第三章 少女と青年
長い、悪夢を見ている。
正面からの物音で目が覚めた。
安堵したのも束の間、激痛で現実に引き戻される。
体の状態を確かめると、夢の中で受けた傷が腕と胸に残っていた。
……ああ。俺は……。
「名乗るがいい、人間。遺言ぐらいは聞いてやろう」
過去を振り返っていると、滑らかな声が耳に入ってきた。
声に反応して前を向くとそこには一人、魔人の少女が立っていた。
額の右側に親指大の角が一本、螺旋を巻いて生えている。
小麦色の肌と絹のように透き通った真白い髪が神秘的だった。
凛々しく開かれた橙の瞳は、太陽のように輝いている。
齢十七前後の魔人の少女が、人間の俺に名前を訊いてきた。
……名前。いまさら隠す意味もない。少女に名乗る。
「アカツキ……。ただのアカツキだ」
「今際の言葉を誰に残す」
少女は続けて問う。
俺は答えを出そうとしたが、何も思いつかなかった。
「……ない。残す言葉も、還る場所も、何も」
口からこぼれたものは何だったのだろう。
感情は虚ろだ。
血を流しすぎたせいか、意識が遠のいていく。
……ここまでか。
――俺は結局、何者にもなれなかった。
風が肌を撫でている。
俺はいつのまにか石床の上に横たわっていた。
「……生きてる」
あたりを見回すと、近くに先ほどの少女が立っていた。
俺の視線に気づき、少女がこちらを向く。
「敵とはいえ見殺しにするのは忍びなかったのでな。応急処置だけしておいた」
自分の体を見ると、右腕と胸の傷が縫い合わされていた。
「……ありがとう」
「……ふん。礼などいらんわ。貴族として当然の行いをしたまでだ」
少女が不満げに腕を組む。
少女は焔のように赤い上着と、短い袴のような黒の下衣を着ていた。
気品漂う佇まいと装飾を凝らした服から身分の高さが窺える。
煌びやかな上着の袖に、血の汚れが付いていた。
彼女は俺から視線を外すと、近くにあった荷物を漁り始めた。
「……それ、俺の行李……」
「文句を言うでない。助けてやったのだ。食料くらい貰わなければな」
少女は目敏く兵糧丸を見つけ出し、その一つを口に放り込んだ。
途端、その顔がみるみる青ざめていく。
彼女はしばらく身悶えした後、涙目で俺を睨んだ。
「不味い! これほど不味いものは食べたことがない! 何を食っとるのだ貴様は!」
「それは……申し訳ない」
俺が謝ると少女は兵糧丸を行李にしまい込み、こちらに投げてきた。
「もういいのか?」
「こんなもの食えるか! 私は誇り高い貴族であるぞ!」
俺の国の食料は彼女の口に合わなかったようだ。
こんなときに考えることではないが、不機嫌になった顔は年相応の少女のものだった。
兵糧丸の件から数分ほど経って、少女は遺跡の外へ歩き始めた。
「もう行くのか?」
「これ以上長居はできん。早く魔人たちのいる場所に向かわねばならないのでな。貴様がどのような経緯でここに流れ着いたかは知らぬが、せっかく拾った命だ。精々生き延びるがいい」
少女は俺を一瞥した後、出口へ進む。――その背中を見て、俺は。
「一人で大丈夫か?」
言葉が口をついて出た。
それはまるで彼女に付いていこうとしているように聞こえて。
自分でも驚いた。
彼女の方を見ると案の定、怪訝そうな顔をしていた。
「自分が何を言っているかわかっているのか? 貴様は人間、私は魔人。敵同士だ。何か勘違いをしているようだが、本来は出会った瞬間に殺し合う運命である。戦争とはそういうものだ」
落ち着いた口調が一転して、警戒をはらんだものに変わる。
「……ああ」
淡々と事実を告げられ、口ごもってしまう。
少女の意見は正しく、けちの付けようがない。
俺はなぜあんなことを言ったのだろう。記憶を掘り起こして考える。
