第九章 光雲、暁光、門出の時
太陽暦九九九年十二月三十一日、夜。 王女アイリーンの公開処刑まであと一日。
兵糧丸を口に入れる。特にこれといった感想もないまま飲み込んだ。
少し、寒い。囁くような音を立てる小雨が森を包み込んでいた。
夜の森は静かだ。この静けさがずっと続けばいいと思う。
……これから、どうしようか。
アイリーンと別れてから四日が経った。
俺はその間ずっと、泉のほとりから動けないでいる。
アイリーンに拒絶された後ふらふらと彷徨っていたら、いつの間にかここにいた。
カバラの近く、森の中にぽつんとあるこの泉は、身を隠す場所として丁度よかった。
以前は人が来ていたのだろう。
草木の少ない空間と塞がりかかった獣道がある。
……。
泉を覗き込む。『宿痾剣』の顔が水面に映った。
……ああ。
あの頃と全く変わっていない、人殺しの顔だ。
俺は結局、変われなかった。
仲間を裏切っても。
アイリーンに出会っても。
外道は外道のままだった。
(お前のせいだ!)
苦痛に歪む彼女の顔が浮かんできた。
ああ。そうだ。君の言う通りだ。
俺が戦ったから魔人国の人々は命を落とした。
俺が戦ったから魔王は死んだ。
俺は最初から。
君を裏切っていた。
水面から目を逸らす。
暗い空を仰ぎ、顔で小雨を受け止めた。
「イリア。いや、アイリーンか……」
「そう、だったんだよな……」
それは彼女の名前じゃないのに。いつまでも手放せなかった。
認めたくなかった。
彼女の父親を殺めてしまった過去を。
取り返しのつかないことをした自分の姿を、彼女に見られたくなかった。
彼女に。
嫌われたく、なかったから。
長い間、そうして雨に打たれていたと思う。
獣道から近づいてくる誰かに気づいたのは、草木が大きく動いてからだった。
「……クロム」
「久しぶりだね。アカツキ」
朧げな月明かりが、翡翠の瞳を揺らしていた。
「座って話そうよ」
柔らかな声が夜の闇に溶ける。
野芝に腰を下ろしたクロムは、俺に彼の正面に座るよう促した。
特に断る理由もなかったので、彼の手が示した場所に腰を下ろす。
「クロム。どうしてここに」
「少し気になることがあってね。カバラの様子を見てたんだ。帰り道で君を見かけた」
南に行ったはずのクロムがここにいることが少し不可解だったが、気にしても仕方ないことと思い頷いた。
彼がどこで何をしていようと、俺には関係のないことだ。
俺は一人だから。
「……色々聞いたよ。君といた人物が王女アイリーンだったこと、君が宿痾剣だったこと、君たちが別れたこと」
「俺を……非難しにきたのか?」
「いいや。僕は君を否定しないよ。戦争で生じた被害の責任を、兵士一人に負わせるのはナンセンスだ。その兵士がいくら戦果を積み上げていたとしてもね。君は命令を受けて戦っていたんだろう? 無実とは言えないが、君だけが悪いとも思わない。まあこう思うのは、僕が人間族だからかもしれないけど」
「なら……放っておいて、くれないか」
「……ごめん。慰めても仕方ないことだったね。でも一つだけ。どうしても伝えなくちゃいけないことがある。アイリーン・ベルンシュタインのことだ」
アイリーンの名前を聞いて、自然と顔が上がる。
クロムは真剣な顔をして俺を見ていた。
彼女は安全な城の中にいるはずだ。
彼女は魔人たちに守られている。俺はこれ以上関わるべきじゃない。
一緒にいても傷つけるだけだ。
そう思っていたら。
「明日。太陽暦一〇〇〇年一月一日正午。王女アイリーン・ベルンシュタインは処刑される」
「……何、だって?」
「執政官シモン・ハスターは戦況の悪化を受けてソーレに王女を差し出すという決断をした。このままだと彼女は明日、首を落とされて死ぬ」
そんな。
「君に、伝えるべきだと思ってね」
「……」
アイリーンの命が失われようとしている。
彼女が死ぬのは嫌だ。助けなくては。
……誰が?
……俺が?
