第六章 破局
茂みを出てセプ付近の道に戻ると、聖女リュミエールと相対しているアカツキが目に入った。
彼は遠目に見てもわかるほど消耗していた。
「いたよ。どっちを潰す?」
「鎧を着た女が聖女だ! 男は味方だ! 傷つけるな!」
「了解」
無骨な大剣を片腕で構え、ベルベットが聖女に飛び掛かった。
「じゃあっ!」
突然現れたベルベットの奇襲に聖女が一瞬たじろぐ。
しかし彼女は即座に態勢を立て直し、槍で大剣を受け止めた。
崖から落ちてきた巨岩のような、鈍い轟音が空気を揺らす。
「くっ……」
大剣の勢いを殺しきれず、聖女の体躯が宙を舞う。
中空に打ち上げられた彼女はしかし、大地に叩きつけられはしなかった。
流れるような動作で体勢を整え、無音で着地する。
敵の襲来を察して集まってきたソーレの兵たちが、その背後に控えていた。
「聖女殿、お初にお目にかかる。『赤獅子』ベルベットだ」
「そうですか。貴方が……」
ベルベットの名乗りを聞いて、聖女は周囲を素早く見回す。
「単独のようですが」
「あたしは特別足が速いからね。部下たちを置いてきちまった。なに、そのうち来るさ」
ソーレとシャムス、それぞれの国で最高峰の武力を持つ二人が睨み合っている。
まき散らされる殺気に気圧されてしまう。私が口を挟む余地はこの場にはない。
「で、どうする? 今引くなら追撃はしない。こっちも何かと立て込んでるんでね」
好戦的な笑みを浮かべて、ベルベットが聖女に問いかけた。
聖女は眉をひそめて私と、アカツキを見ている。
「……止むを得ませんね」
声を発した直後、聖女が跳躍する。
彼女は私たちから離れ、ソーレの部隊がいる場所に移動した。
「即座に拠点まで撤退! 先頭には副隊長を! 殿は私が務めます!」
兵士が連れてきた馬に飛び乗り、聖女リュミエールが退却を指示する。
最後に彼女は私たちの方を向いて言い放った。
「一つ忠告を。名も無き剣豪よ、聖女が預言します。彼女と別れなければ、いずれ貴方は破滅するでしょう」
蹄の音と土煙が遠ざかっていく。
目下の危機が去った。ベルベットの方に目を向けると、彼女はアカツキに話しかけていた。
「おいお前。体は動くかい?」
「あ、ああ」
「ならいい。さっきはハッタリかましたが、実は部下なんて一人もいなくてね」
肩をすくめて自嘲気味に笑った後、彼女が私に声をかける。
「王女サマ。悪いがそこの人間と二人でカバラに向かってくれ。あたしは聖女の部隊を追う」
「了解した。協力、感謝する。引き続き聖女の監視を頼む」
ベルベットがゆっくりと頷く。
戦闘時の激しさとは対照的な、大地のような頼もしさを感じる笑みを浮かべていた。
「それではこれにて。太陽の加護があらんことを」
天雷の聖女に続き赤獅子もこの場を去った。
襲撃前の状態に戻って安心したのか、どっと疲れが押し寄せる。
アカツキの方に目をやると、憔悴した顔をしていた。
彼も疲れたのだろう。労いの言葉をかけねば。
「ご苦労であったアカツキ。天雷の聖女と刃を交え、さぞ疲れただろう。どこか腰を落ち着けられる場所に行こう」
周囲を見渡すと、十メートルほど離れた位置に大きな木が生えていた。
木陰が木の根元を隠している。あそこなら落ち着いて休めそうだ。
セプ村に住む魔人の目に触れることもないだろう。
村の住人たちは敵襲を告げる鐘が鳴った時から家の中に引っ込んでいる。
「向こうに丁度いい高さの木が生えている。あそこで休息を取ろう」
木を指さして歩き出す。
ふと、いつもは着いてくる足音が聞こえないことが気になった。
振り返り、下を向いているアカツキに声をかける。
「どうしたアカツキ、ゆくぞ」
「アイリーン……、アイリーン・ベルンシュタイン……?」
彼の口から出るはずのない名前を聞いて、今更気づいた。
狼狽している。私が見えていない。
痛々しい縫い跡が残る右腕で頭を抱え、白藍の目は泳ぎ、顔にはじっとりとした汗が浮かんでいた。
私が今まで見たどんな姿よりも、彼は動揺していた。
これはまずい。
明確な理由はわからないが、異常なほどに追い込まれている。
それほど天雷の聖女が恐ろしかったのか?
