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第3話 「幸せ」と「ゴールテープ」は別物

梅雨の中休み、と天気予報は言っていた。



その言葉の牧歌的な響きとは裏腹に、地上に降り注ぐ太陽の光は、まるで懲罰のように暴力的だった。



アスファルトは陽炎を揺らめかせ、視界をぐにゃりと歪ませる。



むせ返るような緑の匂いが、生命力の飽和を告げていた。



校庭の隅にある雑木林からは、気の早い蝉が、まだぎこちない声で懸命に鳴き方の練習をしている音が聞こえてくる。



夏は、もうすぐそこまで来ていた。



二年A組の教室は、強い日差しを避けるために、南側の窓のブラインドがほとんど下ろされていた。



アルミ製の羽根の隙間から漏れた光が、床や机の上に、いくつもの鋭い光の筋を描き出す。



その光の中を、チョークの粉や目に見えないほどの小さな埃が、きらきらと乱舞していた。



閉め切られた空間に、生徒たちの汗と体温、そして微かな日焼け止めの匂いが混じり合い、独特の閉塞感と気だるさが満ちている。



数日前、顧問への怒りを爆発させていたバスケ部の健太は、今、自分の席で黙々と英単語帳をめくっていた。



以前の彼なら、部活の疲れを言い訳に机に突っ伏していただろう。



だが、今の彼はどこか違う。



時折、ペンを回しながら窓の外に目をやり、何かを確かめるように小さく頷いている。



あの「怒りのボール」の話が、彼の内側でどんな化学変化を起こしたのかは分からない。



ただ、彼の周りを覆っていた、触れれば火傷しそうな焦燥のオーラは、少しだけ和らいでいるように見えた。



スマホを巡って半泣きになっていた美咲も、甲高い声で愚痴を言うことがなくなった。



休み時間には、蓮の元へ行く代わりに、他の女子たちと、昨日のテレビドラマの話で屈託なく笑っている。



その手には、お気に入りのキャラクターが描かれた新しいスマホケースがつけられていた。



月影蓮は、そんな教室の空気の微細な変化を、肌で感じ取っていた。



それは、彼にとって居心地の悪い変化だった。



彼の王国を支えていた「不平」や「不満」という名の地盤が、少しずつ、しかし確実に侵食されている。



友人たちの視線が、憐れみや助けを求めて自分に注がれる時間が、明らかに減っていた。



代わりに、彼らが無意識のうちに向ける視線の先には、いつも涼しい顔で本を読んだり、窓の外を眺めたりしている、一色ひかりの姿があった。



蓮の胸の内には、形容しがたい焦燥感が、じっとりとした汗のように滲み出していた。



それは、自分の人気が奪われることへの嫉妬とは少し違う。



もっと根源的な、自分の存在意義そのものが揺らぐような、静かな恐怖だった。



その日の放課後。事件は、昇降口に張り出された一枚の紙から始まった。



『令和七年度 指定校推薦 校内選考結果』



その掲示の前は、黒山の人だかりができていた。


喜びの歓声を上げる者、静かにガッツポーズをする者、そして、崩れ落ちるようにその場に立ち尽くす者。



天国と地獄が、A3のコピー用紙一枚で残酷に分け隔てられていた。



友人Cこと、小野寺沙耶はその「地獄」の側にいた。



彼女は、クラスでも一、二を争う優等生だった。



入学以来、一度も成績上位から落ちたことはなく、授業態度は真面目そのもの。



誰もが、彼女が第一志望の有名私立大学の指定校推薦枠を勝ち取るものだと信じて疑わなかった。



彼女自身も、そう信じていたはずだ。



だが、そこに彼女の受験番号はなかった。



たった一つの枠を、僅差で別のクラスの生徒に奪われたのだ。



教室に戻ってきた沙耶は、まるで抜け殻のようだった。



顔は青白く、血の気が失せている。



彼女は誰とも目を合わせず、自分の席までたどり着くと、椅子に崩れるように座り込んだ。



そして、机に突っ伏したまま、声を殺して肩を震わせ始めた。



美咲や健太のように感情を爆発させるのではなく、内へ内へと沈み込んでいくような、静かで深い絶望。



その姿は、周りの生徒たちに声をかけることすら躊躇させた。



