第2話 その「怒り」のボール、キャッチしなきゃダメ?
あの、奇妙な放課後から数日が過ぎた。
季節はカレンダーの数字を律儀に追いかけ、梅雨の領域へと足を踏み入れていた。
昨日から降り続いた雨は、今朝がたようやくその勢いを弱め、昼過ぎには重たい灰色の雲の切れ間から、洗い清められたような青空が顔を覗かせた。
放課後の校舎は、巨大な蒸し器のようだった。
雨水がたっぷりと染み込んだコンクリートの壁やアスファルトの地面が、午後の強い日差しに熱せられ、もわりとした水蒸気を立ち上らせている。
窓から吹き込んでくる風は、前よりさらに湿度を増し、まるで誰かの熱っぽい溜息のように、肌にねっとりと絡みついた。
二年A組の教室も、例外なくその湿っぽい熱気に支配されていた。
床も、机も、壁に貼られた掲示物までもが、どこかしっとりと湿っているように感じられる。
開け放たれた窓の外では、雨粒の重みで枝をしならせた桜の木が、滴る雫を陽光にきらめかせていた。
中庭に植えられた紫陽花は、この季節を待ちわびていたとばかりに、青や紫の瑞々しい花を誇らしげに咲かせている。
土の匂い、濡れた葉の匂い、そして微かなカビの匂いが混じり合った、雨上がりの午後特有の匂いが教室を満たしていた。
一色ひかりは、自分の席で静かに文庫本を読んでいた。
時折、風が彼女の黒髪を優しく揺らす。
その様子は、まるでこの蒸し暑い世界の喧騒から、彼女だけが切り離されているかのようだった。
数日前、月影蓮に泣きついていた美咲は、あれ以来、少しだけ様子が変わった。
もちろん、すぐに彼氏との関係が劇的に改善したわけではないらしい。
だが、彼女は蓮のもとへ駆け込んで愚痴を言う代わりに、休み時間に一人で窓の外を眺めたり、スマホをいじる手をとめて何かを考え込んだりする時間が増えた。
その横顔は、まだ不安の色を浮かべてはいるが、以前のような「自分は被害者だ」という悲壮感は、少しだけ薄れているように見えた。
その小さな変化を、蓮は敏感に感じ取っていた。
そして、それがひかりのせいであることも。
蓮にとって、それは面白くない事態だった。
彼の王国は、友人たちの「問題」という貢ぎ物によって成り立っている。
友人たちが彼に依存し、彼がそれを「共感」という名の威光で支配する。
それが、彼の世界の秩序だった。
だが、ひかりは、その秩序を根底から揺るがす異物だ。
彼女は、貢ぎ物を要求しないどころか、人々が自給自足で生きていける方法を、こともなげに示唆する。
蓮の存在意義そのものを脅かす、静かなる侵略者。
それが、今の蓮にとっての一色ひかりだった。
今日も、蓮の周りには数人の男子が集まり、スマホのゲーム画面を覗き込みながら、他愛のない会話を繰り広げている。
だが、その輪の中心にいるはずの蓮の意識は、どこか上の空だった。
彼の視線は、時折、読書に没頭するひかりの横顔へと、磁石のように引き寄せられては、慌てて逸らされるのだった。
その、均衡を保っていた気だるい空気が、突如として破られた。
「だあああーーっ!マジでクソっ!やってらんねえ!!」
バンッ!と、教室の後ろのドアが乱暴に開け放たれ、怒声とともに一人の男子生徒が転がり込んできた。
バスケットボール部の、宮下健太だった。
真っ赤な顔は、激しい運動によるものか、それとも純粋な怒りによるものか。
おそらく、その両方だろう。
タンクトップのユニフォームはびっしょりと汗で濡れ、鎖骨のあたりから胸元にかけて、滝のように汗が滴り落ちている。
ぜえ、ぜえ、と肩で息を切り、その目は血走っていた。
体育館で履く専用のバッシュは、キュッキュッと床を鳴らし、彼の尋常でない精神状態を代弁しているかのようだった。
「健太?どうしたんだよ、そんなにキレて」
蓮が、待ってましたとばかりに声をかける。
彼の目は、新たな「問題」の到来を歓迎するかのように、好奇心で輝いていた。
健太は、教室の中央までずかずかと歩いてくると、自分のスクールバッグを床に叩きつけた。
「あのクソジジイ!マジでありえねえ!絶対許さねえ!」
「クソジジイって……顧問の武田か?」
「アイツ以外に誰がいんだよ!」
健太は、まるで呪いの言葉を吐き出すかのように、まくし立て始めた。
話の要点はこうだ。
今日の練習試合で、健太のチームは一点差で負けた。
敗因は、試合終了間際に後輩の一人が犯した、痛恨のパスミス。
それ自体は仕方がないことだった。
問題は、その後のミーティングで起きた。