それほど私が王女であることが受け入れ難かったのか?
アカツキの両肩を掴み、半ば叫びながら彼に呼びかける。
「アカツキ……アカツキ! 気をしっかり持て! 私の目を見ろ!」
「! イリア……」
「いや……今まで黙っていてすまない。私の本当の名前はイリアではない。私は魔人国シャムスの王女、アイリーン・ベルンシュタインだ」
「そんな……そんな、ことが」
「……名を偽っていたことは、すまなかった。王女という立場ゆえ、言えなかったのだ」
「う……」
俯くアカツキを見て、胸の奥がざわめく。
いったいどうしたというのだ。
偽名を名乗っていたとはいえ、私はアカツキに自分の身分を貴族と伝えていた。
肩書が貴族から王族に変わったところで、人間の国に住むアカツキには関係がないはずなのに。
「落ち着け。アカツキ。まずは落ち着くのだ」
彼は苦しげに顔を歪ませながら、乱れた呼吸を整えている。
「私とそなたの絆は立場の違いなどで揺らぐものではないだろう。大丈夫だ。正体がばれたからといって危害を加えたりはしない」
アカツキの目を見つめて語りかける。
わずかではあるが、瞳に正気の色が戻ってきた。
肩から手を放し、できるだけ柔らかく聞こえるように言葉を選ぶ。
「私が王女であることなど気にするでない。私とそなたは共に苦難を乗り越えた戦友じゃ。……そうだろう? アカツキ」
アカツキが私の方を向く。長い沈黙の末、彼は私に答えた。
「……ああ、そうだな、その通りだ、アイリーン」
白藍の瞳に、薄暗い影が射していた。
天雷の聖女の襲撃から半日経った夜、私とアカツキはカバラへ続く道の途中で野営をしていた。
「まさか、イリアがアイリーン王女だったなんて…驚いたよ」
「無理もない。王族に直接会うことなどそうないだろうからな」
昼間の騒動から時間が経ち、アカツキはいくらか落ち着きを取り戻していた。
私と彼は今、セプで買った林檎と森の中で摘んだ木の実を食べている。
「昼に聖女と戦っていた魔人は何者だったんだ?」
「ああ、あの者は『赤獅子』ベルベット・ルー。凄腕の傭兵だ。シャムスとソーレの戦争が始まった時ふらりとやってきて、瞬く間に戦果を積み上げた。今や将軍代理の地位まで登り詰めている」
「傭兵がそこまで出世できるのか」
アカツキが感心したように唸る。
傭兵は国に仕える職業軍人とは違う。戦が起きた時、必要な戦力を確保するために雇われる兵だ。基本的に、傭兵に国軍の役職が与えられることはない。
「赤獅子は特例中の特例だがな。なにせ参加した二十の戦すべてで負け無しだ。実質彼女一人で勝った戦もある。出世させないわけにはいかんだろう」
「そんなに強い魔人だったんだな。確かにあの体はよく鍛えられてた」
「うむ。ベルベットに心酔し百年前の進軍魔王の再来と言う者もいる。魔術を用いない武術だけの戦闘なら、魔王に匹敵するかもしれないな」
赤獅子について説明しながら、焚き火に薪をくべていく。
七本目を投げ入れたところで、アカツキが私をじっと見ていることに気が付いた。
「どうした? 何か訊きたいことがあるのか?」
彼は私から目を逸らして迷うような素振りを見せた後、口をゆっくりと開いた。
「アイリーンの父親は魔王、だったんだよな。どんな人だった?」
「む……」
魔王について問われ、返答に困る。
魔人国は王族に関する情報を厳重に管理している。
王族が民に顔を見せるのは年に数度で、公布される情報は肖像画に描かれた姿と実績のみ。
暗殺や誘拐を未然に防ぐためだ。
だから彼の質問には答えない方がいいのだが。
……こうして夜営をするのも最後になるだろう。
ここまで私を助けてくれたアカツキが他国に情報を漏らすとも思えない。
