第七章 信じていたのに
……。
………………。
………………………………残念だ。
踵を返す。
もう、彼の顔を見たくない。
「待ってくれ! イリア!」
……背後から声が聞こえた。
「私はイリアではない。もう話すことはない」
早くここから、離れたい。
「殿下」
足を早める私に追い着いて、シモンが呼びかけてきた。
「『宿痾剣』の処遇は如何なさいますか」
「――カバラまで護衛する代わりに身の安全を保障するという契約を交わした。放っておけ」
「……御意」
父の死。宿痾剣。心を乱す出来事が立て続けに起きた。
頭が鉛のように重く、判断能力を失っている自分に気づく。
……。
疲れた。
王女サマは足早に離れ、城門の中に引っ込んだ。
残されたのはあたしとシモン、それと『宿痾剣』だ。
「行っちまったね」
「……そうだな」
シモンはあたしに言葉を返すと、そのまま王女と同じようにカバラに戻っていく。
「おいおい、あんたも行くのかい? こいつはどうすんだよ」
「殿下の仰ったとおりだ、放っておけ。昔から荒事はお前の担当だろう。巻き込まれては敵わんしな」
「そりゃそうだが、お前――」
あたしが言い終わるよりも早く、城門が勢いよく閉まった。
残ったのはあたしと『宿痾剣』だけ。
「はあ、気が進まないね」
右下から殺気が噴出していた。
「放っておけったって、なあ?」
常人なら頭が潰れる力で抑えつけた男に呼びかける。
どのような感情でそうしたのかわからないが、両手が大地を掴んで粉砕していた。
「剝がれてるよ、化けの皮」
蒸し暑い夜のような、粘ついた殺気。
それはぐちゃぐちゃになった臓物みたいで、感情など読み取れるはずがない。
血の匂いまで漂ってきそうだ。
これが四戒剣。
なるほど、これは異常だ。
「ゔゔゔ」
男を抑えつけた掌の隙間から、魔物がこちらを覗いていた。先ほどの優男と同じ瞳とは到底思えない、濁った深淵がそこにあった。
「あたしと同類、か。勿体ないね。こんないい男」
頭を抑えられているにも関わらず、四肢に力を込め無理やり起き上がろうとしている。
このままだと首が折れる。
虫みたいだなと思った。
そう、あれだ。
子供のころ戯れに蜻蛉を捕まえてじっと見ていたら、頭を切り離して飛んでいったのだ。
死してなお空を渡るその姿に、いたく感動したのを覚えている。
柄にもなく感傷に浸っていると、虫が鳴いた。
「手を、離せ」
男の手があたしの右腕を掴み、骨を軋ませる。
暗い瞳の中には、人らしいものが何一つ見当たらない。
そこにあるにはただ、敵意だけだ。
「いい加減諦めなよ。あんたはもう、人じゃないんだから」
掴んだ男の頭を体ごと振り回す。
そのまま地面に叩きつけた。
二、三度弾んでから地面に倒れ伏した男は手足をもぞもぞ動かしていたが、その足掻きもほどなくして終わった。
……帰るか。
「じゃあね」
赤獅子は一度も振り返らず城内に帰還する。草一つない荒野に、哀れな獣を打ち捨てて。
「やっぱり、こうなったね」
獣の倒れた場所から少し遠く、暗い林の中から商人クロムが事のいきさつを傍観していた。
眉根を寄せて独り言ちる。
「うーん、困った。このままいくと良くない。戦争が終わってしまう。僕の望みが遠ざかる」
「ねえ、君の知恵を貸してくれないかい?」
背後に顔を向けてクロムが話しかける。返ってくる声はなく、彼の顔に寒風が吹き付けた。
「……自分で考えろってことかな。まあ、それはそうだね」
視線を前に戻したクロムは思案気な顔をして『宿痾剣』の方に目を向ける。
「アイリーン・ベルンシュタインへの接触は無理筋だ。彼女は城の中に入るだろう。人間の僕は近づけない。シモン・ハスターも同様。部外者の僕にできることは限られている。だったら……答えは一つしかないか」
傷ついた青年を映す浅葱色の瞳に、小さな雫が入る。
「おっと」
クロムは二、三瞬きしてから空を見上げ、短く呟いた。
「雨か」
十二月二十七日の夜。
私はカバラの城、スチュワート城の塔の中にいた。
私のために設けられた一室には優美な調度品の数々が並べられている。
天蓋付きのベッドに腰掛け、カバラに来てからあったことを振り返る。
二日前城に入った時、王都から避難してきた民が私の姿を認め、少し騒ぎになった。
相当な不安が民の心に圧し掛かっていた。
王都にいた息子が帰ってこない。東側の街との交易が途絶えている。魔人国はこの後どうなるのか。
