第5話 「私」ってブランドの部品は一つじゃない
七月に入り、長く続いた梅雨が、まるで嘘だったかのように唐突に明けた。
空は、突き抜けるようなコバルトブルーに塗り替えられ、巨大な彫刻のような入道雲が、空の領土を我が物顔で占拠している。
世界は一気に夏の装いをまとい、むせ返るような熱気が地上を支配した。
アスファルトから立ち上る陽炎が風景を揺らし、校庭の隅にある百葉箱が、蜃気楼の向こうでぼんやりと霞んで見えた。
グラウンドからは、野球部の威勢のいい掛け声と、乾いた金属バットの快音が、じりじりと焼けるような空気の層を突き抜けて響いてくる。
教室の中では、ほとんどの生徒が、教科書や下敷き、あるいは手で、気だるそうに顔をあおいでいた。
誰かが持ち込んだ小さな卓上扇風機が、首を振りながら「ジー、ジー」と健気にぬるい風を送り続けている。
廊下のワックスは、連日の熱気で少し柔らかくなったのか、歩くと上履きの裏に、ねちゃり、と微かな抵抗を感じる気がした。
どこかの教室の窓辺で揺れる風鈴の音が、風に乗ってここまで届いてくるのは、きっと幻聴だろう。
月影蓮の心も、この夏の始まりの天気のように、落ち着かないままだった。
期末テストの数学の答案用紙に記された『38点』という数字は、彼のプライドに、消えない傷跡を残した。
だが、それ以上に彼の心を占めていたのは、あの日、一色ひかりに突きつけられた「どうしたいの?」という問いだった。
答えは、まだ見つからない。
だが、あの問いは、確実に蓮の内側で何かの変化を促していた。
彼は、ひかりの言葉を何度も頭の中で反芻し、そのロジックを解体し、再構築しようと試みていた。
彼女は、なぜあんなにも揺るがないのか。
彼女が見ている世界は、一体どんなふうにできているのか。
その知的な探求心が、かつての「王様」としての傲慢さに取って代わろうとしていた。
その結果、彼の周りの空気は、目に見えて変わっていた。
友人たちが悩み事を口にしても、蓮は以前のように即座に同調しない。
まず、相手の言葉をじっと聞き、「そっか」と短く相槌を打つ。
そして、何かを言いかけては、口を噤む。
何を言うべきか、分からなくなってしまったのだ。
彼の周りに渦巻いていた心地よい毒の渦は、その中心が静かになったことで、勢いを失い、穏やかな淀みに変わりつつあった。
その日の放課後。
ほとんどの生徒が部活や帰宅の途につき、がらんとした教室には、数えるほどの生徒しか残っていなかった。
夏の強い西日が、ブラインドの隙間から幾筋もの光の矢となって差し込み、床に落ちた消しゴムのカスや、埃の一つ一つを、くっきりと浮かび上がらせている。
物静かな友人Dこと、小林優衣が、自分の席でスマホの画面を眺めながら、誰にも聞こえないような、深くて重たい溜息をついた。
彼女は、クラスの中でも特に目立たない存在だった。
派手なグループには属さず、いつも二、三人の同じような雰囲気の友人と、教室の隅で静かに本を読んだり、おしゃべりしたりしている。
その小さく儚い絶望のサインに、以前の蓮なら気づかなかっただろう。
だが、今の彼は、自分自身が悩みの渦中にいるからこそ、他人の心の些細な揺らぎに、以前よりずっと敏感になっていた。
蓮は、自分の席から立ち上がると、優衣の机のそばまで歩いていった。
「…どうしたんだよ」
その声は、かつて彼が他の女子生徒にかける声とは違い、少し不器用で、ぎこちなかった。
優衣は、びくりと肩を震わせると、慌ててスマホの画面を隠した。
その顔は、うっすらと赤くなっている。
「ううん、なんでもない…」
「なんでもなくないだろ。そんな、この世の終わりみたいな溜息ついて」
蓮の言葉に、優衣は観念したように、おずおずとスマホの画面を見せた。