今はこの時間を大事にしたい。
「本当は秘密なのだが……。特別じゃぞ?」
「私の父は彼の頂のアルバトロスに勝るとも劣らない能力を有しているが、何よりも特筆すべきはその政治手腕。建国当初から価値観の違いにより小競り合いが続いていた森の民・砂の民との融和を推し進め、商取引ができるほどに関係を良化した。これは歴代の魔王たちの誰も成しえなかったことだ。与えられた称号は金剛魔王。盤石な治世を称えられての二つ名じゃ。娘として誇りに思っている」
「……そうか。仲は、良かったのか?」
「……まあ、人並みにはな。多忙な中、母を早くに亡くした私を気にかけてくれた。多種多様な人々と交流する道中で手に入れた土産を沢山私に贈ってくれた。今思えば、私が工芸品を好むのは父の贈り物の影響かもしれん」
「っ……そう」
……反応が薄い。元々無口な男だが、これほどだっただろうか。
まるで遺跡で会った頃に戻ってしまったみたいだ。
なにか明るい話はないかと考えるが、あまりいいものが思いつかない。
昼間の襲撃の件がまだ記憶に焼きついている。
仕方なく無難な話題を選び、アカツキに振る。
「傷は痛まないか?」
「聖女から受けた傷はかすり傷だ。数日経てば治るよ」
「遺跡で会ったときに負っていた傷はどうだ?」
「こっちは……。うん。もう大丈夫みたいだ」
手袋を付けた右手を握り、アカツキが頷く。
右腕の傷はうっすらとした跡を残して塞がっていた。
左胸の方も大事ないらしい。
「たったの六日であの傷が治るとはな。驚くべき生命力だ」
「はは……まあ、ね」
アカツキの腕を見ていると、見慣れないものが目に入った。
丈夫そうな黒地の手袋だ。指の部分だけが露出している。
そういえば。
腕の傷を治療した時、アカツキは右手を強く握りしめていた。
気を失っているのに筋肉が緊張していて、縫いずらかったのを覚えている。
「アカツキ、その手袋」
「え……?」
自分の知っている手袋と少し違うそれを指差して、アカツキに問いかける。
「お洒落か?」
「……ふ。違うよ、これはただの防具」
どこか安心したような顔をして、彼は私に答えた。
「変に見えるかもしれないけど、結構便利なんだ。指の感覚を損なわずに手を守れるから。名前は……そう、指ぬき手袋ってところかな」
「ふむ。そうなのか。見たことがないものゆえ、そなたの趣味かと思っていた」
「趣味ってほどじゃないけど……変かな」
「いいや、そんなことはないぞ。なるほど、合点がいった。異国にはそのような装備もあるのだな」
「うん。最近わかったんだけど、結構気に入ってたんだ」
指ぬき手袋を見つめながらアカツキが答える。
柔らかな声音だ。少し安心した。
「昼間の聖女の件だが、あらためて礼を言うぞ。アカツキ」
「礼なんていいよ。戦える奴が前に立つのは、当たり前のことだ」
……。
「いいや。当たり前ではない。たとえ力を持っていなくても、そなたは私を守ってくれただろう」
私のために命を散らした兵士たちのように。
『運命剣』に立ち向かった父のように。
当たり前のことなんかじゃない。
当たり前だと、思ってはいけない。
目線を合わせてアカツキの顔を見る。
白藍の瞳の中で、かがり火が揺れていた。
「ありがとうアカツキ。私を助けてくれて」
「……うん」
何かをかみしめるように、ゆっくりアカツキが頷く。
「しかし凄かったな。そなたと聖女の打ち合いは。あまりの迫力に気圧されてしまったぞ」
「ああ。天雷の聖女は強かったよ。防御に徹していたから、時間を稼げたんだ」
「あれはこう……しゅばっ! びゅんっ!どん! どどん! とな」