蓮は、そっと彼女の隣の席に椅子を持ってきて座った。



その動きは、まるで傷ついた小鳥に寄り添うように、どこまでも優しかった。



「沙耶…」



蓮が声をかけると、沙耶はゆっくりと顔を上げた。



その目は真っ赤に腫れ上がり、涙で濡れた長いまつ毛が痛々しく頬に張り付いている。



「……落ちた」



か細い、かき消えそうな声だった。



「あんなに、頑張ったのに…。毎日、夜中まで勉強して、部活も我慢して、遊びたいのも全部我慢して…。私の、この二年ちょっとは、一体なんだったの……?」



嗚咽が、言葉の合間を縫って漏れ出す。



「もう、いい大学には行けない。一般入試でなんて、絶対に無理。私の人生、もう、終わりだ……」



蓮は、その絶望の言葉を、深く、深く頷きながら受け止めた。



彼は、安易な励ましの言葉など口にしない。それが、かえって相手を傷つけることを知っているからだ。



それが、彼のやり方だった。



「……だよな」



蓮の声は、沙耶の絶望に寄り添うように、低く、重かった。



「わかるよ。将来、全部かかってるもんだもんな。たかが紙切れ一枚で、人生決められるなんて、たまったもんじゃない」



彼は、沙耶の震える背中を優しく撫でた。



「真面目に、コツコツ努力してきた人間が、最後には報われないなんて。本当に、クソみたいな世の中だよな」



その言葉は、完璧なまでに沙耶の気持ちを代弁していた。



彼女の絶望を、社会の不条理や運命の残酷さのせいにしてくれる。



あなたは何も悪くない、悪いのは世界の方なのだと、優しく囁いてくれる。



沙耶は、その言葉に慰められ、蓮の肩に顔をうずめ、さらに深く、底なしの絶望の淵へと沈んでいった。



その会話を、一色ひかりはすぐ近くの席で聞いていた。



何かをするでもなく、ただ、ブラインドの隙間から見える空を眺めている。



空には、巨大な入道雲が生まれつつあった。



白い塊が、もくもくと、意思を持っているかのように形を変えながら、空の高みへと登っていく。



風に揺れる夏椿の木が、はらり、と清楚な白い花を一つ、地面に落とした。



沙耶の嗚咽が、少しだけ途切れたタイミングだった。



ひかりは、まるで独り言のように、静かに口を開いた。



「沙耶って、すごいよね」



その唐突な言葉に、沙耶は顔を上げ、蓮は怪訝な表情でひかりを振り返った。



絶望の淵にいる人間にかける言葉として、それはあまりに場違いに聞こえた。



ひかりは、そんな二人の反応を気にも留めず、穏やかな表情で続ける。



「だって、一つのゴールに向かって、二年以上もずっと、全力で走り続けられたんでしょ?それって、誰にでもできることじゃないよ。私には、絶対無理だなあ。本当に、すごいことだと思う」



それは、結果ではなく、沙耶が費やしてきた時間と努力、そのプロセスそのものに対する、一点の曇りもない称賛だった。



沙耶の瞳が、驚きでわずかに見開かれる。



今まで、彼女の価値は常に「結果」で測られてきた。



良い成績、良い評価。そのゴールに到達して初めて、彼女の努力は意味を持つと信じてきた。



ひかりは、ゆっくりと沙耶の隣に歩み寄ると、蓮とは反対側の席に腰掛けた。



「大学合格ってさ、きっと、すっごく長いマラソン大会のゴールテープみたいなものなんだろうね」



ひかりは、目の前にゴールテープがあるかのように、両手を広げてみせた。



「テープを切った瞬間、『やったー!』って叫んで、両手の拳を突き上げる。周りからは拍手喝采。それは、最高に気持ちいいだろうな。何物にも代えがたい、『達成感』だよね」



ひかりは、沙耶が求めていたものの正体を、「達成感」という言葉で明確に定義した。



沙耶は、こくりと小さく頷く。



まさに、その瞬間のためだけに、彼女は走ってきたのだ。




「でもさ」



ひかりは、少し悪戯っぽく笑った。



「もし、そのゴールテープを切ることだけが『幸せ』だとしたら、ちょっと大変じゃない?だってそれって、ゴールするまでの四十二キロ、ずーっと幸せじゃないってことになっちゃう。苦しくて、辛くて、ひたすら我慢の時間。そんなの、私なら耐えられないな」



