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第6話 一滴のインクが広がるように

七月も半ばを過ぎ、夏休みを告げるチャイムが聞こえてきそうな時期になると、校舎を包む空気は、もはや単なる熱気ではなく、意思を持った生き物のように感じられた。



アスファルトの上には目に見えるほどの陽炎が立ち昇り、遠くの景色を蜃気楼のように歪ませる。



窓の外では、蝉たちが、今が自分たちの季節の絶頂期だと知っているかのように、声を限りに、そして少しだけ狂気じみた響きを伴って、ジージーと大合唱を続けていた。その声は、分厚いコンクリートの壁さえも透過し、教室の中まで侵食してくる。



二年A組の教室内も、その夏の猛威から逃れる術はなかった。



天井で回る二台の扇風機は、熱せられた空気をかき混ぜるだけで、ぬるい風が汗ばんだ肌を撫でていくたびに、むしろ不快指数が上がる気さえした。



ほとんどの生徒が、うちわや下敷きで必死に顔をあおぎ、早く授業が終わることだけを願っている。



机の上に置かれたペットボトルの表面には、びっしりと水滴がつき、教科書やノートの端をじわりと濡らしていた。



床のワックスは、連日の熱と湿気で、歩くとわずかに粘りつくような感触がある。



汗の匂い、埃の匂い、そして誰かがこっそり噛んでいるフルーツガムの、場違いに甘ったるい香りが、澱んだ空気の中で混じり合っていた。




だが、このうだるような暑さの中で、クラスの雰囲気は、以前とは明らかに、そして劇的に変わりつつあった。




その変化は、月影蓮にとって、驚きと、戸惑いと、そして微かな嫉妬を伴って、日々、目の前で繰り広げられていた。



変化の震源地は、もはや一色ひかり一人ではなかった。



ひかりの言葉という名の「種」を受け取った友人たちが、今度はその種を、自らの手で、クラスのあちこちに蒔き始めていたのだ。



例えば、先日の昼休み。



別のクラスの女子生徒が、A組の友人を訪ねてきて、恋愛相談を始めた。



彼氏が他の女子と親しげに話していて不安だ、という、かつての美咲とよく似た悩みだった。



以前の美咲なら、一緒になって彼氏の悪口を言っていたに違いない。



だが、今の彼女は違った。



真剣な顔で友人の話を聞き終えると、困ったように笑いながら、こう言ったのだ。




「そっかぁ、それはモヤモヤするよね。でも、彼の頭の中で何が起きてるかは、結局誰にも分かんないもんね。確かなのは、今、あなたがすごく不安で、悲しいってことだけだよ。その気持ち、どうにかしたいって思う?」



それは、驚くほど正確な、ひかりの言葉の再現だった。



相談に来た女子生徒は、キョトンとした顔で、それでも、何か新しい視点を与えられたかのように、深く考え込んでいた。



体育の授業が終わった後の更衣室では、こんなこともあった。



ある男子生徒が、試合中の後輩のミスに対して、「アイツ、マジで使えねえな!」と怒りをぶちまけていた。


その輪の中にいた健太が、少し照れくさそうな、それでいて確信に満ちた口調で、こう言ってのけたのだ。



「まあまあ、落ち着けよ。後輩が投げたイライラのボールを、わざわざお前がキャッチしてやる必要もねえんじゃねえの?汚れるだけだぜ?」



「は?ボール?」



「まあ、そういうことだよ」



健太はそれ以上説明しなかったが、怒っていた生徒は、その奇妙な比喩に毒気を抜かれたのか、それ以上後輩を責めることはなかった。



進路相談の時期には、沙耶が活躍した。



志望校のランクを下げるべきか悩んでいる下級生に、彼女は、自分が推薦に落ちた時の経験を話しながら、穏やかに語りかけた。



「目標を持つのはすごく大事なことだけど、そのゴールテープを切ることだけが幸せじゃない、って最近思うんだ。途中の景色を楽しんだり、頑張ってる今の自分を認めてあげたりするのも、同じくらい大事な幸せなのかもよ」