……返事がない。
無言の主の方を向くと、アカツキの困ったような顔が目に入った。
戦士への憧れがにじみ出て、身振りが大げさになってしまったか。
滑稽な振る舞いをしたことに、遅れて羞恥心が湧いた。
「ええい、そんな童を見るような目をするな! 私には戦闘の適性がなかったから、少し憧れているのだ!」
「いやそんな、馬鹿になんかしてないよ。ただどう答えたらいいかわからなかっただけで」
くっ。反応に困るほど変だったということか?
失態を晒してしまった。このままではいかん。
「言っておくが、私を怠惰な娘と侮るでないぞ。私は戦闘が不得手だが、その分ずっと勉学に励んできたのだ。よいな」
「うん。わかってる」
アカツキは温和な笑みを浮かべている。
むう。そのような顔で頷かれてはこれ以上意見できん。
まだ弁明し足りないのだが、無粋に言葉を重ねてしまっては本末転倒だ。
何か良い手はないものか。
考えを押し付けることなく、私の教養を示せる粋な方法は。
……よし決めた。我が一族に伝わるとっておきの逸話を教えてやろう。
含蓄のある話を披露すれば、いささか体面も保てるというものだ。
「ときにアカツキよ。大昔、なんとも珍妙な出来事があってな――」
遠い昔の物語を面白おかしく語った。
話しているうち気分が良くなって、舌が滑らかに回る。
アカツキは楽しそうに相槌を打って、私の話を聞いていた。
「――というわけだ。これをアルバートのバッタものという」
「面白いし、ためになる話だ。アイリーンの話し方も良かった」
「ふふ、そうじゃろう。この頭には様々な知識が根付いているのだ」
アカツキの感想を聞いて嬉しくなる。次はどんな話をしてやろう。
『片翼のシルヴィーア』は今や王国の誰もが知る美談だ。いや『獣かぶれの狼男』もいい。少々品のない寓話だがユーモアに富んでいて面白い。
迷ってしまうな。……そうだ。アカツキは剣士だ。あの説話がよく伝わるだろう。
「騎士道を謳った話もあるぞ。『病魔と聖剣』といって――」
「なあ、アイリーン」
やりとりを遮ってアカツキが口を開く。
「俺は明日の朝、ここで別れようと思う」
「……なんだと?」
話が違う。以前「カバラで匿った後ソーレに引き渡す」と伝えたのに、なぜいまさらそんなことを。
「なぜだアカツキ。私がこの国の王女だからか? 確かに始めは敵同士だったが、ここまで共に苦難を乗り越えてきたではないか。私を信じることができんと言うのか?」
「いや、俺は――」
「聖女の捨て台詞を気にしているのか? あんなものはただの威圧だ。気にすることはない」
「いや……そう、安全に身を隠せそうな場所を見つけたんだ」
嘘だ。アカツキは嘘をついている。
短い付き合いだが、それくらいのことはわかる。
……わからない。
聖女の襲撃があってから、アカツキの考えていることがわからない。
まあ、いい。まずはカバラに連れていく。細かい話は後で決めよう。
「カバラの入口まででいい。もう少しの間だけ私と共にいてくれ」
返事は返ってこない。私が見据える彼は、何かを隠すように俯いている。
「頼む」
長い逡巡の後、頷きが返ってきた。
胸が、ざわつく。
名状しがたい空気に息苦しさを感じ、空を仰ぐ。
夜でもはっきりわかるほど厚い雲が、頭上を覆い始めていた。
曇天の夜。静寂に包まれた森の中で。
天雷の聖女リュミエールと赤獅子ベルベットが対峙していた。
「やっと追いついたよ。ったく。手間かけさせやがって」
ベルベットは無遠慮な足取りで、リュミエールとソーレの兵たちに近づいていく。
「それ以上の接近は許しません。話があるならそこからしてください」