少女がここを出ようとした時、俺は彼女ともう少し一緒にいたいと思った。
なぜなのかは……わからない。
命を救われたからか。仲間と別れて心細かったからか。
あるいは何か、別の理由があるのか。
「黙っていないで何か言ったらどうだ」
少女は説明を求めている。
こうなったらなんとかして言い分を用意するしかない。
意を決して口を開く。
「ほら……共同戦線ってやつだ。一人で森の中を進んでいくのは危険だろ? どこに行けば味方に会えるかわからないし、敵や獣に襲われるかもしれない。俺が一緒にいれば君を手助けできると思う」
少女からの追及が止まった。
俺の提案に思うところがあったのか、額の角を触って何やら考え込んでいる。
ややあって彼女は俺に尋ねた。
「貴様の利点は? そなたは私と共にいることで何を得る?」
「俺もいつまでもここにはいられない。食料はいずれ尽きるし、獣や君以外の魔人に襲われる可能性もある。安全な場所に移動したい。同行してくれると心強いんだ」
俺の返答を最後に会話が途切れる。
少女は黙って俺を見ている。
橙色の瞳の奥で揺らめくのは疑念か、葛藤か。
俺のいた国と彼女の国は戦争状態にある。彼女が俺の提案に難色を示すのは当然だ。
これが最後という気持ちで、俺は彼女に頭を下げた。
「命を救ってもらったんだ、絶対に裏切らない。君が味方と合流したら俺はすぐ消える。情けないとは思うけど、もう少しだけ助けてほしい」
「…………」
場に静寂が下りる。
……やっぱり、駄目か。
侵略国の兵がその国の住民に助けてもらおうなんて、虫のいい話だった。
沈黙に耐えきれず顔を上げたとき、少女の声が飛んできた。
「いいだろう」
「え……いいのか?」
「まあ、そなたの言い分にも一理あるからの。命だけ助けて放り出すというのも無責任な話だし、もう少し助けてやるわ」
少女はしぶしぶながら俺の申し出を受けてくれた。
俺の勘違いかもしれないが、その声には優しさが滲んでいるように思えた。
問答が一段落し、場の空気が緩む。
「そうと決まれば、まずは自己紹介からだな。内容は名前・特技・好きなものじゃ」
「自己、紹介? そんなことする必要あるか?」
「するのが当たり前だろう。そなたは名も知らぬ相手に背中を預けるのか?」
……そういうものなのか。
少女の考えは俺にとって馴染みのないものだったが、なぜかするりと胸の内に染み入った。
俺の戸惑いをよそに、少女はするすると言葉を紡ぐ。
「私はイリア。イリア・ベルだ。特技はいくつかあるが……とりあえずは戦術の心得があるとだけ言っておこう。好きなものは芸術じゃ、特に歴史を感じさせる工芸品を好む。身に着けてときおり眺めるのが好きなのだ」
俺は少女、いや、イリアの言葉を拾っていく。
ええと、イリアの自己紹介が終わったから、次は俺が話さないといけないのか。
……名前と特技と、あとなんだったか。
「ほら、そなたも自分のことを話せ。名は確か……アカツキ、だったな」
「ああそうだ。……俺はアカツキ、ただのアカツキだ。苗字はない」
「ふむ、暁。夜明けか。なかなか縁起の良い名ではないか。特技はなんだ?」
特技なんて、一つしかない。けれど……それは言えない。
他に何かないかと、古い記憶を辿る。
「特技は、釣りだ。子供のころ妹と川で魚を釣って、夕飯の足しにしてた」
自分の言葉が呼び水になり、在りし日の思い出が一つ、また一つと浮かび上がる。
頼もしい父の背中、母の手の温もり、妹の無邪気な笑顔が。
俺の家族がまだ在った頃の記憶だ。
……どうして忘れてしまっていたのだろう。
「釣り、のう……あまり役には立たなそうだな。まあ良い。では最後にそなたの好きなものを申してみよ」
そうだった。好きなものも考えないと。
……俺の好きなものって、なんだ?