「……え?」



沙耶が、初めて自分の意思で言葉を発した。



「じゃあ、『幸せ』って、なんだろうね?」



ひかりは、問いかけると、視線をふいと窓の外に向けた。



その目は、入道雲の、さらに向こうにある何かを見ているようだった。



「例えば、マラソンの途中でさ、道端に名前も知らない、でもすっごく綺麗な花が咲いてるのを見つけて、『わ、ラッキー』って思う感じ。あるいは、苦しい上り坂を登りきった後、頂上で顔に受ける風がすっごく気持ちよくて、『あー、最高…』って思う感じ。それってさ、ゴールできたかどうかとは全然関係なく、『今、この瞬間』に感じられるものじゃない?」



ひかりの声は、まるで詩を詠むように、静かで、心地よかった。




「私、今、こうやって沙耶と話してて、窓からいい風が入ってきてて、花の匂いがして、結構幸せだなって思うけどな」



その言葉は、沙耶の心に、静かだが確かな波紋を広げた。



幸せ。



その言葉を、彼女は今まで「目標を達成した先にある、ご褒美」だと思っていた。



良い大学に入ること。良い会社に就職すること。



そういった、未来のどこかにある輝かしいゴール。



そのために、今の苦しさや辛さに耐えるのだと。



だが、ひかりは言う。



幸せは、今、この足元にあるのだと。




その時だった。



近くで話を聞いていた美咲が、ぽつりと呟いた。



「……わかる、かも。私も、健司から返信なくても、昨日友達と食べた新作のクレープ、めちゃくちゃ美味しくて、その時は普通に幸せだなって思った…」



すると、単語帳を閉じた健太も、少し照れくさそうに口を挟んだ。



「部活の練習自体は、今もキツいけど…。でも、ドリブルで相手を抜いた瞬間とか、シュートがスパッて綺麗に決まった瞬間とか…。そういう、顧問関係なく『よっしゃ』って思うのは、あるな」



蓮は、その光景に愕然としていた。



まるで、魔法が解けていくようだった。



自分がかけた「あなたは被害者だ」という呪いが、ひかりの言葉によって、次々と解かれていく。



自分の信者だったはずの友人たちが、いとも簡単に、ひかりの思想に「感染」していく。



自分の言葉は、沙耶を優しい絶望の沼に留めているだけだ。



だが、ひかりの言葉は、沼の底にいる沙耶に、空を見上げるきっかけを与えている。



自分のやり方が、初めて明確に「敗北」した。



強烈な焦燥感と、今まで感じたことのない種類の、深い孤独感が、蓮の心を冷たく支配した。



沙耶は、まだ泣きそうな顔をしていたが、その瞳に宿る光は、先ほどとは明らかに違っていた。



そこには、純粋な絶望以外の色――戸惑い、驚き、そして、ほんのわずかな希望の光――が混じり始めていた。



ひかリは、そんな沙耶の頭を、ポン、と軽く撫でた。



「ま、推薦に落ちたのは、普通にめちゃくちゃショックだよね。三年間頑張ったんだもん。当たり前だよ」



彼女は、沙耶の現実の悲しみを、決して否定しない。



「だから、今日はもう、難しいこと考えるのやめ。帰り道に一番好きなケーキ買って、あったかいお風呂にゆっくり入って、ふかふかの布団で思いっきり寝るのが一番だよ」



そう言って、ひかりは、花が咲くように、にっこりと笑った。



夕日が教室を、優しいオレンジ色に染め上げていく。



ブラインドの隙間から差し込む光の筋が、床にくっきりとした縞模様を描いている。



ひかりの周りには、いつの間にか、健太や美咲も集まり、穏やかな空気が流れていた。



一方で、蓮は自分の席で一人、その輪から取り残されたように座っていた。



ひかりの言っていることが「正しい」のかもしれない。



頭のどこかでは、そう理解していた。



しかし、それを認めてしまえば、今まで自分が築き上げてきたもの、信じてきた正義の全てが、ガラガラと音を立てて崩れ去ってしまう。



その葛藤が、若い王様の心の内側で、静かに、しかし激しく渦巻き始めていた。



夏の始まりを告げる、長い長い放課後だった。




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