互いの距離が五メートルまで縮まったところで、聖女が槍を構えた。
「おっと。嫌われたもんだね」
「好悪の問題ではありません。貴方の戦闘力を警戒してのことです」
揶揄うようなベルベットの口調に対し、リュミエールは事務的に返答する。
天雷の聖女と赤獅子。国の垣根を飛び越えて武勇を轟かせる両者の視線が交錯する。
冬の乾いた空気に、ベルベットの声が響いた。
「取引したい」
「……」
「太陽主教の威光の下、他国と条約を結ぶことができる。それが聖女に与えられた特権の一つだろ?」
「……全ての聖女がその権限を有しているわけではありません。素行に問題のある者は対象外となっています」
「そんなことは訊いちゃいない。こっちも色々と調べてる。回りくどいのは無しにしよう。あんたはあたしたちと条約を結べるんだよな?」
「……ええ」
聖女が答え終わると同時、ベルベットが何かを投げた。聖女はそれを眉一つ動かさず掴む。
「これは――」
「手紙さ」
聖女が受け取った白い封筒には、魔人国の執政官が用いる鷲の印章が押されていた。
「あたしがここに来た訳はその手紙を読めばわかる。それと、王女と一緒にいた人間の剣士についても情報を共有したい」
「差し出し人はシモン・ハスター。城郭都市カバラの執政官だ」
アカツキと出会ってから七日が経った。
今は午前十時頃か。野営場所を出発してから三時間が経過していた。
街道を歩きながら背後のアカツキをちらりと見る。
彼と行動を共にするのも今日で最後になる。私の記憶が正しければ、あと数分でカバラの城壁が見えてくるはずだ。それまでにアカツキを説得し、カバラに招き入れたい。
「アカツキ、もうすぐカバラに着くぞ。そなたはこれまで本当によくやってくれた。あらためて礼を言う」
「うん。こちらこそ色々ありがとう。少しは恩返しができたかな」
アカツキの足音が止まった。私も歩みを止め、彼の方を振り返る。
「じゃあ。俺はここら辺で離れるよ」
「……アカツキ、そのことなのだが」
一呼吸置いてから、あらかじめ考えていた言葉をアカツキに伝える。
「やはりそなたが心配だ。当初の予定通り、しばらくカバラに滞在しないか?」
「――それは駄目だ」
「なぜ駄目なのだ。そなたがシャムスにいるのは危険だ。一旦カバラに滞在し、その後安全なソーレに送られる。何の問題もないであろう」
「それは、そうだけど」
「案ずることはない。カバラの執政官は優秀だ。一週間以内にソーレに行けるだろう」
「アイリ……っ!」
アカツキは私の名を言いかけたが、唐突に言葉を切って後ろを向いた。
曇り空の下、閃いた鋼の光沢が私の目を眩ませる。
私が瞬きをした時には、既にアカツキは戦闘態勢を取っていた。
見たことのない構え。
姿勢を低くし半身に構え、鞘から抜いた剣を身体の後ろ側、下段に置いている。
「誰だ」
荒涼とした街道にアカツキの声が響く。
ややあって彼の見ていた茂みの中から、赤い髪の魔人が姿を現した。
「おうおう、ずいぶん剣呑だね。あたしだよ。赤獅子ベルベット」
「……なぜ隠れていたんだ?」
「隠れていたわけじゃない。聖女の部隊が離れていったのを確認して戻ってきたのさ。林の中を歩いていたのは、帰り道で敵兵や盗賊に絡まれたくなかっただけ」
アカツキはベルベットの話を聞いて剣を納めたが、その横顔は警戒の色を映していた。
彼がベルベットと揉めるのはよくない。
ここで騒ぎを起こせばカバラの魔人たちはアカツキを敵とみなすだろう。彼をソーレに送り届けることができなくなってしまう。
私はアカツキの傍に行き、表情のない横顔に声をかけた。