顧問の武田は、ミスをした後輩を叱るのではなく、なぜかその時コートに立っていた健太たち上級生を名指しで、
「お前らの緩んだ空気が後輩のミスを誘発したんだ!」
「三年のお前がキャプテンシーを発揮できないからチームが締まらないんだ!」
と、一方的に、そして執拗に罵倒し続けたのだという。
「俺のせいじゃねえだろ!ミスしたのはアイツだぞ!?なのになんで俺が、みんなの前であんな晒し者にされなきゃなんねえんだよ!理不尽にもほどがあるだろ!あれは指導じゃねえ、ただの八つ当たりだ!」
健太の拳は、怒りで固く握りしめられている。
彼の視点から見れば、それは完全な濡れ衣であり、許しがたい侮辱だった。
彼のプライドは、ズタズタに引き裂かれていた。
蓮は、腕を組み、深刻な顔で何度も頷きながら健太の話を聞いていた。
そして、健太が話し終えるや否や、まるで裁判官が判決を言い渡すかのように、断言した。
「それは、完全にパワハラだな」
その一言が、導火線に火をつけた。
「だよな!?パワハラだよな!?俺、なんも悪くねえよな!?」
「当たり前だろ。どう考えたって、悪いのは武田だ。あいつ、前々からヤバいって噂あったもんな。自分の機嫌で練習メニュー変えたり、お気に入りの生徒だけひいきしたり。完全に指導者失格だよ」
蓮は、健太の怒りを的確に言語化し、それを「正義」へと昇華させていく。
その手腕は、もはや芸術の域に達していた。
周りで話を聞いていた他の男子たちも、次々に会話に加わってくる。
「わかるわー、武田ってマジで感情的だよな」
「俺もこの前、廊下でスマホいじってただけで壁ドンされて説教されたぜ」
「いっそ、教育委員会にチクっちまうか?」
健太への同情から始まった会話は、いつしか「顧問・武田への集団糾弾」という、刺激的なエンターテイメントへと変貌していた。
健太の個人的な怒りは、クラスの男子たちの共有財産となり、その輪の中心で、彼は「理不尽な権力に立ち向かう悲劇のヒーロー」として、一時的に輝きを放っていた。
怒りという負の感情が、一体感という名の麻薬的な高揚感へと変換されていく。
それは、見ていて少し怖くなるほどの、危険な化学反応だった。
ひかりは、文庫本から顔を上げ、その様子をただ黙って見ていた。
ページをめくる指が、いつの間にか止まっている。
その視線に気づいたのか、あるいは、この「正義の劇場」に彼女をも引き込みたかったのか。
蓮が、挑発的な笑みを浮かべて、ひかりに声をかけた。
「よお、ひかり。お前もそう思うだろ?聞いてたか?今回の話は、どう考えたって顧問が百パー悪い。美咲の時みたいに、『何か事情があったのかも』なんて言い訳は通用しねえぞ」
蓮の言葉に、教室の空気が一瞬、緊張する。
誰もが、この静かな少女が何を言うのか、固唾をのんで見守っていた。
ひかりは、ゆっくりと本を閉じると、立ち上がって健太たちの輪に近づいた。
そして、汗と怒りでぐちゃぐちゃになった健太の顔を、まっすぐに見つめた。
「うん。腹立つよね」
ひかりは、静かに言った。
「一生懸命やってるのに、そう言われちゃったら、すごく悔しいし、悲しいよね」
その言葉は、意外なほど優しく響いた。
彼女は、健太の怒りの奥にある、一次感情――プライドを傷つけられた「悔しさ」や、努力を認められなかった「悲しさ」――に、まずそっと寄り添ったのだ。
いきなり正義を振りかざした蓮とは、アプローチが根本的に違っていた。
健太の強張っていた肩の力が、ほんの少しだけ抜けるのが分かった。
ひかりは、そこで一呼吸おくと、少し困ったように笑いながら続けた。
「なんかさ、今の話聞いてて思ったんだけど……」
全員の意識が、彼女の次の言葉に集中する。
「顧問の武田先生が、健太に向かって、泥だらけの『怒りのボール』を、思いっきし投げつけてきた感じかなって」
「……は?怒りのボール?」
健太が、眉をひそめて聞き返す。
ひかりは、こくりと頷いた。
「そう。泥と石ころが詰まってて、すごく臭くて、ベトベトの、最悪なボール。それを、武田先生が『うぉりゃー!』って、健太の顔めがけて全力で投げてきた」
ひかりは、身振りを交えながら、楽しそうに説明する。
その突拍子もない比喩に、健太も周りの男子たちも、キョトンとするしかなかった。
「普通さ、そんな汚いボールが自分に向かって飛んできたら、『うわっ、きたな!』って思うじゃん?とっさに避けたり、手で払いのけたりするでしょ?だって、そんなの受け取ったら、自分の大事なユニフォームも、手も、心も、全部泥だらけになっちゃう。そんなの、誰だってイヤだもん」
