第1話 世界は「問題」でできている
六月の気圧は、まるで思春期の心そのものみたいに、ひどく不安定だった。
梅雨入りを目前にした空気は、湿った綿のように肌にまとわりつき、じっとりと汗を滲ませる。
窓を全開にしても、教室に流れ込んでくるのは熱を帯びた生ぬるい風ばかりで、気休めにもならない。
そんな放課後の、県立湊北高等学校、二年A組。
ほとんどの生徒が去った後の教室は、日中の喧騒が嘘のような、気だるい静けさに満ちていた。
床にワックスが塗られてからまだ日が浅い廊下は、西棟の窓から斜めに差し込む橙色の光を鈍く反射し、まるで蜂蜜を薄くのばしたかのようなテカリを見せている。
歩くたびに、上履きの裏が「キュ、キュ」と微かに泣く音が、やけに大きく響いた。
教室の中は、誰かが消し忘れた一番後ろの天井の蛍光灯が、ジー、と頼りない音を立てながら、昼と夜の境界線で白々しく光っている。
その光に照らされた空間は、およそ整頓とは無縁の、リアルな高校生の生活感で溢れかえっていた。
乱雑に積まれたままのプリント類。誰かの机に彫られた、意味不明なキャラクターの落書き。
後ろのロッカーからは、はみ出したジャージの裾がだらしなく覗いている。
壁に貼られた「進路だより」は、四隅の画鋲が一つ外れて傾き、去年の夏の日差しで色褪せた部分が、時間の経過を残酷なほど雄弁に物語っていた。
チョークの粉と、埃と、誰かが使った制汗スプレーのシトラスの香りが混じり合った、独特の匂い。
それが、私たちの世界の匂いだった。
一色ひかりは、窓際の一番後ろの席で、頬杖をつきながらその全てをただ、眺めていた。
彼女の席は特等席だった。
窓の外には、グラウンドと、その向こうに連なる小さな防風林が見える。
風が吹くたびに、ケヤキの葉が一斉に裏返って銀色に輝き、ざわめき立つ音がここまで届く。
風に乗って、刈られたばかりの夏草の青い匂いと、どこかの花壇で咲いているのだろう、くちなしの甘い香りがふわりと鼻先をかすめた。
ひかりは、すーっと細く息を吸い込む。
熱を持った風が肺を満たし、額に滲んだ汗がこめかみをゆっくりと伝っていく感覚。
その一つ一つが、どうしようもなく「今、ここ」にあるという実感を与えてくれる。
他の誰でもない、自分の感覚。ひかりは、それが好きだった。
対照的に、教室の中央では、ひかりのいる静かな世界とは全く別の時間が流れていた。
そこには、このクラスの王様、月影蓮がいた。
長い前髪が切れ長の目に憂いを帯びた影を落とし、まるで少女漫画から抜け出してきたかのような完璧な造形。
モデルのようにすらりとした長身で、夏服の白いシャツを少しだけ着崩している様も計算され尽くしているかのようだ。
性格は明るく社交的で、彼の周りにはいつも人が集まってくる。女子も、男子も。
だが、その実態は、巨大なブラックホールにも似ていた。彼は、人々の「問題」を糧にして輝くのだ。
友人たちの不平や不満、怒りや悲しみを、彼は驚異的な共感力で受け止め、増幅させ、そしてそれを共有することで、強力な磁場を形成する。
彼の周りに渦巻くのは、共感という名の心地よい毒だった。
人々は、自分の抱えるネガティブな感情を蓮に肯定してもらうことで一時的な安堵を得て、その磁場に囚われていく。
だから、この二年A組は、表面上は平和に見えて、その実、常に誰かの悪口や噂話、愚痴や不満といった、淀んだエネルギーで満たされていた。
誰もが誰かの「問題」を消費し、自分の抱える不安から目を逸らし、その共犯関係によってかろうじて自分の立ち位置を保っている。そんな、脆く、殺伐とした空気が支配していた。
「――で、マジでありえなくない!?」
甲高い声が、気だるい空気を切り裂いた。
声の主は、クラスでも目立つグループにいる、友人Aこと中村美咲だ。
彼女は、潤んだ瞳でスマホの画面を蓮に突きつけながら、ほとんど半泣きで訴えている。
「彼氏の健司にLINE送って、既読ついてからもう三時間だよ!?なのに返信なし!普通、なんか言うでしょ!?」
美咲の指先は、小刻みに震えている。