思い当たるものがなく、口が固まってしまう。
「なんじゃ。ないのか? 好きなもの」
「ない……かもしれない。何も思いつかない」
なぜかわからないが、寒い。
俺の中身は、こんなに空虚だったのか。
「侘しいのう。しようがないの、少し知恵を貸してやる」
知恵を貸す? イリアは何をするつもりなのだろう。
彼女は自分の顎に手を当てて少し考えた後、俺に質問してきた。
「そなたの所持品の中に好きなものはあるか? そこにある剣、中々の名剣とみるが」
「いや、これは『家』から支給されたもので好きなわけじゃない。大事なものではあるけれど。他の装備も同じだ」
「では……家族や友人の中に親しい者はいるか? 誰か一人でもいれば、それが手掛かりになる」
「家族は多分、好きだった。でも……もういない。親しい友には出会えなかった」
「……そうか」
イリアの問いかけが止まり、俺たちの間に気まずい沈黙が降りてきた。
……俺は空っぽだ。
この話題を打ち切ろうと思ったが、その前にイリアが俺に声をかけた。
その声には、春風のような柔らかさがあった。
「昔自分が住んでいた場所のことを覚えているか?」
――覚えている。
「家の近くに小川があったんだ。そこで妹や近所のやつらと遊んでた。魚釣ったり、鬼ごっこしたり。妹はちょっと抜けてるところがあって、どんな遊びでも大体負けるんだけど、いつも楽しそうに俺に付いてきてた」
ぽつぽつと、口から思い出がこぼれた。
イリアは静かに俺の話を聞いている。
「それが可愛くってさ。妹にいい格好するために俺はよく無茶をして、その度親父に怒られた。でも親父はさっぱりしてて、一度叱ったらそれ以上は言わない。母さんと一緒に普段通り接してくれた。俺の村は貧しかったかもしれないけれど、決して不幸なんかじゃなかった」
一通り言い終わりイリアの方を見る。
優しい微笑みが浮かんでいた。
「思い出せたではないか。そなたは故郷が好きなのだ」
……そうか。
「ありがとう、イリア」
「よい。気にするな」
時間がかかったけれど、俺はイリアに自己紹介をすることができた。
いつぶりだろう。こんなに自分のことを話したのは。
「しばらくの間よろしく頼むぞ、アカツキ」
「ああ。こちらこそよろしく、イリア」
「おーい、ちぃとばかり進むのが早いんじゃないかの~」
自己紹介の翌日。俺とイリアは森の中、急斜面の上に立っていた。
俺の体は傷の治りが早い。
イリアと出会った時は死にかけていたが、彼女の応急処置が的確だったのもあり、一日休んだら動けるようになった。
「そなた本当に人間か?」とイリアに驚かれたっけ。
気持ちはわかるけど、少し傷つく。
「おい、聞いとるのか! 少しは気遣え! しかし、これ重いの……」
しまった。ぼうっとしていた。
斜面を登り切り、平らな場所に立った俺は、後から登ってくるイリアを待つ。
俺の刀は「念のため」イリアが持っている。それが彼女が遅れている原因なのだが。
あっ。イリアが足を踏み外した。
彼女は斜面から転げ落ち、その顔は泥だらけに……ならなかった。
「おぉっ! と。危ない危ない。落ちるところだった」
イリアは俺の刀を物干し竿のように木に引っ掛け、落下を免れた。
彼女は刀を岩や木に掛けながら、俺のいる場所までのそのそ登ってくる。
「……もう少し丁寧に扱ってくれよ」
