第五章 天つ雷、暁を灼く
白銀の鎧を纏った金髪金眼の乙女が茂みから飛び出し、私たちの前に音もなく降り立った。
丹念にまとめられたブロンドの髪が陽光を反射し私の目を灼く。
煌々と光る眼は茂みの中で私たちを捉えたときから、その視線を片時も外していない。
その人間の額には太陽を模した灰色の紋章が刻み付けられていた。
私はこの者が誰なのか知っている。この者の名は――
その女の正体に思い至った瞬間、苛烈な信念と壮麗な覚悟を主張する肉体が私めがけて突進してきた。
一呼吸の内に私との距離を詰めた彼女は、その腕を私に伸ばしてくる。
同時。アカツキが女に斬りかかった。
自らの腰に下げていた鞘から剣身の重みが失われていることに遅れて気づく。
馬車の衝突のような金属音が大気を震わせた。
旋風が頭を覆っていたフードをめくりあげ、私とアカツキの顔があらわになる。
女の槍がアカツキの斬撃を受け止め、槍の柄と剣身が競り合っていた。
二人の立つ大地が軋み、競り合う二つの得物から呻きのような異音が漏れる。
初めて命の取り合いを目の当たりにした私の足は、地面に張り付いたように動かなくなった。
「何してる! 早く逃げろ!」
アカツキの声で我に返る。
「……すまん!」
思考を巡らす暇もなく左手の林へ向かって走る。
林へ辿り着く数秒の間にも、背後で武器を打ち合う音が十数回にわたり鼓膜を叩いた。
「右手の林に王女が逃げました! 追ってください!」
聖女の号令と騎馬の蹄の音が耳に響いてくる。
逃げなければ。とにかくどこか遠くに。
父のこともアカツキのことも、果ては自分が王女であることすら頭から抜け落ち、無力な少女となった私は暗い林の中に迷い込んだ。
天女のような戦士と至近距離で睨み合う。
乙女の細腕から、熊の伸し掛かりのような圧力がこちらに掛けられていた。
重い。片腕ではとても抑えきれない。
俺は力を左に受け流し、イリアを狙う女を刀の切っ先を向けて牽制する。
彼女は俺を排除すべき敵とみなし、即座に行動を起こした。
槍の刺突と薙ぎ払いが俺に殺到してくる。
頭、右、心臓、左足、下。
多角的に襲いくる攻撃を捌き応戦する。
彼女を戦闘不能にするため繰り出した刃は柄に受け止められ、槍の穂先で弾かれ、巧みな身のこなしで避けられた。
都合二十の攻防を経て互いの間に距離が空く。
俺が黄金の瞳を見つめ返したところで、女が声を張り上げた。
「右手の林に王女が逃げました! 追ってください!」
王女? いや余計なことは考えるな。戦闘に集中しろ。
この相手は強い。
ソーレの兵たちが騎馬を降り、イリアを追って林の中に入る。
助けに行きたいが、この戦士を放置することもできない。
焦燥強まる意識の最中、鈴のような声が聞こえてきた。
「貴方はヤハトの兵ですね。なぜ彼女を庇うのですか?」
会話する気があるのか? 女の狙いを探るため俺は短く答える。
「命を救われた。だから護衛している」
「……そうですか」
肩に垂れた数束の金髪が陽光を受けて煌めく。
女の年齢は恐らく二十手前。若さと実力が全く釣り合っていない。
「それでもヤハトの兵である貴方が彼女を守ることには違和感があります。貴方たちは魔人国の領土を手に入れるため戦争に介入したはず。ヤハトの人々は貧しく、日々飢えていると聞いています。彼女一人の命と故郷の人々の生活、どちらを取るべきかは明白です」
「……」
彼女の指摘は正しい。正しいが……俺は確かに思ったんだ。
もう誰も、殺したくないと。
国の人々のためだとしても、こんなことは間違っていると。
イリアの助けになりたいと。
俺は自分の感情を言い表そうとしたが、複雑に絡んだ理由は喉の奥で詰まってしまった。
「……説得は無意味なようですね」
女は数秒こちらの返答を待っていたが、何も言えず固まる俺の表情を見て会話を打ち切った。
女の槍と腕からぱちぱちと火花が上がる。
小さな火花は連続して発生し、やがて槍全体を覆う閃光となった。
『いと尊き雷鳥よ、我が御手に留まり給え』
女がその言葉を発した瞬間、閃光が弾け、大気がひび割れるような音が響く。
槍が小刻みに振動し、そこから発せられる熱がじりじりと肌を灼いた。
先ほどよりも明らかに殺傷力を増した相手を前に、背筋がぶるりと震える。
……死闘になる。
俺は呼吸を整え、迎撃の構えを取った。
「私は『天雷の聖女』リュミエール・ソレール。神の御心に応えるため、貴方を討滅します」
雷鳴が轟いた。
枝葉に肌を削られながら森を彷徨う。
歩を進めるたび聞こえてくる虫のさざめきは、無様な私をあざ笑っているようだ。
「はっ……はっ……」
道なき道をかき分けてきたせいで息が切れる。
行く手を阻む草木とぬかるんだ足場が私の体力を奪っていた。
滝のように汗が流れ、白い髪が頬に張り付く。
「こっちに足跡があるぞ!」
遠くから追手の声が響いてきた。
……くそぉっ! 一人では逃げることしかできないのか私は!
