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第10話 きみが世界なんだ

二月の空気は、ガラス細工のように冷たく、澄み渡っていた。


 

三年間という、長く、そしてあまりに短かった高校生活の終わりを告げる卒業式が、もう来週に迫っていた。



校舎を包む光は、真冬のそれとは違い、どこか柔らかさと力強さを帯び始めている。



日は確実に長くなり、午後の授業が終わる頃、西の窓から差し込む陽光は、弱々しいながらも、はっきりとした輪郭を持って、教室の床に暖かい光の四角形を描き出していた。



二年A組、改め、もうすぐ「旧三年A組」となるこの教室は、相変わらずリアルな生活感で雑然としていた。



机には、この一年で増えた小さな傷や落書きがあり、後ろのロッカーからは、誰のものとも知れないマフラーの端が覗いている。


だが、そこに流れる空気は、物語が始まったあの初夏とは、比較にならないほど穏やかで、澄み切っていた。



ストーブが放つ石油の匂いと、誰かが窓際に飾った、数本のスイートピーの甘い香りが、冬の終わりの気配を運んでくる。


窓ガラスには、外気との温度差で生まれた結露が、美しいレース模様を描いていた。



この一年で、クラスは、一つの成熟した生命体へと進化した。



それは、誰もが常に笑顔で、一切の問題も起きない、ユートピアのような場所ではない。



今でも、誰かがテストで悪い点を取って落ち込むし、恋人と些細なことで喧嘩もする。



意見が食い違って、気まずい空気が流れることもある。



だが、その「問題」に対する向き合い方が、根本的に変わったのだ。



誰かが失敗しても、それを責め立てる声は上がらない。



代わりに、「ドンマイ!」「次、頑張ればいいじゃん」という、温かい声が、ごく自然に、あちこちから飛んでくる。



議論が白熱しても、相手を人格攻撃したり、感情的に論破しようとしたりする者はいない。



「なるほど、君はそう考えるんだね」



「私の意見は少し違って、こう思うな」



と、互いの「違う形の真実」を、敬意をもって提示し合える。



誰かが一人で悩みを抱えていれば、かつての蓮のように「答え」を与えたり、ひかりのように「真理」を説いたりするまでもなく、周りの友人たちが、自然と輪になって話を聞く。



「そっか、辛かったね」と、まずその感情を受け止め、そして、「で、どうしたい?」と、その人自身の力で立ち上がるのを、辛抱強く、そして信頼して待つことができる。



かつて教室を分断していた、派手なグループ、物静かなグループ、オタク気質のグループといった、見えない壁は、いつの間にか、すっかり取り払われていた。



それは、全員が無理に仲良くなったというのとは違う。



誰もが、自分は自分でいていい、他人は他人でいていい、という、個々の独立性を、心の底から尊重し合えるようになった結果だった。



安全で、穏やかで、そして、自由な場所。



二年A組は、そんな奇跡のようなコミュニティへと、自らの力で、変貌を遂げたのだ。



その日、卒業前の最後のクラスイベントである、合唱コンクールの練習が行われていた。



指揮者を務める沙耶が、少し困った顔でピアノの前に立っていた。



「うーん、みんな、ちょっと音がバラバラかな。特に男子のバスパート、少しだけ音が低いかも」



以前のクラスなら、「なんだよ、偉そうに」「お前こそ、ちゃんと指揮しろよ」といった、心ない野次が飛んでいたかもしれない。



だが、今は違った。



バスパートの中心にいた健太が、照れくさそうに頭を掻きながら言った。



「わりぃ、沙耶。俺、音程に自信なくて、つい声が小さくなっちまうんだ」



すると、隣にいた別の男子が、健太の肩を叩いた。



「大丈夫だって!俺が隣でデカい声で歌ってやるから、それに合わせろよ!」



「ありがとう!助かるわ!」



ピアノを弾いていた優衣が、にっこりと微笑んだ。



「じゃあ、もう一回、バスパートの音だけ取ってみようか。私のピアノの音、よく聞いてね」



そのやり取りには、非難も、言い訳も、自己憐憫もなかった。



ただ、問題点を共有し、互いに助け合い、より良いものを作り上げようという、建設的で、温かい意志だけがあった。



蓮とひかりは、少し離れた場所から、その光景を微笑ましく眺めていた。



もはや、彼らが介入する幕は、どこにもない。



ひかりが蒔いた小さな種は、クラスという土壌で見事に芽吹き、蓮という太陽の光を得て力強く成長し、そして今、そこにいる一人ひとりが、自ら美しい花を咲かせ、また新しい種を、風に乗せて飛ばしている。