「うるさいのー。崖から落ちかけたのだから仕方ないだろう」
丘の上で一息つき、イリアが昨晩決めた方針を再確認する。
「まずは森を出る。これほど木が生い茂っていると星で方角を知ることもできん。植生を見るに我が国の西側だとは思うのだが……最悪ソーレ国内にいる可能性もあるな」
話の中に俺の知らない単語があったが、彼女に余計な手間を取らせたくないので聞かない。
森を出る。今はそれだけわかっていればいい。
「む……?」
唐突にイリアの顔が曇った。
敵かと思い周囲を警戒するが、異常はどこにも見当たらない。
何事かと思い橙の瞳を覗くが、彼女の表情は固まって動かない。
イリアは俺と顔を見合わせたまま、恐る恐る右手を顔の前に持ってきた。
目を凝らすと豆粒大のぶよぶよした物体が三つ、彼女の手の甲にへばりついている。
蛭だ。
「うわああああっ!」
断末魔もかくやという様子でイリアが叫び、蛭が付いた右手を振り回した。
何度か振り回したのち右手を見て、また悲鳴を上げる。
出会った時の荘厳な態度との違いに、俺は呆気に取られてしまった。
「むし! 虫!? とって、これ取って!」
味方を見つけた姫様は、立場も忘れ助けを求める。対する敵は三匹の豆蛭だ。
なんてくだらないこと言ってる場合じゃない。
俺はイリアの右手を捕まえ、蛭を一匹ずつ剥がす。
「暴れるなって。すぐ取ってやるから」
「でも、でもぉ……」
「あっ」
最後の一匹を取ろうと手の位置をずらしたら、力んでいたイリアの腕がすっぽ抜けた。
俺が抓んでいた蛭はくるくると宙を舞い、褐色の額に着地した。
「ぎゃああ!」
「ああもう!」
イリアの頭を左手で掴んで固定する。
俺は額にある黒い物体を剥がすために、右手を伸ばした。
「ちょっお前っ」
「いいから、大人しくしてろ」
「いたっ! それは角じゃ、バカっ!」
「あ、ごめん」
紆余曲折あり、俺たちはやっとの思いで蛭を剥がした。
互いに息も絶え絶え、まるで十かそこらの子供のようだ。
「つ、角を触るとは無礼であるぞ! セクハラじゃ、セクハラっ! 私の海よりも深く山よりも高い恩情で許してやるが、二度目は無いと思えよっ!」
「……? せくはらってなんだ?」
「~っもうよい!」
イリアはそれきりそっぽを向いてしまう。
俺はというと何だか不思議な気持ちになっていた。
冬なのに、暖かい。
昔どこかで出会った気がする、懐かしい気持ちだ。
「は、あははっ」
そうだ。これは『楽しい』だ。
「何がおかしい……」
イリアがもの言いたげな目で俺を見ている。
俺は彼女に会ってから初めて、本音を溢した。
「違うよイリア、俺は今おかしくて笑ってるんじゃない。楽しくて笑ってるんだ」
いきなり陽気になった俺を見て、イリアはぽかんと口を開けていた。
変な奴だと思われるだろうか。
まあいいや、今は。
「まったく……不思議な奴じゃの。そなたは」
俺につられて、彼女も少し笑っていた。
陽光差し込む林の中を歩いていると、私の耳が水の流れる音を捉えた。
持ち歩いていた飲み水はとうに尽き、喉はからからだ。
水を飲みたいという衝動が私の足を早め、前を行くアカツキを追い越す。
「アカツキ、向こうに川があるぞ! ついてこい!」
「おい、激しく動くな! 危ないぞ!」
「兵士が何を弱気なことを、私が魔人の勇猛さというものを見せてや――」
シャーッ!