そこには、人気のファッション通販サイトが表示されており、外国人モデルが、今年の流行だというワンピースを着て、眩しい笑顔を浮かべていた。
「…見て。このモデルさん、すごく可愛い…」
優衣の声は、蚊の鳴くような声だった。
「私、なんでこんな顔なんだろうって、時々、すごくイヤになるの。もっと目がパッチリしてて、鼻が高くて、顔が小さかったら、全然違う人生だったんだろうなって…。そしたら、もっと明るい性格になれただろうし、蓮くんみたいな人とも、普通に話せたりしたのかな、とか…」
最後の方は、ほとんど独り言のようだった。
彼女の瞳は、潤んでいた。
それは、誰かを羨む嫉妬ではなく、自分自身に向けられた、どうしようもない諦めと、自己嫌悪の色をしていた。
蓮は、その言葉に、胸がちくりと痛むのを感じた。
かつての彼なら、「そんなことないよ、優衣は可愛いよ」と、口先だけの慰めを言ったかもしれない。
あるいは、「わかる。俺ももっと背があれば…」と、いつものようにネガティブな共感で彼女の絶望を肯定したかもしれない。
だが、今の彼は、どちらも選ばなかった。
「……そう、思うのか」
彼は、まず、彼女の主観、彼女が見ている世界を、そのまま受け止めた。ジャッジも、評価もしない。
ただ、そうか、と。
そして、彼は、自分の内側にある、あまり人には見せたことのない弱さを、ぽつりと晒した。
「俺も、時々思うよ。あと五センチ、いや、三センチでいい。背が高ければ、バスケでもっと違うプレーができたのかな、とか。そしたら、健太みたいに、もっとチームの中心になれたのかな、とかさ」
それは、扇動でも、計算でもない、純粋な共感と自己開示だった。
優衣は、クラスのスターである蓮が、自分と同じようにコンプレックスを抱えていることに、少しだけ驚いたような顔をした。
二人の間に、沈黙が流れる。
それは、傷ついた者同士の、静かな絆のようなものだった。
だが、その絆は、二人を袋小路へと導くだけの、生産性のない、優しい罠でもあった。
その時だった。
「二人とも、何深刻な顔してんのー?」
のんびりとした声と共に、ひかりがひょっこりと顔を出した。
彼女は、教室の後ろの窓際で、自分が育てている小さな鉢植えに、霧吹きで水をやっていたらしい。
その手には、緑色の葉をつけたガジュマルの鉢植えが、大切そうに抱えられていた。
「ひ、ひかりちゃん…」
優衣が、慌ててスマホを隠そうとする。
ひかりは、そんな優衣の様子を見ると、にこりと笑い、二人のそばにやってきた。
そして、ガジュマルの鉢を机に置くと、おもむろに自分のスマホを取り出した。
「ねえ、見て。これ、去年の文化祭の時の私」
ひかりは、画面に表示された写真を、二人に突きつけた。
そこには、クラスTシャツを着て、少しだけ緊張した面持ちでピースサインをする、一年生の時のひかりが写っていた。
そして、彼女は、今の自分の顔を指さし、突拍子もない質問を投げかけた。
「今の私と、どっちが可愛い?」
「え…?」
優衣と蓮は、顔を見合わせ、戸惑うしかなかった。
ひかりは、そんな二人の反応を楽しむかのように、くすくすと笑った。
「この前、生物の先生が言ってたんだけどね。人間の体って、早いものだと数日で、遅いものでも数ヶ月もすれば、ほとんどの細胞が新しいものに入れ替わるんだって。だから、物理的に見れば、去年の私と今の私は、全くの別人なんだってさ。不思議だよね」
その言葉は、さらりと語られたが、蓮の心には小さな棘のように引っかかった。
すべては変わり続ける。
彼女の言葉の根底には、いつもこの思想が流れている。
「そもそもさ」
ひかりは、問いを投げかけた。
「『私』って、一体、なんなんだろうね?」
彼女は、優衣の机の上にあった、猫のキャラクターが描かれたペンケースを指さした。