魔人国を侵略し、彼女の父の命を奪い、何もかもを裏切ってきた俺に。
そんな資格、あるわけないじゃないか。
…………。
どうすればいいか、わからない。
「わからない。俺には。俺は……自分が何をしたいかわからない。今までずっとそうだった。そして多分、これからも」
「わからない、か……。僕としては、君に彼女を助けに行ってほしいんだけどね……」
「俺は……駄目なんだ。自分で決められない、欠けた人間なんだ。だから、アイリーンを助けに行けないのも、仕方な――」
「逃げるな『宿痾剣』」
苛烈な表情が、俺を静かに責めていた。
「そうじゃない。そうじゃないだろうアカツキ。僕たちは物じゃない。僕たちには心が、魂があるんだ」
心と、魂。
「……ごめん、少し取り乱した。話を元に戻そう。さっき君は『自分が何をしたいかわからない』と言っていた。けれど僕はこういう風に思うんだ。『君は何をしたいかわからないんじゃない。何をしたいか考えている途中なんだ』って。この二つは、似ているようでかなり違う」
……途中。
暗天をかき分けて、満月が俺とクロムを照らした。
視線を下げて自分の掌を見る。
過去。資格。心。
自分の内に思いを巡らせていると、前から草の擦れる音が聞こえた。
立ち上がったクロムが月明かりを背にして、俺を見下ろしている。
「月影朱月。ここカバラを中心とした舞台の中で、君だけが異物だ。アイリーンは魔人国シャムスの王女。リュミエールは宗教連合ソーレの聖騎士。ベルベットは魔人国の将軍代理。クロムは中立の商人。シモンは城郭都市カバラの執政官」
クロムの指が、俺を指し示した。
「君は故国を裏切った流浪の剣士、ただのアカツキだ。君だけが、黒子のままこの舞台に立っている。だから……君が変わるのは、今、ここでだ」
俺は、変われるのか?
今からでも。
ここからでも。
「さあ、目覚めの刻だ月影朱月」
「君は何のために生きている?」
「どんな理由でここに来た?」
「君は一体何者だ?」
頭に纏わりつくもやを払うように、一陣の風が吹いた。
「僕にできることはここまでだ。答えがどんなものでも、君が自分で道を選ぶことを願っている」
クロムは俺への問いかけを終えると、元来た獣道の方へ歩き出した。
立ち去っていく背中に声をかける。
「クロム」
「……なんだい?」
「ありがとう」
「――うん。どういたしまして。帰ってきたら、土産話を聞かせてよ」
以前と同じように手を振りながら、彼はこの場をあとにした。
大きく息を吸う。
目を閉じて、ゆっくりと吐く。
――さて。
考えよう。自分のことを。
今度は目を逸らさずに、泉に映った自分の顔を真っすぐ見る。
月影が差し込み、水面を青白く染めていた。
…………。
俺はだれか?
俺は、月影朱月だ。
嵐の国ヤハトの部隊の一つ、四戒剣の一振り『宿痾剣』だ。
いや。
違う。
異名や名前といった、記号や音の類ではなく。
俺は……。
俺は、何が好きだった?
俺は、何を求めていた?
俺は、何に焦がれていた?
