。



濡れたアスファルトが、傾きかけた西日のオレンジ色を吸い込んで、しっとりと光っている。



甘く湿った土の匂いと、どこかの家の夕飯の匂いが混じり合って、鼻先をかすめた。



ひぐらしが、カナカナカナ…と、物悲しい声で鳴き始めている。



一年で最も日が長い季節の、終わりの始まりを告げる声。



駅前の、いつも利用するコンビニエンスストアに、ふらりと立ち寄った。



アイスでも買って帰ろうか、と思った、その時だった。



入り口の自動ドアが開き、中から出てきた人物と、目が合った。



心臓が、大きく跳ねた。



見慣れない、別の高校の制服。



少しだけ伸びた髪。中学時代よりも、少しだけ高くなった背。



だが、間違えるはずがない。



「……翔太」



蓮の口から、無意識に、その名前が漏れた。



翔太は、一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で蓮を見つめた。


そして、次の瞬間、その表情が、気まずさと、戸惑いと、そして微かな怯えの色に変わるのを、蓮は見逃さなかった。



「……月影」



翔太は、蚊の鳴くような声でそう言うと、気まずそうに目を逸らし、軽く会釈だけして、蓮の横をすり抜けようとした。



その、あからさまな拒絶の態度。



それが、蓮の中で、固く閉ざされていたパンドラの箱を、こじ開けた。



「おい、翔太!」



自分でも驚くほど、鋭く、そして大きな声が出た。



翔太の肩が、びくりと震える。


彼は、振り返ることなく、足を速めた。



「待てよ!なんで逃げるんだよ!俺が何したって言うんだよ!」



蓮は、叫んでいた。


二年以上の時を経て、まったく成長していない、あの頃と同じ、独りよがりな言葉を。



翔太は、ついに一度も振り返ることなく、雑踏の中へと消えていった。



一人、その場に残された蓮の全身を、熱い、どうしようもない感情の波が襲った。



怒り。



悲しみ。



屈辱。



そして、絶望。



やっぱり、そうなんだ。



俺は、何も悪くない。



悪いのは、あいつなんだ。



俺の善意を、友情を、一方的に裏切って、逃げたのは、あいつの方じゃないか。



俺は、被害者だ。



ずっと、ずっと、被害者だったんだ!




やり場のない激情に駆られ、蓮は、無意識のうちに、今来た道を引き返していた。学校へと。



彼が今、この黒く、ドロドロとした感情のすべてを、受け止めてくれる(あるいは、破壊してくれる)人間は、世界に一人しかいない。



教室のドアを、ほとんど蹴破るような勢いで開ける。



そこに、ひかりはいた。



彼女は、一人、教室に残り、明日の終業式のために、黒板に美しい装飾を描いていた。



カラフルなチョークで描かれた、夏の花々と、虹。



蓮は、息を切らしながら、そのひかりの前に詰め寄った。



「おい、ひかり!」



その声は、もはや怒鳴り声に近かった。



「やっぱり、お前の言うことなんて、全部、デタラメじゃねえか!!」



ひかりは、驚いたように振り返ったが、蓮の尋常でない様子を見て、何も言わず、ただ、静かに彼の目を見つめた。



蓮は、その静かな瞳に向かって、溜め込んでいた毒を、すべて吐き出すかのように、語り始めた。



翔太との再会。



中学時代の出来事。



自分の正しさ。



相手の裏切り。



そのすべてを、支離滅裂に、しかし、魂のすべてを絞り出すかのように。



「俺は!あいつのためを思って、正しいことを言ってやっただけなんだ!なのに、なんで俺が、あいつに避けられなきゃなんねえんだよ!悪いのは、全部あいつの方だろ!そうだろ!?俺は、被害者なんだよ!」



彼の絶叫が、がらんとした夕暮れの教室に、虚しく響き渡った。



ひかりは、蓮の激しい感情の嵐を、ただ黙って、静かに、その細い体の全身で受け止めていた。



まるで、防波堤のように。一切、反論も、同情もしない。



ただ、嵐が、その勢いを失うのを、じっと待っている。



やがて、蓮は、肩で激しく息をしながら、言葉を切らした。



もう、吐き出すべき言葉も、感情も、残ってはいなかった。



教室に、ひぐらしの声と、蓮の荒い息遣いだけが響く。



ひかりは、おもむろに、チョークで汚れた自分の手を、そっと蓮の肩に置いた。



そして、初めて口を開いた。



その声は、驚くほど穏やかで、夕立の後の、澄んだ空気のようだった。



「そっか。すごく、辛かったんだね。ずっと、一人で」



その言葉は、蓮の心の、一番奥深くにある、硬い鎧を、いとも簡単に通り抜けていった。



ひかりは、蓮の目を見つめたまま、続けた。



それは、この物語の、そして月影蓮という人間の、核心を突く言葉だった。



「じゃあさ、蓮くんが『正しい』って信じてるものと、翔太くんが『心地いい』って感じたり、『これが一番大事だ』って思ったりするものは、たぶん、ただ、形が違っただけなのかもね」



「……形が、違う?」



「うん。どっちが上で、どっちが下とか。どっちが正解で、どっちが間違いとか、そういう話じゃ、全然なくて。ただ、二つの、違う形をした、どっちも本物の真実が、そこに並んでいただけ。そして、たまたま、その二つの形が、中学三年生のあの時には、うまく噛み合わなかった。パズルのピースが、うまくはまらなかったみたいに。道が、そこで、二つに分かれちゃった。ただ、それだけのことだったんじゃないかな」



蓮は、頭を、巨大なハンマーで殴られたような衝撃を受けた。



正解と、間違い。



善と、悪。



加害者と、被害者。



彼は、その単純な二元論の世界でしか、生きてこなかった。



だが、ひかりは、その物差し自体を、いとも容易く、取り払ってみせたのだ。



違う形の、真実。



そんなことが、あり得るのだろうか。



ひかりは、蓮の肩から手を離すと、窓の外に目をやった。



激しい夕立は、いつの間にか完全に上がっていた。



西の空には、見たこともないほど大きく、そして鮮やかな、七色の虹がかかっていた。



「でもね、蓮くん」



ひかりは、その虹を見つめながら、静かに言った。



「一度分かれちゃった道も、またどこかで、ふっと繋がることがあるよ。不思議だよね」



彼女は、振り返って、蓮に微笑んだ。



「今の蓮くんが、今までとは違う、新しい道を選んで、歩き出せばね」



新しい、道。



その言葉が、蓮の心に、かすかな、しかし、確かな光を灯した。



自分の「正しさ」という、重たい荷物を、一度、下ろしてみるということだろうか。



蓮は、もはや反論する気力もなく、その場に、へたり込むように座り込んだ。



彼の内側で、二年以上の歳月をかけて、いや、物心ついた時からずっと、必死に築き上げてきた「月影蓮」という人間そのものが、ガラガラと、しかし心地よい音を立てて、崩壊していく。



そして、その瓦礫の中から、まだ形にならない、柔らかくて、温かい何かが、生まれようとしているのを感じていた。



終業式の前日。



長い、長い夏休みを前に、蓮の本当の「自分を探す旅」が、今、静かに始まろうとしていた。



空の虹は、まるでその旅路を祝福するかのように、いつまでも、鮮やかに輝き続けていた。




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