その言葉には、机上の空論ではない、自らの痛みと気づきに裏打ちされた、確かな重みがあった。



そして、最も蓮を驚かせたのは、あの物静かな優衣の変化だった。



彼女は、自分の外見を気にしている友人に、はにかみながら、しかしはっきりとした声で言った。



「そんなことないよ。私は、あなたのそういう優しいところが好きだよ。それも、あなたっていう素敵なブランドを組み立ててる、大事な大事な、部品じゃん」



彼女が口にした「ブランド」と「部品」という言葉。



それは、数週間前に、ひかりが彼女に贈った言葉そのものだった。



蓮は、教室の自分の席という特等席から、これらの光景を呆然と眺めていた。



彼はもはや、友人たちの悩みが集まる「王様」ではなく、ただの「観察者」だった。



最初は、彼らの振る舞いを「猿真似だ」と、心の中で軽蔑した。



ひかりの受け売りを、さも自分の言葉であるかのように語る姿は、滑稽で、薄っぺらく見えた。



だが、すぐに気づかざるを得なかった。



その「猿真似」が、驚くほど効果的に、そして確実に、機能しているという事実に。



ひかりの言葉は、単なるその場しのぎの慰めや、気の利いた比喩ではなかった。



それは、まるでコンピューターのプログラムにおける「アルゴリズム」や、スマホの「OS」のようだった。



誰が、どんな状況で使っても、一定の効果を発揮する、普遍的で、再現性のある構造を持っている。



問題そのものではなく、問題への「向き合い方」を根本から変えてしまう、強力なフレームワークなのだ。



そして、最も恐ろしいのは、その変化が「非線形的に」加速していることだった。



これまでは、ひかりという、たった一つの「特異点」が、クラスの雰囲気に影響を与えていた。



だが今は違う。クラスのあちこちに、ひかりの言葉をインストールした、小さな「ひかりモドキ」たちが、同時多発的に出現している。



その結果、クラス全体の雰囲気は、まるで化学反応が連鎖していくように、爆発的なスピードで変わり始めていた。



その象徴的な出来事が、ある日のホームルームで起こった。



クラスの中でも特に孤立しがちで、少し変わった趣味を持つ生徒が、クラスメイトから心ない言葉でからかわれた。



「お前、またそんな変な本読んでんの?キモ」



以前のA組なら、その場は気まずい沈黙に支配されるか、あるいは、さらに面白がって囃し立てる者が出てきただろう。



蓮も、おそらく見て見ぬふりをしたか、心の中で「言われる方にも問題がある」とジャッジしていただろう。



だが、その日は違った。



蓮が何かを言う前に、全く別の場所から、声が上がったのだ。



「今の言葉、かなり泥だらけのボールだったね」



言ったのは、健太だった。



「その子の好きなものを、キモいなんて言う権利、誰にもないんじゃないかな」



続いたのは、沙耶だった。



「その本も、あの子の『ブランド』を構成する、大事な部品なんだよ」



とどめを刺したのは、優衣だった。



からかった生徒は、予想外の方向から飛んできた、静かだが的確な反撃に、顔を真っ赤にして黙り込むしかなかった。



蓮は、鳥肌が立つのを感じた。



すごい。



特定のリーダーがいるわけではない。


事前に打ち合わせをしたわけでもない。


それなのに、クラス全体が、まるで一つの生命体のように、自律的に「互いを尊重し、不当な攻撃から仲間を守る」という方向へと、秩序を形成し始めている。


誰かが誰かを断罪するのではない。


ただ、世界の「真理」にそぐわない言動を、静かに、しかし断固として修正していく。




殺伐としていた教室の空気が、温かく、受容的で、そして知性的なものへと、自己組織化されていく。



その光景は、蓮にとって、畏怖すべき奇跡のように見えた。




放課後。



うだるような暑さの中、蓮は、たまらない気持ちになって、一人教室に残っていたひかりに話しかけた。



「おい、ひかり」



彼の声は、自分でも驚くほど、弱々しく響いた。