――アイリーン。
彼女は俺に、星を見せてくれた。
まだ。
知らないことがある。
まだ。
見ていないものがある。
まだ。
出会っていない人がいる。
故郷。星。涙。
――――夢。
俺は何が欲しくて。
俺は何処に行きたくて。
俺は誰と一緒にいたいのか。
俺はどのように生きていきたいのか。
俺はどのような人間になりたいのか。
それを――わかりたい。
歪み軋み、ばらばらに砕けた俺の世界。
もうまともには戻らない、俺の人生。
でも。それでも。
もう一度、自分の心を見つけたい。
俺は……アイリーンを助ける。
アイリーンの容姿が整っているから、彼女が王族だから、彼女に命を救われたから……ではない。
自らの闘争本能を満たすためでも、命を奪った魔人たちへの償いのためでも……ない。
一番の。
一番大事な原理は。
生きる意味を、見つけたいんだ。
そのために、アイリーンを助けたい。
――――。
俺は、俺がどのような人であるか知るためにアイリーンを助ける。
それは命を賭けるに値する行為だ。
そう、思えた。
やりたいことが決まった。
泉から離れ、近くの老木にもたれかかる。
すぐに眠ろう。
明日、願いを叶えるために。
そうして目を閉じようとした、俺の前に。
苛む宿痾が現れた。
足元から伸びた影が、俺に語りかけてくる。
(できるはずがない。お前が人として生きていけるはずがない。あんなに殺しておいて、何を今更人間ぶっている。おかしいお前は、おかしいままでいればいい。今まで鍛えられたとおりに、今までやってきたとおりに)
血に飢えろ。
肉を切り落とし、骨を潰せ。
心を折り、瞳を穢せ。
敵の骸を踏み砕いて前進しろ。
前。前。前。前。前。
「違うよ。朱月」
影が、止まった。
「目指すのは前じゃない。上だ」
幻影を見限って眼を閉じる。
今日を終えて、明日を迎え入れよう。
予感がある。
次に眼を覚ました時、俺は今までとは違う自分になっているだろう。
新しいことをするのは怖いけど、きっと、それが、俺の夢なのだと思う。
瞼の裏に、夢を教えてくれた彼女の顔が浮かぶ。
本当に。本当に許されないことをしてしまった。きっと拒絶されるだろう。
けれど。それでも。
君と過ごした十日にも満たない月日が、あまりにも輝いているから。
もう一度、私は貴方に会いに行く。
太陽暦一〇〇〇年一月一日、朝。王女アイリーンの公開処刑、当日。
格子のついた窓の先に曇り空が見える。
私がここに閉じ込められてから四度目の朝だ。
すなわち、私は今日処刑されるということだ。
……怖いな。
死ぬとは、どういうことなのだろうか。
魂が天に還るという信仰は真実なのだろうか。
父と母は、そこにいるのだろうか。
(嵐の中にあってもその眼を開き、我らの魂を光差す場所に導いてくれ)
空っぽの頭の中に、父の声がこだました。
……。
ですが、お父様。
もうどうしたらいいか、わからないのです。
負けて。失って。見限られて。
もうどこにも居場所がないのです。
私はもう……戦えません。
申し訳、ありません。
かつ、かつと。
足音が近づいてきた。
聞き覚えのある規則的な歩み。
鉄格子を挟んで、シモンが私の前に立つ。
「……遺言はあるか」
「……ない。すべてそなたに任せる」
「……恨み言はあるか」
「……ない。そなたはやるべきことをやった」
長い沈黙の後、シモンが令状を読み上げた。
「『金剛魔王』ジブリールと王妃アラーナの子、アイリーン・ベルンシュタイン。宗教連合ソーレとの契約に従い、貴殿の公開処刑を執り行う」
鉄格子が開いた。
兵士に腕を抱えられて、処刑場の方へ歩く。
足取りは重く、頭は霞がかっていた。
私の旅が。
今日終わる。
天国と見紛うほどの花畑の中にいた。
明るい。暖かい。もう雨は止んでいる。
光の方に目を向けると、懐かしい人が俺を呼んでいた。
絵本でしか見たことがない、ほとばしる黄色の花。
それを抱きかかえて、彼女は俺を待っている。
日向。そうだ。そうだった。
これは何より大切だった、俺の想い。
それがたとえ、ひとときの幻だったとしても。
俺は確かに、夢を見ていたんだ。
――眼を開く。
夢見がいいのはいつぶりか。
もう思い出せないくらい長い時間、悪夢ばかり見ていた。
この変化は彼女のおかげなのだろうか。
……。
立ち上がって大地の果て、空を望む。
天空を覆う雲と地平線の狭間で、太陽が輝いていた。
これが最後に見る朝日になるかもしれない。
それでもいい。構わない。
これは俺が、自分の意思で決めたこと。
幸運、僥倖、門出の刻だ。
さあ。俺の物語を始めよう。
苛む宿痾は私の生だ。
運命は星の劇場。
執着は夢の故郷。
私は慚愧に寄添って、貴方の夜明けを待っている。
宿痾の剣は貴方のものだ。
貴方は向日葵抱き上げて、私の名前を呼んでいる。
宿痾の涙は私のかがり火。
晴れて求道の宮参り。
――月影暁 <美しき瞳>――