「このペンケースは、『優衣ちゃんのペンケース』だけど、もし中身が空っぽだったら、それはただの可愛い布の袋だよね。中に、優衣ちゃんが選んだお気に入りのペンや、使い込んだ消しゴムや、友達からもらったシールが貼ってある定規なんかが入ってて、初めて、それは優衣ちゃんだけの、特別なペンケースとして機能する」
ひかりは、そこで一度言葉を切ると、優衣の目をまっすぐに見つめた。
「それと、同じなんじゃないかな。『小林優衣』っていう、世界でたった一つのブランドがあるとするじゃん?」
「……ブランド?」
「うん。そのブランドを組み立ててる部品って、顔だけじゃないと思うんだ。優しくて、少しだけ人見知りなところとか、綺麗な字を書くところとか、面白い少女マンガをいーっぱい知ってるところとか、友達のことをすごく大事にしてるところとか。そういう、たくさんの、たくさんの素敵な部品が全部集まって、『小林優衣』っていう、世界に一つだけの、最高のブランドが出来上がってる」
ひかりの声は、熱を帯びていた。
それは、ただの慰めではない、彼女が心から信じている「真理」の響きを持っていた。
「なのに、そのブランドを構成している、無数の部品の中の、たった一つの部品、例えば『顔』っていう部品だけを、わざわざ取り出してきて、『この部品のデザインはイマイチだから、このブランドは全部欠陥品だ!』って決めつけちゃうのは、そのブランドの社長である優衣ちゃん自身として、すごく、もったいないことだと思わない?」
その比喩は、鮮やかな一閃の光のように、優衣と、そして蓮の心を射抜いた。
蓮は、衝撃で頭が真っ白になるのを感じた。
「月影蓮」というブランド。
そのブランドを構成する部品は、身長だけではない。
バスケがうまいこと。
友達が多いこと。
本当は、勉強だってできるはずだ。
それに、ひかりに言われて気づかされた、自分の知らない、たくさんの部品があるのかもしれない。
自分は、たった一つの、しかも変えることのできない部品にこだわり続け、自分自身というブランド全体の価値を、自分の手で貶めていたのだ。
ひかりのやり方は、問題を否定するのでも、同調するのでもない。
その問題が根差している「自己認識」という土壌そのものを、耕し、入れ替えてしまう。
それは、もはや対症療法ではなく、根治治療だった。
彼は初めて、ひかりの言葉を、反発心なく、一つの「知的なモデルケース」として分析していた。
そして、その見事な構造に、畏敬の念すら覚えていた。
優衣は、泣いてはいなかった。
ただ、呆然と、自分の両手を見つめている。
まるで見知らぬものを見るかのように、指を一本一本動かしてみたり、爪の形を確かめたりしている。
そして、自分の好きな漫画のこと、仲の良い友達のこと、好きな食べ物のこと、そういう自分の「部品」を、一つ、また一つと、心の中で確かめているようだった。
彼女の自己認識が、静かに、しかし劇的に、再構築されようとしている瞬間だった。
夏の強い西日が、ブラインドの隙間から差し込み、教室の床に長い光の帯を描いている。
その光の中で、ひかりが持ってきたガジュマルの鉢植えの葉が、生き生きとした緑色に輝いていた。
太く、たくましい幹。
そこから伸びる、無数の気根。
そして、青々とした艶のある葉。
そのすべてが、一つとして欠けることなく集まって、一つの「ガジュマル」という生命を形作っている。
ひかりの言葉が、目の前の風景と重なり、蓮の心に、すとん、と音を立てて落ちてきた。
彼はまだ、ひかりのようにはなれない。彼女のように、迷いなく世界の真理を語ることはできない。
しかし、彼女が指し示している世界の「真理」のかけらを、彼は今、確かに受け取った。
それは、彼の凝り固まったプライドと自己認識を、ゆっくりと溶かし始める、夏の熱い日差しのような、暖かくも、そして少しだけ厳しい光だった。