スマホの画面には、メッセージアプリのトーク画面が表示されていた。
『今日部活終わったら電話していい?』という彼女のメッセージの下に、冷たく『既読』の二文字が灯っている。
時刻は、午後二時十四分。現在の時刻は、午後五時半を回ろうとしていた。
蓮は、その画面を深刻な顔で覗き込むと、まるで自分のことのように眉をひそめ、深く、重々しく溜息をついた。
「うわ……これはないわ。マジでない」
その一言は、美咲の不安に満ちた心に、ガソリンのように注がれた。
「でしょ!?ありえないよね!?何か一言、『あとでね』とかさ、スタンプ一個でもいいじゃん!それすらないって、もう私のことどうでもいいってことじゃないの!?」
「いや、どうでもいいとかそういうレベルじゃなくて、人としてどうなのって話だろ。三時間だぞ?スマホ見てる時間なんて絶対あったはずじゃん。なのに無視って……。美咲がどんだけ待ってるか、普通考えたら分かるだろ」
蓮の言葉は、完璧なまでに美咲の代弁者だった。
美咲が言ってほしい言葉、彼女の不安を正当化し、原因をすべて彼氏である健司に押し付けてくれる、魔法の言葉。
「そう!そうなの!健司、最近ずっとこうなんだよ!前はすぐに返信くれたのに!きっと他に好きな子でもできたんだよ!もう終わりだ、私、振られるんだ……」
ついに美咲の目から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。
周りにいた他の友人たちも、「えー、ひどいね」「健司くん、そういうタイプに見えなかったのに」と口々に言い始める。
そこには、美咲への同情と、他人の恋愛のトラブルに対する野次馬的な好奇心と、そして「自分の彼氏は大丈夫だろうか」という、自身の不安の投影がごちゃ混ぜになっていた。
教室の一角が、美咲の悲劇を舞台にした小さな劇場と化す。
主演は美咲、そして監督兼主演男優が、月影蓮だ。
彼は、悲劇のヒロインを優しく抱きとめるように、言葉を続ける。
「泣くなよ、美咲。悪いのは百パーセント健司だ。お前は何も悪くない。そんな誠意のない男のことなんて、こっちから願い下げだって」
「でも、私、健司のこと好きなんだもん……!」
「わかるよ。わかる。だからこそ、辛いんだよな」
蓮は、美咲の頭を優しく撫でた。
その仕草はあまりに自然で、様になっていて、まるで映画のワンシーンのようだった。
美咲は、蓮の胸に顔をうずめるようにして、さらに声を上げて泣き始める。
共感と肯定。
それは、傷ついた心にとって、麻薬のような甘美さを持つ。
だが、それは痛み止めでしかなく、傷そのものを治す力はない。
むしろ、傷の原因を外部に押し付け、「自分は被害者である」という認識を強化することで、人をより無力な場所へと追い込んでいく。
蓮の周りでは、常にこのプロセスが繰り返されていた。
その時だった。
ふわり、と。
まるで綿毛が舞い降りるように、その場の空気を少しも乱すことなく、一色ひかりが彼らの輪のすぐそばに立っていた。
いつからそこにいたのか、誰も気づかなかった。
彼女は、泣いている美咲と、慰める蓮、そしてそれを取り巻く友人たちを、ただ静かに見ていた。
「そっかー」
ひかりは、ぽつりと言った。
その声は、高くも低くもない、不思議な響きを持っていた。
夏の夕暮れの、風が凪いだ一瞬のような、穏やかな声。
誰を責めるでもなく、かといって同情するでもない。
ただ、目の前で起きている出来事を、そのまま音にしたような一言だった。
場の全員の視線が、一斉にひかりに集まる。
蓮が、少しだけ苛立ったような顔で彼女を睨んだ。
「なんだよ、ひかり。お前も健司がひどいと思うだろ?」
ひかりは、蓮の棘のある視線を意に介すことなく、少しだけ首を傾げた。
その仕草は、まるで純粋な子供が、世界の仕組みについて「どうして?」と問いかけるような、無垢なものだった。
「うーん……でもさ、彼のスマホの中で今、何が起きてるかは、この中の誰にも分かんないよね」