「待てアカツキ。ここでベルベットと揉めるのはそなたにとって不利益にしかならない。大体、 ベルベットは聖女と戦っていたそなたを助けてくれたではないか」
「! アイリーン……」
「王女サマの言う通りだよ。命を取るつもりならそもそも助けてない。さ、わかったら三人仲良くカバラに行こうじゃないか」
「……わかった」
アカツキが構えを解いたことを確認し、カバラへ続く街道を歩き出す。ベルベットは私たちの少し後ろから着いてきた。
先頭を歩きながらそっと胸を撫でおろす。
アカツキがベルベットに噛みつきかけた時はどうなることかと思ったが、何事もなくカバラに行けそうだ。
アカツキの説得もできた。これで思い残しなく先のことを考えられる。
カバラに着いて最初にやることは戦況の把握とそれに応じた対処だ。
魔王の捜索、残存兵力の把握、王都ベルーナの状況確認、ソーレ軍・ヤハト軍の配置の調査、それらを加味した戦線の組み直し、補給路の確保、兵糧の調達、戦時下の内政。
やることは山ほどある。状況は悪化の一途を辿っているが、なんとかして最善手を導き出し為すべきことを成す。
赤獅子ベルベットと執政官シモンにも働いてもらわねばならない。
ベルベットには武力を、シモンには政治力を存分に発揮してもらう。
今後の方策について考えながら道を曲がると、カバラの城壁が見えた。
山の急斜面のような白い城壁がそびえ立っている。
都市全体を囲ったこの城壁の高さは十五メートル。
素材である白色煉瓦の一つ一つに魔術の刻印が彫られている。
そのため外からの衝撃を和らげることができ、攻城兵器での破壊は理論上不可能と言われている。
黒光りした鋼の城門が、城郭都市カバラの堅牢さを如実に示していた。
いつ見ても見事な作りの城壁だ。訪れるのはシモンの就任式以来か。
城門から十五メートルほどの距離まで近づいたとき、違和感があった。
普段は配置されているはずの門番がいない。
その代わりに一人、白と紫を基調とした礼服に身を包んだ人物が立っていた。
聖職者の物のようにも見える裾の長いローブは、魔人国の執政官だけが着ることのできる装束だ。
まさかと思いその人物の顔を目を凝らして見る。
丸みを帯びた耳と少し多い体毛はの特徴だ。
その犬人の顔に瑠璃色の瞳を見つけて、私は彼がかつて同じ師の下で勉学に励んだ友であることを確信した。
「シモン! そなたシモン・ハスターだな!」
もう会えないかもしれないと思っていた旧友を見つけ、彼の元へ駆け出す。
「……お久しゅうございます王女殿下。ご無事で何よりです」
シモン・ハスター。叔父アルバトロスの下で共に切磋琢磨し、最年少で執政官となった私の友。
「無事とはいかないが……またこうしてそなたに会えてよかった。王族がいない間、よくカバラを守ってくれた。苦労をかけたな、シモン」
「いえ私など。貴方がたに比べれば全く足りません」
懐かしい友と握手を交わして、背後のアカツキたちを見る。
少し離れた位置にいるアカツキをシモンに紹介しようとした時、シモンが私とアカツキの間に割って入った。
「ベルベット」
シモンがベルベットに呼びかけた。何かを値踏みするような目をして。
「ああ、上手くいった。あんたの予想通りだ」
「……そうか」
聖女の迎撃の件か? ベルベットはシモンから指示を受けて動いていたのだろうか。
ベルベットの言葉の意味を考えていると、シモンが私の方を振り返る。
「殿下、こちらに」
「……うむ」
シモンに促されて城壁の方に着いて行く。
アカツキとベルベットは立ち止まって何かを話していた。
城門の前に来たところで、シモンの足が止まる。
彼は私に背を向けたまま、しばらく動かなかった。
迷っている? いや、何かを躊躇っているのか?