父と宿痾剣のことで疲弊していた私は彼らの言葉に答えることができず、対応をシモンに任せて去ってしまった。
失態だ。
私が帰ってきたことについては、無用の混乱を避けるため公表を控えた方がいいとシモンに進言された。
納得したためその通りにしたが、侍女から聞いた話によると「王女が帰ってきた」という噂がカバラ全域に広がっているらしい。
――だめだ。
このままではいけない。
政策の立案をシモンや他の者たちに丸投げし、承認、否認の印鑑を押すだけでは。
王族はそのような怠惰な者であってはいけない。
毛布の中に体を入れて横になる。
今は眠る。明日のための英気を養う。
明日になったら私の帰還を民に公表し、臣下たちには今後の方針を示す。
暫定的にカバラを首都とし、魔人国の中心とする。
この都市に兵、官僚、民を集め強固な要塞となす。
カバラを起点として新たな防衛線を張り、これ以上の侵略をなんとしても阻止する。
それから――。
……。
眠れない。時計の針は深夜十二時を指していた。
ふと、宿痾剣のことを思い出してしまう。
彼と決別してから二日が経った。
敵であることがわかっても、共に過ごした時間を心から消し去ることは難しかった。
己の軟弱さに嫌気が差す。
自分がこれほど甘い魔人だとは思わなかった。
報告に間違いがあったのではないか。やりとりに行き違いがあったのではないか。何か事情があったのではないか。
政務の最中でも、くだらない考えが頭を過っていた。
頭を振って雑念を払う。
『梟』の通達は絶対だ。間違いはない。
行方不明になっていた偵察部隊の生き残りにも面会した。半月前に王都で見送った兵士の一人だった。
長年国に仕えてきたシモンと、一週間前に出会ったばかりの宿痾剣、どちらの言葉を信用するかなど論ずるまでもない。
……。
あのような男が。
何故、私の父を殺した。
……いいや。
理由などない。
戦争とは、そういうものだ。
ぴい、と。
月明かりの指す窓の方から、笛の音が聞こえた。
これは魔笛の音。子供が吹いているような、頼りない吹き方だ。
私が彼に渡した、笛の音。
――ああ。来たのか。
ベッドから身を起こし、赤のジャケットを羽織って立つ。
しばらく待っていると窓が開き、件の男が姿を現した。
二メートルほどの距離で向かい合って立つ。
窓から漏れる月明かりが、私たちの間に伸びていた。
「私を殺しに来たか?」
「……そんなことはしない」
はっきり見ることを私の心が拒んでいるのか。ただ部屋が暗いだけか。
彼の顔は、見えないままだった。
話すことなどもうない。
私はもう、彼を信じられない。
長い沈黙の末『宿痾剣』が口を開いた。
「……イリア」
それは嘘。
「……私はイリアではない。アイリーン・ベルンシュタインだ」
「……」
「そしてお前は、月影朱月だ」
これが、本当。
「俺は――」
「もう話すことはないと、言ったであろう。去れ」
もう嫌なんだ。
「……」
「去れと言っている」
これ以上、私の心を乱さないでくれ。
「……」
「目障りだ! 消えろ!」
「……嫌、だ」
――!
「お前は『宿痾剣』なのだろう! 魔人国を蹂躙した怪物なのだろう!」
「……」
「答えろ! 沈黙は許さん!」
「……俺は、怪物じゃない」
「論点をずらすな! お前は『宿痾剣』で! 私の父の仇なのだろう!」
「……」
「黙るな! シモンの言っていたことが事実と異なるなら誤解だと! 違うと言ってみろ!」
「……いや」
「魔王ジブリールは俺たちが……俺が殺した。魔人国から領土を奪うために」
――。
「……すまない」
なんで。
「……のせいだ」
いけない。
「……っ! お前のせいだ! お前のせいで父は死んだ! お前のせいで魔人国の人々は命を落とした!」
言ってはいけない。
「わかるか! 震えて眠れぬ夜の惨めさが! 兵たちを死なせ、罪悪感に苛まれる日々が!」
やめろ。
「愉しかったか! 自分が巣から追い落とした雛鳥に餌付けをする日々は!」
言うな。
「信じていた! 信じていたのに!」
止まれ。
「守ってくれて嬉しかったのに! 私を! 私を裏切ったな!」
だめだ。
「お前が殺した! みんな! 全部! お前が殺したんだ!」
止まらない。
「死ね! 死んで仕舞え! 私の前から消え失せろぉっ!」
両眼を固く瞑り。
激情のまま呪いを吐き出した。
眼を開けた時には。
彼はもう、いなかった。
私が彼に贈った笛が、月明かりに濡れていた。