音に反応して上を見ると頭上の木から数匹の蛇が、私めがけて落ちてくるところだった。
「っ!」
咬まれると思った瞬間、アカツキが私と蛇の間に割って入り、その毒牙を蹴散らす。
私は蛇に襲われた衝撃で腰を抜かし、その場に尻もちをついた。
「咬まれてないか?」
「あ、ああ……よくやった」
差し伸べられた手を取り立ち上がる。
自分の足元を見ると、膝が笑っていた。
アカツキの方を向くと、露骨に視線を逸らされる。
忠告を聞かず突っ走った手前、非常にばつが悪い。
気まずい雰囲気の中、アカツキが私を咎めてきた。
「水の流れる場所には色んな生き物が集まってくる。必然、そこを縄張りにする捕食者の数も多くなる。もっと注意した方がいい」
「そんなこと知っておるわ……」
そう。書物で得た知識として知っていたが、自分の体で得た経験としては知らなかった。
アカツキがもの言いたげな視線をこちらに向けてくる。
まだ何か言いたいことがあるのか。
ええい、もう聞きたくない。話題を変えてしまおう。
「アカツキ、そなたに一番槍を任せる! さあ行くのだ!」
「……はいはい、お姫様」
「こら! 少し馴れ馴れしいぞ! 畏敬の念を持ってイリア司令と呼べ!」
「嫌だよそんな堅いの」
茂みを抜けると、私たちの前に澄んだ小川が姿を現した。
川幅は四、五メートルほど。
この渓流を下っていけば、特徴的な地形や集落を見つけ、現在地を割り出せるはずだ。
今後の方針について考えていると、アカツキが川から水を汲んできた。
「火の魔術は使えるか?」
「ん。問題ない」
私は軽く咳ばらいをして、火の魔術を構築する詩文を唱える。
『我が手に降り立て、太陽の断片よ』
魔力を注ぐと、掌の上に小さく焔が灯った。
魔力の量を調節しながらアカツキが支える器を熱する。
ややあって器の中の水が沸騰し、生水の煮沸消毒が完了した。
熱湯が冷めるまで待ってから、白湯を乾いた喉に流し込む。
美味しい。生き返るようだ。
私は器の中身が空になるまで、その潤いを堪能した。
「ふう」
渇きが癒えてひとごこちついた。
心地いい気だるさに浸っていると、アカツキに声をかけられる。
「俺の分も温めてもらっていいか?」
「うむ」
生水の消毒を何度か繰り返し、私たちは十分な量の飲み水を手に入れた。
「よし。それでは下流の方へ降りていくぞ」
「了解」
河辺を辿って下流に進んでいく。しばらく進むと前を行くアカツキが足を止めた。
「どうした?」
「この先は傾斜がきつい。迂回した方がいいかもしれない」
ゆっくり前へ進み下を覗き込む。
急勾配の岩肌の上を、水の奔流が駆け下りていた。
斜めに水を運ぶ滝の中を下っていくのはかなり厳しい。
陸地の方はどうかと思い左右を見渡すが、どちらも険しい崖がそびえたっており、進むのは難しそうだった。
「俺がイリアを抱えて行くなら、進めなくもない」
「この激流の中をか? 冗談はほどほどにするのだな」
「いや本当に――」
ずる、と。右足にかけていた体重が宙に浮く。
岩に付いていた苔のぬめりで足を踏み外したのだと気づいた時には、すでに私の体は水に飲み込まれていた。
「がぼっ……!」
「イリア!」
浸水して滲んだ視界の端に、私の元へ飛び込んでくるアカツキが見えた。
灰色の軍服が目の前を覆うと同時、断続的な衝撃が体に響く。
空気の不足に喘ぎながら身を縮めていた私は、やがて滝壺に落下した。
水底から澄んだ水面を見上げる。
水面に映る木漏れ日に近づこうと手を伸ばすが、服が重くて浮き上がれなかった。
……苦しい。
私はなぜ、こんな暗い場所に……。
朦朧とした意識の中で、手を握られるのを感じた。
「ぷはっ、はっ……」
引き上げられて空気を吸う。吸い込んだ空気が肺に行き渡り、意識がはっきりしてきた。