…………くそ。
私には戦闘能力が、ない。だから今は逃げるしかないんだ。
薄暗い森を抜け、開けた場所に出た。
太陽の光に目を眩ませつつ正面を見て、私の思考は停止した。
……崖。険しく切り立っていて、素手ではとても登り切れない。
突破を試みたところで、登っている途中矢で撃ち落とされるのが目に見えている。
背後の茂みががさりと揺れ、敵の気配が近づいてきた。
ああ! お父様! お母様!
逃げ場を失った私は薄暗い崖下、人一人が入れる程度の空洞に身を隠した。
「どうだ! 何か見つけたか!」
「いいや、だが痕跡はここで途切れている……近いぞ」
頭を抱えて縮こまる。心臓がばくばくと悲鳴を上げている。
「本当に他所には行ってないんだな?」
「間違いない。どこかに隠れているはずだ」
徐々に増える足音が私の胸を締め付ける。
やめろ。やめてくれ。静かにしてくれ。
足音が止まった。
兵士の呼吸音が私の耳に届く。
見つけるな。頼む。
「いたぞ! アイリーン・ベルンシュタインだ!」
穴の入口に立つソーレの兵士と目が合った。
その瞬間、鈍い音が響き、兵士の体が左に吹き飛んだ。
暴力的な肉付きをした馬のように太い脚が、ソーレの兵を蹴り飛ばしていた。
しばし遅れて、鎧が地面をこする音が聞こえてくる。
「……へえ、あたしの蹴りを食らって立つか。よく鍛えられてるね」
「な……んだお前は」
「ちょっと待て! ――おいおいおい! こいつは!」
「……まさか!」
「雑魚が五月蠅いね。あたしの気が変わらないうちに頭のトコに帰りな。まあ、死にたいのなら相手はするが」
剛脚の持ち主がそう言うと、私を脅かしていた足音は蜘蛛の子を散らすように消えていった。
「もう出てきていいよ」
促されるまま穴から這い出し、私を助けた者の姿を後ろから見る。
鮮血のように赤い髪が、陽光を浴びてぬらぬらとなびいていた。
腰から一メートルほどの長さの尻尾が伸びている。おそらく猫人だ。
脚もそうだが尻尾も太い。一般的な猫人の二倍はある。まるで船乗りが用いる綱のようだ。
猫人特有の角ばった耳は膨らんだ頭髪に隠れていて見えない。
しなやかな曲線を描くはずの女性の肢体は、怒張した筋肉とそれらを縛りつける皮革によって獣の様相を呈していた。
暴力的な野性を感じさせる背中。
赤髪の戦士が振り返り、私の前に立つ。
柘榴のように赤い獰猛な瞳が私を見つめていた。
「『赤獅子』ベルベット・ルー。助けに来たよ、王女サマ」
街道の上で斬り結ぶ。
間断なく襲い来る聖女の槍は、まさに雷雨のごとし。
雨のように面的に迫り、雷のように一撃が重い。
速さも力強さもどちらも並外れているが、何より特筆すべきはその鋭さ。
俺が今まで戦った相手の中で一番、槍術に秀でている。
流麗な姿勢と迷いなき腕の振りから放たれる、恐るべき精度の槍撃。
回避後の反撃は不可能。
刀を振る前に次の攻撃が飛んでくる。
防御後の接近も不可能。
一度刃で受けるたび絶大な衝撃が伝播し、無理やり半歩後退させられる。
槍が最も破壊力を発揮する間合いで、槍の最も破壊力のある部分を、寸分の狂いなく俺にぶち当てている。
盤石な足運びと精緻な腕回しがなければできない芸当だ。
詰まるところ、全く隙が無い。
「……ッあッ!」
槍の先端を紙一重で避け、その柄を万力の握力で掴む。
右腕の傷が痛み意識がぐらつくが無視。
武器を掴まれ聖女の舞踏が一瞬止まった。
好機。わずかに距離が縮んだ。
拳を振り払わんとする槍から手を放し、左手の刀を強く握る。
一歩接近。
上半身の動きから槍の軌道を予測、回避。
後退する彼女にぴたりと張り付いて追いかける。
あと少し。刃が届く、間合いまで!