「どうなってんだよ、このクラスは。みんな、お前のモノマネばっかりしやがって……。気味が悪い」




ひかりは、いつものように、窓際でガジュマルの鉢植えの、黄色くなった葉を摘んでいた。




彼女は、蓮の方を振り返ると、不思議そうな顔をした。



「モノマネかなあ?」


彼女は、心底そう思っているようだった。



「みんな、自分で見つけて、自分が一番楽になれる方法を、他の人にも『おすそ分け』してあげてるだけじゃないかな。すごく美味しいケーキを見つけたら、友達にも『あそこのケーキ、美味しいよ』って教えたくなるのと、同じだと思うけど」



その屈託のない言葉に、蓮はぐっと詰まる。



ひかりは、摘んだ葉をゴミ箱に捨てると、蓮のそばに来て、窓の外を指さした。



窓の外では、夕立の気配か、巨大な入道雲の縁が、少しだけ黒ずみ始めていた。



「ねえ、蓮くん」



ひかりは、静かに、あの比喩を語り始めた。



「コップに入った、きれいな、ただの透明な水があるとするじゃん?」



「……ああ」



「そこに、たった一滴だけ、青いインクをポチャンと垂らす。最初は、そのインクが落ちたところ、その一点の周りだけが、青く染まるよね」



ひかりは、指で小さな円を描いた。



「でも、そのまま、ただじっと見てるだけで、どうなる?」



「……広がるだろ。全体に」



「そう。誰かがスプーンでかき混ぜたり、難しい計算をしたりしなくても、インクの粒は勝手に、じーんわりと、水全体に広がっていく。そして、いつの間にか、コップの水は、全部、均一で綺麗な水色になってる。今のこのクラスって、私には、そんな感じに見えるんだ」



ひかりは、蓮の目をまっすぐに見て、微笑んだ。




その笑顔は、夏の太陽のように、眩しくて、直視できなかった。




「私っていう一滴が、最初のきっかけだったのかもしれない。それは、認める」



「でもね、今、この教室をこんなに綺麗な水色に染めているのは、もう、私じゃないんだよ」



「美咲の青、健太の青、沙耶の青、優衣の青。そして、まだ名前も知らない、たくさんの、みんな一人ひとりの、小さな、小さな『青』が、お互いに影響し合って、この大きな流れを作ってる。私は、ただ、それを眺めてるだけ。すごいなって、感動しながら」



ひかりの言葉は、蓮の胸に突き刺さっていた、最後のプライドという名の分厚い鎧を、静かに、しかし容赦なく、溶かしていった。



世界は、一人の英雄や、一人の王様が、力ずくで変えるものじゃない。



個々の、名もなき、弱い要素の、ささやかな相互作用が、誰にも予測できない、美しく、そして力強いパターンを、自ずと創り出していくのだ。



自分が「王様」として、このクラスを支配し、自分の「正義」で染め上げようとしていたことが、いかに不自然で、傲慢で、そして、無意味なことであったか。



蓮は、それを、全身で、痛感していた。



彼は、この「自己組織化された幸福」の輪の中に、入りたかった。



自分も、その美しい水色の一部になりたい。



そう、初めて心の底から願った。



しかし、どうすればいいのか、全く分からなかった。



自分の心にインストールされた、他人をジャッジし、世界を呪う、この古くて重たいOSを、どうやってアンインストールすればいいのか。



夏の夕暮れ。



遠くで、雷鳴が聞こえ始めた。



蝉の声が、ぴたりと止む。



蓮は、ひかりが大切に育てているガジュマルの木に、目をやった。



太い幹。



複雑に絡み合う無数の根。



そして、生命力に満ち溢れた、たくさんの青々とした葉。



その一つ一つが、互いを支え合い、一つの「ガジュマル」という奇跡を成り立たせている。



自分も、あの、一枚の葉に。



一本の、根に。



なることは、できるのだろうか。



彼の内側で、本当の意味での「変化」を求める、静かで、しかし切実な祈りのような感情が、産声を上げようとしていた。



夕立が、世界を洗い流すために、今、始まろうとしていた。




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