「大丈夫か?」
「う、うむ」
至近距離で白藍の瞳とぶつかる。
木漏れ日を反射して揺れるその色に、不覚にも見入ってしまった。
視線を逸らし近くの河原を目指して泳ぐ。アカツキも私の後に続いた。
「う……寒……」
陸に上がったが途轍もなく寒い。
渓流の水も冷たかったが、重ねて吹き付ける寒風が私の体温をごっそりと奪っていた。
冗談じゃない。このままでは凍死してしまう。
「イリア、こっちだ」
震えて動けない私とは対照的に、アカツキは機敏に動き茂みから薪を集めてきた。
火の魔術を使い焚き火を作る。焚き火の熱が冷たい体にじわりと染みた。
「アカツキ、その……ありがとう。怪我はないか」
「問題ない。ちょうど汗を流したかったんだ」
アカツキは笑顔で答えていたが、その気丈さは私を余計居たたまれない気持ちにさせた。
昼下がりの河原。私は食料を探しに行ったアカツキを待ちながら、焚き火の傍で暖を取っていた。
私は今、下着姿の上にアカツキの上着を羽織っている。
男の前に肌を晒すことには抵抗があったが、ずぶ濡れの服を着たままでは体が温まらないので仕方なかった。
上着はアカツキの方から差し出してきた。
申し訳なさそうに差し出された服を使うことに迷いはあった。
だが、助けられた直後に彼の心遣いを無碍にするほど、私は傲慢になれなかった。
事実私は凍えていたし。
そして少しだけ。
彼の思いやりが嬉しかった。
上着はほとんど濡れていない。恐らく防水加工が施してあるのだろう。
私の服は戦時用の様式ではあるものの、戦闘ではなく式典に用いるものなので乾きが遅い。
木に掛けた制服からは水滴が垂れており、乾くまでまだ時間がかかりそうだ。
ほどなくして小川の下流から水を掻き分ける音が聞こえ、アカツキが戻ってくる。
彼は焚き火を挟んで私の対面に座ると、黒塗りの箱を開けて中身を見せてきた。
「鱒が四匹取れたよ。焼いて食べよう」
「おお! でかしたぞアカツキ! 早速火にかけよう。丸一日食事を取らなかったから、もうすっかり空腹じゃ」
我こそはと箱の中の魚を握ると、ぬる、という感触とともに魚が私の手のひらから滑り落ちた。
「うお! 気持ち悪! なんじゃ、掴めん!」
ふふ、と笑みが漏れる音を聞いた。
前を向くとアカツキが生暖かい目で私を見ている。
「なんだその目は? 知っていることがあるならもったいぶらずに話せ!」
「ごめんごめん。でも、なんだ。本当に貴族なんだな」
言外に世間知らずと言われている気がする。
まあ、アカツキにそのつもりはないだろうが。
彼は手際よく魚を掴み、串に通して火にかけている。
「それで? この魚が纏っているぬめりは何なのだ?」
魚のぬめりの謎を解けていない私は、アカツキに答えを求めた。
「……何と聞かれると説明しづらいな。とりあえず、大抵の魚はこういう粘液で体を覆っている。外敵から逃れたり、石や枝から身を守ったりするために」
「ほう……。知らなかった。まさに目から鱗だな」
「……」
「……」
「目からぬめり」
アカツキの冗句に少し吹き出してしまった。
くっ、予想はしていたのに……。
あまりにもくだらなくて耐えきれなかった。彼はしたり顔でこちらを見ている。
まったく、本当にしようのない。
「くく、目からぬめりが落ちたら鬱陶しいじゃろうが。知見を得ても締まらないぞ」
「違いない」
どちらともなく、くつくつと笑いが漏れる。
ああ、そういえば。こんな風に笑うのは久しぶりだ。
そうだ。
この和やかな雰囲気にあやかって、先ほどアカツキに言えなかったことを言ってしまおう。
「アカツキ、あのな」
「すまなかった。この通りだ」
「え、急にどうしたんだ?」