合理的な彼らしくない、不自然な間があった。
「……何か、良くないことがあったのだな」
「……ええ、殿下にお伝えせねばならないことがあります」
「よい。話せ」
「魔王陛下が亡くなりました」
「…………え?」
「八日前、太陽暦九九九年十二月十七日午後五時二十分。王都ベルーナの大アルバート聖堂前にて、魔王様は四戒剣と交戦しました。そして同日午後五時五十七分『運命剣』『執着剣』『慚愧剣』『宿痾剣』らの凶刃の前に斃れられたことが確認されています」
…………。
「王都の状況ですが、将校は三分の二が殉職、官僚は四分の一が死亡、領民は三分の一が死亡及び行方不明です」
「待て、待てシモン。その報告は真実なのか?」
「『梟』からの通達です。まず間違いないかと」
――信じ、られない。
「へ、陛下の遺体はどこにあるのだ! 魔王だぞ!? そう簡単にやられる筈がない!」
「簡単にやられてはいなかったのでしょう。四戒剣はアルバトロス様とシャマト様を破りました。彼奴らの異常な戦力については殿下も既にご存じのはず。いかにジブリール陛下でも四戒剣全員に襲いかかられては――」
「遺体は確認していないんだな!?」
「落ち着いて下さい! ……王女殿下、ソーレとヤハトの同時攻撃を受けた日から、王都ベルーナはソーレ軍に占領されています。幸いヤハト軍の動きはありませんが、ソーレ軍は徐々に西進し、このカバラに近づいてきています。――遺体の回収など、できる筈がありません」
魔王がいなくなり、臣下たちも大半が死んだ……?
国の東側、統治していた領土の半分が機能不全に陥り、そこにいる魔人たちの状況がわからない……?
要するにこれは。
この状況は――。
「魔人国シャムスは今、滅亡の危機に瀕しています。持てる手段を全て使って状況の立て直しを図っていますが……今後どうなるかは全くわかりません」
いったい。
「一体、どうすればよいのだ。……シモン、教えてくれ」
「――やるべきことを、やるしかありません。……王女殿下、続け様になってしまい恐縮ですがあと一つ。緊急の報告があります」
「まだ、あるのか……?」
「申し訳ありません。緊急の報告とは殿下が先ほどまで連れていた者のことです」
連れていた者? アカツキのことを言っているのか?