次の攻撃を凌げば優位に立てる。
次で決める。そう思った、瞬間。
聖女の槍が一際強く輝き、俺の視界を白く染めた。
一瞬槍の穂先を見失って。
攻撃の芯を捉え損ねた。
しまっ
「……討ち損じましたか」
「ぐ、があっ……」
いつの間にか木の根元に倒れていた。気を失っていたのか。
激烈な痛みが脳髄を揺らしている。
痛む箇所に目を向けると、自分の右脇腹で白煙が燻っていた。
聖女の槍。その刃先から伝わった熱が、俺の臓腑を侵している。
かすり傷でこの痛み。剣で刺された方がよっぽどましだ。
「まだやりますか?」
彼女は暗に言っている。勝負の趨勢は決したと。
「無論」
震える脚に力を込めて立ち上がる。
確かに先ほど受けた一撃は俺の体力を削っている。
あいつらに付けられた傷も、まだ治りきっていない。
しかし、そんなことは関係ない。
前に進め。前。前。
「惜しい」
唐突に聖女が言った。
「非常に惜しい。ここで貴方の命を奪うのは。先ほどの攻防、実に見事でした。私の狙いはあくまで彼女一人。貴方を討つ理由はありません」
「俺の方にはお前を止める理由がある。俺は彼女をカバラまで送り届ける」
聖女は俺の返答を聞くと、槍を地に突き刺し両手をだらりと下げた。
戦闘の意思はないと態度で示している。
「魔人の王女を守る人間の剣豪。ソーレとヤハトが魔人国シャムスに攻め入っている今、貴方の立ち位置は道理に合っていません。かどわかされ、利用されているのではないでしょうか」
「! イリアはそんな奴じゃない! 出会ったのも偶然だ!」
「……イリア?」
イリアの名前を聞いて、聖女の表情が曇った。
眉根を寄せて何かを考えている。その顔は疑念を色濃く映していた。
ややあって、彼女が口を開く。
「彼女が誰なのか、貴方は本当に知っているのですか?」
……。
「イリア。イリア・ベルだ。魔人の貴族の」
「なるほど」
聖女は静かに俺を見ている。その眼から感情は読み取れない。
俺が話し終えたことを確認し、彼女が語りだす。
鈴のような声に、憐れみが滲んでいた。
「偽りは白日の下に晒されなければなりません。彼女の真の名はアイリーン・ベルンシュタイン。王位継承権第一位を有する、魔人国シャムスの王女です」
読者の皆様、ここまで読んでいただきありがとうございます。
著者の川守いのるです。
もしお待たせしてしまっていた方がいたら申し訳ありません。
二週間あたり一万文字のペースで投稿したいと言っていたのに、書くのが遅れてしまっていました。
ア二セカ小説大賞の締切日である12月5日までには、ライトノベルの長編一冊分、区切りのいいところまで頑張って書くつもりです。
恐れ入りますが、気長にこの物語に付き合っていただけると幸いです。なにとぞよろしくお願いいたします。