唐突に頭を下げた私を見てアカツキはうろたえている。
鈍い男だから、なぜ頭を下げられたのかわからないのだろう。
私は素直な気持ちで言葉を続けた。
「忠告を聞かず蛇に襲われたこと、不注意で激流に流されてしまったことへの謝罪だ。そなたの意見を尊重せず、迷惑をかけてしまった。今後はそなたへの不遜な態度を改め、協力して問題の解決にあたることを天に座す太陽に誓おう。アカツキ、あらためてすまなかった」
「うん。いいよ」
なんだそんなことか、とでも言うような緩んだ表情で彼は私を見ていた。
この国では貴族が頭を下げるのには相応の覚悟が要るのに、その重さは全く伝わっていないようだ。
けれど、良い。貴族である前に人として、私がアカツキに謝るべきと思ったから謝ったのだ。
そして彼は謝罪を受け入れてくれた。
この場面においては、貴族の矜持はさほど重要ではない。
ぱちぱちと脂の弾ける音がする。続いて香ばしい空気が鼻腔を刺激した。
話し込んでいる間に魚が焼けていたようだ。
魚の皮に付いた焦げ目と身から滴る脂が、私の食欲をそそった。
「うん。もういいかな」
「待ちかねたぞ。もう腹ぺこじゃ」
「それじゃあ」
「うむ」
「「いただきます」」
焼き魚の背にかぶりつき、自然の恵みを堪能する。
味は付いていないが、芳醇なうまみが飢えた胃袋に温かく染みた。
いつもは煩わしかった小骨の感触すらありがたく思える。
「旨い! 兵糧丸とは比ぶべくもない!」
「はは、そりゃそうだ」
はしたなくもがつがつと食が進み、私はあっという間に焼き魚を平らげた。
ああ、本当に美味しかった。
「どれ、もう一匹いただこうか」
「それ俺の分! もう二匹食べただろー!」
「冗談じゃ」
もし自分が王女に生まれなかったら、こんな風に他愛のない会話をして過ごしていたのだろうか。
良いことばかりではないと思うけど、きっと楽しいんだろうな。
風変わりな協力者と出会ってから一日経った深夜、私はメナト河川の近く、洞穴の前で見張りをしていた。
アカツキは洞窟の中で眠っている。
渓流を下って辿り着いた大河がメナト河川だと気づいた私は、この川の向こう側にある都市、カバラを目的地にした。
途中のセプという村を経由してカバラに行く。
そこまで決めたところで日が暮れたため、私たちはここで一旦休息を取ることにした。
今後の道のりについて考えていると、不意に水滴が顔に当たる。
ぱらぱらと小雨が降り始めていた。
この程度なら川はさほど増水しないだろうが、万が一巻き込まれたら大変だ。
懐から時計を取り出す。夜の見張りを交代してから三時間が経過し、今は午前四時だ。
川の増水の危険もあるし、時間的にも頃合いだろう。
アカツキを起こすため、私は洞穴の中に入った。
穴の中はかがり火のおかげで暖かい。
私は焚き火の傍、壁に寄りかかるアカツキの方を向く。
戦士の性なのだろう。剣を抱き抱える形で眠っている。
思い返してみれば、こうして近くで人間の顔を見るのは初めてだ。
好奇心も手伝って、アカツキの顔をそろりそろりと覗き込む。
年齢は恐らく二十。普段は精悍な顔つきも、寝ているときは無防備だ。
目を凝らすと、顎から少しひげが伸びていた。
戦での心労のせいか、眉間には薄くしわが刻まれている。
あらためて見ると珍しい髪形だ。
前髪は眉毛の上まで、横は耳の上まで。
うなじのあたりまで伸びた下げ髪が、濡れ烏のように艶めいて目を引いた。
「わかっている、……ぼろ、さく……、……んげつ、ごめん」
呟きを聞いてとっさに距離を取る。
起きたか? 寝顔を覗くなど悪趣味だと言われるかもしれない。
……なんだ、寝言か。
動かないアカツキを見て私はほっとしたが、直後何か様子がおかしいことに気づいた。