「彼は私の協力者だ。王都を脱出した後に偶然出会った。人間だがこちらへの敵意はない。ここに来るまで何度も助けられ――」
「ツキカゲアカツキ」
「――――は?」
名前。シモンにはまだ言っていない、アカツキの名前。私の知らない、アカツキの名前。
ツキカゲ。――月影という、苗字。嵐の国ヤハトで用いられている、姓。
「まさか、それは」
その名前は。
「四戒剣の隊員が名乗っている姓です。四日前、行方不明になっていた偵察部隊の生き残りがカバラに帰還しました。彼の報告で、これまでほとんど不明だった四戒剣の情報が得られました」
――頭が追いつかない。
「殿下に同行していた人間の男。彼奴は四戒剣の一振りです」
強い風が吹いている。
空は曇り、嵐の匂いが肌を冷やしていた。
振り返って、アカツキの方を見る。
十五メートル先、街道の中央に立つ彼は、どんな表情をしている。
彼の顔が、よく見えない。
私が偶然出会った人間は。
どんな顔をしていた。
……。
父が死んだ? 信じられない。信じたくない。
アカツキが四戒剣の一人で、父を殺していた? わからない。わかりたくない。
前後不覚に陥った私の頭は、ひとりでにこれまでの事実をつなげ始めた。
感情を見失った分、残された理性はよく巡った。
知らず知らずのうち考えないようにしていたこと。
転移の魔法陣が複数あったとしたら。
廃れた遺跡での出会い。
四戒剣に共通の特徴があるとしたら。
灰色の軍服。光を反射して閃く片刃の剣。
天雷の聖女がアカツキに押し留められたのは、アカツキが特別な存在だったからだとしたら。
六日で完治した致命傷。「名もなき剣豪」という聖女の言葉。
可能性の断片が呆気なく組まれ、完成に近づいていく。
右腕を治療した時どうやっても外せなかった手袋が、何かを隠すためのものだったとしたら。
月を模した。
ミステリアの、刺青。
――――ツキカゲ、アカツキ。
アカツキが誰なのか。
私は確かめなければならない。
「ルー! その人間を捕えよ!」
「ずいぶんと、絆されたね」
アイリーンがシモンという魔人に駆け寄ったとき、横にいたベルベットが静かに呟いた。目線はアイリーンの方に向けたまま、俺に呼びかけるように。
「……絆された? どういう意味だ?」
「言ってもわからないさ。正直、あたしもよくわからん。どっちなのか。何故なのか」
「言い出したのなら説明してくれ。匂わせるだけじゃわからない」
「まあね。でも人生ってそういうよくわからない、頼りないもんだろう?」
ベルベットは露骨に言葉を濁した。
ではなぜこんな話を。絆された?
俺が?
アイリーンが?
訝しむ俺を無視して、ベルベットが言葉を続ける。
「運命には抗えなくて、執着は捨てられなくて、慚愧とやらにもすぐ慣れて」
「そうしていつか、ふと気づくんだ。もう取り返しがつかないくらい、自分を蝕む宿痾にやられちまってることに」
「――なにを、言っているんだ?」
「ほら見なよ。王女サマの顔を」
胸に走った微かな痛み。
その意味を理解し切れないまま、ベルベットに促されてアイリーンの方を見た。
「あたしから言えることは一つだけだ」
十五メートル先、城門の前に立つ、アイリーンの顔が見える。
「切ないね」
今にも泣き出しそうな、哀しい表情。
「ルー! その人間を捕えよ!」
「了解」
衝撃。遅れてくる顎の痛み。
「がっ……!」
突然動いたベルベットに反応できなかった。
頭を掴まれて。
地面に叩きつけられた。
反射的に起き上がろうとするが、俺を抑えつける右腕は岩のように重い。
動けない俺のところに足音が二つ、近づいてきた。
地に縫いつけられた俺の視線の先で、アイリーンが立ち止まる。
「アイリーン、なんで――」
「うるさい」
「それで、どうする? 王女殿下」
頭の上からベルベットの声が聞こえた。どうするだって?
――まさか! そんな!
「右手の手袋を剥がせ。確認したい」
アイリーンの声が聞こえた瞬間、右腕が抑えつけられ手袋にベルベットの指がかかる。
それは駄目だ。それだけは。
「やめろ!」
手袋が千切れ、隠していたものが晒された。
手の甲に刻まれた、朱い月の刺青。
ずっと目を背けていた、俺の銘。
見られた。
アイリーンに、見られてしまった。
頭上から、俺を呼ぶ声が、聞こえる。
「――こちらが入手した情報と一致します。この男の名は月影朱月」
「四戒剣の一振り『宿痾剣』です」