夜の章 世は、ぬばたまの闇の儲け
太陽暦一〇〇〇年一月二日 午前二時。
月明かりが差し込む森の中を赤い影が駆けていた。
赤獅子ベルベット・ルー。
彼女は速度を保ったまま木々の隙間を通り抜けていく。
(聖女の部隊を追い返してその足で王女サマに言伝か。まったく、うちの執政官は人使いが荒い)
周囲に気を配りつつ、アイリーンたちがいる場所を目指して走る。
(ああ、そういえばもう王女じゃないんだったか。執政官という肩書もだんだん使われなくなっていくだろう)
「でもまあ、こうなってよかったかね」
赤髪の戦士はその並外れた嗅覚でアカツキの血の匂いを追跡していた。
(アカツキは南東の方向に進んでいる。アイリーンも一緒だ。僅かだが匂いがある。追手を振り切るために北のソーレ、シャムスの西側両方から離れるつもりだね)
彼女の背には木の筒が結び付けられている。
筒の中にはシモンがこれまでの状況をまとめた報告書が入っていた。
普段彼女が持ち歩いている大剣は今は無い。
天雷の聖女の部隊を遠くに追い返した時、その場に置いてきていた。
身を軽くして一刻も早くアイリーンたちに接触したかったからだ。
(血の匂いが濃くなってきた。あと一時間ぐらいで追い着けるかな)
ぞわりと。
ベルベットの背筋に虫唾が走った。
急停止。意思とは無関係に本能が足を止める。
巻き上げられた落ち葉が腐った土の香りを漂わせる。
「……なんだ?」
アイリーンとアカツキが先にいる方向、夜よりも暗い闇の中から香辛料の匂いが流れてくる。それに混じって、微かな死臭。
風。
突如として闇から吐き出された烈風が、森を薙ぎ倒してベルベットに襲いかかった。
「……ッ!!」
ベルベットが十メートル以上吹き飛ばされ、折れた木々が瞬く間に積み重なっていく。
彼女が倒木の山に埋められてからしばらくして、風が凪いだ。
森の中にぽかんと空いた更地を月の光が照らす。
その更地に、翡翠の瞳を持つ男が足を踏み入れた。
「これで引き下がってくれれば楽なんだけどね」
クロムが呟いた瞬間、樹木の山が爆発する。
崩れ落ちる山の中で赤い髪が蠢いていた。
柘榴の瞳が獲物を睨め付ける。
「おい小僧。あたしが誰だか、知ってんのか?」
「もちろん知っているとも。だからここにいる。それと、小僧とは聞き捨てならないな。僕は二十一歳だ。よく若く見られるけどね」
「待ち伏せていたっていうのかい。赤獅子のあたしを」
「うん。そうだよ」
ベルベットはクロムの全身を素早く観察する。
(中性的な容姿をした人間の男。華奢だ。とてもじゃないが戦士に見えない……変な奴に絡まれたな)
武力を持たないであろうクロムにベルベットが即座に飛び掛からないのは、先ほどの出来事が強く印象付けられているため。
(何か特殊な魔術を使ったのか?)
悪寒と烈風の記憶が彼女の足を止めていた。
「『太陽魔王』アイリーンの立場を考えれば、彼女が向かう場所は自ずとわかる」
様子見をするベルベットにクロムが話しかける。
「北の国ソーレから離れていて、現在シャムスの統治下にない地域。つまり魔人国シャムスの南東部だ。連絡が途絶えた東側の地域に敢えて飛び込んで、状況を変える糸口を見つけようとしているんだね」
「……なるほどね。だからあたしがここを通ることがわかったのか」
「うん。君はシモン・ハスターの指示を受けて動いている。用意周到な彼がアイリーンに使いを寄こさない訳がない。だから彼女たちの跡を追う君を、僕はここで待っていたのさ」
瞳を妖しく揺らめかせて、クロムが待ち伏せの方法を明かす。
(……わからないな、こいつの立ち位置が。人間がこんなところに一人で来て、あたしに攻撃した。ソーレとヤハト、こいつはどっちなんだ?)
「どちらでもないよ」
ベルベットの考えを見透かしたようにクロムが語った。
「魔人国の東側は今、ソーレ、ヤハト、シャムスの三勢力が入り乱れて混沌としている。四戒剣は一直線に王都ベルーナに攻めてきたからね。逆に言えば四戒剣が通った場所以外では、シャムスはまだ余力を残している。アカツキ以外の四戒剣に動きがないのも魔人たちにとって幸運だ」
クロムの話した内容は、以前ベルベットがシモンから聞いた戦況の予測と一致していた。
眼前の男への警戒を強め、ベルベットが訊く。
「いい加減にしろ、適当なことを長々と。あんたは結局どうしたいんだ」
柔和な笑みを浮かべてクロムが答える。
「君はアイリーンとシモンの橋渡しをするつもりだろう? でもそれじゃあ僕は面白くない。もっと状況が混沌としないと僕の求めるものは埋もれたままだ。世が乱れないと権威は揺らがない……だから」
ごとりと。黒曜石の棺が置かれた。
「君の邪魔をすることにした」
立てられた棺が、ぎいぎいと蝶番を軋ませて開いていく。
『れ、れっ……』
びっしりと包帯が巻かれた腕が一本、隙間から這い出てきて。
『劣等を越える覚悟はあるか』
三つの眼が棺桶の中で光った。夜より真黒い影が棺から溢れ出る。
ベルベットの体が総毛立ち、生存本能が悲鳴を上げた。
(あれはやばい。逃げるか)
思考を一瞬で逃走に切り替えたベルベットが足に力を込めた瞬間。
「■■■」
ある者の二つ名を、クロムが口にした。
反転しかけたベルベットの体が停止する。
三人の間を静かな夜風が吹き抜けた。
短い、しかし決定的な間。
「……何で知ってる」
「秘密さ。悪いけど答えられないね」
「……そうかい」
ベルベットが向き直り、二人と対峙する。
「逃げなくていいのかい? 彼女は手強いよ?」
「まあ、仕方ない。根無し草のあたしにもプライドってもんがある」
ベルベットが自らの赤髪に手を突き込み、一息に引き抜いた。
蠢く赤を纏った白石の髪飾りが彼女の手の中にある。
それを握り潰して■■■は言った。
「あたしをその名で呼んだ奴は、全員ぶっ殺している」
『熾きろ氏神、贄が来たぞ』
彼女の赤い髪がぼとりぼとりと零れ落ちていく。
否、それは抜け落ちた髪の毛ではなく。
宿主の頭から離れてなお蠢くそれは、血の色をした蛆虫だった。
ざわざわ。
ずるずる。
めちゃくちゃ。
悍ましい蟲と影が木々を蝕む。静謐な森が赤と黒の地獄に塗り替えられていく。
斯くして。
真の名が明かされる。
「『密告者』禅譲玄无」
「『蛆髪姫』ルベル」
激突。浸食。混濁。
闇夜の死闘は、後世誰にも語られなかった。