ひかりは、もはや「特別な存在」ではない。彼女の見ていた世界は、今や、クラス全員の共有財産となっていた。



彼女は、ただの、穏やかで心優しい、クラスメイトの一色ひかりに戻っていた。



そして蓮も、もう「王様」ではない。彼もまた、この美しい生態系を構成する、かけがえのない一員だった。




***




卒業式の前日。



すべての行事が終わり、生徒たちが名残を惜しむように去っていった、がらんとした放課後の教室で、ひかりと蓮は、二人きりで、窓の外を眺めていた。



冬の夕日は、空を、燃えるような、しかしどこか寂しげな茜色に染め上げていた。



一年間の、たくさんの思い出が詰まったこの教室を、最後の光が、慈しむように照らし出している。



机に残された無数の傷、少しだけ色褪せた壁の掲示物、チョークの匂いが染みついた黒板消し。



そのすべてが、言葉にできないほど、愛おしく感じられた。



「…すごいよな、このクラス」



蓮が、ぽつりと、まるで独り言のように呟いた。



「一年前は、あんなにギスギスして、みんな、誰かの悪口ばっかり言ってたのに。まるで、別の世界みたいだ」



彼は、ひかりの方を向いて、心からの笑顔を見せた。



「お前が、本当に、全部変えたんだ。ひかり。お前は、やっぱり、すげえよ」



それは、彼が、この一年間でたどり着いた、偽りのない感謝の言葉だった。



ひかりは、その言葉を聞いて、嬉しそうに、でも、やはり少しだけ寂しそうに、首を横に振った。



「ううん」



彼女の声は、春の小川のせせらぎのように、優しく、そして透き通っていた。



「私が変えたんじゃないよ。みんな、ただ、元々いた場所に戻っただけ。自分にとって、一番楽で、一番自然でいられる場所にね。人間って、きっと、本当はみんな、優しくて、賢いんだよ。ただ、それを忘れちゃうくらい、いろんな荷物を背負いすぎてるだけなんだ」



人々が本来持っている、無限の可能性を信じる。



それが、彼女の、揺るぎないスタンスだった。



蓮は、ひかりの言葉を、静かに聞いていた。



そして、今度は、自分の心の奥底から湧き上がってきた、確かな実感として、言葉を紡いだ。



「お前のおかげで、俺も、やっと、帰ってこられた気がするよ」



彼は、窓の外の、茜色の空に目をやった。



「過去を悔やんだり、未来を不安に思ったりするんじゃなくて、『今、ここ』が、一番大切で、一番幸せだって、心の底から、そう思えるようになった」



その顔には、一点の曇りもなかった。かつての彼を縛り付けていた、すべての呪いから解放された、自由で、力強い顔だった。



ひかりは、その言葉を聞いて、今までで一番、美しい笑顔を見せた。



それは、もはや「悟りを開いた少女」の、どこか超越的な微笑みではなかった。



大切な友人の成長を、心から喜び、祝福する、一人の、ごく普通の女の子としての、温かい、温かい笑顔だった。




彼女は、蓮の隣に並び、同じように、夕暮れの空を見上げた。



そして、この物語のすべてを集約する、最後の言葉を、静かに、彼に贈った。



「蓮くんが世界を変えたんじゃないよ」



ひかリは、優しく言った。



「蓮くんが見ている、その夕焼けも、教室の匂いも、私の声も、蓮くん自身のドキドキする心臓の音も、その景色の全部が、まるごと、蓮くん自身の『世界』なんだよ」



「だから、蓮くんが変わったから、蓮くんの世界は、こんなにも、美しくなったんだ」



二人の間に、言葉はもう必要なかった。



どちらからともなく、分かっていた。



卒業して、別々の道を歩むことになっても、この一年間で結ばれた、魂の深い場所での繋がりが、決して消えることはないのだと。



やがて、夕日が完全に山の端へと沈み、世界は、昼と夜が混じり合う、魔法のようなトワイライトの時間に包まれた。



教室の窓の外には、空がまだ明るさを残すうちに、一番星が、まるで二人の未来を祝福するかのように、強く、そして優しく、輝き始めていた。



彼らの、そして、ここにいた全ての人々の、新しい旅が、今、始まる。



温かい希望と、世界を見るための新しいコンパスを、その胸に抱いて。



物語は、静かに、そして、どこまでも続く未来への予感を残して、幕を下ろした。





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