ひかりは、そこで一度言葉を切り、健太の目をじっと見つめた。
「でも、健太は違ったんだよ」
「……俺が?」
「うん。健太は、その泥だらけのボールが飛んできたのを見て、逃げるどころか、真正面から、両手を大きく広げて、『どんとこい!俺が受け止めてやる!』って、がっしり胸でキャッチしちゃった。だから今、健太の心もユニフォームも、武田先生が投げた泥で、ぐちゃぐちゃになってる」
教室に、奇妙な沈黙が落ちた。
蓮が作り上げた「勧善懲悪の劇場」とは、まったく質の違う、静かで、それでいて頭の芯が痺れるような、不思議な空気が流れる。
誰もが、ひかりの言った「怒りのボール」の比喩を、頭の中で反芻していた。
顧問が悪い。
それは大前提だ。泥のボールを投げつけるなんて、最低な行為だ。
だが、ひかりは、そこからさらに一歩進んで、「受け取った側」の選択について語り始めたのだ。
「ボールを投げた武田先生はもちろん良くないよ。すごく悪い。そんなことしちゃ、絶対ダメだ」
ひかりは、そう前置きした上で、核心に触れた。
「でもね、『その汚いボールを、キャッチするか、しないか』を選ぶ最後のチャンスは、ほんのコンマ一秒だけ、実は健太にあったんじゃないかなって、思ったんだ」
その瞬間、健太の顔から、血の気が引いていくのが分かった。
彼の瞳から、燃え盛るような怒りの炎がすっと消え、代わりに深い混乱の色が浮かび上がった。
「俺が……キャッチした……?」
その問いは、もはや誰かに向けたものではなかった。
彼自身の、内側から湧き上がってきた、初めての問いだった。
その時、沈黙を切り裂くように、蓮が叫んだ。
「ふざけんなよ!」
彼の顔は、前回ひかりに反論した時よりも、さらに険しくなっていた。
それはもはや、単なる苛立ちではなかった。
自分の信じる世界、自分の存在意義そのものを否定されたかのような、悲痛な怒りだった。
「ボールが飛んできた時点で避けられないことだってあるだろ!いきなり背後から投げられたらどうすんだよ!それに、そもそも!」
蓮は、ひかりの目の前に詰め寄る。
「健太は被害者なんだぞ!泥を投げつけられて汚された、正真正銘の被害者だ!それなのに、『お前がキャッチしたのが悪い』みたいに言うのかよ!そんなの、あんまりじゃねえか!冷たすぎるだろ!」
蓮の正義感が、再び燃え盛る。
彼は「悪い奴を糾弾し、可哀想な被害者を守る」という、分かりやすい構図を心から愛している。ひかりの理論は、その美しい構図を破壊し、「被害者」にまで責任の一端を求める、非情で残酷な思想に聞こえたのだ。
ひかりは、目の前で怒りを爆発させる蓮を、静かな目で見つめていた。
そして、ゆっくりと口を開く。
「うん、避けられないくらい速くて、意地悪なボールも、世の中にはいっぱいあるよね。びっくりして、体が固まっちゃうこともある」
彼女は、蓮の主張を否定しない。
「でもね」と、彼女は続けた。
「いつも試合で、ピッチャーが投げる前からキャッチャーミットを構えて、『さあ、どこからでも投げてこい!』って待ってるのと、構えずにぼーっとしてるのとじゃ、ボールのキャッチしやすさって、だいぶ違うと思わない?」
それは、怒りっぽい性格、つまり、いつでも誰かの「怒りのボール」を受け止める準備ができている状態――常にミットを構えている状態――への、静かな暗喩だった。
健太は、その言葉を聞いて、自分の胸に手を当てたまま、立ち尽くしていた。
「俺……いつも、構えてた、のか……?」
彼の口から、か細い声が漏れた。
降り続いていた雨は、すっかり上がっていた。
西の空が、雲の隙間から燃えるようなオレンジ色の光を放ち、教室の窓ガラスを鮮やかに染め上げている。
濡れた校庭の緑が、その光を浴びて、生命力に満ちた深い色合いを放っていた。
雨上がりの澄んだ空気と、土の匂い。
顧問への怒りという共通の敵を失い、一体感をなくした男子たちのグループは、気まずそうに顔を見合わせている。
「じゃ、私、そろそろ部活あるから」
ひかりは、まるで何事もなかったかのように軽く手を振ると、自分のバッグを持って、静かに教室を出ていった。
一人残された蓮は、自分の正義がまたしても、ふわりと空転させられた感覚に、立ち尽くすしかなかった。
ひかりという少女が、彼の築き上げた王国を、静かに、しかし確実に、その根底から侵食し始めている。
それは、これまで感じたことのない種類の、明確な焦燥感だった。