彼は額に脂汗を浮かべて、うなされていた。
ざあざあ。
雨が止まない。
暗くて寒くて狭い部屋で。
蘇芳、菖蒲、緋色の眼が俺を見ている。
それらは憐れんで、泣いて、怒っていて。
やめろ。
そんな目で俺を見るな。
お前らの方がおかしいんだ。俺は、間違ってないんだから。
「……い、おい! 大丈夫か?」
肩を揺すられ意識が覚醒する。
刀を強く握りこんだところで、心配そうな顔をしたイリアが目に入った。
今のは夢か。落ち着きを取り戻すため、喉から漏れる息を整える。
「酷くうなされていたぞ」
彼女に背中をさすられて、俺はようやく平静を取り戻せた。
「……ずいぶん恐ろしい目にあったようだな」
「いいや……これは自分のせいなんだ」
イリアは俺の要領を得ない返答に怪訝な顔をするが、その理由を訊いてこない。
俺の過去に触れないようにしてくれているのかもしれない。
「これ以上は聞かぬ。私は外で待つゆえ、落ち着いたら出てくるがよい」
彼女は洞窟を出ようとする。
「待って……!」
そのまま行かせればいいのに。
自分の気持ちを抑え切れなかった。
「俺は……俺は逃げたんだ。自分の役目から」
イリアの背中が止まっている。
「絶対にやり遂げなきゃいけなかった。でもあまりにも辛くて、辛くて。自分も周りもどんどんおかしくなっていく。でもどうすれば元に戻れるのかわからなくて。そのうち自分がおかしいとも思わなくなってた。だから……何もかも投げ出して逃げてしまったんだ」
彼女はこちらに背を向け、ただ立っていた。
何も言ってこないことが、ありがたかった。
「準備は済んだのか?」
「ああ」
俺は洞穴から出て周囲を見渡す。
あたりは薄暗く、日が登るまでまだ時間がかかるだろう。
「それでは川を渡るぞ。そなたが休んでいる間、水深の浅い場所を見繕っておいた。先頭は丈夫なそなたに任せる。私は後からついていく」
「わかった」
イリアと一緒に川岸に立つ。
大河が近くにあるこの場所は木々が少なく、雲に覆われていない空がよく見える。
次の瞬間、俺は大きな衝撃に襲われた。
見たことのない光景を目にして、その場に立ち尽くしてしまう。
異変を感じたのか、イリアが俺の横に回ってきた。
「イリア」
「なんじゃ?」
沢山の光が、空を埋め尽くしていた。
「空に沢山ある光は何なんだ? 飛竜の攻撃か?」
「そんな――」
イリアの言葉が止まった。
何か言おうとしていたようだが、角を触って思案に暮れている。
「……あれは、星だ」
「ほし……?」
「空を照らす太陽も夜に輝く月も、我らが立つ大地でさえ、数多ある星のひとつに過ぎん。あの星一つ一つに、我らが想うことさえ叶わぬほど深い、物語が刻まれている」
その言葉は、鮮やかに煌めいて俺の中に流れ込んだ。
星のことがわかった俺は、その光をただ見つめる。
どこまでも遠い。けれど確かに、光を放っている。
「綺麗だな……」
不意に。
眼から水が出てきた。
「あれ、なんで? これ」
「それは涙という。嬉しいとき、悲しいとき瞳から流れ落ちる」
「我らが同じ人であることの証明である」
魔人も人間も関係なく。
このとき少女と青年は、同じ星を見つめていた。
読んでくれてありがとうございます。川守いのるです。
ここまでで三幕構成の「序」が終わりました。ここからは「破」「急」と続いていきます。
伏線を提示しつつ、クライマックスに向かって書いていきます。
なにとぞよろしくお願いいたします。
p.s. 読者の方々に見てほしくて、結構な量の原稿ストックを放出してしまいました。今後は二週間に一章分(1万文字)の投稿頻度になると思います。興味を持ってくれた方々には誠に申し訳ないのですが、気長にお付き合いしていただけると幸いです。