ひかりの言葉は、静かだったが、その場に満ちていた「健司=悪」という単純な方程式に、ヒビを入れるには十分な力を持っていた。
「例えば、急に先生に呼ばれてスマホ触れないとか。充電がちょうど切れちゃったとか。もしかしたら、美咲にカッコ悪いとこ見せたくないくらい、すっごく大変なトラブルに巻き込まれてる、とか」
「はあ?何言ってんだよ。そんなの、ただの可能性だろ。普通に考えたら、返信できるのにしてないだけだ」
蓮が、吐き捨てるように言う。
彼の築き上げた劇場に、無粋な観客が口を挟んだことへの不快感が露わになっていた。
ひかりは、そんな蓮の敵意を柳に風と受け流し、泣きじゃくる美咲のほうへ視線を向けた。
その瞳は、どこまでも澄んでいた。
「うん、そうだね。可能性でしかない。だから、健司くんが今どうしてるかなんて、本当は誰にも分からない。良い奴かもしれないし、最低な奴かもしれない。それは、神様しか知らないこと」
ひかりは、そこで一度言葉を切ると、しゃがんで美咲と視線の高さを合わせた。
「だからね、確かなのは、たった一つだけだよ」
「……なに?」
しゃくりあげながら、美咲が尋ねる。
「確かなのは、健司くんのことじゃない。『今、美咲が、ものすごくツラいって感じてる』ってこと。他の誰でもなく、美咲の心臓がドキドキして、胸がギュッてなって、涙が出てるってこと。それだけが、この世で唯一の、本当のことだよね」
ひかりの言葉には、ジャッジがなかった。
「健司が悪い」もなければ、「そんなことで泣くな」もない。
ただ、美咲の中で起きている感情の嵐、その存在そのものを、絶対的に肯定していた。
美咲は、ハッとしたように顔を上げた。
今まで、彼女の意識はすべて「彼氏の健司」に向いていた。
彼が何をしているのか、何を考えているのか。
その外部の要因によって、自分の感情が振り回されていた。
だが、ひかりは、そのベクトルをぐいっと百八十度回転させ、美咲自身の内側へと向けさせたのだ。
「その気持ち、どうしたい?」
ひかりは、続けた。静かに、だが、芯の通った声で。
「ツラい気持ちのままでいたい?それとも、少しでも楽になりたい?選べるのは、美咲だけだよ」
その問いは、美咲にとって、そして蓮たちにとっても、まったく予想外のものだった。
問題の原因は彼氏にあり、自分は被害者。
だから、彼氏が謝罪したり、態度を改めたりしない限り、この「ツラさ」は解消されない。
それが、この劇場の暗黙のルールだった。
だが、ひかりは、そのルール自体を根底から覆した。
原因がどうであれ、自分の感情の舵を握っているのは、自分自身だと。
解決の主導権は、あなたにあるのだと。
一瞬の沈黙が、教室を支配した。
夕日がさらに傾き、窓から差し込む光の角度が鋭くなる。机や椅子の脚が、黒く長い影を床に伸ばしていた。
ひかりの背後から差す光が、彼女の輪郭を金色に縁取り、まるで後光が差しているかのように見える。
その沈黙を破ったのは、蓮だった。
「そういう問題じゃねえだろ!」
絞り出すような、怒気を含んだ声。
「美咲は!健司のせいで傷ついてんだよ!原因はアイツにあんだから、アイツが変わるべきなんだろ!なんで被害者の美咲が、自分の気持ちをどうこうしなきゃなんねえんだよ!おかしいだろ、それ!」
蓮の顔は、彼の信じる「正義」を汚されたことへの怒りで、紅潮していた。
彼は、ひかりの言葉を、被害者である美咲に対する無神経な仕打ちだと捉えたのだ。
彼の怒りを受けても、ひかりの表情は変わらなかった。
ただ、少しだけ困ったように眉を下げて、ふわりと笑うだけだった。
その笑顔は、反論でも、諦めでも、ましてや嘲笑でもなかった。
それは、まるで、足し算しか知らない子供に、掛け算の概念をどう説明すれば伝わるだろうかと、本気で考えている教師の微笑みに似ていた。
茜色の光が、教室のすべてを染め上げていく。
泣き止んだまま呆然とひかりを見つめる美咲。怒りに肩を震わせる蓮。
そして、ただ静かに微笑むひかり。
世界のルールが、ほんの少しだけ、きしむ音を立てた。
そんな、六月の放課後だった。